弘法さんブログ

第230話 三河新四国の宗派とご本尊

皆さん、こんにちは。八月も後半に入りましたが、まだまだ猛暑が続きます。くれぐれもご自愛ください。

さて、昨年からお伝えしてきた三河新四国八十八ヶ所霊場。先月、八十八番法城寺を参拝して結願しました。今月は三河新四国の宗派とご本尊についてです。

★最多は浄土宗系

三河新四国は本四国の霊場と異なり、もともと必ずしもお大師様ゆかりのお寺ばかりではありません。また、一九六五年(昭和四十年)に三度目の再興となったこともあり、宗派は真言宗が中心というわけではありません。この点は、知多四国と同様です。

本四国では八十八ヶ所のうち八十ヶ所が真言宗系のお寺です。知多四国で最も多いのは曹洞宗のお寺でした。

三河新四国四十九ヶ寺(八十八ヶ所)を整理すると、一番多いのが浄土宗系の二十ヶ寺(浄土宗十、浄土宗西山深草派十)、二番目が真言宗系の十七ヶ寺(真言宗醍醐派八、真言宗六、真言宗高野派一、真言宗豊山派一、信貴山真言宗一)、三番目は曹洞宗の七ヶ寺、四番目は臨済宗の三ヶ寺。残るは、時宗と天台寺門宗が各一ヶ寺で四十九ヶ寺です。 詳しくは表をご覧ください。

※三河新四国の宗派

 宗派 寺院数 浄土宗 10 浄土宗西山深草派 10 20 真言宗醍醐派 14 真言宗豊山派 1 高野山真言宗 1 信貴山真言宗 1 17 曹洞宗 7 臨済宗 3 時宗 1 天台寺門宗 1 合計 49

★最多は阿弥陀如来・阿弥陀仏

四十九ヶ寺のご本尊も本四国、知多四国とは少し違います。 本四国では薬師如来が二十四、知多四国では観世音菩薩の三十二と最多。

一方、三河新四国では阿弥陀如来・阿弥陀仏の二十(一光千体も含む)が最多。お寺の宗派として浄土宗系が最多なので、当然のことかもしれません。

それに続いて不動明王十(身代わり不動明王明王、流汗不動明王も含む)、観世音菩薩十(千手観音と十一面観音も含む)、弘法大師が四、薬師如来二、その他四です。

一方、四十一ヶ寺の別堂札所のご本尊は、複数の先もあるので、合計で五十八です。 最多は弘法大師十六(冠大師等も含む)、観世音菩薩系が九、地蔵菩薩系が七、阿弥陀如来・阿弥陀仏三、不動明王三、薬師如来三、その他十五です。

詳しくはやはり別表をご覧ください。

★愛知の寺院数は日本一

日本人の生活と切り離せない寺社仏閣。全国津々浦々にある寺社仏閣。お正月の初詣に寺院と神社の両方に行く人も少なくありません。

これまでも何度かお伝えしましたが、四十七都道府県で寺院が一番多いのは愛知です。 寺院の数と聞けば、歴史から考えると京都、人口から想像すると東京が一番多いと連想するのが無理からぬところですが、実は愛知が一番。しかも断トツです。

文化庁が毎年発表する宗教年鑑(令和元年版)によれば、愛知の寺院数は四五五九で日本一。 愛知に続く大阪、兵庫、滋賀、京都が上位五都府県。愛知以外は全部近畿地方。一方、一番少ないのは沖縄の九十。次いで、少ない順に宮崎、高知、鳥取、青森です。

古くから日本の都は奈良、京都です。平安仏教、鎌倉仏教の多くの宗派の祖師や高僧が京都と滋賀にまたがる比叡山延暦寺で修行しましたので、近畿地方に寺院が多いのは頷けます。 沖縄が少ないのは、かつては本土と文化圏が異なっていたためです。一方、宮崎や高知は明治維新に伴う廃仏毀釈の影響を受けています。

因みに、日本最北端の寺院は稚内の天徳寺(曹洞宗)、最南端は竹冨島の喜宝院(浄土真宗)。全国の寺院数は七六八七二、仏教系宗教団体数は八四三二一です。

★寺院数日本一の背景

 来月は愛知県が寺院数日本一の背景について、少し深堀りしてみます。 乞ご期待。

(2021年8月)


第229話 三河新四国(八十七番~八十八番)

皆さん、こんにちは。夏本番です。コロナ禍で今ひとつ晴れ晴れしませんが、暑さに気をつけて、ご自愛ください。

昨年からお伝えしている三河新四国八十八ヶ所霊場。いよいよ結願です。

★山崎弁栄上人

さて、結願寺に向かいます。八十五・八十六番から北へ約二キロメートル。深称寺から約一・三キロメートル。大浜上町の交差点を越え、天王交差点手前を右折して住宅街に入ると 八十八番、浄土宗の天王山法城寺。八十七番は本堂内の天王殿です。結願を法城寺とするため、天王堂が八十七番になっています。

一八九四年、九重味淋創業家(石川家)縁戚の資産家、石川市太郎が私財を投じて作った説教場が当寺の始まりです。

開山の山崎弁栄上人(一八五九〜一九二〇年)について触れておきます。

弁栄上人は下総国手賀沼鷲野谷(現柏市)の熱心な浄土門徒の農家に生誕。幼い頃から近所の真言宗の寺で仏画を習っていたそうです。十二歳の時に阿弥陀三尊を夕日の中に感得し、二十歳で出家しました。

その後は上京して増上寺や駒込吉祥寺学林(現駒澤大学)で研鑽を積み、筑波山中で念仏修行、浄土宗本校(現大正大学)設立を勧進、インド仏跡巡拝を行うなど、真摯に仏道に邁進しました。

一九一八年には時宗当麻派本山、無量光寺の六十一世法主に迎えられ、一九二〇年、各地を巡錫中に柏崎市の極楽寺で還浄しました。

西洋楽器を積極的に布教に活用しました。仏教の教えを広めるため、賛仏歌を作詞作曲し、当時は目新しい楽器だった手風琴を自分で演奏し、全国を行脚したそうです。絵画や米粒絵も描く万能者です。

その山崎弁栄上人が開山ですから、法城寺には上人縁の寺宝も多く、その影響が色濃く残る寺院です。凛とした静寂を感じる素晴らしい境内。弁栄上人の遺徳を偲びつつ、合掌して結願です。

ご本尊(八十七番) 火防大師

ご本尊(八十八番) 阿弥陀如来

ご詠歌 今までは 親とたのみし大師ずえ めぐりて納む 法城の寺

★旧三河新四国

紙上遍路、お疲れ様でした。一六二六年(寛永二年)に浦野上人が開創した元祖三河新四国、一九二七年(昭和二年)に再興された旧三河新四国 。先人の努力があってこそ、一九七〇年(昭和四十年)に三度(みたび)誕生したのが現在の三河新四国です。

元祖三河新四国の札所の全貌は調べきれませんでしたが、旧三河新四国はわかります。

再興の契機となった善通寺誕生院貫主から贈られた直傳證は、現在も雲龍寺 (豊田市)本堂に掲げられています。雲龍寺は旧三河新四国では七十六番、現在の三河新四国では十九番・二十番です。

旧三河新四国の札所は、一番薬証寺(蒲郡)から、西尾、碧南、高浜、刈谷、知立、豊田を経て、八十八番香積寺(足助)を巡拝します。

ほとんどの札所が旧三河鉄道沿線に位置し、海沿いの温泉景勝地蒲郡から紅葉で名高い香嵐渓を結ぶ沿線振興策だったようです。駆け足でお遍路しましょう。

スタートの蒲郡は、東三河新四国、三河海岸大師など、複数の弘法霊場が交錯する地域です。中でも五番無量寺 は、三河新四国(六十一番・六十二番)、参河国准四国(五十四番)、東三河新四国(十七番)、三河海岸大師(四番)も兼ねる五冠王です。

碧南に入ると、やはり大浜地区に札所が集中しています。大浜から北上すると知立の遍照院。旧三河新四国では五十七番ですが、現在の三河新四国では開創霊場(零番) です。

さらに北上して猿投へ。大悲殿東昌院は旧三河新四国では奥の院 、現在の三河新四国では十七番・十八番です。もともとは三河三の宮である猿投神社別当寺の白鳳寺。神仏分離令、廃仏毀釈によって廃寺となった後、復興されました。

旧三河新四国は浄土宗系寺院が過半を占め、中でも多いのが西山深草派(三十一ヶ寺)。徳川家康 が三河一向一揆と対峙した際、一向宗の中でも家康方についたお寺が浄土宗に改宗した経緯が影響しているようです。

次に多い曹洞宗(十八ヶ寺)のほか、全部で十六宗派の寺院で構成されています。

札所石柱が残っているお寺も多く、探しながら散策するのは楽しいことです。

★三河新四国の宗派とご本尊

紙上遍路の結願、おめでとうございました。来月は、三河新四国の宗派とご本尊について整理してみます。乞ご期待。

(2021年7月)


第228話 三河新四国(八十三番〜八十六番)

皆さん、こんにちは。今年は梅雨入りが早く、夏が待ち遠しい季節になりました。コロナ禍の中、ご自愛ください。昨年からお伝えしている三河新四国八十八ヶ所霊場。今月も大浜寺町を散策します。

★千体地蔵

八十一・八十二番から、大浜を南北に貫く道路を北上すること約二百メートル、途中、藤井達吉現代美術館、九重味醂大蔵、清沢満之記念館を横目に進むと八十三番、聖道山常行院。浄土宗のお寺です。

一五二六年創建で、開山は徳川家菩提寺、大樹寺八世の隣誉上人です。

八十四番は本堂の北側にある聖道殿。そのご本尊、日限地蔵尊は武田信玄の陣中守り本尊の地蔵大菩薩。

一八六八年、当寺二十世、麻生徳雲和尚が遠州応聲教院から譲り受けたそうです。

また、珍しい土づくりの千体地蔵は、天保大飢饉の際に、周辺の住民から救済を祈願して寄進されたものです。

元松江代官所の山門、京都六角堂から移された沙門宗連作の聖徳太子像など、見どころの多いお寺です。

ご本尊(八十三番) 阿弥陀如来
ご本尊(八十四番) 日限地蔵尊
ご詠歌 いつまでも 常ゆく寺の さかゆるは なやむ大師の お慈悲なりけり

★当麻寺の三尊像

八十三・八十四番の約五十メートル先、北隣にあるのが八十五番、華慶山林泉寺。曹洞宗のお寺です。

一四五七年創建。寺宝として伝わる三尊仏(釈迦、、文殊、普賢)の掛け軸は、もともと奈良当麻寺にあった七百五十年前の源慶作。

当麻寺は奈良県葛城市にある名刹。開基は聖徳太子の異母弟麻呂古王と伝わります。奈良時代末期、平安時代初期建立の二基の三重塔(東塔、西塔)があり、近世以前建立の東西両塔が残る日本唯一の寺としても知られています。

その当麻寺にあった源慶作の掛け軸。源慶は平安時代後期から鎌倉時代前期の仏師で、運慶の弟子です。

林泉寺境内は禅寺の雰囲気を感じさせる静寂が漂います。八十六番は山門を入ってすぐの弘法堂です。

ご本尊(八十五番) 聖観世音 ご本尊(八十六番) 大聖歓喜天 大師像 ご詠歌 衣浦の 海をはるかに見渡して 法の林に 泉湧く寺

★加藤菊女と深称寺 結願の前に「大浜十ヶ寺巡り」の残るひとつ、深称寺にも立ち寄ります。八十七番・八十八番に向かう途中です。

地元では、信仰心の厚い江戸時代の才女、加藤菊女ゆかりの寺として親しまれています。

菊女は一七〇三年、尾張藩士の娘として生誕。当地の代官、加藤四郎左衛門の子息友右衛門に嫁入り。上品な人柄で書画の才に優れた教養豊かな女性だったそうです。

一七一八年、三州中山(現碧南市伏見屋)貞照院で起きた孫市騒動(注)の責任を問われ、四郎左衛門に島送りの沙汰。菊女の夫、友右衛門が高齢の父の身代わりとして伊豆大島に送られました。

(注)江戸白木屋で袈裟地織物を騙し取った僧が逃亡の末、貞照院に侵入。犯人(僧)を捕らえようとした孫市(大浜の賭場の親分)を中心とした村人が駆けつけた役人を犯人と間違え、役人に暴行している間に犯人が逃走。公儀からこの不始末を咎められ、孫市は打ち首、貞照院の住職と大浜代官(加藤四郎左衛門)が島送りの刑に処せられた騒動。

菊女は大浜の熊野権現に日参、毎夜はだしでお百度参り、熱心に夫の無事と放免を祈願しました。夫の両親を支え、夫の留守を守り、写経に打ち込みました。そして、毎日のように写経と夫への手紙を竹筒に納めて海に投じました。

ある日、伊豆大島の友右衛門が舟釣りしていたところ、竹筒が漂着。友右衛門が竹筒を何度海に押しやっても戻ってくるのを奇異に感じ、拾い上げて中を見て驚愕。何と菊女の手紙と写経です。

友右衛門がことの次第を申し出た島の役人も感服して幕府に上申。幕府は菊女の殊勝な行いに免じて友右衛門を赦免。友右衛門は八年振りに大浜に帰りました。

菊女はその後も神仏の加護に感謝して写経を続け、寺々に納経。今も林泉寺、妙福寺、貞照院、称名寺、宝珠寺などに残っているそうです。また、亀久の揮毫で優れた書画の才も発揮し、三十六歌仙の画や和歌を近隣の寺社に奉納しました。

菊女は淑女、良民の鑑として顕彰され、大浜熊野大神社の境内に碑が建てられました。菊女の墓は宝珠寺境内にあります。

深称寺に宝珠寺、西方寺、本伝寺を加えた番外四ヶ寺に、観音寺、称名寺、清浄院、海徳寺、常行院、林泉寺の六ヶ寺で「大浜十ヶ寺巡り」の十ヶ寺です。

★山崎弁栄上人

来月は、三河新四国もいよいよ結願です。八十八番、法城寺に向かいます。山崎弁栄上人ゆかりのお寺です。乞ご期待。

(2021年6月)


第227話 三河新四国(清沢満之と西方寺)

皆さん、こんにちは。早くも初夏の季節。新緑を眺めて自粛疲れを癒しましょう。

昨年からお伝えしている三河新四国八十八ヶ所霊場。今月も大浜寺町を散策します。

★清沢満之と西方寺

先月は八十一・八十二番の海徳寺、大浜十ヶ寺巡りのひとつ宝珠寺を訪ねました。

海徳寺、宝珠寺の向かい側には、明治時代の仏教界の偉人のひとり、清沢満之(まんし)ゆかりの西方寺があります。

海徳寺から八十三番に向かう途中にある西方寺も大浜十ヶ寺巡りのひとつです。

鎌倉時代に棚尾村に創建された寺が一四九六年、現在地に移され、西方寺と改称されました。

二十八世住職に親鸞、蓮如の血筋を継ぐ慈寛を迎え、以来現住職までその系譜が受け継がれているそうです。

寺内の太鼓堂は明治時代初期の校舎。碧南の学校教育発祥の地です。また、源義朝を美浜法山寺(五十五番)の湯殿で討った後に棚尾に逃れてきた長田一族の刀剣 など、数多くの寺宝を有します。

西方寺は清沢満之(一八六三〜一九〇三年)終焉の寺としても知られています。

満之は明治時代に活躍した真宗大谷派の僧、哲学者、宗教家です。

尾張藩士の子として誕生。明治維新後の一八七八年に得度して真宗大谷派の僧となり、東本願寺育英教校に入学。一八八七年には東京帝国大学文学部哲学科を首席で卒業した俊才です。

哲学館(現東洋大学)創設時の評議員や教員、京都府尋常中学校の校長等を務める中、縁あって当寺の清沢やす子と結婚し、清沢姓になりました。

やがて制欲自戒生活を始め、黒衣黒袈裟姿で、食膳は麦飯一菜、酒はもちろん茶すら飲まず、素湯もしくは水のみを飲用。自戒生活の中で体得した哲学的思考やそれに基づく著書は海外でも評判になりました。

東本願寺における近代的な教育制度や組織の確立を期して数々の改革を建議し、しばしば宗門と対立したものの、その識見、能力は優れ、真宗大学(現大谷大学)初代学監(学長)も務めました。

一九〇三年、肺結核が悪化し、改革の志半ばにして当寺で逝去。享年三十九歳でした。

生前、鈴木大拙に高く評価されていた満之でしたが、早逝したこともあり、長らく忘れ去られた存在でした。

しかし、一九六五年の中央公論の座談会「近代日本を創った宗教人百人を選ぶ」で司馬遼太郎 が満之を取り上げたことからその名が知られ、やがて岩波書店から満之の全集が発刊されるに至りました。

満之は、正岡子規、夏目漱石等、同時代の多くの人に影響を与えたと言われています。当寺に隣接して清沢満之記念館が設けられています。

★藤井達吉

大浜寺町には、札所の他にもいくつかご紹介したい先があります。それらを含む全体で大浜寺町が独特の雰囲気を醸し出しています。

八十一番・八十二番から北上して八十三番に行く途中、右手の現代的建築物が目を引きます。藤井達吉現代美術館です。

藤井達吉(一八八一年〜一九六四年)は棚尾村(碧南市源氏町)生まれ、棚尾小学校卒の芸術家です。

達吉は小学校卒業後の奉公を終えると、服部七宝店(名古屋)に就職。一九〇五年、七宝焼出展のために米国オレゴン州で開催された万博に出張。その際、ボストン美術館で世界の美術作品を見て刺激を受け、帰国後に七宝店を退職。美術工芸家として活動を始めました。

七宝焼、日本画、陶芸、金工、竹工、漆工、刺繍、染色、和紙、書、和歌等の幅広い工芸分野で活躍し、日本の新しい芸術創造に足跡を残しました。

一九二九年、帝国美術学校(現武蔵野美術大学)設立時に教授を務めたほか、一九三二年には西加茂郡小原村(現豊田市)で和紙工芸の指導も始め、生涯工芸振興に人生を費やし、岡崎市で亡くなりました。

★九重味醂大蔵

藤井達吉美術館の前にあるのが九重味醂大蔵。西方寺に隣接する清沢満之記念館と向き合っています。

九重味淋は碧南市浜寺町に本社がある調味料製造の老舗。二十二世石川八郎右衛門信敦が一七七二年に味醂製造を始め、以来約二百五十年、味醂の製造を続けています。

大蔵は貯蔵熟成に用いるための蔵で、一七八七年に名古屋市緑区鳴海の酒蔵を現在地に移築したもの。二〇〇五年、大蔵は登録有形文化財となりました。大浜寺町の歴史的景観に一役買っています。

★加藤菊女と深称寺

三河新四国もいよいよ結願が近づいていますが、大浜十ヶ寺巡りにはまだまだ見所があります。

来月は、良民淑女の鑑(かがみ)と言われる加藤菊女ゆかりの深称寺を訪ねます。乞ご期待。


第226話 三河新四国(第七十七番~八十二番)

皆さん、こんにちは。春真っ盛りの季節になりました。自粛疲れを癒して、春をお楽しみください。

昨年からお伝えしている三河新四国八十八ヶ所霊場。今月は大浜寺町の中を散策します。

★大浜東照宮

七十五・七十六番から大浜の集落を北上します。来た道を戻ること約百メートル、七十七番は東照山称名寺、時宗のお寺です。

開創は一三〇二年の古刹。戦国時代から江戸時代にかけて徳川家との関係が深くなったお寺です。

称名寺には、徳川家康の先祖、松平八代の始祖、親氏 の古墓があります。徳川家菩提寺の岡崎大樹寺にも松平八代の墓所がありますが、これは家康が一六一五年に建立したものです。

当寺には、六代信忠の息女(家康公の大伯母)の念持仏であった聖観世音菩薩も祀ってあります。

六代信忠は一五二三年、弱冠十三歳の嫡男七代清康に早々と家督を譲り、大浜郷に隠居しました。信忠三十三歳の時です。

松平八代、徳川家とゆかりの深い称名寺の境内には、大浜東照宮もつくられました。

七十八番は本堂西側にある東照殿。

ご本尊(七十七番) 阿弥陀仏
ご本尊(七十八番) 弘法大師
ご詠歌 しんごんの 教えをひろむ 大師をば 念じて道を さとるなり

★前田利家

七十七・七十八番から集落の中を北上。途中、樹齢三百年の大銀杏がある本伝寺の前を通って約百五十メートル進むと七十九番、南松山清浄院。浄土宗のお寺です。

一三三四年創建の古刹です。山門を入った右側に、加賀百万石の藩祖、前田利家公の先祖のお墓があることで知られています。

利家公は尾張国荒子村(現在の名古屋市)の荒子城主前田利春の四男です。その祖先のお墓が当寺にあるということは、前田家の元々の系譜は大浜辺りなのかもしれません。

それぞれ五輪塔ですが、高さ六十センチメートルが二基、八十センチメートル、九十センチメートルが各一基。今も手厚く供養されています。

八十番は山門を入って右にある南松殿です。

ご本尊(七十九番) 阿弥陀如来
ご本尊(八十番) 弘法大師
ご詠歌 きよき寺 真心こめて 拝む人 利益めでたし 南無大師さま

★大浜大仏

七十九・八十番から約二百メートル、北上して再び旧大浜警察署の前を通って港橋を渡ると右側にあるのが八十一番、南面山海徳寺。浄土宗西山深草派のお寺です。

かつては徳川家ゆかりの御朱印寺。一八六九年、廃仏毀釈の影響で、伊勢神宮神領内の菩提山神宮寺の仏像約六十体が廃されそうになった際、海徳寺二十二代住職 寂空和尚がそれらを救済するために譲り受け、伊勢から海路大浜に運んだそうです。

その中の丈約二・八メートルの大仏(阿弥陀如来)をご本尊とし、「大浜大仏」 と呼ばれて親しまれています。愛知県一の大きさです。国の重要文化財に指定されています。

山門には丈二・二メートルの金剛力士像二体。八十二番は本堂内にある大仏殿です。

ご本尊(八十一番) 阿弥陀仏
ご本尊(八十二番) 阿弥陀如来
ご詠歌 大佛の 慈悲の御手に導かれ 今日も詣でぬ 大浜の里

★永井直勝と宝珠寺

大浜では、番外四ヶ寺と三河新四国六ヶ寺で「大浜十ヶ寺巡り」を行っています。海徳寺の裏にある宝珠寺もそのひとつ。曹洞宗のお寺です。

天文年間に松平氏・徳川氏の家臣、長田重元は、織田氏に対抗するためこの地に羽城築城を命じられ、合わせて城の鬼門の方角に宝珠寺を建立しました。

本能寺の変の折、堺にいた家康は伊賀越えで畿内から脱出。伊勢から海路三河に戻った家康一行を、船を出して迎え入れたのが重元です。

息子の永井直勝 は当寺で生まれました。直勝は、小牧・長久手の戦いや大坂の陣などでの武功で知られる武将。上野小幡藩主、常陸笠間藩主、下総古河藩初代藩主を務めた永井家初代です。

医聖と呼ばれた徳本(とくほん)は重元の兄弟。徳本の遺徳を偲んで境内には徳本稲荷を祀り、「トクホンサン」の愛称で親しまれています。

のちの子孫に、作家の永井荷風、三島由紀夫、狂言師の野村萬斎などがいるそうです。

★清沢満之と西方寺

海徳寺、宝珠寺の向かい側には、明治時代の仏教界の偉人のひとり、清沢満之(まんし)ゆかりの西方寺があります。来月は西方寺から訪ねます。乞ご期待。


第225話 三河新四国(七十三番~七十六番)

皆さん、こんにちは。今月はご祥当。いよいよ春本番です。暖かくなってコロナ禍も収束することを祈ります。

昨年からお伝えしている三河新四国八十八ヶ所霊場。今月は三河新四国のクライマックス、大浜寺町に向かいます。

★棚尾の毘沙門天

七十一・七十二番から西に向かうこと約八キロメートル。県道四十三号線を進んで矢作川に架かる棚尾橋を渡ると碧南市に入ります。毘沙門という地名の交差点近くにあるのが 七十三番、多聞山妙福寺。浄土宗西山深草派のお寺です。

天台宗の古刹であったようですが、一五九〇年に月翁清白上人によって改宗。現在に至ります。

本堂西にある七十四番弘法堂に祀られる毘沙門天像は、八五一年に大和国から当地に荘園管理者として赴任してきた志賀左衛門 の護持仏です。左衛門に由来して、この辺一帯は志賀屋敷と呼ばれていましたが、当地の地名は今でも志賀町です。

毘沙門天像は聖徳太子作と伝わり、代々の住職も一代一回限りしか開帳できない秘 仏。棚尾の毘沙門天として親しまれています。

ご本尊(七十三番) 阿弥陀如来
ご本尊(七十四番) 志貴毘沙門天王 弘法大師
ご詠歌 碧海の 緑の海はにごれども 祖師のひろめし みのりよどまず

★大浜寺町

さて、七十三・七十四番から大浜港に向かって約二キロメートル。だんだんと潮の香りが濃くなる中、いよいよ大浜の中心部に入ります。

七十五番から八十六番霊場が密集する中心部は大浜寺町と呼ばれています。札所巡りをする前に大浜の歴史をご紹介します。

衣ヶ浦と呼ばれた海に突き出す半島状の地形。南の先端は尖った権現崎、東は入江の東浦、西は遠浅の海に大きな砂浜が広がる大浜 。古くは南北朝の頃から三河随一の湊であり、海上交通の要衝として発展。

一五五九年、松平元康(徳川家康)が大浜郷七ヶ寺に朱印地を与え、一五七六年には羽城 を築城しました。その結果、大浜はさらに発展し、江戸時代には上方(大坂)への中継地、尾張廻船の拠点となりました。

江戸時代の大浜は、幕府領、西尾藩領と変遷した後、一七六八年、田沼意次の側近、水野忠友が大浜藩を立藩。しかし、一七七四年に忠友が駿河沼津藩に所替えとなったのを機に、大浜藩は廃藩。そのまま沼津藩領となって幕末に至りました。

★大浜騒動

一八七一年に起きた大浜騒動にも触れておかなくてはなりません。

大浜は重要な海運拠点であったために他藩の出張所も置かれ、騒動は上総国(現在の千葉)菊間藩の領地内で起きました。

菊間藩は明治政府の廃仏毀釈の方針に従い、支配下の寺の合併を進めようとしました。

この方針に二ヶ寺(西方寺、光輪寺)が応諾しましたが、こうした動きが広まることを懸念した他の寺が反発。

「菊間藩がヤソ(当時のキリスト教の呼び方)を推奨する」とか「神前念仏が禁止される」との噂が広がり、真宗大谷派三河護法会を中心に西方寺と光輪寺を糾弾するに及び、僧、門徒、農民と菊間藩役人との間で騒動が発生。

菊間藩の役人のひとりを暴徒が暴行し、殺害。急報を聞いた菊間藩は藩兵を派遣。隣接する西尾藩や重原藩も菊間藩を支援したことで、暴動は収束しました。

暴動を煽った僧や役人殺害に関与した暴徒数百名が捕らえられ、二人が斬罪に処され、多数の僧、暴徒が罪人となりました。

幕末維新史の一幕として語り継がれています。

★小豆観音

七十三・七十四番から再び県道四十三号線を西に約一キロメートル進むと大浜漁港。大浜の中心部です。

港橋を左折して渡ると昔からの集落の密集地。橋の南東角にある旧大浜警察署の往時を偲ばせるモダンな建物を横目に南下。集落の中に入っていくこと約五百メートル、 七十五番は融通山観音寺、信貴山真言宗のお寺です。

途中、七十七番・七十八番東照山称名寺や七十九番・八十番南松山清浄院の前を通るため、逆打ちした方がよいというお遍路さんもいますが、とりあえず番号通りに南から北上します。

観音寺は一九五五年開山の新しいお寺です。開山は大竹清信尼。

清信尼さんのご主人は日露戦争に出征。何度も戦死しかけたそうですが、その都度九死に一生を得て無事帰国。

清信尼さんは、ご主人が護持仏としてお守りにしていた丈わずか三センチメートルの小豆観音 のおかげと感得。小豆観音を奉安するために当寺を開山したそうです。本堂には丈約四十センチメートルの護持仏と同じ像を彫って祀ってあります。

七十六番は本堂内にある融通殿です。

ご本尊(七十五番) 聖観世音菩薩
ご本尊(七十六番) 如意宝生尊
ご詠歌 大竹の 葉末に宿る 月かげは みだの心に 白玉と知れ

★松平八代と東照宮

次の七十七番には東照宮があります。来月は札所巡りの前に、徳川家康の祖先、松平八代についてお伝えします。乞ご期待。


第224話 三河新四国(六十九番~七十二番)

皆さん、こんにちは。春が待ち遠しい季節になりましたが、まだまだ寒い日が続きます。新型コロナウイルス感染症も含め、くれぐれもご自愛ください。

昨年からお伝えしている三河新四国八十八ヶ所霊場。今月は西尾市の旧市街に入ります。

★足利宗家と吉良荘

六十九番に向かう前に、この地域の歴史を散策しましょう。

古代においては熊来郷と呼ばれていたこの地域。十六世紀頃に西尾という地名が文献に登場します。

この地域は豊かであったことから、平安時代に吉良荘という荘園が置かれます。江戸時代の赤穂浪士事件に登場する吉良上野介(吉良義央)の領地は当地です。

吉良姓は吉良荘に由来します。歴史は常に偏った伝わり方をします。赤穂浪士事件でイメージが固定化している吉良上野介は地元では名君として語り継がれています。

赤穂浪士事件から遡ること約五百年、鎌倉時代には矢作川の両岸は西条と東条と呼ばれ、足利宗家三代の足利義氏が西条城と東条城を築き、庶子である長氏と義継 に吉良姓を名乗らせて城主に任じたことから吉良氏が発祥しました。

吉良氏はやがて駿河守護今川義元の配下になりましたが、桶狭間の戦いで義元が没すると、岡崎城の松平元康(のちの徳川家康)から攻められ、元康家臣の酒井正親 が西条城を奪い、西尾城と改称しました。

酒井正親は、元康家臣団の中で初めて城主に任命された武将です。

西尾城は「鶴城」「鶴ヶ城」「錦丘城」など、多くの別名を持つ名城です。

江戸時代には西尾藩 となり、藩主は初代の本多氏から、松平氏、太田氏、井伊氏、増山氏、土井氏、三浦氏、松平氏と移り変わり、三浦氏の時代に建てられたのが勝山寺です。

★西尾城主念持仏

六十七・六十八番から名鉄蒲郡線を越えて北上。やがて名鉄西尾線も横切りながら北に進むこと約十六キロメートル。西尾市旧市街に入り、西尾駅の西側の住宅や商店が立ち並ぶ中にあるのが 六十九番、泰涼山勝山寺。真言宗醍醐派のお寺です。

西尾城下にある勝山寺。一七四八年、当時の西尾城主は三浦義理。

所替え(幕府の命令による言わば転勤)の夢を見て、この地に残りたいと思った義理が鬼門除けのために城下に建てたのが始まりです。

江戸幕府は大名の勢力を削ぐために、頻繁に所替えを命じました。所替えに翻弄された当時の大名心理が垣間見える勝山寺の縁起です。

七年後の一七五五年、現在地に移築されたそうです。代々の西尾城主が念持仏として信仰した不動明王がご本尊になっています。

七十番は本堂左奥の明王殿です。石仏が並ぶ参道を巡るとお砂踏みができます。

ご本尊(六十九番)不動明王
ご本尊(七十番)弘法大師
ご詠歌 身の中の 悪しき非行を打ちすてて みな勝山を 望み祈れよ

★釈迦涅槃絵図

六十九・七十番から旧市街を約五百メートル西に進むと七十一番、梅香山縁心寺。浄土宗のお寺です。

一六〇二年、初代西尾藩主の本多康俊が、実父であり徳川家康の重臣であった酒井忠次追善のために建立しました。寺号は実父の戒名(高月縁心大居士)に因んで縁心寺 となりました。

一六一七年、康俊は近江膳所藩初代藩主として所替えになり、寺も近江に移りました。

しかし、四年後の一六二一年、康俊が逝去。康俊を慕う当地の人々が、供養のために現在地に同名の寺を建立。康俊の戒名(梅香院殿英誉輝厳縁崇大居士)に因んで、院号は 梅香院となりました。

一八六九年、地元絵師によって描かれた巨大な釈迦涅槃絵図、地獄大絵図が本堂内に奉じられているほか、内陣には阿弥陀如来、びんずる尊者、境内には青銅の大地蔵尊 が奉安されています。

七十二番は、本堂内の輝巌殿。浄土宗のお寺であり、法然上人の三河二十五霊場十四番札所でもあるため、弘法大師像は本堂内の右隅にひっそりと奉安されています。

ご本尊(七十一番)阿弥陀如来
ご本尊(七十二番)弘法大師
ご詠歌 名にしおう 実りの里に この花を 香れる山の 奥ぞゆかしき

★大浜寺町の碧南へ

来月は碧南市に入ります。律令時代の碧海郡の南部地域であったことから碧南という地名がつきました。

古くは大浜郷と呼ばれ、衣浦湾に面して大浜湊を擁した海上交通の要衝として栄えました。衣浦湾、知多湾の対岸は、知多四国の半田市と武豊町です。

寺院が密集する大浜は大浜寺町と呼ばれています。乞ご期待。


第222話 三河新四国(五十七番~六十二番)

皆さん、こんにちは。いよいよ師走。今年もあとわずか。寒さが厳しくなりますので、くれぐれもご自愛ください。

今年のかわら版は三河新四国八十八ヶ所霊場についてお伝えしています。さて、今月は形原温泉から西浦温泉に向かいます。

★形原城ゆかりの利生院

五十五・五十六番から集落の中を西に進むこと約一キロメートル、名鉄蒲郡線を越えると五十七番、上野山利生院。浄土宗西山深草派のお寺です。

五十三番真如寺、五十五番実相院と同様、利生院も形原城と因縁の深いお寺です。

形原城は江戸時代初期に当地に置かれた形原藩の居城。一五六〇年、桶狭間の戦いの後に形原松平氏は今川氏から離れて松平宗家に従いました。

これに怒った今川氏真が人質にとっていた形原城主松平家広の妻子を城から見下ろせる稲生浜で処刑するという悲しい出来事もありました。

一五七四年、当寺を建立したのは形原城主松平家忠。開山者の智巌法印は家老松平藤兵衛の次男であり、城主の祈願所として開創されました。

一五九〇年、城主松平家信は家康の関東移封に従い、形原を離れて関東上総国五井(現在の千葉県市原市)に移ったものの、関ヶ原の戦い後の一六〇一年に居城を形原に戻りました。

一六一九年、家信は丹波篠山、摂津高槻城に移封となって形原を再び離れることとなり、形原城も廃城。本丸のあった丘の峰には、地元の稲荷大社が建てられました。

その際、城の守護仏聖観世音菩薩が当寺に移されました。このほかにも、当寺には形原城ゆかりの遺物や逸話がたくさん伝わります。

境内は高台にあり、城跡の小高い丘と海が南に百五十メートルの位置に見えます。

五十八番は本堂西側にある観音堂です。

ご本尊(五十七番)阿弥陀如来
ご本尊(五十八番)聖観世音菩薩
ご詠歌 ただたのめ たのむこころの まことより ほとけのりしょう ありがたのはら

★西浦温泉と覚性院

五十七番・五十八番から海を左手に眺めながら南下すること約二キロメートル、西浦駅から南に百メートルの住宅街の中にあるのが五十九番、神田山覚性院。浄土宗西山深草派のお寺です。

西浦温泉は三河湾に突き出た西浦半島一帯に湧出。かつては東海の熱海の異名を持ちました。

西浦半島一帯は古くは万葉の地として歌垣にも選ばれていますが、温泉の歴史は新しく一九五三年の開湯。二〇〇六年に西浦温泉開湯五十周年を記念して、西浦温泉の温泉街の各所に七福神像が置かれました。

覚性院は一六五〇年の開創。当初は西浦半島寄りの知柄地区にありましたが、一九〇五年、念仏観逸上人によって現在地に移されたそうです。寺号は法楽寺。

六十番は本堂内左側にある法楽殿です。

ご本尊(五十九番)阿弥陀如来
ご本尊(六十番)善光寺如来 薬師如来
ご詠歌 みひかりや 西浦さとに かがやきて 朝な夕なに 法楽の声

★癌封じ寺の無量寿寺

五十九・六十番から名鉄西浦駅を越えて北に約二百メートル進むと、六十一番、西浦山無量寺。真言宗醍醐派のお寺です。

九五一年開創の古刹。西浦不動、癌封じ寺の名で知られるお寺です。

境内に中国の敦煌・洛陽や蘭洲の石窟寺院をモデルにした珍しい「千仏洞めぐり」があります。

この洞窟めぐりは、ほの暗い通路の壁面に千体の石仏を配置し、洞窟の奥にはガンダーラの仏や大きな大日如来座像が安置されています。

天然記念物に指定されているお大師様お手植えの大楠の横には、朱塗りの癌封じ堂があり、平癒祈願の絵馬がたくさん奉納されています。

参道には身代わり滝不動。また日本大雁塔は玄奘三蔵ゆかりの中国西安の大雁塔を三分の一に復元。高さ二十メートルです。

松山孝昌住職は現在の三河新四国の復興発願者です。

六十二番は境内西側にある観音堂。

ご本尊(六十一番)不動明王
ご本尊(六十二番)聖観世音
ご詠歌 厄除けと ガン病封じの ぐわんなれば 不動たのもし 西浦の里

★三河の小京都、西尾へ

二〇一一年に旧幡豆町、旧一色町、旧吉良町を合併した西尾市は抹茶の産地、三河の小京都として知られています。

平安時代には吉良荘が置かれ、その後は足利氏、吉良氏、今川氏、松平氏などの武士勢力が攻防を繰り広げた要衝です。

来年一月は西尾市に入ります。それでは皆さん、良い年をお迎えください。


第221話 三河新四国 (五十一〜五十六番)

皆さん、こんにちは。冬も近くなり、寒い日が増えました。今年はインフルエンザとコロナの両方に気をつけなくてはなりません。くれぐれもご自愛ください。今年のかわら版は三河新四国八十八ヶ所霊場についてお伝えしています。さて、今月は蒲郡市西部の形原温泉に向かいます。

★人形供養

四十九・五十番から蒲郡駅北側の市街地を北西に約二キロメートル進むと、五十一番、松全山薬證寺。真言宗醍醐派のお寺です。

蒲郡の基盤を築いた藤原俊成がここに国家鎮護道場をつくったのが起源。当初の寺号は安養寺だったそうです。

寺号が変わったのは一七五一年。当地の上ノ郷城の城主が病を患い、当寺に病気快癒の祈祷を依頼。十七日間続いた祈祷の結果、城主は無事快癒。以来、寺号が薬證寺に改められました。

人形供養でも知られており、毎年三月四日には人形供養祭りが行われます。

五十二番は本堂右側にある大師堂です。

ご本尊(五十一番) 不動明王
ご本尊(五十二番) 秋葉三尺坊大権現 ご詠歌 大聖の 諸病を癒す 願なれば 薬を證す 寺に祈れよ

★形原温泉

五十一・五十二番から徐々に蒲郡駅周辺市街地を離れ西進。やがて国道二四七号線を西浦半島に向かって南下。名鉄蒲郡線を越えて大坪を左折すると形原温泉に入ります。

五十一・五十二番から約七キロメートル進むと五十三番、海性山真如寺。浄土宗西山深草派のお寺です。

形原温泉は、天正年間(十六世紀後半)に補陀寺の祖丘禅師が夢のお告げによって湯を掘り当てたと伝わります。その後涸渇したものの、一九四五年の三河地震の影響で再び湧出しました。

温泉旅館が増えたために再度枯渇したものの、一九九八年、海岸から内陸に一・五キロメートルの原山の地下で湯脈が発見され、今日に至っています。

当寺の前身は佐久島の西にあった寺島という小さな島にあった草庵。寺島は波に削られ、今はほとんど見えないそうです。

一四六七年に幡豆郡山口郷に移転。火災に遭ってさらに移転して当地に落ち着きました。

九代住職聴覚上人の時に当地の有力者、松平庄右エ門が諸堂を寄進。末寺、檀家の多い三河の大伽藍になったそうです。

夏に訪ねた際には、境内に数えきれないほど多くの美しい風鈴が飾られていました。お盆の行事だったのでしょうか。

五十四番は本堂南側にある観音堂です。

ご本尊(五十三番) 阿弥陀如来
ご本尊(五十四番) 子安観世音菩薩
ご詠歌 ご霊場 めぐりかさねて 形原寺 真如の光 いとどさやけき

★眼病除け

五十三・五十四番から集落の中を抜けて約百メートル南に進むと、五十五番、行基山実相院。浄土宗西山深草派のお寺です。

遠くに形原の海が見下せる小高い丘の上にあります。

天平年間(八世紀半ば)に諸国行脚した行基が巡錫、逗留。仏法有縁の地と感得して当地に小堂を建て、小高い丘は行基山と呼ばれるようになったそうです。

時代は下って一五一〇年、形原城主松平光重の四男実長が、五十三番札所の真如寺二世誉月和尚の下で得度。

名を暁誉と改め、行基山に当寺を建立。当初は長福寺と言われたそうです。

形原城は江戸時代初期に当地に形原藩が置かれた時の居城。浜の名にちなんで稲生城、あるいは海に囲まれていたことから海岩城とも呼ばれたそうです。今川氏、松平氏の興亡に翻弄されたお城でした。

五十六番は本堂西側にある行基殿。一九三三年、ご本尊の日限地蔵に願掛けした村人の眼病が平癒。その御礼の額が奉納されています。

ご本尊(五十五番) 阿弥陀如来
ご本尊(五十六番) 日限地蔵大菩薩
ご詠歌 石段を 登るえにしの行基山 大師をおがむ 心なりけり

★癌封じの無量寺

五十五番・五十六番から海の方に向かって西進。形原城と縁の深い利生院を経て、来月は西浦温泉に向かいます。三河新四国の発願寺でもある癌封じ寺で知られる無量寺に向かいます。乞ご期待。

(2020年11月)


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大塚耕平

  • 2002年から「弘法さんかわら版」を書き続けています。仏教に親しみ、仏教から学び、仏教を探訪しています。より良い社会を目指すうえで仏教の教えは大切です。「弘法さんかわら版」は覚王山日泰寺(名古屋市千種区)と弘法山遍照院(知立市)の弘法さんの縁日にお配りしています。縁日はお大師様の月命日に立ちます。覚王山は新暦の21日、知立は旧暦の21日です。
  • 著書に「お大師様の生涯と覚王山」(大法輪閣)、「仏教通史」(大法輪閣)など。全国先達会、東日本先達会、愛知県先達会、四国八十八ヶ所霊場開創1200年記念イベント(室戸市)、中日文化センターなどで講演をさせていただいています。毎年12月23日には覚王山で「弘法さんを語る会」を開催。ご要望があれば、全国どこでも喜んでお伺いします。
  • 1959年愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒、同大学院博士課程修了(学術博士、専門はマクロ経済学)。日本銀行を経て、2001年から参議院議員。元内閣府副大臣、元厚生労働副大臣。現在、早稲田大学総合研究機構客員教授(2006年~)、藤田医科大学医学部客員教授(2016年~)を兼務しています。元中央大学大学院公共政策研究科客員教授(2005年~17年)。