弘法さんブログ

第245話 「尾張名古屋・歴史街道を行く」清洲城と名古屋城

 十一月です。寒くなりました。くれぐれもご自愛ください。 「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺・城郭・尾張藩幕末史―」をお送している今年からのかわら版。今月は清洲城と名古屋城です。

★清須会議と小牧長久手の戦い

 尾張と聞けば、信長、秀吉、家康の三英傑を思い浮かべます。しかし、桶狭間の戦い以前と同様に、本能寺の変、関ケ原の戦い以後の尾張国の史実も意外に知られていません。

 一五八二年、本能寺の変で信長と嫡男信忠を討った明智光秀は、山崎の戦いで秀吉に敗れました。

 その後の織田家の体制を決めるために清洲城に重臣たちが集まります。世に言う清洲会議です。

 清洲会議の経過と結論には諸説ありますが、信長の次男信雄と三男信孝が対立する中、柴田勝家は信孝を、秀吉は信忠の嫡男三法師を後継者に推挙し、結局、三法師が家督を相続することで合意。

しかし、まもなく秀吉が信孝と勝家の謀反を理由に合意を反故にして信雄を主君として擁立。秀吉は賤ヶ岳の戦い、北ノ庄城の戦いで信孝、勝家を滅ぼしました。

 戦後、信雄が安土城に入って信長後継を宣言しようとしたところ、今度は信雄と秀吉が対立。信雄は隣国三河の家康と同盟を結びます。

 一五八四年、秀吉と家康は小牧長久手の戦いで交戦。秀吉は苦戦。結局、秀吉は計略を図って信雄と単独和睦し、大義名分を失った家康は撤兵します。

 以後の尾張国は信雄に統治されました。

★福島正則→松平忠吉→徳川義直 信雄本拠の長島城が天正地震で倒壊したため、一五八六年、清洲城を大規模改修して居城としました。

 その後、信雄は北条氏滅亡後の関東転封を拒んだため、一五九〇年、秀吉に改易され、尾張国は福島正則ら豊臣家武将に分割支配されます。

 秀吉没後の一六〇〇年、関ヶ原の戦いが勃発。東軍は清洲城を集結地点として関東から西進。西軍石田三成が敗れました。

 戦後、戦功をあげた清洲城主福島正則は安芸広島に加増転封されました。

 一六〇三年に徳川幕府が誕生し、江戸時代が始まります。

 福島正則の後に清洲城に入封されたのは家康の四男松平忠吉。当時は清洲藩と称し、尾張国全域と美濃国の一部を領地とする五十二万石でした。一六〇六年、家康直轄領であった知多郡も忠吉に与えられましたが、翌一六〇七年、関ケ原の戦いの戦傷がもとで忠吉は二十八歳で早逝します。

その後、忠吉の弟で家康九男の甲斐甲府藩主徳川義直が清洲藩を継承しました。

★清須越しと名古屋城

 幕府は大坂の豊臣秀頼及び豊臣恩顧の西国大名の反攻に備える必要がありました。

 当初家康は清洲城を対豊臣の拠点にしようとしましたが、清洲は庄内川水系の下流域にあって水害が多いこと、水攻めされる危険があること、一五八五年の天正地震で清洲城及び城下町が液状化したこと、当時の清洲城主織田信雄が大規模改修を行ったものの液状化被害の解決に至らなかったこと、城郭が小規模で大量の兵を駐屯させられないこと等々の弱点を懸念しました。

 一六〇九年、家康は廃城となっていた那古野城址、つまり名古屋台地(熱田台地北部)の北西端に名古屋城築城を決断。

翌一六一〇年、西国大名を中心とした天下普請を命じ、天守台石垣は加藤清正が普請奉行となりました。

 清洲城及び清洲城下町の移転も命じ、清洲城の資材は名古屋城築城に再利用され、清洲城下町は武家屋敷のみならず社寺仏閣、町屋に至るまで丸ごと移転。清洲越しです。

 長く尾張国支配の要だった清洲城と清洲城下町は破却され、名古屋城と名古屋城下町が尾張の中心となります。

 名古屋城を北端に、南北の本町通、東西の伝馬町筋を主軸にして、碁盤割の城下町が造られました。

 碁盤割の範囲は、北は名古屋城に隣接する京町筋、南は大江町筋、西は御園町通、東は久屋町通の範囲です。御園町通の西側には堀川が開削されました。

 家臣のみならず、清洲城下の町屋約二七〇〇戸のほとんどが移転し、三社一一〇寺、清洲城小天守も名古屋に移りました。

 その際、清洲にあった町名も名古屋に移し、町人は原則として移転時に住んでいた町に住むこととされます。

 名古屋移転に伴い、清洲藩は尾張藩と改められます。家格も徳川御三家筆頭という将軍家に次ぐ立場に置かれ、城下町である名古屋は江戸時代中頃には三都に次ぐ大都市となります。

 一六一四年の大坂冬の陣、翌一六一五年の大坂夏の陣で豊臣氏は滅亡。豊臣方の侵攻に備えた名古屋城と名古屋城下町は家康の想定した機能を果たすことなく、太平の時代に入ります。

★尾張藩通史

 そして二六〇年後、尾張藩及び名古屋城、名古屋城下町が幕末の命運を握る局面を迎えます。来月は尾張藩通史をお送りします。乞ご期待。

(2022年11月)


第244話 「尾張名古屋・歴史街道を行く」桶狭間の戦、三城五砦史

早いもので十月。今年もあと三ヶ月弱となりました。朝晩は冷え込みます。くれぐれもご自愛ください。

「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺・城郭・尾張藩幕末史―」をお送している今年からのかわら版。今月は桶狭間の戦、三城五砦史です。

★今川義元、最後の夜を過ごした沓掛城 沓掛城は鎌倉街道沿いの要衝にあり、十四世紀に築城されました。

 戦国時代の城主近藤景春は松平広忠(家康父)の家臣でしたが、尾張国織田信秀(信長父)が三河へ進出するようになると近隣土豪とともに信秀に帰順。しかし、一五五一年に信秀が亡くなると、鳴海城主山口教継とともに今川義元の傘下に入ります。

 一五六〇年、二万五千の大軍を率いた今川義元は沓掛城に入りました。五月十八日、義元は松平元康(家康)に大高城への兵糧入れを指示し、翌十九日朝、沓掛城を出発。義元は大高道を通って桶狭間に入り、そこで信長の奇襲を受けて討死します。

 代わって城主になったのは桶狭間の戦で勲功一番と称され、沓掛三千貫文を与えられた簗田政綱。その後は織田信照、川口宗勝が城主を務めました。

 一六〇〇年、関ヶ原の戦いで宗勝は西軍に参陣。敗戦後に捕えられ、沓掛城は廃城となりました。

★松平元康兵糧入れの大高城 大高城は、桶狭間の戦の前夜、松平元康が兵糧入れを行ったことで知られる城です。

 築城は土岐氏が尾張守護であった南北朝時代以前。天文年間(一五三二〜五五年)には織田信秀支配下にあり、一五四八年、今川義元が攻めたものの落城しませんでした。

 信秀死後、息子の信長から離反した鳴海城主山口教継の調略で、大高城は沓掛城とともに今川方の手に落ちます。これに対し、信長は鳴海城と大高城の連絡路を断つため、大高城近くに丸根砦と鷲津砦を築造。

 桶狭間の戦の直前に織田勢の包囲を破って今川方の鵜殿長照が大高城に入り、五月十八日夜には松平元康が兵糧を届け、元康も城の守備につきました。

 翌十九日、義元討死の一報を聞いた元康は岡崎城に退き、大高城は再び織田配下となります。廃城となった旧城地に一六一六年、尾張藩家老の志水家が館を建てました。

★鳴海城包囲網の三砦 鳴海城は応永年間(一三九四〜一四二八年)に足利義満配下の安原宗範が築城。

 天文年間には織田信秀配下にあり、山口教継が駿河国今川義元に備えるべく城主を務めていました。しかし信秀が没すると、息子信長を見限った教継は今川氏に帰順。教継は息子教吉に鳴海城を任せます。

 一五五三年、信長は鳴海城を攻めるも落城させられませんでした。

 しかしその後、信長の計略によって今川義元に謀反を疑われた教継・教吉父子は切腹に追い込まれます。城主は今川家譜代の岡部元信に代わり、今川氏直轄の重要拠点となりました。

 これに対抗すべく、信長は一五五九年に鳴海城周囲に丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を築造。 翌年の桶狭間の戦では、今川軍は緒戦で大高城近くの丸根砦、鷲津砦を撃破。次は鳴海城を囲む三砦に狙いを定め、戦いを優位に進めていました。ところがその直後、今川義元が討ち取られて総崩れとなります。

 三砦攻撃のために待機中であった鳴海城兵は無傷であり、戦力的優位は維持されていましたが、鳴海城主岡部元信は義元の首級と引き換えに城明渡しに応じ、鳴海城は信長の手に落ちました。戦後、佐久間信盛・信栄父子が城主をつとめ、天正年間末期に廃城になります。

★桶狭間の戦、前哨戦の丸根砦、鷲津砦

 丸根砦と鷲津砦は一五五九年、信長が大高城近くに築造。相互に見通せる距離にありました。

 一五六〇年五月十九日、丸根砦には佐久間盛重、鷲津砦には織田秀敏と飯尾定宗・尚清父子を将とする織田軍が立て籠もったものの、松平元康率いる今川軍が攻撃。 報せを聞いた信長が清洲城を出陣し、熱田社に着いた頃には両砦は落城し、煙が上がっていました。

 信長は丹下砦へ入り、その後善照寺砦へ移動。義元が桶狭間で休息中と聞いた信長は、さらに中嶋砦を目指します。

 砦への道の脇は深田のため一騎ずつしか通れず、敵から丸見えであることから家老衆が制止したものの、信長は振り切って中嶋砦に進軍。

 突然の雷雨で視界が遮られたことが幸いし、中嶋砦から出撃した信長は義元本隊に突撃。義元を討ち取りました。

 桶狭間の戦後、信長と家康が同盟関係になったために丸根砦と鷲津砦は存在意義を失い、放棄されました。

★清須城と名古屋城

 中世から戦国時代の尾張国の中心は清洲、そして江戸時代には名古屋が中心となります。来月は清洲城と名古屋城についてお伝えします。乞ご期待。

(2022年10月)


第243話 「尾張名古屋・歴史街道を行く」織田家城郭史

早いもので九月。日中は暑くても朝晩は冷え込む日も出てきます。くれぐれもご自愛ください。 「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺・城郭・尾張藩幕末史―」をお送している今年からのかわら版。今月は織田家城郭史です。

★尾張の中心、清洲城 清洲城は一四〇五年、尾張守護の管領斯波義重によって築城されました。

 清洲は尾張国の中央部に位置し、鎌倉街道、美濃街道、伊勢街道が合流し、中山道にも繋がる交通の要衝です。

 清洲城は当初、尾張守護所下津城の別郭でした。一四七六年、守護代織田家の内紛に伴う戦で下津城が焼失。一四七八年、守護所は清洲城に移りました。

 尾張下四郡を支配する守護代清洲織田氏(大和守家)の本拠でしたが、やがてその重臣の立場から頭角を現した織田弾正忠家の当主織田信秀が居城します。

 信秀が清洲城から那古野城に拠点を移すと、守護代織田信友が入城。一五五五年、信友は信秀の嫡男信長と結んだ織田信光によって討たれ、信長が清洲城に入りました。

 一五六二年、信長と徳川家康が清洲城で同盟を締結。清洲同盟で東側への懸念がなくなったことから、一五六三年、信長は美濃国斎藤氏との戦に備えて小牧山城に移動。

 一五八二年、本能寺の変で信長が討たれると、清洲城で清洲会議が行われ、城は次男織田信雄が相続。

 豊臣秀吉による小田原征伐後、信雄は国替え命令に従わなかったために改易され、清洲城は豊臣秀次が治めた後、一五九五年に福島正則の居城となります。

 一六〇〇年の関ヶ原の戦いでは東軍の後方拠点となり、安芸に転封された福島正則に代わり、徳川家康の四男松平忠吉が入城。忠吉は早逝し、一六〇七年、代わって家康九男の徳川義直が入城。

 一六〇九年、家康によって清洲から名古屋への遷府が命じられ、一六一〇年から城下町の移転開始。いわゆる清洲越しです。清洲城は解体され、名古屋城築城の資材として利用されました。名古屋城御深井丸西北隅櫓は清洲城天守の資材を転用して作られたため、清洲櫓と呼ばれました。

 名古屋城完成と清洲越しの完了に伴い、清洲城の歴史は終わりました。

★東方への備え、古渡城・末森城・守山城

 古渡城は一五三四年に織田信秀が築いた平城です。東南方面の敵対勢力である今川氏や松平氏に備えるためです。

 当時、信秀は今川氏豊から奪った那古野城に居城していましたが、古渡城に移った後は那古野城を嫡男信長に譲りました。

 一五四八年、美濃に侵攻した信秀の留守を狙い、清洲の守護代織田信友が古渡城を攻撃。落城は免れたものの、城下町は焼失。

 同年、信秀は末森城を築いて移ったため、古渡城はわずか十四年で廃城となります。

 末森城は一五四八年、東山丘陵の端に織田信秀が築城。縁起を担いで末盛城とも書かれました。末森城も今川氏や松平氏の侵攻に備えた城であり、実弟織田信光の守山城と合わせて東方防御線を構成しました。

 標高約四十メートルの丘に建つ平山城です。地形を利用して斜面の中腹に幅広の空堀を備え、内堀北の虎口には三日月堀と称される半月形の丸馬出がありました。

 一五五二年、信秀が亡くなると末森城は次男信行が継ぎます。

 一五五六年、信行は林秀貞、柴田勝家などとともに信長と敵対。しかし、稲生の戦いで信長に敗れ、末森城に籠城。信長は末森城下を焼き討ち。城内にいた母土田御前の願いで信行は許され、末森城は陥落を免れます。

 一五五八年、信行が再び謀反を企てたものの、柴田勝家が信長に内通。清洲城に呼び出された信行は謀殺されました。

 末森城は廃城となりましたが、一五八四年の小牧長久手の戦いに際し、織田信雄が拠点として末森城を使います。信雄は馬出や総構えの構造を造りました。

 城の西北山麓にあった信秀の霊廟は城の東南の桃巌寺に移され、信行とともに供養されています。

★名古屋城の前身、柳ノ丸と那古野城

 那古野城は今川氏親が尾張東部まで勢力を拡大した時期に名古屋台地(熱田台地北部)の西北端に築いた柳ノ丸を起源とします。庶流の那古野氏が居城としました。

 一五三二年、織田信秀が計略により今川氏豊を追放して柳ノ丸を奪い、この時に信秀が那古野城と命名しました。

 その後、信秀は那古野城を幼い信長に譲り、自身は同じ台地の東南を固めるために古渡城を築いて移りました。

 一五五五年、信秀の後を継いでいた信長は一族の織田信友を滅ぼして清洲城に移り、那古野城は叔父信光、重臣林秀貞らが護りましたが、やがて廃城となります。

 廃城後の城址周辺は鷹狩に使われるような荒野になっていましたが、五十四年後の一六〇九年、徳川家康が旧城地に名古屋城築城を命じました。那古野城の旧城地は名古屋城二之丸に当たります。 ★桶狭間の戦い、三城五砦史

 信長の名前は桶狭間の戦いで一躍全国に知られることになります。来月は桶狭間の戦いを巡る三城五砦史をお送りします。乞ご期待。

(2022年9月)


第242話 「尾張名古屋・歴史街道を行く」大和守家と伊勢守家

立秋を過ぎましたが、まだまだ暑い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。 「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺・城郭・尾張藩幕末史―」をお送している今年からのかわら版。今月は大和守家と伊勢守家についてです。

★尾張守護代織田氏の台頭

 尾張では守護の斯波氏を抑えて守護代織田氏が台頭します。さらに守護代分家に過ぎなかった織田信長が尾張を制します。

 尾張の戦国史は複雑です。信長台頭までを辿ります。

 一四六七(応仁元)年、応仁の乱が勃発。尾張、越前、遠江の三国守護斯波義廉は西軍、家督争いで対立する斯波義敏は東軍となりました。

 一四七五年、東軍の駿河守護今川氏が遠江に侵攻。尾張にいた東軍義敏の子義寛がこれを撃破。同じ東軍であっても領国侵犯は許しませんでした。

 越前では西軍から東軍に寝返った朝倉孝景が越前守護を自称して西軍を一掃。一四八一年、朝倉氏は同じ東軍であり主君でもあった義敏の勢力も駆逐。両軍相乱れて敵味方が判別できない状態でした。

 尾張国は守護代織田敏広(伊勢守家)が西軍であり、西軍優勢の地域でした。この頃、尾張守護所は下津城(中島郡)から清洲城(春日井郡)に移されます。

★幕府裁定で上下四郡分割統治

 斯波義廉は八代将軍足利義政の不興を買って管領職、三国守護職、斯波氏家督の全てを剥奪され、西軍優勢の尾張へ落ち延び、敏広とともに巻き返しを図ります。

 しかし、応仁の乱終結後の一四七八年、東軍であった尾張又守護代織田敏定(大和守家)が九代将軍足利義尚から正式な尾張守護代と認められると、義廉と敏広は討伐対象となって清洲城を追われます。

 織田敏広は岳父である美濃国守護代斎藤妙椿(旧西軍)の支援を得て、清洲城を包囲。 一四七九年、幕府仲裁により敏広と妙椿は清洲城の包囲を解き、尾張上四郡(丹羽郡、葉栗郡、中島郡、春日井郡)を伊勢守家(岩倉織田氏)、尾張下四郡(愛知郡、知多郡、海東郡、海西郡)を大和守家(清洲織田氏)が治めることで和睦しました。

 一四八一年、伊勢守家と大和守家が再び争い、勝利した伊勢守家を継いだ織田寛広は斯波義寛に帰順し、一四八三年、都から尾張に下向した義寛が清洲城に入城。これにより尾張は一時的な安定期を迎えます。

 一四九四年、美濃国守護土岐氏の家督争いが起きると、守護代斎藤妙純と重臣石丸利光が対立。隣国の争いに際し、織田寛広(伊勢守家)は斎藤方、織田敏定(大和守家)は石丸方に付き、尾張国内は乱れます。合戦終結の翌年、斎藤妙純が近江で戦死。後ろ盾を失った伊勢守家の勢力は衰えました。

 この間、斯波氏の領国であった遠江には駿河国守護今川氏親が侵攻。斯波義寛を継いだ義達は遠江遠征を繰り返したものの、織田氏は従軍せず。遠征を巡って斯波氏と織田氏に意見の対立があったようです。

 一五一三年、下四郡守護代織田達定が守護斯波義達に反旗を翻したものの、義達によって返り討ちにされます。

 守護代の下剋上を阻止した義達は遠江遠征を続けたものの、一五一五年、敗北して今川方の捕虜となり、尾張へ送還されて失脚。わずか三歳の斯波義統が当主となり、斯波氏の実権は失われました。

★織田信長による尾張統一

 この混乱期に台頭したのが清洲織田氏(大和守家)三奉行家のひとつである織田弾正忠家の織田良信・信定親子です。津島湊に居館を構えて水上交易を押さえ、海西郡や中島郡にまで勢力を伸ばし、一五二七年、信定が子の信秀に家督を譲った頃の弾正忠家は主家を凌ぐ勢力を誇っていました。

 一五三二年、信秀は今川氏豊から那古野城を奪い、さらに勢力を拡大し、美濃国斎藤氏、三河国松平氏、駿河国今川氏との緊張を高めていきます。

 信秀没後、相続を巡って大和守家から干渉されたものの、織田信長が家督を継承。信長は守護斯波義統が下四郡守護代織田信友に討たれると、子の斯波義銀を奉じて清洲織田氏(大和守家)を滅ぼし、さらに対立する岩倉織田氏(伊勢守家)も滅ぼしました。

 その後、義銀が信長追放を企てると、逆に義銀を追放して尾張を統一しました。 織田家中の混乱に乗じて今川義元が尾張に進出すると、一五六〇年、信長は桶狭間の戦いで義元を討ち取りました。

信長は、尾張知多郡や三河碧海郡を治めていた水野信元、義元が没して今川方から離脱して岡崎に帰城した三河の松平元康、養女を嫁がせた甲斐の武田信玄と同盟を締結。信長はこうした外交戦略で東側、南側の懸念を払拭したうえで、美濃・伊勢へ勢力を広げました。

 以後、一五八二年に本能寺の変で亡くなるまでの信長の一生はよく知られています。

★織田家城郭史

 越前剣神社の神官を祖とし、斯波氏家臣から尾張守護代として台頭した織田氏。来月は尾張における織田家城郭史をお送りします。乞ご期待。

(2022年8月)


第241話「尾張名古屋・歴史街道を行く」斯波氏と織田氏

 今年は六月から猛暑でしたが、いよおいよ夏本番。くれぐれもご自愛ください。 「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺・城郭・尾張藩幕末史―」をお送している今年からのかわら版。今月は斯波氏と織田氏についてです。

★尾張国の鎌倉街道

 尾張国の古代は尾張氏が司り、中世は斯波氏が支配します。やがて織田氏が台頭し、近世は尾張徳川家が治めます。

 織田信長の生涯はよく知られていますが、中世斯波氏と信長以前の織田氏の歴史は複雑です。尾張の中世史に入ります。

 平安時代末期、熱田大宮司を務めていたのは藤原季範(すえのり)です。

 季範は父が目代として赴任した尾張国で生まれました。母は尾張氏であったため、季範は尾張氏一族として熱田神宮大宮司を務めることになります。

 この頃、都では源平の争いが激化し、その対立が全国に波及しつつありました。武士が古代東海道や東山道で東西を往来する頻度が増し、とりわけ東国武士と繋がる源氏は尾張国を頻繁に訪れていました。

 やがて源義朝が季範の娘、由良御前を娶り、ふたりの間に生まれたのが源頼朝です。

 また、季範の養女(孫娘)は足利義康(足利氏祖)に嫁ぎ、熱田大宮司家は足利氏にも血脈をつなぎました。義康から数えて八代目が室町幕府を開く足利尊氏です。

 頼朝が鎌倉幕府を開くと、鎌倉と京の往還道として、古代東海道と宮宿から東山道に向かう経路が東西交通の要路となりました。尾張国の鎌倉街道です。

★尾張守護・斯波氏

 鎌倉時代から室町時代にかけて氏姓制度に基づく朝廷支配は形骸化し、朝廷が任命する国司は力を失い、武士が各地の守護大名として台頭します。

 室町幕府の足利将軍家とつながりの深い有力氏族のひとつが斯波氏です。斯波氏は鎌倉時代に足利宗家から分家したことに始まります。氏名(うじな)は鎌倉時代に陸奥国斯波郡を所領としたことに由来します。

 十四世紀、後醍醐天皇の倒幕運動に宗家足利尊氏が与すると、当主斯波高経がこれに従いました。建武新政を始めた後醍醐天皇と尊氏が袂を分けると、高経はやはり尊氏を支えて室町幕府の有力者となります。

 その後、高経の四男義将が執事となり、高経が後見します。執事は足利宗家の家政機関として家領や従者を管理する立場を超え、幕政に参与する有力守護大名の長を意味する管領職に形を変えます。高経は管領の父として幕府の主導権を握りました。

 高経没後、義将は三代将軍義満、四代将軍義持を支え、約三十年間にわたって幕府宿老として大きな影響力を持ちました。

 斯波氏は畠山氏、細川氏とともに三管領家となり、しかも筆頭の家柄として重んじられます。

 義将の子義重は、一三九九(応永六)年の応永の乱における功により尾張守護職に、さらに後には遠江守護職に任じられ、父から継いだ本領越前を合わせた三ヶ国守護職を務めます。以後、戦国期を通して約百五十年間、尾張国は斯波氏の領国となりました。

 斯波氏は子孫が代々尾張守に叙任されたことから足利尾張家と呼ばれるようになります。

★織田氏の登場

 義重は、越前における被官である織田氏、甲斐氏、二宮氏らに尾張赴任を命じ、荘園・公領に給人として配置します。

 一四〇五(応永十二)年、義重は尾張守護所であった下津城の別郭として清洲城を築城しました。 一四二九(永享元)年、六代将軍に足利義教が就くと、強権的な政治を行う義教と宥和的な政策を目指す義重の子義淳は相容れません。一四三二(永享四)年、義淳は管領を辞職し、翌年病没しました。

 義淳を継いだ弟の義郷やその子義健も相次いで早逝し、その間に勢力を伸ばした細川氏や畠山氏に押され、斯波氏の権勢は大きく後退します。

 細川氏が畿内を制し、畠山氏も畿内周辺に領地を有していたのに対し、斯波氏の領国は都から遠い尾張・越前・遠江に分散していました。そのため、斯波氏の当主は都に住み、領国支配を守護代に任せます。

 その結果、領国の実権は次第に越前守護代朝倉氏や尾張守護代織田氏等の重臣に握られます。

 義健没後、義敏と義廉が家督を巡って争い、その際に将軍家・畠山氏の家督争いも絡み合い、一四六七(応仁元)年に応仁の乱が勃発。義廉は西軍の主力となりました。

 一方東軍に属した義敏も越前に下って一円支配を目指しましたが、越前守護代の朝倉氏に実権を奪われました。

 尾張では義敏の子孫が守護代織田氏に推戴され、斯波氏は形式的な守護として存続しました。遠江は駿河守護今川氏の支配下となり、斯波氏の越前・尾張・遠江における影響力は失われました。 ★斯波氏と織田氏

 尾張国史に斯波氏の家臣として登場した織田氏。その後、伊勢守家(清洲織田氏)と大和守家(岩倉織田氏)に分かれて勢力を争います。来月は織田家攻防史です。乞ご期待。

(2022年7月)


第240話「尾張名古屋・歴史街道を行く」国分寺と国分尼寺

梅雨の季節ですが、既に三十度を超えた日もあります。天候不順です。くれぐれもご自愛ください。 「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺・城郭・尾張藩幕末史―」をお送している今年からのかわら版。今月は国分寺と国分尼寺についてです。

★氏族仏教から国家仏教へ

 日本への仏教公伝は五三八年です(五五二年説もあります)。当初は氏族仏教でしたが、六四五(大化二)年の仏教興隆の詔を機に朝廷が認める国家仏教に転じていきます。

 四十五代聖武天皇の頃、平城京で疫病が蔓延し、民衆には不安が広がりました。 これを払拭すべく、七四一(天平十三)年、聖武天皇は各地の国府に国分寺・国分尼寺建立の詔を発します。

★国分寺

 続日本紀には、尾張国の国府の場所は鵜沼川(木曽川)下流と記されています。

 尾張国分寺は矢合町(やわせちょう)椎ノ木辺りと考えられます。三宅川左岸の北東方向、自然堤防上に国府推定地(尾張大国霊神社付近)があります。他の国府と国分寺の位置関係に比べるとかなり遠くに建立された印象です。国府域が広かったとも言えます。

 矢合の畑の中に国分寺址の石碑があり、寺域は大規模で、金堂・講堂・塔の遺構が確認されています。金堂・講堂・南大門が南北一直線に並び、金堂左右に回廊があり、その東に塔が配置されていました。

 日本紀略には、八八四(元慶八)年に尾張国分寺が焼失し、国分寺を愛智郡の願興寺に移したと記されています。願興寺は十世紀には衰退して廃寺に至ります。

 その後の変遷は不詳ですが、創建時の遺構北方において、円興寺から改称した国分寺が法燈を伝承しています。創建期の国分寺跡の北に位置します。円興寺と願興寺の関係は不詳です。

 円興寺は十四世紀の創建で、開基は大照和尚、覚山和尚、柏庵宗意と諸説あります。 木造釈迦如来坐像が大小二体あり、いずれも宝髻を結い、宝冠をいただくので、宝冠釈迦像と呼ばれます。寺の南に熱田神宮の神領である鈴置郷があったため、檜材寄木造りの熱田大宮司夫妻坐像も伝わります。

 円興寺はかつて北方の一本松の地にありましたが、十七世紀初頭に矢合城址の現在地に移り、その際に旧国分寺の釈迦堂(国分寺堂)が椎ノ木から境内に移されました。 旧国分寺の本尊とされる薬師如来像も安置され、のちに円興寺の本尊となりました。そうした経緯から、旧国分寺の継承寺院となりました。

 江戸時代の尾張名所図会では、近隣の円光寺(萩寺)とともに「両円こう寺」として紹介されています。後に円興寺改め国分寺となります。

★四楽寺

 いずれの国においても、国分寺の周りには徐々に寺院が増えていきます。最初は南都六宗の寺院が創建され、やがて最澄、空海が平安仏教の礎を築くと、天台宗、真言宗の寺院が建立されていきます。

 尾張国は奈良や京都、比叡山、高野山に近いことが影響し、南都六宗、天台宗、真言宗の寺院が他国よりも早く、かつ多数建立され、全国で最も寺院数が多い地域となっていきます。

 旧国分寺の東西南北には四楽寺と呼ばれた末寺が建立されました。北方の安楽寺、東方の平楽寺、南方の長楽寺、西方の正楽寺です。長楽寺の後継は現在の長歴寺です。

★国分尼寺

 国分尼寺が建立された場所は国分寺跡から北西に半里弱の法花寺町辺りです。

 近くにある法華寺が国分尼寺を伝承するとの説もあります。 これは、江戸時代中期の尾張藩士で国学者として知られていた天野信景が著作「塩尻」の中で「国分尼寺の名残が法花寺村の法華寺にあたる」と記して以来の説です。

 九八八(永延二)年の尾張国郡司百姓等解文、一〇〇九(寛弘六)年の大江匡房奏状において国分尼寺修造に関する記述があり、国分寺より長く十一世紀までは存続したことが確認されています。

 その後の経緯は不詳ですが、寺伝によれば永正年間(一五〇四〜二一年)に無味禅公が才赦桂林を招いて尼寺跡地に堂宇を建て、国鎮寺と号したことに始まります。織田氏の兵火に遭ったものの、残った小堂を現在地に移し、後に法華寺と改称しました。

 法華寺から西へ半里弱の位置に建仁年間(一二〇一〜〇四年)創建の善応寺があります。織田信長の鉄砲隊長であった道求一把が再興したと伝わります。この地域には尾張氏や織田氏との由来が伝わる社寺が多数あります。

 善応寺の南東一里弱の位置に長暦寺があります。上述のとおり、四楽寺のひとつ長楽寺の法燈を継承する寺院です。 ★斯波氏と織田氏

 国府、国分寺、国分尼寺と揃った尾張国。都にも近く、豊かな尾張国の守護として斯波氏が任命されます。来月は斯波氏と織田氏についてです。乞ご期待。

(2022年6月)


第239話「尾張名古屋・歴史街道を行く」尾張国府

 新緑が映える季節になりましたが、寒暖の差が激しい日もあります。ご自愛ください。 「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺・城郭・尾張藩幕末史―」をお送している今年のからのかわら版。今月は尾張国府についてです。

★尾張国府と駅路

 尾張氏が治めた尾張国にも律令制の下で国府が置かれます。国府は各地の中心地域に設けられ、国府間は道で結ばれます。

 七世紀頃の文献や木簡には尾張国と尾治国の二つの表記が見られます。いずれも「尾張氏が治めた国」という意味です。

 尾張氏は尾張国造を務めました。国造は「くにのみやつこ」または「こくぞう」と読み、地方を治める官職を指します。

 各地の国造は土着の豪族が務め、尾張国においては尾張氏です。

 六四五(大化元)年の大化改新から七〇一(大宝元)年の大宝律令の間に、古代国は徐々に整理されて令制国(りょうせいこく)に置き換わります。

 令制国とは律令制に基づいて設置された地方の行政単位です。律令国とも言い、中央から国司が任命または派遣されました。

 令制国の政府機関は国衙(こくが)または国庁(こくちょう)であり、国衙の所在する地域を国府(こくふ、こう)または府中と呼びます。尾張国の国府は稲沢です。

国府には国庁のほか、国分寺・国分尼寺、総社(惣社)が設置され、令制国における政治・司法・軍事とともに宗教の中心地となりました。

 国分寺・国分尼寺の建立は七四一(天平十三)年、聖武天皇による国分寺建立詔に端を発します。

 都と令制国の国府の間には駅路(七道駅路)が造られ、川や海に隣接する国府には、国府津と呼ばれる湊も設けられました。

 この時代の伊勢湾の海岸線は稲沢に近い位置にあり、周辺には木曽川や日光川が流れていたことから、尾張国府の国府津の役割を担ったのが津島です。

 国府には国司のほか、役人や国博士、国医師などが配置され、小国で数十人、大国では数百人規模だったと推定されます。周辺に集まる農民や商人も含めると千人を超える町となり、畿内以西の大国や大宰府では数千人に達していました。

★松下と下津

 肥沃な尾張国は農業生産力が高く、古代から須恵器なども作られ、畿内に近いこともあって、朝廷を支える律令国として成長します。

 尾張国府の具体的な場所については、地名を根拠に次の二ヶ所が比定されています。 ひとつは稲沢の松下。この地域には「国衙」という小字があります。推定地域は三宅川の自然堤防上であり、真北を基線として国府が形成されたと考えられます。近くに尾張大国霊神社が総社として鎮座していたことも有力な根拠です。

 もうひとつは稲沢の下津。この地域には「国府」と名の付く小字があり、相次ぐ洪水が原因で松下から下津に国府が移ったとする説もあります。下津は宿場町として発展し、室町期には守護所も置かれました。その基盤が国府時代に形成されたと考えられます。

 倭・百済連合軍と唐・新羅連合軍が戦った白村江の戦い(六六三年)以降、大陸や朝鮮半島からの侵攻に備え、朝廷は九州に防人を配置します。尾張国は防人に任じられた東国人が西国に向かう際の往還路となり、往来が増え、街道や宿場町の原形が生まれます。

★尾張八郡

 七〇一(大宝四)年に朝廷は初めて「日本」という国号を使いました。その後、地方は国・郡・里の三段階に区分されます。七〇四年には全国の国印が鋳造され「尾張国」という表記が定着します。

 律令体制下においても国造は存続し、律令国造と呼ばれます。しかし支配の実権は国司に移り、国造は祭祀を司る世襲制の名誉職として、国造の後裔である郡司が兼任しました。九世紀に編纂された国造本紀には、全国百三十五の国造の設置時期と被官者の記録があります。

 九二七(延長五)年の延喜式によれば、尾張国は海部・中嶋・葉栗・丹羽・春部・山田・愛智・知多の八郡とされています。

 鎌倉時代にも依然として国府と国司は存在しましたが、南北朝時代の混乱で国司の実権は失われ、守護の力が増大します。

 室町時代に入ると守護による領国支配が進み、軍事警察権のみならず行政権も手にした守護を守護大名と呼ぶようになります。国司は名目だけの官職となり、守護大名や守護代、有力な国人などから勃興した戦国大名が領国支配の正当性を主張するようになります。国府は徐々に忘れ去られた存在になっていきました。

この時期に尾張国を治めたのが三管領のひとつ斯波氏であり、後に斯波氏の臣下から織田氏が台頭します。

★国分寺と国分尼寺

 尾張国府が置かれた稲沢には、国分寺と国分尼寺も創建されました。来月は稲沢の国分寺、国分尼寺についてです。乞ご期待。

(2022年5月)


第238話「尾張名古屋・歴史街道を行く」尾張多々見と尾張大隅

 ゴールデンウィークが待ち遠しい季節になりましたが、寒暖の差が激しい日もあります。ご自愛ください。 「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺・城郭・尾張藩幕末史―」をお送している今年のかわら版。今月は尾張多々見と尾張大隅です。

★尾張多々見と尾張大隅

 三〜四世紀頃の尾張氏の支配領域は、尾張北東部から東部の丘陵地域であったようです。五〜六世紀頃になると、西部、南部を含めた尾張全域に勢力を拡大します。

 飛鳥時代の七世紀初め頃、尾張多々見(美)が年魚市(あゆち)の評監に任じられました。評とは行政組織の呼称です。

 評が設置され、評監がいたということは、年魚市と呼ばれる地域が朝廷による管理と徴税が行われた豊かな場所であったことの証です。尾張氏は年魚市も支配地に組み込み、さらに知多半島にも勢力を伸ばします。

 年魚市は「吾湯市」「愛智」とも書き、「愛知」のもととなった入江の地名を表します。尾張南部の台地群の先に形成された干潟地帯です。

 台地群の先端には熱田がありました。それより南が干潟であり、干潟の中には松巨島(まつこしま)と呼ばれる島が形成されました。笠寺台地であり、その周辺一帯が年魚市です。

 「あゆち」の「あゆ」は「湧き出る」の意味があり、湧水が豊富なことが地名の由来と考えられます。旅支度をする場所という意味の「足結(あゆ)道(ち)」から派生したとする説もあります。「あゆ」という音が先で、やがて「吾湯」「年魚」と転じ、当て字として「鮎」と書かれたようです。

 尾張多々見の息子である尾張大隅は、六七二年の壬申の乱の際、大海人皇子(のちの天武天皇)に助力しました。

 続日本紀によれば、大海人皇子が吉野宮を脱して鈴鹿関の東、つまりおそらくは尾張に入った際、尾治大隅が館と軍資金を提供しました。

 その功により、六八四年、尾張氏に宿禰(すくね)の姓(かばね)が与えられ、六九六年には尾張宿禰大隅に直広肆の位と水田四十町、七一六(霊亀二)年にも大隅の子尾張稲置も父の功によって田を授かったと記されています。

★氏姓(うじかばね)制度

 ここで氏姓制度について整理しておきます。尾張氏の姓は当初は連(むらじ)でしたが、上述のように宿禰を授けられました。

 氏姓制度は大和王権の身分や職位を表します。氏も姓も現代では名字の意味で理解されていますが、大和王権の氏姓は異なります。

 古代において、中央貴族、地方豪族が、血統や大和王権に対する貢献度に応じて朝廷より氏と姓を授与され、その特権的地位を表した制度です。氏は血族の名称である一方、姓は大王から与えられた称号です。氏姓は世襲していきます。

 氏は巨勢、蘇我、葛城など地名に由来するものと、物部、大友、土師など職能に由来するものに分かれます。尾張は畿内の地名に由来しますが、尾張氏が東海に移り住んだことで尾張の地名になりました。

 氏を持つ豪族は田荘(たそう)つまり土地を所有し、耕作民である部曲(かきべ)や奴婢(やつこ)を有していました。

 姓は、大王家に近い立場にある臣(おみ)、大王家に仕える立場にある連(むらじ)、その下で各部司を管轄する伴造(とものみやつこ)、さらにその下になる百八十部(ももあまりやそのとも)、地方豪族を指す国造(くにのみやつこ)、より狭い地理的範囲での族長である県主(あがたぬし)など、重層的かつ多岐多様にわたります。また、時代とともに変遷しました。

★八色(やくさ)の姓

 古代氏姓制度は、六八四年に八色の姓が制定されたことで体系化されます。その目的は上位の四姓、つまり真人、朝臣、宿禰、忌寸の一族を定めることであり、この時に尾張氏に宿禰が授けられました。

 大王家に近い一族に、最高位の姓である真人(まひと)を与えました。二十六代継体天皇から数えて五世以内の皇親氏族が対象です。

 その次は朝臣(あそん)であり、大伴、物部、石上、中臣などの畿内大豪族に授けられました。第三位が宿禰(すくね)、第四位が忌寸(いみき)です。以下、道師(みちのし)、臣、連、稲置の八種類の姓です。

 連姓だった尾張大隅に宿禰が授けられたことで、尾張氏の大和王権における立場はより強くなりました。

 九世紀の摂関政治時代に入ると、藤原朝臣が勢力を増しました。また、諸皇子に氏姓を授ける臣籍降下が盛んに行われ、桓武天皇から平朝臣、清和天皇から源朝臣が誕生しました。

 多くの氏族が朝臣姓を欲したため、朝臣姓を名乗る豪族や武士が増えました。

 尾張氏も藤原氏から養子を迎えたり、藤原氏の娘を娶って、藤原朝臣を名乗るようになります。

 つまり、天孫族の尾張氏は連、宿禰と変遷し、さらに藤原朝臣を名乗っていました。

★尾張国府

 このように大王家を頂点とする朝廷と地方の関係が氏姓制度をもとに確立してくると、各地方に国府が置かれるようになります。尾張国府は今の稲沢に置かれました。

 来月は尾張国府についてです。乞ご期待。

(2022年4月)


第237話「尾張名古屋・歴史街道を行く」尾張氏と日本武尊の歴史

いよいよ春本番。とは言えまだまだ朝晩は寒い日があります。ご自愛ください。 「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺・城郭・尾張藩幕末史―」をお送している今年のからのかわら版。今月は尾張氏と日本武尊の歴史です。

★天孫族の尾張氏

尾張名古屋と聞くと熱田神宮が思い浮かびます。熱田神宮には草薙剣(くさなぎのつるぎ)が祀られていますが、その経緯は意外に知られていません。尾張の古代史を探訪しましょう。

 尾張は古代から豊穣な国でした。木曽三川の沖積低地は豊かな米の恵みを、伊勢湾は海の幸をもたらしました。

 豊かであるから人が増え、地理的に近い大和王権との関係が形成され、尾張氏(おわりうじ)が治めるようになった地域が尾張と呼ばれるようになります。

 日本書紀によると、尾張氏の祖神は天火明命(あめのほあかりのみこと)です。天忍人命(あめのおしひとのみこと)から始まるとされていますが、綿津見神(わたつみのかみ)を始祖とする系図もあります。神話の神々のように思えますが、それに比定される古代尾張氏の人物が実在したはずです。

 尾張は畿内に近く、しかも豊かであったことから、尾張氏は大王家に后妃を送り出すようになります。

 例えば、尾張氏の遠祖である奥津余曾(おきつよそ)の妹、余曾多本毘売命(よそたほびめのみこと)または世襲足媛(よそたらしひめ)は五代孝昭天皇の皇后となり、その息子は六代孝安天皇となりました。十代崇神天皇は尾張大海媛(おわりのおおしあまひめ)を妃としています。

 つまり、尾張氏は天孫族です。

★日本武尊(やまとたけるのみこと)

 木曽川や庄内川の扇状地の拡大に伴って、海岸線は南下し、尾張氏の居住域も徐々に南に拡大します。松巨島(まつこしま)が形成された頃には、熱田の辺りにも尾張氏一族が住むようになります。

 国造(くにのみやつこ)とは朝廷から任命された地方の統治者です。国造本紀によれば、十三代成務天皇の時代に乎(小)止与命(小豊命、おとよのみこと)が尾張国造に任命されます。乎止与命の息子建稲種命(たけいなだのみこと)も国造に就きます。

 十二代景行天皇は息子の日本武尊に東征を命じました。日本書紀では日本武尊、古事記では倭建命(をうす)と記されています。

 日本武尊は往路伊勢神宮を参拝し、叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)から草薙剣(天叢雲剣)を授かりました。東征には尾張氏の建稲種命が副将軍として参じ、軍功を上げます。

 東征から戻った日本武尊は、副将軍建稲種命の妹宮簀媛(みやずひめ)を娶ります。宮簀媛は日本書紀の表記ですが、古事記では美夜受比売と記されます。

 その後、日本武尊は草薙剣を宮簀媛に託して伊吹山に遠征します。しかし、その途中で病になり、さらに伊勢国への遠征途上、能褒野(のぼの、亀山)で亡くなりました。

 宮簀媛は草薙剣を奉じて熱田社を建てました。これが熱田神宮の起源であり、現在も草薙剣は御神体として祀られています。大宮司家は代々尾張氏の後裔が務めました。

 建稲種命の息子尾綱根命(おつなねのみこと)は応神朝の大臣、その息子(建稲種命の孫)尾張意乎己(尾張弟彦、おわりのおとひこ)も仁徳朝の大臣として活躍。また、十五代応神天皇は建稲種命の孫の仲姫命(なかつひめのみこと)を皇后としました。

★萱津神社と内々神社

 尾張国には、萱津神社(あま)や内々神社(春日井)など、日本武尊の東征にまつわる神社が各地にあります。

 日本武尊は、東征の往路に萱津神社に参拝しました。村人が漬物を献上すると、日本武尊は「藪二神物」(やぶにこうのもの)と言って称えます。藪の中で神からの授かりもの(あるいは神への供え物)を賜ったという意味かと思われますが、以来、漬物は「香の物」とも呼ばれるようになりました。萱津神社は漬物の神様を祀る珍しい神社です。

 陸奥国を平定し、尾張国に戻ってきた日本武尊が内津峠にさしかかった時、早馬の使者がやってきます。副将軍を務めた尾張国造の建稲種命が亡くなったとの報告です。それを聞いた日本武尊は「ああ現哉々々(うつつかな)」と嘆き、その霊を祀ったのが内々神社の始まりと伝わります。

 内津峠は春日井と多治見をつなぐ峠であり、江戸時代には名古屋城下と中山道を結ぶ下街道(善光寺街道)が通りました。

 その後も尾張氏と大王家の深い関係は続きます。二十六代継体天皇が大和国入りするまでの正妃は尾張連草香(おわりのむらじくさか)の娘、目子媛(めのこひめ)です。

 子の勾大兄皇子は二十七代安閑天皇として、高田皇子は二十八代宣化天皇として即位します。三十代敏達天皇と皇后額田部皇女(三十三代推古天皇)の子には尾張皇子(おわりのみこ)がいます。 ★尾張多々見と尾張大隅

 尾張多々見の息子である尾張大隅は、露六七二年の壬申の乱の際、大海人皇子(のちの天武天皇)に助力しました。

 続日本紀によれば、大海人皇子が吉野宮を脱して鈴鹿関の東、つまりおそらくは尾張に入った際、尾治大隅が館と軍資金を提供しました。

 来月は尾張多々見と尾張大隅をご紹介します。乞ご期待。

(2022年3月)


第236話「尾張名古屋・歴史街道を行く」東海道、佐屋街道、美濃街道

春が待ち遠しい季節になりました。とは言えまだまだ寒い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。 「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺・城郭・尾張藩幕末史―」をお送している今年からのかわら版。今月は東海道、佐屋街道、美濃街道の概要をご紹介します。

★七里の渡しと佐屋街道 江戸時代、東国から都に向かう旅人は境川を渡って尾張国に入ります。鳴海潟、松巨島(まつこしま)を経て宮宿(熱田宿)に至ると、経路は三手に分かれます。

 宮宿から海路桑名宿に渡るか、あるいは北上して古渡に行き、そこから西進して佐屋街道に入り、佐屋宿から佐屋川を下って桑名宿に向かいます。

 また、陸路で都に向かう旅人は、古渡から北西に進み、美濃街道を通って萱津宿、稲葉宿を経て木曽川を渡り、中山道を目指しました。

 境川から宮宿までを歩きましょう。旅人は三河国と尾張国の国境である境川を渡ると、鳴海台地を西に進み、鳴海宿、鳴海潟を経て宮宿を目指します。

 鳴海宿から宮宿に至る道は、年魚市潟(あゆちがた)に浮かぶ松巨島の北を通る上の道、中央を抜ける中の道、南を進む下の道が代表的な三経路です。

 宮宿から桑名宿の海路は距離が七里であることから「七里の渡し」と呼ばれました。

 古代東海道は尾張国の両村(ふたむら)、新溝(にいみぞ)、馬津(まつ)の駅(うまや)を経て伊勢に入る陸路のほか、知多半島西岸から伊勢湾を横断することもあったようです。「七里の渡し」の原形です。

 近世東海道の宮宿から桑名宿の海路は波が高く、危険を伴いました。そこで海路を避けたい旅人は陸路佐屋宿まで歩きます。佐屋宿から船に乗って佐屋川を下れば、川伝いに桑名宿に到着できるので、海路より安全でした。宮宿から佐屋宿に行く陸路は佐屋街道と呼ばれます。

 佐屋街道の北には津島街道がありました。甚目寺や津島神社への参詣道でもあります。津島街道の途中には、織田信長生誕地説のひとつである勝幡城(しょばたじょう)があります。

★鎌倉街道・美濃街道・東海道

 さて、陸路だけで都を目指す旅人は、佐屋街道には向かわず、さらに北上して美濃街道に入ります。

 庄内川を渡ると萱津宿です。その北には清洲があり、五条川に沿ってさらに北上すると下津(折戸)宿です。下津界隈は稲沢であり、律令時代の国府が置かれ、国分寺、国分尼寺が造られました。

 萱津宿から先は、古代、中世においては、折戸宿、黒田宿、近世においては稲葉宿、萩原宿、起宿等を経て木曽川を渡り、美濃国に向かいます。

 一宮との境界線である青木川を越えて北上した旅人は、尾張一宮である真清田神社に参拝して黒田宿に向かいます。

 黒田宿は尾張国と美濃国を隔てる木曽川の左岸にあり、古くから要衝でした。黒田宿を出ると旅人は木曽川の渡し場である玉ノ井に向かいます。

 これらの道筋は中世鎌倉街道、近世東海道の主要経路です。この経路から分岐して、中山道につながるのが岩倉街道や岐阜街道であり、戦国時代には経路上に織田信長が居城した清洲城、小牧山城、岐阜城がそびえました。要衝であった証です。

 金華山の岐阜城から濃尾平野が一望できます。在りし日の信長が、宮宿から延びる街道や街道沿いの城郭を眺めていた姿が思い浮かびます。

★名古屋城下町と名古屋五口

 都が平城京から平安京へ北に移動したことに伴い、桑名から伊勢国を経由する古代東海道よりも、鎌倉街道、美濃街道を使って近江を目指す旅人が増えました。この経路が基となって近世東海道が整備されます。

 さて、宮宿から古渡を経て北上すると、名古屋城下町です。一六一〇(慶長十五)年に徳川家康の命で造られた近世を代表する城下町です。

 南北の本町通と東西の伝馬町筋は城下町の骨格を形成します。その交差点は高札場があったことから「札の辻」と呼ばれていました。

 城と宮宿を結び、東海道につながるのが本町通です。外堀と城下町の間を東西に走る京町筋の西からは美濃街道、東からは上街道(木曾街道)、下街道(善光寺街道)につながります。

 城下町の外縁には、志水口、大曽根口、三河口(岡崎口)、熱田口、枇杷島口の「名古屋五口」があり、そこから脇街道に出ます。

 志水口から北へは上街道、大曽根口から北東には下街道、三河口から南東には飯田街道(駿河街道)、熱田口から南には常滑街道、枇杷島口から北西には美濃街道と、脇街道網が整備されていました。

 これらの街道は名古屋城下から周辺地域への接続路であり、城下町中心部、外縁部から放射状に延びていました。

★尾張氏と日本武尊(やまとたけるのみこと)

 さて、尾張国の街道の骨格をご紹介しましたが、この尾張国は古くから大王家(のちの天皇家)と関係の深い尾張氏が治めたので「尾張」と言います。

 来月は尾張氏と日本武尊の歴史をご紹介します。乞ご期待。

(2022年2月)


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大塚耕平

  • 2002年から「弘法さんかわら版」を書き続けています。仏教に親しみ、仏教から学び、仏教を探訪しています。より良い社会を目指すうえで仏教の教えは大切です。「弘法さんかわら版」は覚王山日泰寺(名古屋市千種区)と弘法山遍照院(知立市)の弘法さんの縁日にお配りしています。縁日はお大師様の月命日に立ちます。覚王山は新暦の21日、知立は旧暦の21日です。
  • 著書に「お大師様の生涯と覚王山」(大法輪閣)、「仏教通史」(大法輪閣)など。全国先達会、東日本先達会、愛知県先達会、四国八十八ヶ所霊場開創1200年記念イベント(室戸市)、中日文化センターなどで講演をさせていただいています。毎年12月23日には覚王山で「弘法さんを語る会」を開催。ご要望があれば、全国どこでも喜んでお伺いします。
  • 1959年愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒、同大学院博士課程修了(学術博士、専門はマクロ経済学)。日本銀行を経て、2001年から参議院議員。元内閣府副大臣、元厚生労働副大臣。現在、早稲田大学総合研究機構客員教授(2006年~)、藤田医科大学医学部客員教授(2016年~)を兼務しています。元中央大学大学院公共政策研究科客員教授(2005年~17年)。