弘法さんブログ

第233話 西国三十三所

 皆さん、こんにちは。早いもので今年も十一月。冬本番です。くれぐれもご自愛ください 。 来月は愛知県内にある様々な写し霊場をご紹介しますが、その中には西国三十三所の写しもあります。

 二大巡礼は四国遍路と西国三十三所です。今月は西国三十三所についてお伝えします。 ちなみに、巡礼は一般名詞ですが、遍路は四国霊場巡りのことを指します。

★西国三十三所の始まり

 西国三十三所の起源については、二十四番中山寺の縁起である「中山寺来由記」、三十三番華厳寺の縁起である「谷汲山根元由来記」に次のように記されています。

七一八年(養老二年)、大和長谷寺の開基、徳道上人が重い病で生死をさまよう中、夢に閻魔大王が現れました。大王は「生前の罪業によって地獄へ送られる人々を救うために、滅罪の功徳がある三十三ヶ所の観音霊場をつくり、人々に巡礼を薦めよ」と言い、起請文と三十三の宝印を授けたそうです。

 蘇生した上人は三十三観音霊場を開創しますが、人々に広く信仰され、巡礼が盛んになるには至りませんでした。上人は機が熟すのを待つため、三十三の宝印を中山寺の石櫃に納めました。上人は八十歳で亡くなり、いつしか三十三観音霊場は忘れ去られました。

 それから約二百七十年後、若き花山天皇(六十五代)は権勢を振う藤原氏の権力闘争に巻き込まれ、在位わずか二年で退位。弱冠十九歳で法皇となりました。無常を感じた法皇は比叡山に遁世。やがて熊野に行き、那智山で千日籠山修行。その折、熊野権現が姿を現し、徳道上人が定めた三十三観音霊場を再興することを託されました。

 法皇は中山寺で宝印を探し出し、圓教寺の性空上人の勧めにより、石川寺の仏眼上人に同道して三十三観音霊場を巡拝。これを機に、西国三十三所が始まりました。

 晩年、花山法皇は京都花山院に住み、一〇〇八年、四十一歳で生涯を閉じました。

★西国三十三所の札所

 こうして誕生した西国三十三所は、一番那智山青岸渡寺(和歌山)から三十三番谷汲山華厳寺(岐阜)に、徳道上人、花山法皇ゆかりの番外三ヶ寺を加えた三十六ヶ寺を巡ります。興福寺、醍醐寺、清水寺など、著名な古刹も含まれています。

 結願お礼参りに信濃善光寺を参詣して三十七ヶ寺巡りとしたり、善光寺に加え、高野山金剛峯寺、比叡山延暦寺、奈良東大寺、大阪四天王寺のいずれかにお礼参りする風習もあるそうです。

 一番から三十三番までの巡礼道は約一〇〇〇キロメートル、四国遍路の約一四〇〇キロメートルより少し短い道のりです。

 ちなみに、三十三という数は、「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五」(観音経)の中で、観世音菩薩が人々を救うために三十三の姿に変化することに由来します。西国三十三所を巡礼すると、観世音菩薩の功徳によって現世での罪業が消え、極楽往生できると信じられています。

★四国遍路と西国三十三所

 西国三十三所の札所本尊はすべて観音菩薩です。四国遍路はお大師様を信仰しますが、西国三十三所は宗派的なものではなく、観音菩薩信仰です。四国遍路と西国三十三所の成立時期は、徳堂上人まで縁起を遡れば西国三十三所の方が早く、花山法皇を開創と考えると四国遍路の方が古いことになります。

 四国遍路はお大師様の弟子達が十世紀には巡礼していたようですが、西国三十三所の最古の巡礼記録は三井寺とも呼ばれる園城寺(十四番)に伝わる十一世紀後半の「寺門高僧記」の中にあります。

★西国三十三所の写し

 僧尼、武士、貴族のみならず、人々にも西国三十三所が広まると、地方の有力な武将や豪族などが西国写し霊場をつくるようになりました。

 最も早期の写しは鎌倉時代初期の十二世紀前半、源頼朝によって発願され、源実朝が札所を定めたと伝わる坂東三十三所。関東一都六県にまたがる観音霊場です。

 室町時代になると秩父三十四所も開創されました。当初は三十三所でしたが、札所間の揉め事に起因して一ヶ寺増やして三十四所。西国、坂東と合わせて日本百観音も誕生しました。

 岩尾城跡(長野佐久)にある一五二五年銘の石碑に「秩父三十四番 西國三十三番 坂東三十三番」と彫られており、この頃には日本百観音が確立していたようです。

 坂東三十三所、秩父三十四所が定着するにつれ、元祖である近畿の観音霊場には西国の文字が冠され、西国三十三所と呼ばれるようになりました。

 三十三所の写し霊場は現在全国各地に六百以上あるようです。もちろん、愛知県にもあります。

★愛知県は写し霊場の宝庫

 さて、今年もあとひと月。昨年から三河新四国をご紹介してきましたが、愛知県には四国遍路や西国三十三所等の写し霊場がたくさんあります。言わば、霊場の宝庫です。来月は愛知県の写し霊場をご紹介して年末を迎えたいと思います。乞ご期待。

(2021年11月)


第232話 神社数日本一は新潟県

皆さん、こんにちは。十月も後半に入り、朝晩は肌寒くなりました。くれぐれもご自愛ください。 寺院数日本一は愛知県ですが、今日は神社についてお伝えします。

★神社数日本一は新潟

 寺院と神社を総称して寺社仏閣というように、両者は混交した存在です。全国津々浦々、身近な場所に寺院と神社の双方があるのが日本です。

文化庁「宗教年鑑(令和元年版)」に基づくと、全国の神社数は八〇九八三、神道系宗教団体数は八七四九七です。

都道府県別の神社数最多は新潟の四七〇六、以下兵庫、福岡、愛知、岐阜の順です。

一方、最少はやはり沖縄の十五。次いで、少ない順に和歌山、宮崎、大阪、山口です。人口も多く、縁起を担ぐのが好きそうな大阪に神社が少ないのは意外です。

 新潟は実数では日本一をずっと維持しています。なぜそんなに多いのでしょうか。最大の理由は、新潟の人口はかつて日本一だったという意外な事実です。

一八八八年(明治二十一年)の国勢調査では、新潟の人口は一六六万人で最多。二位は兵庫の一五一万人、三位は愛知の一四四万人。東京は一三五万人で愛知に次ぐ四位です。続く一八九三年(明治二十六年)の調査でも、新潟はさらに増えて一七一万人で一位を維持しています。

人口が多いうえに、新潟では集落ごとに神社があります。農業地域で自然の恵みを意識せざるをえない新潟では、自ずと神社の数が多くなったのかもしれません。

ちなみに、寺院と神社の合計でみると、愛知が七九一六で一位、新潟が七四八五で二位。両県で日本全国の寺社の九・八パーセント、約一割を占めます。

★神仏習合の日本仏教

神社に触れたのは日本仏教の特徴が神仏習合、神仏混交だからです。寺院が多ければ神社も多いという関係にあります。

日本への仏教公伝は通説では五三八年。大陸から伝来した仏教は異文化、外国の宗教であり、それを日本の天皇や朝廷が信仰し、仏を祀ることはできません。日本には古(いにしえ)からの自然崇拝、八百万の神々を敬う民族宗教があり、天皇はその祭司の長、神道の長だからです。

しかし、徐々に浸透した仏教は、日本古来の自然崇拝、神道と調和融合します。すなわち、神仏習合、神仏混交です。

最初は仏教が主、神道が従として混交しました。その結果、奈良時代には神社に神宮寺が建てられるようになり、平安時代に本地垂迹説が生まれました。本地である仏や菩薩や天部が、仮の姿である神として人々の前に現れるという考え方です。 本地とは「本来のこと」を意味し、垂迹とは「迹(あと)を垂れる(神仏が現れる)」ことを意味します。

たとえば、阿弥陀如来の垂迹は八幡神、大日如来の垂迹は伊勢神、阿弥陀如来の垂迹は熊野神,観音菩薩の垂迹は賀茂神です。

二千五百年前にインドで生まれた仏教が、ヒンズー教やインドの諸神と向き合った際も、中国で仏教が道教と接した時にも、同じような考え方で融合が起きたそうです。

神仏習合の思想と親和的で、積極的に仏教と混交したのは八幡神です。東大寺大仏造営に協力した宇佐八幡が典型例であり、 最初に菩薩号がつけられたのも八幡神です。

平安時代には熱田権現、蔵王権現など「権現」という考え方を生み、神仏習合、本地垂迹は深まっていきます。仏や菩薩や天部が、人々を救うために仮に姿となって現れる神のことを権現(ごんげん)すなわち「仮の現れ」と呼びました。権現の権とは「仮」「臨時」という意味です。

仏教側から神道を理論的に説明する神道理論も登場しました。当時の仏教界の主流であった密教二宗のうち、天台宗の教えを取り入れたのが山王神道、真言宗の教えを取り入れたのが両部神道です。

★反本地垂迹説

神仏習合はさらに深化し、神の昇華を祈念して建てられた神宮寺に、逆に鎮守社を設ける風習も現れました。

やがて神道側から、神道を主、仏教を従とする反本地垂迹説も現れました。室町時代に入ると、如来は天皇の垂迹であると考える吉田神道や伊勢神道などの系譜も生まれました。また、仏教は花実、儒教は枝葉、神道が根本であるとする根葉花実論も登場しました。

神社の系譜は仏教以上に多様です。神道、信仰にもそれぞれ系譜があり、それらは相互に複雑に絡み合っています。

神社の上社は、諏訪大社、熊野大社、宗像大社、秋葉神社など、多様です。神道の系譜も、古神道(原始神道)、神社神道、皇室神道、教派神道、民族神道など、十数系統に分かれます。信仰の系譜も、八幡信仰、伊勢信仰、天神信仰、稲荷信仰、熊野信仰、白山信仰、春日信仰、浅間信仰など、多岐にわたります。

★西国三十三所

 かわら版は四国八十八ヶ所の話から始まりましたが、二大巡礼は四国遍路と西国三十三所です。来月は西国三十三所のルーツなどについてお伝えします。乞ご期待。

(2021年10月)


第231話 寺院数日本一の愛知県

皆さん、こんにちは。九月も後半に入り、朝晩は肌寒い日もあります。くれぐれもご自愛ください。

さて、先月は四十七都道府県で愛知県の寺院数が断トツに多いことをご紹介しました。今月はその理由を考えてみます。

★氏族仏教から国家仏教へ

弘法さんかわら版も今回で二三一号です。長い間ご愛読いただいておりますので、ずいぶん前にご紹介した内容はご記憶にない方が多いと思います。そこでちょっと再述します。

仏教が日本に公式に伝わったのは五三八年です。仏教公伝です。最初は外国の宗教あるいは文化という位置づけですから、浸透するのに少し時間がかかりました。

最初の頃は有力な豪族が自分たち一族の守り神のような位置づけで祀るようになります。 そのため、日本の寺院はもともと飛鳥時代の氏寺から始まりました。つまり、自分たちの氏神様を祀るような感覚で寺院を建立し始めます。

やがて氏族仏教は六四六年(大化二年)の「仏教興隆の詔」を契機に国家仏教となり、それから約四十年後の六八五年(天武十四年)の「造寺奨励の詔」によって寺院建立が本格化しました。

仏教は平安時代末期から鎌倉時代初期に人々に浸透し、室町時代、戦国時代、安土桃山時代を通して寺院数も増えていきました。

江戸時代には幕府が本山末寺制度、檀家制度を敷き、人々はどこかの寺院の檀家となって宗旨人別帳に登録することが義務づけられ、檀家寺の寺請証文がなければ他の地域への移動などに支障をきたしました。

檀家制度は現代の戸籍制度の役割を果たしましたが、徳川家康が中国の明の制度を模したと言われています。

★寺院数日本一の理由

こうした経緯で増えてきたお寺ですが、さて、愛知の寺院数が多いのはなぜでしょうか。その理由は次のとおりです。

第一に、古くから発展し、人口が多い地域であったこと。尾張も三河も早い時期から拓けた地域で、江戸時代には十以上の城下町がありました。明治初期の段階で愛知の人口は全国三位。基本的にはこうしたことが寺院数の多い理由のひとつと考えていいでしょう。でも、それだけでは説明がつきません。

 第二に、第一の理由とも関係しますが、愛知は七四一年(天平一三年)の「国分寺建立の詔」によって、最初に国分寺、国分尼寺がつくられた地域のひとつであること。

尾張国府が置かれた稲沢、三河国府が置かれた豊川にそれぞれ国分寺と国分尼寺が創建され、その周辺に寺院が増えていきました。平安時代に立宗した天台宗、真言宗の寺院が早くからつくられたのに加え、鎌倉時代には鎌倉六宗の寺院も増えました。

第三に、愛知が地理的に京都と鎌倉の途中に位置したこと。鎌倉時代には、鎌倉六祖師や多くの高僧が都と東国を行き来し、その道中、愛知に足跡を残しています。そのことが寺院数増加に寄与していると考えられます。

第四に、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康をはじめ、多くの戦国武将を輩出したこと。つまり、武将に庇護され、菩提寺などのゆかりの寺院が増えました。とくに江戸時代に入り、尾張徳川家が浄土宗をはじめとした多くの寺院を庇護したことも影響しています。また、城も多かったことから、その鬼門を守る寺院が建立されました。

第五に、第四の理由とも関係しますが、寺院が戦略上の防衛拠点として利用されたこと。名古屋城下は典型例です。

飯田街道から名古屋城下に入る現在の東区東桜あたりに東寺町がつくられ、東から侵入する敵を防御。南からの攻撃には大須の南寺町が防衛拠点となりました。また、名古屋城の北及び北西方向では、岩倉・小牧・犬山の城下町とその寺町が防衛線でした。西には、稲沢、海部郡あたりに中小の寺院が多数あります。城下の道の要所には「曲がり」を設けて敵の侵入を妨ぎ、その角々に寺院を配置し、戦時の兵の拠点にしました。

第六に、人口が多かったことと相俟って、江戸時代の檀家制度の影響でさらに寺院が増えたこと。檀家寺がたくさん必要となり、寺院数も増えました。

第七に、明治時代の廃仏毀釈に抵抗したこと。一八六八年(明治元年)の「神仏分離令」を機に廃仏毀釈が起きました。鹿児島藩は翌年までに領内の寺院を全廃したそうです。薩長土肥など官軍側の旧藩では、程度の差はありますが同じようなことが起きました。

愛知でも、徳川家康ゆかりの東照宮を擁する鳳来寺などが廃仏毀釈の影響を大きく受けました。尾張藩は戊辰戦争では官軍側でしたが、鳳来寺などの例はあったものの、総じて寺院数が激減することはなかったようです。

今年前半にご紹介した三河大浜で「護法一揆」とも言われた「大浜騒動」が起きるなど、廃仏毀釈には抵抗を示す傾向があったようです。

★神社数は???

 日本の仏教は神仏混交です。神社とお寺が併設されてきたことから、神社数も知りたくなりました。神社数日本一は新潟県、愛知県は四番目です。

来月は神社について少し深堀りしてみます。乞ご期待。

(2021年9月)


第230話 三河新四国の宗派とご本尊

皆さん、こんにちは。八月も後半に入りましたが、まだまだ猛暑が続きます。くれぐれもご自愛ください。

さて、昨年からお伝えしてきた三河新四国八十八ヶ所霊場。先月、八十八番法城寺を参拝して結願しました。今月は三河新四国の宗派とご本尊についてです。

★最多は浄土宗系

三河新四国は本四国の霊場と異なり、もともと必ずしもお大師様ゆかりのお寺ばかりではありません。また、一九六五年(昭和四十年)に三度目の再興となったこともあり、宗派は真言宗が中心というわけではありません。この点は、知多四国と同様です。

本四国では八十八ヶ所のうち八十ヶ所が真言宗系のお寺です。知多四国で最も多いのは曹洞宗のお寺でした。

三河新四国四十九ヶ寺(八十八ヶ所)を整理すると、一番多いのが浄土宗系の二十ヶ寺(浄土宗十、浄土宗西山深草派十)、二番目が真言宗系の十七ヶ寺(真言宗醍醐派八、真言宗六、真言宗高野派一、真言宗豊山派一、信貴山真言宗一)、三番目は曹洞宗の七ヶ寺、四番目は臨済宗の三ヶ寺。残るは、時宗と天台寺門宗が各一ヶ寺で四十九ヶ寺です。 詳しくは表をご覧ください。

※三河新四国の宗派

 宗派 寺院数 浄土宗 10 浄土宗西山深草派 10 20 真言宗醍醐派 14 真言宗豊山派 1 高野山真言宗 1 信貴山真言宗 1 17 曹洞宗 7 臨済宗 3 時宗 1 天台寺門宗 1 合計 49

★最多は阿弥陀如来・阿弥陀仏

四十九ヶ寺のご本尊も本四国、知多四国とは少し違います。 本四国では薬師如来が二十四、知多四国では観世音菩薩の三十二と最多。

一方、三河新四国では阿弥陀如来・阿弥陀仏の二十(一光千体も含む)が最多。お寺の宗派として浄土宗系が最多なので、当然のことかもしれません。

それに続いて不動明王十(身代わり不動明王明王、流汗不動明王も含む)、観世音菩薩十(千手観音と十一面観音も含む)、弘法大師が四、薬師如来二、その他四です。

一方、四十一ヶ寺の別堂札所のご本尊は、複数の先もあるので、合計で五十八です。 最多は弘法大師十六(冠大師等も含む)、観世音菩薩系が九、地蔵菩薩系が七、阿弥陀如来・阿弥陀仏三、不動明王三、薬師如来三、その他十五です。

詳しくはやはり別表をご覧ください。

★愛知の寺院数は日本一

日本人の生活と切り離せない寺社仏閣。全国津々浦々にある寺社仏閣。お正月の初詣に寺院と神社の両方に行く人も少なくありません。

これまでも何度かお伝えしましたが、四十七都道府県で寺院が一番多いのは愛知です。 寺院の数と聞けば、歴史から考えると京都、人口から想像すると東京が一番多いと連想するのが無理からぬところですが、実は愛知が一番。しかも断トツです。

文化庁が毎年発表する宗教年鑑(令和元年版)によれば、愛知の寺院数は四五五九で日本一。 愛知に続く大阪、兵庫、滋賀、京都が上位五都府県。愛知以外は全部近畿地方。一方、一番少ないのは沖縄の九十。次いで、少ない順に宮崎、高知、鳥取、青森です。

古くから日本の都は奈良、京都です。平安仏教、鎌倉仏教の多くの宗派の祖師や高僧が京都と滋賀にまたがる比叡山延暦寺で修行しましたので、近畿地方に寺院が多いのは頷けます。 沖縄が少ないのは、かつては本土と文化圏が異なっていたためです。一方、宮崎や高知は明治維新に伴う廃仏毀釈の影響を受けています。

因みに、日本最北端の寺院は稚内の天徳寺(曹洞宗)、最南端は竹冨島の喜宝院(浄土真宗)。全国の寺院数は七六八七二、仏教系宗教団体数は八四三二一です。

★寺院数日本一の背景

 来月は愛知県が寺院数日本一の背景について、少し深堀りしてみます。 乞ご期待。

(2021年8月)


第229話 三河新四国(八十七番~八十八番)

皆さん、こんにちは。夏本番です。コロナ禍で今ひとつ晴れ晴れしませんが、暑さに気をつけて、ご自愛ください。

昨年からお伝えしている三河新四国八十八ヶ所霊場。いよいよ結願です。

★山崎弁栄上人

さて、結願寺に向かいます。八十五・八十六番から北へ約二キロメートル。深称寺から約一・三キロメートル。大浜上町の交差点を越え、天王交差点手前を右折して住宅街に入ると 八十八番、浄土宗の天王山法城寺。八十七番は本堂内の天王殿です。結願を法城寺とするため、天王堂が八十七番になっています。

一八九四年、九重味淋創業家(石川家)縁戚の資産家、石川市太郎が私財を投じて作った説教場が当寺の始まりです。

開山の山崎弁栄上人(一八五九〜一九二〇年)について触れておきます。

弁栄上人は下総国手賀沼鷲野谷(現柏市)の熱心な浄土門徒の農家に生誕。幼い頃から近所の真言宗の寺で仏画を習っていたそうです。十二歳の時に阿弥陀三尊を夕日の中に感得し、二十歳で出家しました。

その後は上京して増上寺や駒込吉祥寺学林(現駒澤大学)で研鑽を積み、筑波山中で念仏修行、浄土宗本校(現大正大学)設立を勧進、インド仏跡巡拝を行うなど、真摯に仏道に邁進しました。

一九一八年には時宗当麻派本山、無量光寺の六十一世法主に迎えられ、一九二〇年、各地を巡錫中に柏崎市の極楽寺で還浄しました。

西洋楽器を積極的に布教に活用しました。仏教の教えを広めるため、賛仏歌を作詞作曲し、当時は目新しい楽器だった手風琴を自分で演奏し、全国を行脚したそうです。絵画や米粒絵も描く万能者です。

その山崎弁栄上人が開山ですから、法城寺には上人縁の寺宝も多く、その影響が色濃く残る寺院です。凛とした静寂を感じる素晴らしい境内。弁栄上人の遺徳を偲びつつ、合掌して結願です。

ご本尊(八十七番) 火防大師

ご本尊(八十八番) 阿弥陀如来

ご詠歌 今までは 親とたのみし大師ずえ めぐりて納む 法城の寺

★旧三河新四国

紙上遍路、お疲れ様でした。一六二六年(寛永二年)に浦野上人が開創した元祖三河新四国、一九二七年(昭和二年)に再興された旧三河新四国 。先人の努力があってこそ、一九七〇年(昭和四十年)に三度(みたび)誕生したのが現在の三河新四国です。

元祖三河新四国の札所の全貌は調べきれませんでしたが、旧三河新四国はわかります。

再興の契機となった善通寺誕生院貫主から贈られた直傳證は、現在も雲龍寺 (豊田市)本堂に掲げられています。雲龍寺は旧三河新四国では七十六番、現在の三河新四国では十九番・二十番です。

旧三河新四国の札所は、一番薬証寺(蒲郡)から、西尾、碧南、高浜、刈谷、知立、豊田を経て、八十八番香積寺(足助)を巡拝します。

ほとんどの札所が旧三河鉄道沿線に位置し、海沿いの温泉景勝地蒲郡から紅葉で名高い香嵐渓を結ぶ沿線振興策だったようです。駆け足でお遍路しましょう。

スタートの蒲郡は、東三河新四国、三河海岸大師など、複数の弘法霊場が交錯する地域です。中でも五番無量寺 は、三河新四国(六十一番・六十二番)、参河国准四国(五十四番)、東三河新四国(十七番)、三河海岸大師(四番)も兼ねる五冠王です。

碧南に入ると、やはり大浜地区に札所が集中しています。大浜から北上すると知立の遍照院。旧三河新四国では五十七番ですが、現在の三河新四国では開創霊場(零番) です。

さらに北上して猿投へ。大悲殿東昌院は旧三河新四国では奥の院 、現在の三河新四国では十七番・十八番です。もともとは三河三の宮である猿投神社別当寺の白鳳寺。神仏分離令、廃仏毀釈によって廃寺となった後、復興されました。

旧三河新四国は浄土宗系寺院が過半を占め、中でも多いのが西山深草派(三十一ヶ寺)。徳川家康 が三河一向一揆と対峙した際、一向宗の中でも家康方についたお寺が浄土宗に改宗した経緯が影響しているようです。

次に多い曹洞宗(十八ヶ寺)のほか、全部で十六宗派の寺院で構成されています。

札所石柱が残っているお寺も多く、探しながら散策するのは楽しいことです。

★三河新四国の宗派とご本尊

紙上遍路の結願、おめでとうございました。来月は、三河新四国の宗派とご本尊について整理してみます。乞ご期待。

(2021年7月)


第228話 三河新四国(八十三番〜八十六番)

皆さん、こんにちは。今年は梅雨入りが早く、夏が待ち遠しい季節になりました。コロナ禍の中、ご自愛ください。昨年からお伝えしている三河新四国八十八ヶ所霊場。今月も大浜寺町を散策します。

★千体地蔵

八十一・八十二番から、大浜を南北に貫く道路を北上すること約二百メートル、途中、藤井達吉現代美術館、九重味醂大蔵、清沢満之記念館を横目に進むと八十三番、聖道山常行院。浄土宗のお寺です。

一五二六年創建で、開山は徳川家菩提寺、大樹寺八世の隣誉上人です。

八十四番は本堂の北側にある聖道殿。そのご本尊、日限地蔵尊は武田信玄の陣中守り本尊の地蔵大菩薩。

一八六八年、当寺二十世、麻生徳雲和尚が遠州応聲教院から譲り受けたそうです。

また、珍しい土づくりの千体地蔵は、天保大飢饉の際に、周辺の住民から救済を祈願して寄進されたものです。

元松江代官所の山門、京都六角堂から移された沙門宗連作の聖徳太子像など、見どころの多いお寺です。

ご本尊(八十三番) 阿弥陀如来
ご本尊(八十四番) 日限地蔵尊
ご詠歌 いつまでも 常ゆく寺の さかゆるは なやむ大師の お慈悲なりけり

★当麻寺の三尊像

八十三・八十四番の約五十メートル先、北隣にあるのが八十五番、華慶山林泉寺。曹洞宗のお寺です。

一四五七年創建。寺宝として伝わる三尊仏(釈迦、、文殊、普賢)の掛け軸は、もともと奈良当麻寺にあった七百五十年前の源慶作。

当麻寺は奈良県葛城市にある名刹。開基は聖徳太子の異母弟麻呂古王と伝わります。奈良時代末期、平安時代初期建立の二基の三重塔(東塔、西塔)があり、近世以前建立の東西両塔が残る日本唯一の寺としても知られています。

その当麻寺にあった源慶作の掛け軸。源慶は平安時代後期から鎌倉時代前期の仏師で、運慶の弟子です。

林泉寺境内は禅寺の雰囲気を感じさせる静寂が漂います。八十六番は山門を入ってすぐの弘法堂です。

ご本尊(八十五番) 聖観世音 ご本尊(八十六番) 大聖歓喜天 大師像 ご詠歌 衣浦の 海をはるかに見渡して 法の林に 泉湧く寺

★加藤菊女と深称寺 結願の前に「大浜十ヶ寺巡り」の残るひとつ、深称寺にも立ち寄ります。八十七番・八十八番に向かう途中です。

地元では、信仰心の厚い江戸時代の才女、加藤菊女ゆかりの寺として親しまれています。

菊女は一七〇三年、尾張藩士の娘として生誕。当地の代官、加藤四郎左衛門の子息友右衛門に嫁入り。上品な人柄で書画の才に優れた教養豊かな女性だったそうです。

一七一八年、三州中山(現碧南市伏見屋)貞照院で起きた孫市騒動(注)の責任を問われ、四郎左衛門に島送りの沙汰。菊女の夫、友右衛門が高齢の父の身代わりとして伊豆大島に送られました。

(注)江戸白木屋で袈裟地織物を騙し取った僧が逃亡の末、貞照院に侵入。犯人(僧)を捕らえようとした孫市(大浜の賭場の親分)を中心とした村人が駆けつけた役人を犯人と間違え、役人に暴行している間に犯人が逃走。公儀からこの不始末を咎められ、孫市は打ち首、貞照院の住職と大浜代官(加藤四郎左衛門)が島送りの刑に処せられた騒動。

菊女は大浜の熊野権現に日参、毎夜はだしでお百度参り、熱心に夫の無事と放免を祈願しました。夫の両親を支え、夫の留守を守り、写経に打ち込みました。そして、毎日のように写経と夫への手紙を竹筒に納めて海に投じました。

ある日、伊豆大島の友右衛門が舟釣りしていたところ、竹筒が漂着。友右衛門が竹筒を何度海に押しやっても戻ってくるのを奇異に感じ、拾い上げて中を見て驚愕。何と菊女の手紙と写経です。

友右衛門がことの次第を申し出た島の役人も感服して幕府に上申。幕府は菊女の殊勝な行いに免じて友右衛門を赦免。友右衛門は八年振りに大浜に帰りました。

菊女はその後も神仏の加護に感謝して写経を続け、寺々に納経。今も林泉寺、妙福寺、貞照院、称名寺、宝珠寺などに残っているそうです。また、亀久の揮毫で優れた書画の才も発揮し、三十六歌仙の画や和歌を近隣の寺社に奉納しました。

菊女は淑女、良民の鑑として顕彰され、大浜熊野大神社の境内に碑が建てられました。菊女の墓は宝珠寺境内にあります。

深称寺に宝珠寺、西方寺、本伝寺を加えた番外四ヶ寺に、観音寺、称名寺、清浄院、海徳寺、常行院、林泉寺の六ヶ寺で「大浜十ヶ寺巡り」の十ヶ寺です。

★山崎弁栄上人

来月は、三河新四国もいよいよ結願です。八十八番、法城寺に向かいます。山崎弁栄上人ゆかりのお寺です。乞ご期待。

(2021年6月)


第227話 三河新四国(清沢満之と西方寺)

皆さん、こんにちは。早くも初夏の季節。新緑を眺めて自粛疲れを癒しましょう。

昨年からお伝えしている三河新四国八十八ヶ所霊場。今月も大浜寺町を散策します。

★清沢満之と西方寺

先月は八十一・八十二番の海徳寺、大浜十ヶ寺巡りのひとつ宝珠寺を訪ねました。

海徳寺、宝珠寺の向かい側には、明治時代の仏教界の偉人のひとり、清沢満之(まんし)ゆかりの西方寺があります。

海徳寺から八十三番に向かう途中にある西方寺も大浜十ヶ寺巡りのひとつです。

鎌倉時代に棚尾村に創建された寺が一四九六年、現在地に移され、西方寺と改称されました。

二十八世住職に親鸞、蓮如の血筋を継ぐ慈寛を迎え、以来現住職までその系譜が受け継がれているそうです。

寺内の太鼓堂は明治時代初期の校舎。碧南の学校教育発祥の地です。また、源義朝を美浜法山寺(五十五番)の湯殿で討った後に棚尾に逃れてきた長田一族の刀剣 など、数多くの寺宝を有します。

西方寺は清沢満之(一八六三〜一九〇三年)終焉の寺としても知られています。

満之は明治時代に活躍した真宗大谷派の僧、哲学者、宗教家です。

尾張藩士の子として誕生。明治維新後の一八七八年に得度して真宗大谷派の僧となり、東本願寺育英教校に入学。一八八七年には東京帝国大学文学部哲学科を首席で卒業した俊才です。

哲学館(現東洋大学)創設時の評議員や教員、京都府尋常中学校の校長等を務める中、縁あって当寺の清沢やす子と結婚し、清沢姓になりました。

やがて制欲自戒生活を始め、黒衣黒袈裟姿で、食膳は麦飯一菜、酒はもちろん茶すら飲まず、素湯もしくは水のみを飲用。自戒生活の中で体得した哲学的思考やそれに基づく著書は海外でも評判になりました。

東本願寺における近代的な教育制度や組織の確立を期して数々の改革を建議し、しばしば宗門と対立したものの、その識見、能力は優れ、真宗大学(現大谷大学)初代学監(学長)も務めました。

一九〇三年、肺結核が悪化し、改革の志半ばにして当寺で逝去。享年三十九歳でした。

生前、鈴木大拙に高く評価されていた満之でしたが、早逝したこともあり、長らく忘れ去られた存在でした。

しかし、一九六五年の中央公論の座談会「近代日本を創った宗教人百人を選ぶ」で司馬遼太郎 が満之を取り上げたことからその名が知られ、やがて岩波書店から満之の全集が発刊されるに至りました。

満之は、正岡子規、夏目漱石等、同時代の多くの人に影響を与えたと言われています。当寺に隣接して清沢満之記念館が設けられています。

★藤井達吉

大浜寺町には、札所の他にもいくつかご紹介したい先があります。それらを含む全体で大浜寺町が独特の雰囲気を醸し出しています。

八十一番・八十二番から北上して八十三番に行く途中、右手の現代的建築物が目を引きます。藤井達吉現代美術館です。

藤井達吉(一八八一年〜一九六四年)は棚尾村(碧南市源氏町)生まれ、棚尾小学校卒の芸術家です。

達吉は小学校卒業後の奉公を終えると、服部七宝店(名古屋)に就職。一九〇五年、七宝焼出展のために米国オレゴン州で開催された万博に出張。その際、ボストン美術館で世界の美術作品を見て刺激を受け、帰国後に七宝店を退職。美術工芸家として活動を始めました。

七宝焼、日本画、陶芸、金工、竹工、漆工、刺繍、染色、和紙、書、和歌等の幅広い工芸分野で活躍し、日本の新しい芸術創造に足跡を残しました。

一九二九年、帝国美術学校(現武蔵野美術大学)設立時に教授を務めたほか、一九三二年には西加茂郡小原村(現豊田市)で和紙工芸の指導も始め、生涯工芸振興に人生を費やし、岡崎市で亡くなりました。

★九重味醂大蔵

藤井達吉美術館の前にあるのが九重味醂大蔵。西方寺に隣接する清沢満之記念館と向き合っています。

九重味淋は碧南市浜寺町に本社がある調味料製造の老舗。二十二世石川八郎右衛門信敦が一七七二年に味醂製造を始め、以来約二百五十年、味醂の製造を続けています。

大蔵は貯蔵熟成に用いるための蔵で、一七八七年に名古屋市緑区鳴海の酒蔵を現在地に移築したもの。二〇〇五年、大蔵は登録有形文化財となりました。大浜寺町の歴史的景観に一役買っています。

★加藤菊女と深称寺

三河新四国もいよいよ結願が近づいていますが、大浜十ヶ寺巡りにはまだまだ見所があります。

来月は、良民淑女の鑑(かがみ)と言われる加藤菊女ゆかりの深称寺を訪ねます。乞ご期待。


第226話 三河新四国(第七十七番~八十二番)

皆さん、こんにちは。春真っ盛りの季節になりました。自粛疲れを癒して、春をお楽しみください。

昨年からお伝えしている三河新四国八十八ヶ所霊場。今月は大浜寺町の中を散策します。

★大浜東照宮

七十五・七十六番から大浜の集落を北上します。来た道を戻ること約百メートル、七十七番は東照山称名寺、時宗のお寺です。

開創は一三〇二年の古刹。戦国時代から江戸時代にかけて徳川家との関係が深くなったお寺です。

称名寺には、徳川家康の先祖、松平八代の始祖、親氏 の古墓があります。徳川家菩提寺の岡崎大樹寺にも松平八代の墓所がありますが、これは家康が一六一五年に建立したものです。

当寺には、六代信忠の息女(家康公の大伯母)の念持仏であった聖観世音菩薩も祀ってあります。

六代信忠は一五二三年、弱冠十三歳の嫡男七代清康に早々と家督を譲り、大浜郷に隠居しました。信忠三十三歳の時です。

松平八代、徳川家とゆかりの深い称名寺の境内には、大浜東照宮もつくられました。

七十八番は本堂西側にある東照殿。

ご本尊(七十七番) 阿弥陀仏
ご本尊(七十八番) 弘法大師
ご詠歌 しんごんの 教えをひろむ 大師をば 念じて道を さとるなり

★前田利家

七十七・七十八番から集落の中を北上。途中、樹齢三百年の大銀杏がある本伝寺の前を通って約百五十メートル進むと七十九番、南松山清浄院。浄土宗のお寺です。

一三三四年創建の古刹です。山門を入った右側に、加賀百万石の藩祖、前田利家公の先祖のお墓があることで知られています。

利家公は尾張国荒子村(現在の名古屋市)の荒子城主前田利春の四男です。その祖先のお墓が当寺にあるということは、前田家の元々の系譜は大浜辺りなのかもしれません。

それぞれ五輪塔ですが、高さ六十センチメートルが二基、八十センチメートル、九十センチメートルが各一基。今も手厚く供養されています。

八十番は山門を入って右にある南松殿です。

ご本尊(七十九番) 阿弥陀如来
ご本尊(八十番) 弘法大師
ご詠歌 きよき寺 真心こめて 拝む人 利益めでたし 南無大師さま

★大浜大仏

七十九・八十番から約二百メートル、北上して再び旧大浜警察署の前を通って港橋を渡ると右側にあるのが八十一番、南面山海徳寺。浄土宗西山深草派のお寺です。

かつては徳川家ゆかりの御朱印寺。一八六九年、廃仏毀釈の影響で、伊勢神宮神領内の菩提山神宮寺の仏像約六十体が廃されそうになった際、海徳寺二十二代住職 寂空和尚がそれらを救済するために譲り受け、伊勢から海路大浜に運んだそうです。

その中の丈約二・八メートルの大仏(阿弥陀如来)をご本尊とし、「大浜大仏」 と呼ばれて親しまれています。愛知県一の大きさです。国の重要文化財に指定されています。

山門には丈二・二メートルの金剛力士像二体。八十二番は本堂内にある大仏殿です。

ご本尊(八十一番) 阿弥陀仏
ご本尊(八十二番) 阿弥陀如来
ご詠歌 大佛の 慈悲の御手に導かれ 今日も詣でぬ 大浜の里

★永井直勝と宝珠寺

大浜では、番外四ヶ寺と三河新四国六ヶ寺で「大浜十ヶ寺巡り」を行っています。海徳寺の裏にある宝珠寺もそのひとつ。曹洞宗のお寺です。

天文年間に松平氏・徳川氏の家臣、長田重元は、織田氏に対抗するためこの地に羽城築城を命じられ、合わせて城の鬼門の方角に宝珠寺を建立しました。

本能寺の変の折、堺にいた家康は伊賀越えで畿内から脱出。伊勢から海路三河に戻った家康一行を、船を出して迎え入れたのが重元です。

息子の永井直勝 は当寺で生まれました。直勝は、小牧・長久手の戦いや大坂の陣などでの武功で知られる武将。上野小幡藩主、常陸笠間藩主、下総古河藩初代藩主を務めた永井家初代です。

医聖と呼ばれた徳本(とくほん)は重元の兄弟。徳本の遺徳を偲んで境内には徳本稲荷を祀り、「トクホンサン」の愛称で親しまれています。

のちの子孫に、作家の永井荷風、三島由紀夫、狂言師の野村萬斎などがいるそうです。

★清沢満之と西方寺

海徳寺、宝珠寺の向かい側には、明治時代の仏教界の偉人のひとり、清沢満之(まんし)ゆかりの西方寺があります。来月は西方寺から訪ねます。乞ご期待。


第225話 三河新四国(七十三番~七十六番)

皆さん、こんにちは。今月はご祥当。いよいよ春本番です。暖かくなってコロナ禍も収束することを祈ります。

昨年からお伝えしている三河新四国八十八ヶ所霊場。今月は三河新四国のクライマックス、大浜寺町に向かいます。

★棚尾の毘沙門天

七十一・七十二番から西に向かうこと約八キロメートル。県道四十三号線を進んで矢作川に架かる棚尾橋を渡ると碧南市に入ります。毘沙門という地名の交差点近くにあるのが 七十三番、多聞山妙福寺。浄土宗西山深草派のお寺です。

天台宗の古刹であったようですが、一五九〇年に月翁清白上人によって改宗。現在に至ります。

本堂西にある七十四番弘法堂に祀られる毘沙門天像は、八五一年に大和国から当地に荘園管理者として赴任してきた志賀左衛門 の護持仏です。左衛門に由来して、この辺一帯は志賀屋敷と呼ばれていましたが、当地の地名は今でも志賀町です。

毘沙門天像は聖徳太子作と伝わり、代々の住職も一代一回限りしか開帳できない秘 仏。棚尾の毘沙門天として親しまれています。

ご本尊(七十三番) 阿弥陀如来
ご本尊(七十四番) 志貴毘沙門天王 弘法大師
ご詠歌 碧海の 緑の海はにごれども 祖師のひろめし みのりよどまず

★大浜寺町

さて、七十三・七十四番から大浜港に向かって約二キロメートル。だんだんと潮の香りが濃くなる中、いよいよ大浜の中心部に入ります。

七十五番から八十六番霊場が密集する中心部は大浜寺町と呼ばれています。札所巡りをする前に大浜の歴史をご紹介します。

衣ヶ浦と呼ばれた海に突き出す半島状の地形。南の先端は尖った権現崎、東は入江の東浦、西は遠浅の海に大きな砂浜が広がる大浜 。古くは南北朝の頃から三河随一の湊であり、海上交通の要衝として発展。

一五五九年、松平元康(徳川家康)が大浜郷七ヶ寺に朱印地を与え、一五七六年には羽城 を築城しました。その結果、大浜はさらに発展し、江戸時代には上方(大坂)への中継地、尾張廻船の拠点となりました。

江戸時代の大浜は、幕府領、西尾藩領と変遷した後、一七六八年、田沼意次の側近、水野忠友が大浜藩を立藩。しかし、一七七四年に忠友が駿河沼津藩に所替えとなったのを機に、大浜藩は廃藩。そのまま沼津藩領となって幕末に至りました。

★大浜騒動

一八七一年に起きた大浜騒動にも触れておかなくてはなりません。

大浜は重要な海運拠点であったために他藩の出張所も置かれ、騒動は上総国(現在の千葉)菊間藩の領地内で起きました。

菊間藩は明治政府の廃仏毀釈の方針に従い、支配下の寺の合併を進めようとしました。

この方針に二ヶ寺(西方寺、光輪寺)が応諾しましたが、こうした動きが広まることを懸念した他の寺が反発。

「菊間藩がヤソ(当時のキリスト教の呼び方)を推奨する」とか「神前念仏が禁止される」との噂が広がり、真宗大谷派三河護法会を中心に西方寺と光輪寺を糾弾するに及び、僧、門徒、農民と菊間藩役人との間で騒動が発生。

菊間藩の役人のひとりを暴徒が暴行し、殺害。急報を聞いた菊間藩は藩兵を派遣。隣接する西尾藩や重原藩も菊間藩を支援したことで、暴動は収束しました。

暴動を煽った僧や役人殺害に関与した暴徒数百名が捕らえられ、二人が斬罪に処され、多数の僧、暴徒が罪人となりました。

幕末維新史の一幕として語り継がれています。

★小豆観音

七十三・七十四番から再び県道四十三号線を西に約一キロメートル進むと大浜漁港。大浜の中心部です。

港橋を左折して渡ると昔からの集落の密集地。橋の南東角にある旧大浜警察署の往時を偲ばせるモダンな建物を横目に南下。集落の中に入っていくこと約五百メートル、 七十五番は融通山観音寺、信貴山真言宗のお寺です。

途中、七十七番・七十八番東照山称名寺や七十九番・八十番南松山清浄院の前を通るため、逆打ちした方がよいというお遍路さんもいますが、とりあえず番号通りに南から北上します。

観音寺は一九五五年開山の新しいお寺です。開山は大竹清信尼。

清信尼さんのご主人は日露戦争に出征。何度も戦死しかけたそうですが、その都度九死に一生を得て無事帰国。

清信尼さんは、ご主人が護持仏としてお守りにしていた丈わずか三センチメートルの小豆観音 のおかげと感得。小豆観音を奉安するために当寺を開山したそうです。本堂には丈約四十センチメートルの護持仏と同じ像を彫って祀ってあります。

七十六番は本堂内にある融通殿です。

ご本尊(七十五番) 聖観世音菩薩
ご本尊(七十六番) 如意宝生尊
ご詠歌 大竹の 葉末に宿る 月かげは みだの心に 白玉と知れ

★松平八代と東照宮

次の七十七番には東照宮があります。来月は札所巡りの前に、徳川家康の祖先、松平八代についてお伝えします。乞ご期待。


第224話 三河新四国(六十九番~七十二番)

皆さん、こんにちは。春が待ち遠しい季節になりましたが、まだまだ寒い日が続きます。新型コロナウイルス感染症も含め、くれぐれもご自愛ください。

昨年からお伝えしている三河新四国八十八ヶ所霊場。今月は西尾市の旧市街に入ります。

★足利宗家と吉良荘

六十九番に向かう前に、この地域の歴史を散策しましょう。

古代においては熊来郷と呼ばれていたこの地域。十六世紀頃に西尾という地名が文献に登場します。

この地域は豊かであったことから、平安時代に吉良荘という荘園が置かれます。江戸時代の赤穂浪士事件に登場する吉良上野介(吉良義央)の領地は当地です。

吉良姓は吉良荘に由来します。歴史は常に偏った伝わり方をします。赤穂浪士事件でイメージが固定化している吉良上野介は地元では名君として語り継がれています。

赤穂浪士事件から遡ること約五百年、鎌倉時代には矢作川の両岸は西条と東条と呼ばれ、足利宗家三代の足利義氏が西条城と東条城を築き、庶子である長氏と義継 に吉良姓を名乗らせて城主に任じたことから吉良氏が発祥しました。

吉良氏はやがて駿河守護今川義元の配下になりましたが、桶狭間の戦いで義元が没すると、岡崎城の松平元康(のちの徳川家康)から攻められ、元康家臣の酒井正親 が西条城を奪い、西尾城と改称しました。

酒井正親は、元康家臣団の中で初めて城主に任命された武将です。

西尾城は「鶴城」「鶴ヶ城」「錦丘城」など、多くの別名を持つ名城です。

江戸時代には西尾藩 となり、藩主は初代の本多氏から、松平氏、太田氏、井伊氏、増山氏、土井氏、三浦氏、松平氏と移り変わり、三浦氏の時代に建てられたのが勝山寺です。

★西尾城主念持仏

六十七・六十八番から名鉄蒲郡線を越えて北上。やがて名鉄西尾線も横切りながら北に進むこと約十六キロメートル。西尾市旧市街に入り、西尾駅の西側の住宅や商店が立ち並ぶ中にあるのが 六十九番、泰涼山勝山寺。真言宗醍醐派のお寺です。

西尾城下にある勝山寺。一七四八年、当時の西尾城主は三浦義理。

所替え(幕府の命令による言わば転勤)の夢を見て、この地に残りたいと思った義理が鬼門除けのために城下に建てたのが始まりです。

江戸幕府は大名の勢力を削ぐために、頻繁に所替えを命じました。所替えに翻弄された当時の大名心理が垣間見える勝山寺の縁起です。

七年後の一七五五年、現在地に移築されたそうです。代々の西尾城主が念持仏として信仰した不動明王がご本尊になっています。

七十番は本堂左奥の明王殿です。石仏が並ぶ参道を巡るとお砂踏みができます。

ご本尊(六十九番)不動明王
ご本尊(七十番)弘法大師
ご詠歌 身の中の 悪しき非行を打ちすてて みな勝山を 望み祈れよ

★釈迦涅槃絵図

六十九・七十番から旧市街を約五百メートル西に進むと七十一番、梅香山縁心寺。浄土宗のお寺です。

一六〇二年、初代西尾藩主の本多康俊が、実父であり徳川家康の重臣であった酒井忠次追善のために建立しました。寺号は実父の戒名(高月縁心大居士)に因んで縁心寺 となりました。

一六一七年、康俊は近江膳所藩初代藩主として所替えになり、寺も近江に移りました。

しかし、四年後の一六二一年、康俊が逝去。康俊を慕う当地の人々が、供養のために現在地に同名の寺を建立。康俊の戒名(梅香院殿英誉輝厳縁崇大居士)に因んで、院号は 梅香院となりました。

一八六九年、地元絵師によって描かれた巨大な釈迦涅槃絵図、地獄大絵図が本堂内に奉じられているほか、内陣には阿弥陀如来、びんずる尊者、境内には青銅の大地蔵尊 が奉安されています。

七十二番は、本堂内の輝巌殿。浄土宗のお寺であり、法然上人の三河二十五霊場十四番札所でもあるため、弘法大師像は本堂内の右隅にひっそりと奉安されています。

ご本尊(七十一番)阿弥陀如来
ご本尊(七十二番)弘法大師
ご詠歌 名にしおう 実りの里に この花を 香れる山の 奥ぞゆかしき

★大浜寺町の碧南へ

来月は碧南市に入ります。律令時代の碧海郡の南部地域であったことから碧南という地名がつきました。

古くは大浜郷と呼ばれ、衣浦湾に面して大浜湊を擁した海上交通の要衝として栄えました。衣浦湾、知多湾の対岸は、知多四国の半田市と武豊町です。

寺院が密集する大浜は大浜寺町と呼ばれています。乞ご期待。


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大塚耕平

  • 2002年から「弘法さんかわら版」を書き続けています。仏教に親しみ、仏教から学び、仏教を探訪しています。より良い社会を目指すうえで仏教の教えは大切です。「弘法さんかわら版」は覚王山日泰寺(名古屋市千種区)と弘法山遍照院(知立市)の弘法さんの縁日にお配りしています。縁日はお大師様の月命日に立ちます。覚王山は新暦の21日、知立は旧暦の21日です。
  • 著書に「お大師様の生涯と覚王山」(大法輪閣)、「仏教通史」(大法輪閣)など。全国先達会、東日本先達会、愛知県先達会、四国八十八ヶ所霊場開創1200年記念イベント(室戸市)、中日文化センターなどで講演をさせていただいています。毎年12月23日には覚王山で「弘法さんを語る会」を開催。ご要望があれば、全国どこでも喜んでお伺いします。
  • 1959年愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒、同大学院博士課程修了(学術博士、専門はマクロ経済学)。日本銀行を経て、2001年から参議院議員。元内閣府副大臣、元厚生労働副大臣。現在、早稲田大学総合研究機構客員教授(2006年~)、藤田医科大学医学部客員教授(2016年~)を兼務しています。元中央大学大学院公共政策研究科客員教授(2005年~17年)。