弘法さんブログ

第201話 覚王山日泰寺縁起 (3) チュラロンコン国王

皆さん、こんにちは。いよいよ春本番ですが、朝晩は寒い日もあります。くれぐれもご自愛ください。実録・覚王山日泰寺縁起をお伝えしている今年のかわら版。世界的に本物と認められている仏舎利(お釈迦さまのご真骨)がなぜ日泰寺に祀られたのか。その歴史です。

★歴史的発見

ウィリアム・クラクストーン・ペッペが発掘した塚の頂上から地下八メートルのところで出土した石板。それは一枚岩をくりぬいて作った大石櫃の蓋でした。

大石櫃は縦百三十二センチ、横八十二センチ、高さ六十六センチ、蓋の重さは百八十五キロ、大石櫃全体では六百九十六キロという記録が残っています。

大石櫃の中には水晶製の壺一個、滑石製の壺四個、数百点の金銀宝玉や装身具などが収められており、壺のひとつには人骨が確認され、その蓋には紀元前四世紀頃の古代文字で何か記されていました。

この発見は本国(英国)に報告され、欧米諸国の考古学者たちに伝わりました。

まもなく、英国、フランス、オーストリアの考古学者が発見場所であるピプラーワーにやってきました。考古学者たちが人骨の入っていた壺の蓋の古代文字を解読したところ、次のような内容でした。

「これは仏陀世尊の舎利(骨)を納めるものであり、栄光ある釈迦族の人々のものである」。つまり、お釈迦さまの骨であるという記述です。

骨壺の大きさは直径十センチ、高さ十五センチでした。この歴史的発見は西洋の歴史学界や宗教学界を驚かせました。

西洋ではお釈迦さまは架空の人物と思われていましたが、この仏舎利の発見が、お釈迦さまは実在の人物であったと認識される契機となりました。

★チュラロンコン国王

ペッペは発掘遺物の全てを英国政府に引き渡しました。

英国政府は発掘遺物をロンドン大英博物館とカルカッタ博物館と発見者ペッペに分配するとともに、仏舎利は当時仏教を国教とする唯一の独立国であったシャムの王室に寄贈することとしました。

この英国政府の判断には、インドがヒンズー教中心の国であったことも影響しています。

二〇〇一年の国勢調査によれば、インドの宗教構成は、ヒンズー教八〇・五%、イスラム教一三・四%、キリスト教二・三%、シーク教一・九%、仏教〇・八%、ジャイナ教〇・四%。ピプラーワーで仏舎利が発見された頃もあまり変わりなかったようです。

発見の翌一八九九年(明治三十二年)一月、タイのチュラロンコン国王はインドへ使者を派遣。仏舎利を拝受しました。

同年二月、仏舎利は軍艦に護衛されてバンコクに到着。白い象に乗せられて街を練り歩き、王立プラケウ寺院に向かい、最高塔ワット・サケットに安置されました。ワット・サケットは十四世紀アユタヤ朝から存在し、標高八十メートルの黄金の丘の上にそびえます。

バンコクでは三十余日も続く大法要が営まれ、仏教を篤く信仰するシャム国民は祝賀ムードにわきかえったと記録されています。

チュラロンコン国王は別名ラーマ五世。一八六八年生まれですから、仏舎利を寄贈された当時は三十一歳。即位してすぐ欧米諸国を視察し、タイの近代化に努めた国王として知られており、今でも国民の人気が高いそうです。

チュラロンコン国王が行った近代化はチャクリー改革と呼ばれています。奴隷売買禁止、議会制・官僚制導入、学校教育開始、鉄道建設など、日本の明治維新と似ています。

ちなみに、チャクリーは王朝の名前。つまり、チャクリー朝ラーマ五世がチュラロンコン国王の正式名です。

★稲垣満次郎

チュラロンコン国王は拝受した仏舎利の分骨を願い出たビルマ(現在のミャンマー)、セイロン(同スリランカ)に分与。ロシアにも分与したとの記録もあります。

さて、この状況に現地で接していたひとりの日本人がいました。初代駐シャム公使、稲垣満次郎です。稲垣はチュラロンコン国王に日本への分骨を願い出ます。詳しくは来月。乞ご期待。


第200話 覚王山日泰寺縁起 (2) ウィリアム・ペッペ

皆さん、こんにちは。春が待ち遠しい季節ですが、寒い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。弘法さんかわら版は二○〇号になりました。ご愛顧ありがとうございます。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

さて、覚王山日泰寺縁起をお伝えしている今年のかわら版。世界的に本物と認められている仏舎利(お釈迦さまのご真骨)がなぜ日泰寺に祀られたのか。その歴史です。

★八大聖地

インド北部のお釈迦さま縁(ゆかり)の地は聖地となっています。

生誕地はルンビニー、覚りを開いた場所はブッダガヤー、覚りの後に初めて説法した地がサーナルート、涅槃(ねはん)に入った(亡くなった)場所のクシナガラが四大聖地。

さらに、修業で籠もった霊鷲山(りょうじゅせん)のあるラージャグリハ、お釈迦さまが模範的な都市として一目置いたヴァイシャーリー、修業場所として信者が寄進してくれた祇園精舎(寺院)の所在地シュラーヴァスティ、昇天伝説のあるサンカーシャを加えると八大聖地。

このうち生誕地のルンビニーは、お釈迦さまの出身であるシャークヤ(釈迦)国の都カピラヴァストゥの近くです。

お釈迦さまは亡くなった後に荼毘に付され、遺骨(仏舎利)はお釈迦さまに帰依していた八つの国(部族)に分けられたと伝わっています。

当然、シャークヤ国にも分骨され、仏舎利を祀った場所がカピラヴァストゥと言われています。都ですから、当然です。

ところが、カピラヴァストゥの場所は考古学的には今なお論争になっていますが、仏舎利が発見されたピプラーワーこそがカピラヴァストゥではないかと考える説が有力です。

それにしても、その仏舎利はどのような経緯で発見されたのでしょうか。

★ウィリアム・ペッペ

その頃、インドは英国の植民地。ビクトリア女王がインド女王として君臨していました。インドには多くの英国人が駐在していましたが、そのひとりがウィリアム・クラクストーン・ペッペ。植民地の地方行政官でしたが、探検家でもあったと言われています。

当時は欧米諸国で考古学が盛んになっており、研究者や探検家によって古代文明のあった地域の探検や発掘が行われていました。映画インディ・ジョーンズのような世界ですね。

英国政府も植民地政策の一環として、一八六二年に考古調査局を設置して遺跡の発掘を奨励。ペッペもその政府の方針に沿って、自分の広大な所有地(管理地)を調査していました。

一八九八年(明治三十一年)、そのペッペがネパール国境に近いピプラーワーという場所で仏舎利を発見するのです。ピプラーワーはお釈迦さまが生まれたルンビニーという場所から西南方向に約三十キロメートル。

ペッペが以前から気になっていた小高い丘。不自然な形であったため、何かの遺跡であろうと考え、一八九七年(明治三十年)春、発掘を開始します。

丘を掘り下げていくと、煉瓦(れんが)造りの墓のような遺構が現れました。表土を取り除くと、全貌は直径三十五メートル余の人造の塚であることが判明。塚の中心に向かって、多数の煉瓦が漆喰(しっくい)で幾重にも積み重ねられていました。

一八九八年(明治三十一年)一月、遺構の頂上から三メートルほど掘り下げたところで石造りの瓶を発見。瓶の中には珠玉、水晶、黄金の装飾品が納められていました。

遺構の中には円形の空間が造られており、その中は土とアショカ王時代の特色を示す煉瓦で固められていました。アショカ王はお釈迦さま没後二百年後にインドを統一。仏教を篤く敬った王です。

そこからさらに五メートル掘り下げると、大きな石板が出現。石板は棺(ひつぎ)の蓋でした。

★歴史的発見

この棺の中から、いよいよ仏舎利(お釈迦さまのご真骨)が発見されます。そしてそれは、お釈迦さまが実在の人物であったことが認識される契機となる歴史的発見となります。詳しくは来月。乞ご期待。


第199話 覚王山日泰寺縁起 (1) 日本とタイ

皆さん、あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

弘法さんかわら版はまもなく二○〇号を迎えます。節目の今年は覚王山日泰寺の縁起を中心にお伝えします。創刊時にもお伝えしていますが、リメイク版です。お付き合いのほど、よろしくお願いいたします。

★「日本」と「タイ」で日泰寺

覚王山日泰寺の縁日には、県内各地からの多くの参拝客に加え、県外や海外からの観光客も訪れます。

覚王山日泰寺の縁日は「弘法さん」と呼ばれて親しまれています。しかし、どうして「弘法さん」の縁日が立っているのでしょうか。

名古屋弁的に表現すると「そりゃあ、おみゃ〜さま、弘法さんがおるんでしょ、日泰寺の中に」と連想する方もいると思いますが、それは違います。

日泰寺本堂に祀られているご本尊は、タイ国王から寄贈された釈尊金銅仏です。

正面にはプミポン国王(ラーマ九世、一九二七〜二〇一六年)直筆の勅額が掲げられており、タイの文字で「釈迦牟尼仏」と記されています。

勅額の両側には、プミポン国王とチュラロンコン国王(ラーマ五世、一八六八〜一九一〇年)のご紋章が輝いています。

さらに、本堂の左側にはチュラロンコン国王の立像(一九八七年建立)があり、タイ国旗が掲げられています。

ここまで書くと、お気づきのことと思います。日泰寺は「日本」と「タイ」で日泰寺です。 なぜ名古屋のこの場所に、「日本」と「タイ」で日泰寺というお寺が創建されたのか。今年の弘法さんかわら版は、その歴史を改めてお伝えしていきます。

★一八九八年(明治三十一年)

お釈迦さまは今から約二五○○年前の人です。本名をゴータマ・シッダールタといい、シャークヤ(釈迦)国の王子として生まれました。

その後、修業の旅に出て覚りを開き、後世、お釈迦さまと呼ばれるようになりました。

仏教、キリスト教、イスラム教は世界三大宗教と言われますが、イエスは約二○○○年前の人、ムハンマドは約一六○○年前の人。お釈迦さまと仏教が一番古い時代です。

西洋では、イエスもムハンマドも実在の人物として扱われてきました。一方、お釈迦さまについては、つい百年ほど前まで実在の人物ではないと考えられていました。日本人やアジアの人々にとっては、意外なことですね。

ところが、今から百二十一年前の一八九八年(明治三十一年)、インド北部、ネパールとの国境付近のピプラーワーという場所でお釈迦さまの遺骨(仏舎利)が発見されました。

日本を含むアジアの仏教国では、仏舎利が伝承されています。その信憑性は高くなく、中には石英やルビーといった鉱石や、人骨ではないものが祀られている場合もあります。

ところが、ピプラーワーで発見された仏舎利は西洋の歴史学、考古学、宗教学の分野でも、本物のお釈迦様の骨(ご真骨)であると認識され、この発見を契機にお釈迦さまは実在の人物であったと考えられるようになりました。

そして、その仏舎利(ご真骨)が覚王山日泰寺に祀られているのです。「どえりゃ〜ことだがや」と思われた人も多いと思いますが、そうです、「どえりゃ〜こと」なのです。

今年の弘法さんかわら版、覚王山日泰寺が建立され、ご真骨が祀られた経緯をお伝えします。実録・覚王山日泰寺縁起です。

★八大聖地

さて、来月は仏舎利が発見されたピプラーワーがどこにあったかをお伝えします。お釈迦さまの八大聖地のひとつ、ルンビニーの近くと言われています。乞ご期待。


第198話(2018年12月)

皆さん、こんにちは。いよいよ師走。今年もあとわずかですね。寒い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。

昨年から知多四国八十八ヶ所霊場についてお伝えしてきたかわら版。先月結願しましたので、今月は総集編です。

★最多は曹洞宗

知多四国八十八ヶ所霊場の開山は亮山阿闍梨。一八〇九年に発願し、岡戸半蔵行者、武田安兵衛行者ともに、十五年後の一八二四年に大願成就しました。

本四国の霊場と異なり、必ずしもお大師様縁のお寺ばかりではない中、亮山阿闍梨は知多半島全域のお寺に協力と参加をお願いして回ったそうです。

その結果、八十八ヶ所霊場の宗派構成は本四国とはずいぶん異なります。

本四国では八十八ヶ所のうち八十ヶ所が真言宗のお寺です(派は複数に分かれています)。

一方、知多四国で最も多いのは、もともと愛知県で勢力が強かった曹洞宗のお寺。三十五ヶ所に及びます。次が真言宗の二十九ヶ所、浄土宗の十一ヶ所と続きます。詳しくは表をご覧ください。

(注)「表」については、下記の「URL」から「かわら版」のPDFファイルにアクセスしてください。「表」がご覧いただけます。

★最多は観世音菩薩

ご本尊も本四国とは少し違います。本四国では薬師如来が二十四ヶ所と多いのが特徴です。病気平癒を祈願するお遍路さんが多かったことを反映しています。

一方、知多四国では薬師如来は四ヶ所。最多は観世音菩薩の三十二ヶ所。様々な観世音菩薩を合計していますので、それぞれの観世音菩薩(例えば十一面観世音菩薩)は阿弥陀如来の十六ヶ所に及びません。

本四国ではご本尊が弘法大師という札所はありませんが、知多四国にはあります。七十五番、雨宝山誕生堂のご本尊が弘法大師です。

★南無大師遍照金剛

知多四国八十八ヶ所霊場の紙上遍路の二年間の旅。お付き合いいただき、ありがとうございました。お疲れ様でした。

来年のテーマは覚王山日泰寺縁起。かわら版創刊時に少しお伝えしましたが、読者の皆様のご要望にお応えしてリメイク版をお届けします。乞うご期待。

引き続きよろしくお願い申し上げます。それでは良い年をお迎えください。南無大師遍照金剛。合掌。


第197話(2018年11月)

皆さん、こんにちは。晩秋ですね。朝晩は寒い日が増えました。くれぐれもご自愛ください。

昨年から知多四国八十八ヶ所霊場についてお伝えしているかわら版、残る札所は二ヶ所。いよいよ結願です。

★烏枢沙摩明王

八十六番から八十七番に向かいたいところですが、知多四国八十八ヶ所霊場の場合、行程上、八十八番を先に打つお遍路さんが多いようです。

しかも、その道中に五番があります。つまり、八十六番、五番、八十八番、そして八十七番という順番。しかし、今回の紙上遍路では五番は四番の次に既に打ち終えています(昨年三月号)ので、八十八番に向かいます。

八十六番から東へ約四・六キロメートで五番、そこから北へ約二・四キロメートル進むと八十八番、瑞木山円通寺。大府市です。

七二九年、行基菩薩が開創。七堂伽藍を備えた古刹でしたが、九三九年(天慶の乱)と一三三三年(建武の乱)の兵火で堂宇を焼失。

一三四八年、夢窓疎石が中興開山して再建。一四○一年に現在地に移転し、今日に至っています。

寺号が「通じ」にかぶる当寺は、便秘や下の病、婦人病、安産にご利益のある「烏枢沙摩(うすさま)明王」のお札で知られています。

お札を東司(便所)に南向きに祀ると、下の病に霊験があるとして信仰されています。

ご本尊 馬頭観世音菩薩
ご詠歌 慈悲深き 大師の恵み 有難や 今日木之山に 法の花咲く

★鷲津砦

八十八番からさらに北上、伊勢湾岸道路、JR東海道本線、新幹線をくぐって進むこと約三・〇キロメートル、名古屋市に入り、いよいよ最後の札所、八十七番は鷲津山長寿寺。

「鷲頭」と聞いて「桶狭間の戦い」を連想された方は戦国史通です。

「鷲津砦」は「桶狭間の戦い」の緒戦で今川軍が陥落させた織田軍の拠点。当寺はもともと「鷲津砦」一帯にあったようです。一九七九年、「鷲津砦」周辺の公園整備に伴い、現在地に移転しました。

江戸時代、大高城主・志水忠継の母、長寿院の遺命で禅寺に改宗。その際に、寺号も長寿寺となりました。

境内には、かつて名古屋広小路にあって「夜開帳」として信仰を集めた柳薬師、住職に化けて参拝者に慕われた狐を祀る高蔵坊稲荷があり、商売繁盛にご利益があると言われています。

知多四国八十八ヶ所霊場はここで打ち終わり、結願です。お疲れ様でした。

ご本尊 聖観世音菩薩
ご詠歌 御仏の 深き恵みに大高の なかき齢も 念仏の徳

★興正寺と遍照院

この後、高野山奥之院に見立てた八事山興正寺(名古屋市)や弘法山遍照院(知立市)に向かうお遍路さんも多いようです。

なお、遍照院は三河新四国八十八ヶ所霊場の零番札所、番外開創の古刹であり、三河三弘法のひとつ。後のふたつは、大仙山西福寺(刈谷市)、天目山密蔵寺(刈谷市)です。

★知多四国霊場会

昨年からお伝えしてきた知多四国八十八ヶ所霊場の紙上遍路。皆さん、お疲れ様でした。

知多四国霊場会の事務局は、五十三番の鶴林山安養院(美浜町)がお務めいただいています。

ベテランのお遍路さんは、先達、権中先達、中先達、権大先達、大先達、特任大先達と昇任していきます。

納め札の色も、参拝回数によって変わります。最初は白、十回以上は緑、二十回以上は赤、三十回以上は銀、五十回以上は金、百回以上は錦です。

札所では、納経帳に「お印」のご朱印を押していただきますが、二回目以降は重ね押しします。

何度も重ね押しをして真朱になった納経帳は、一生涯にわたって功徳の証となり、不思議なご利益、不思議なご加護にあずかると信じられてています。

★来月は総集編

本四国の紙上遍路の時と同様に、来月は知多四国八十八ヶ所霊場のご本尊、宗派等の総集編をお伝えします。乞ご期待。


第196話(2018年10月)

皆さん、こんにちは。秋本番ですね。朝晩は冷え込む日も増えます。くれぐれもご留意ください。

昨年から知多四国八十八ヶ所霊場についてお伝えしているかわら版、残る札所は七ヶ所。今月は八十二番からです。

★知多三山

八十一番から国道二四七号線を北上、東海市に入ります。名鉄常滑線尾張横須賀駅と太田川駅の中間、八十一番から約三・三キロメートル、八十二番は雨尾山観福寺。

七○二年開創、南知多の岩屋寺(四十三番)、常滑の高讃寺(六十一番)と合わせて知多三山と呼ばれる古刹です。

現在の本堂は一六六五年、尾張徳川藩二代藩主、徳川光友公の寄進で建立されました。

山門前には、知多四国八十八ヶ所霊場の開山、亮山阿闍梨お手植えの紅白椿。「行く末奇譚が起きる」と告げた亮山阿闍梨。檜が芽吹く珍木となりました。

ご本尊 十一面観世音菩薩
ご詠歌 菩提心 起りて木田の観福寺二世の安楽 この外になし

★大里の大坊

八十二番からさらに北へ約一・二キロメートル、八十三番は待暁山弥勒寺。

七四九年、行基菩薩開創の古刹。かつては一山六寺七堂伽藍を擁した大寺院。今も「大里の大坊」と呼ばれます。

関ケ原の戦いの折、西軍についた九鬼義隆の水軍が上陸。兵火に遭って、ご本尊と仁王門を残して焼失。尾張徳川藩二代藩主、徳川光友公の寄進で再興しました。

境内中央の八角形の拝殿に祀られる「お塔さま」と呼ばれる宝篋印塔。毎月一日と八日は「お塔さま」の縁日。周囲を回るとご利益があると信じられています。

ご本尊 弥勒菩薩
ご詠歌 限りなき 弥勒の御世に大里の 法の御庭に となふ声明

★夢窓疎石

八十三番から東に約一・七キロメートル進むと八十四番、瑞雲山玄猷寺。

後醍醐天皇を追弔し、夢窓疎石が開創。夢窓疎石は国師号を七つも持つ鎌倉時代末期から室町時代初期の禅僧。その国師号のひとつ、「玄猷国師」に由来して寺号となりました。

境内の弘法堂は一九三三年、お大師様一千百年御遠忌を記して建立されたものです。山門に祀られる極彩色の四天王像は一見の価値があります。

ご本尊 十一面観世音菩薩
ご詠歌 慈悲深き 母にもまさる観世音 心安らか 姫島の里

★火防せの観音様

八十四番から北へ約一・四キロメートル、八十五番は慈悲山清水寺。

十七世紀末の元禄年間、村の庄屋の六兵衛の屋敷が大火で全焼した後の一六九五年、村人が現在地の南西、丸根集落に祀られていた観音様を当地に迎えて堂宇を建立。

以来、村から火難がなくなり、村人は「火防(ひぶ)せの観音様」として篤く信仰するようになりました。

寺の南西に湧いていた野井戸(清水)の水を宮中に献上。寺号の由来となりました。

ご本尊 聖観世音菩薩
ご詠歌 み仏の 功徳ながるるいわ清水 汲みて心の 穢れ洗わん

★細井平洲

八十五番から北西へ約二・三キロメートル、八十六番は大悲山観音寺。

一二六六年開創と伝わる当寺は、十六世紀半ばに火災によって堂宇を焼失。一五八五年、名古屋大須宝生院の鏡融宝印の助力で再興。

さらに豊臣秀頼の祈願所となり、一帯五町歩を下付されて興隆。除災招福を願う参拝者が遠方からも参拝したと言われています。

当地は江戸時代中期の儒学者、細井平洲の出身地。平洲は当寺の九世義観宝印に師事し、儒学等を修得。後に、米沢藩主上杉鷹山や尾張藩主徳川宗睦の指南役となり、尾張藩校明倫堂の督学(学長)も務めました。

ご本尊 聖観世音菩薩
ご詠歌 一心に 願ひを加家の観音寺導き給へ この世後の世

★残る札所は二ヶ所

残る札所は二ヶ所。名古屋市と大府市です。頑張りましょう。乞ご期待。


第195話(2018年9月)

皆さん、こんにちは。夏本番ですね。健康にはくれぐれもご留意ください。昨年から知多四国八十八ヶ所霊場についてお伝えしているかわら版、今月は七十八番からです。

★亮山阿闍梨入寂の寺

五つの札所が密集する佐布里に別れを告げ、七十七番から名鉄常滑線古見駅方向に約二・八キロメートル、七十八番は宝泉山福生寺。

七十八番と次の七十九番は、知多四国八十八ヶ所霊場を開創した亮山阿闍梨縁の札所として知られています。亮山阿闍梨は一八四七年、当寺で入寂されました。

一九一三年に火災に遭い、堂宇のほとんど焼失した際、木造の大黒天が運び出され、堂裏の宝泉池の畔に安置すると突然豪雨が降り出し、火災が鎮火したそうです。以来、防火、厄除の守護神「やけん大黒天」として信仰を集めています。

ご本尊 不動明王
ご詠歌 幸よきを 祈りかいある福生寺 不動のこころ 夢な忘れじ

★第十三代住職・両山阿闍梨

七十八番からさらに古見駅近くまで西進すること約一・四キロメートル、七十九番は白泉山妙楽寺。

一三九〇年、後花園天皇の勅願所として開創された古刹。七堂伽藍を備えた大寺院だったそうですが、戦国時代に兵火に遭い、豊臣秀吉には寺領を没収されて衰退。

一六三五年に当地に再興され、一八〇六年に亮山阿闍梨が第十三代住職となりました。

境内には四〇〇年以上前に地蔵池から出た「いぼ地蔵」が祀られており、いぼの治癒にご利益があると信仰されています。

ご本尊 無量寿仏
ご詠歌 磯辺ふく 松風の音も妙楽寺 波はしつやか 光るたのしさ

★開山所

七十九番には亮山阿闍梨を祀る開山所があります。昨年のかわら版でお伝えしましたが、亮山阿闍梨の生涯について復習しておきます。

一七七二年に犬山辺りで生まれ、その後、名古屋東照宮守護寺の天王坊二十六世亮厳法印に師事。

一八〇六年、妙楽寺第十三代住職となり、一八〇九年、お大師様の夢告によって知多四国八十八ヶ所霊場の開創を発願。

十六年の歳月を経て、一八二四年に大願成就。一八四七年三月十八日、奇しくも夢告発願と同じ日に七十八番福生寺で入寂しました。

★すがた弘法(影弘法)

名鉄常滑線に沿って北上、七十九番から約一・八キロメートル、朝倉駅を越えると八十番、海嶋山栖光院。

十六世紀半ば以前の開創の古刹。一六二年建立の観音堂に祀られているご本尊、聖観世音菩薩は三十三年ごとに開帳される秘仏です。

大師像の祀られたお茶所。長年お接待用の竈を焚いていたところ、白壁にお大師様の姿が現れたという「すがた弘法(影弘法)」。今も写真で拝観できます。

境内から大師堂に登る石段の両側に続く白壁の築地塀が印象的です。

ご本尊 聖観世音菩薩
ご詠歌 ましませる 里の名さえも寺本の 仏の功徳 世にも遍し

★天室春公首座

八十番から名鉄常滑線と国道二四七号線を跨いで約〇・七キロメートル、寺本駅近くの八十一番は巨渕山龍蔵寺。知多市最後の札所です。

一六一七年、地蔵菩薩に深く帰依する京の公卿が当地に移り住んだことが当寺の縁起です。 近郷に病が蔓延した際、公卿が地蔵菩薩に平癒祈願。たちまち病が癒えたことに村人が感謝し、堂宇を建てて地蔵菩薩を奉安したことが始まりです。

公卿は開基の天室春公首座となりました。

ご本尊 地蔵菩薩
ご詠歌 昔より 優しきものと言い伝ふ 仏の御顔 深き慈悲相

★残る札所は七ヶ所

来月から東海市に入ります。残る札所は七ヶ所。頑張りましょう。乞ご期待。


第194話(2018年8月)

皆さん、こんにちは。酷暑です。健康にはくれぐれもご留意ください。 昨年から知多四国八十八ヶ所霊場についてお伝えしているかわら版、今月は七十二番からです。

★雨乞いの壺

七十一番から北上すること約四・七キロメートル、七十二番は白華山慈雲寺。一三五○年、大野城主一色範光が開基し、夢窓国師を開山とする古刹です。

山を借景にした門景が優れ、威風堂々の大伽藍と相俟って、知多四国霊場中、屈指の景勝寺とも言われます。江戸時代の「尾張名所図会」にも、名勝として紹介されています。

一六○○年建立の観音堂はこの地域最古の建物。二○○年前に雨乞いの壺も寺宝として保存されています。

ご本尊 千手千眼観世音菩薩
ご詠歌 嬉しくも 慈雲たなびく寺に来て 御名を唱ふる 法の声々

★佐布里池・佐布里梅林

七十二番から東へ約二・一キロメートル行くと、七十三番から七十七番までの札所が密集する佐布里(そうり)という集落。変わった地名ですが、愛知用水の調整池である佐布里池と佐布里梅林で知られています。

七十三番は雨宝山正法院。当院は、一一八四年に創建された雨宝山如意寺一山九坊の本坊です。

明治時代の廃仏毀釈等で一山は縮小。現在は当院が七十五番と七十六番の管理、納経、御朱印も行っています。

ご本尊 地蔵菩薩
ご詠歌 一筋に 正しき法の道行かば 迷いの夢も やがて晴れなん

★ご本尊は弘法大師

七十三番の南側に隣接するのは七十五番、雨宝山誕生堂。

七十五番は如意寺一山の泉蔵坊に置かれていましたが、明治になって無住無壇になって廃寺。そのため、本坊境内の山上に堂宇が建立され、大師像が安置。ご本尊は弘法大師です。

四国霊場七十五案はお大師様生誕地であるこことから、誕生堂と命名されました。

ご本尊 弘法大師
ご詠歌 何時までも 色は香へど弘法の 徳は言葉の 花ぞ目出度し

★佐布里の祈願所

七十五番の南に隣接するのは七十四番、雨宝山密厳寺。もちろん、雨宝山如意寺一山九坊のひとつです。

境内には、薬師堂、白山社、天神社もあり、家内安全、病気平癒、安産祈願、学業成就、合格祈願等、諸願成就の寺として信仰を集めており、「佐布里の祈願所」として親しまれています。

毎年十一月八日、薬師如来の縁日で味噌田楽が振る舞われます。

ご本尊 十一面観世音菩薩
ご詠歌 知多の里 梅咲き香る密厳寺 現世の利益 受けぬ者なし

★雨乞いの地蔵

七十四番から道路を挟んで西側に隣接するのは七十六番、雨宝山如意寺。かつては大伽藍でしたが、戦国時代の兵火で堂宇のほとんどを焼失。

ご本尊の地蔵菩薩は「雨乞いの本尊」として数々の霊験が伝わります。

今は無住のため、納経、御朱印等は七十三番が代行しています。

ご本尊 地蔵菩薩
ご詠歌 有難や 六道能化地蔵尊 諸仏にまさる 慈親貴とし

★中風除箸

七十六番から隣接する諸寺の方向へ戻ると、一番北側に隣接するのが七十七番、雨宝山浄蓮寺。

裏山には、お大師様が知多巡錫の際に立てた杖から芽吹いたと伝わる竹藪があり、そこから採った竹で作った「中風除箸」が知られています。現在は竹ではなく南天で作られ、参拝者の人気を集めています。

ご本尊 不動明王
ご詠歌 浄き蓮うてなの上に 生まれんと動かぬこころ 仏ともみん

★福生寺

来月は知多四国霊場を開創した亮山阿闍梨が入寂した七十八番、福生寺に向かいます。乞ご期待。


第193話(2018年7月)

皆さん、こんにちは。いよいよ夏ですね。暑い日が増えますが、くれぐれもご自愛ください。昨年から知多四国八十八ヶ所霊場についてお伝えしているかわら版、今月は六十七番からです。

★大野城

六十六番から七十一番は名鉄常滑線大野町駅周辺。大野町駅のひとつ南側の西ノ口駅の東、少し高台になった青海山に大野城がありました。

中世から戦国時代にかけて、大野氏、一色氏、佐治氏の居城となり、伊勢湾を見下ろす海運拠点として当地を支配していました。

佐治氏三代目の信方の正室は織田信長の妹・お犬。跡継ぎ与九郎の正室は、信長の妹・お市の娘、お江。

やがて信長の弟、織田有楽斎が城主となるなど、大野城は重要な戦略拠点でしたが、有楽斎が北方に大草城を建てたために廃城となりました。

★三尊安置

六十六番から西に約一・四キロメートル、六十七番は松尾山三光院。

一三一四年、小倉山蓮台寺十七坊の一院として創建。大野城の鬼門護持のための阿弥陀如来、聖観音、不動明王の三尊安置に由来して三光院と呼ばれました。一色氏、佐治氏の庇護を受けたものの、一六○○年、伊勢の九鬼氏が当地に侵攻し、兵火で寺は焼失。

本堂等の老朽化により、平成二十四年、蓮台寺の境内に移転しました。

ご本尊 聖観世音菩薩
ご詠歌 浮世をば 光り照らせる大慈悲は 世にも輝く小倉かなやま

★火防(ひぶせ)大師

六十七番から約一・○キロメートル、名鉄常滑線の西側にあるのが六十八番、龍王山寶藏寺。六十六番と同じく、聖徳太子創建の宮山金蓮寺九ヶ寺の一寺が縁起。

当寺の大師像は「火防大師」として名高く、篤く信仰されています。堂内には、信者が高野山から持ち帰った「消えずの燈明」が祀られています。

ご本尊 千手観世音菩薩
ご詠歌 火のあとと 仏の顔は心して 再び三度 ふりかへりみよ

★願い石

六十八番から約○・四キロメートル、再び名鉄常滑線の渡ると六十九番、宝苑山慈光寺。知多市に入りました。

一三九四年、大野城主・一色満範が菩提寺建立を発願。鎌倉円覚寺の清源和尚を招いて開創したのが縁起。境内には満範と清源和尚お手植えの椎の老木二本が並びます。

仏師春日定朝作のご本尊は「厄除観音」として信仰されています。弘法堂前の「願い石」の細長い穴から大師像を覗いて祈願すると願いが叶うと信じられています。

ご本尊 厄除聖観世音菩薩
ご詠歌 結びつる 露に縁ある大草の 里や慈光に 照らされつあり

★大草のお地蔵さん

六十九番からまた東に約○・八キロメートル、七十番は摩尼山地蔵寺。

行基菩薩が八世紀に開いたと伝わる古刹。弘法大師が彫ったご本尊は「大草のお地蔵さん」として信仰されています。

江戸時代の享保年間、お竹さんという盲目の女性が七日七夜参篭。お告げに従って井戸を改修すると、目が見えるようになった霊験が伝わります。

ご本尊 地蔵菩薩
ご詠歌 慈悲の誓 願たてし地蔵寺の 仏の功徳 仰がざらめや

★めがね弘法

七十番から東へ約一・四キロメートル、七十一番は金照山大智院。

聖徳太子開創の古刹。十五世紀に大野城主・佐治為永の祈願所となりました。

当院の身代大師像は別名「めがね弘法」。一八六○年、目の不自由な老翁が祈願すると快癒。自分の眼鏡を大師像にかけたことがきっかけです。境内には用済みになった眼鏡を納める「めがね塚」もあります。

ご本尊 観世音菩薩・前立馬頭観音
ご詠歌 世の人の 仰ぐも高き大智院 ふこう功徳の仏いませば

★梅の名所、佐分里

来月は五札所が密集する佐分里に向かいます。梅の名所としても知られています。乞ご期待。


第192話(2018年6月)

皆さん、こんにちは。梅雨の季節になりました。腰痛、神経痛が気になりますね。くれぐれもご自愛ください。

昨年から知多四国八十八ヶ所霊場についてお伝えしているかわら版、今月は六十二番からです。

★むねなで大師

六十一番を出て西進。集落や畑の中を進むこと約一・五キロメートル、六十二番は御嶽山洞雲寺。

かつて六十一番高讃寺は七堂伽藍を有した大寺院だったことは先月ご紹介しました。

一五三七年の兵火で堂宇伽藍は破壊・焼失し、仏像は難を逃れて池に沈められたり、田畑に埋められました。

その後、当地の御嶽池の中から阿弥陀如来像が発見され、それを祀ったのが当寺の始まりです。

昭和初期、重い胸の病にかかっていた鳴海の木村徳蔵さん。「我は六十二番の大師なり」と告げる僧に納経帳で胸をなでられる夢を見ました。

早速家族に代参を頼むと、たちまち快癒。この霊験に因んで「むねなで大師」として信仰を集めています。

ご本尊 阿弥陀如来
ご詠歌 東浦 日間賀しの島西浦に 大師の垂水 あ利がたくうく

★イブキの巨木

六十二番から北上すること約一・七キロメートル、奥条の集落の中にあるのは六十三番、補陀落山大善院。

やはりルーツは七堂伽藍三百坊を擁した六十一番高讃寺。そのうちの一坊のご本尊、十一面観世音菩薩を当地に移したのが寺の始まりです。

常滑城初代城主・水野忠綱、その子息・興覚法印の庇護を受けて繁栄。常滑城の鬼門に当たることから、牛頭天王(素戔嗚尊=すさのおのみこと)を鎮守中の宮に奉祀。

境内を覆うイブキの巨木は樹齢五百五十年以上の常滑市天然記念物です。裏山は知多半島有数のヤブツバキの群生地です。

ご本尊 十一面観世音菩薩
ご詠歌 じゅうらくの 大善院に詣で来て 仏の利益 うくるうれしさ

★癌封じ寺・いぼとり地蔵

六十三番から西に約○・七キロメートル、六十四番は世昌山宝全寺。

一五七三年創建と伝わりますが、その後の寺の縁起はあまり詳しくはわかりません。

境内には、三十三観音、十王堂、秋葉堂、三宝荒神堂、弘法堂、金毘羅堂、地蔵堂が建ち並び、村人に長く親しまれてきた鎮守。金毘羅堂の屋根には珍しい天狗の瓦が置かれています。

癌封じ寺・いぼとり地蔵として知られ、ご利益があると信仰されています。

ご本尊 十一面観世音菩薩
ご詠歌 宝積む 全き寺の 鐘の声 寂滅為楽と 響く入相

★安阿弥作の延命地蔵大菩薩

六十四番からまた東に戻ること約一・○キロメートル、六十五番は神護山相持院。

開創は一五六○年。明治十一年に廃仏毀釈によって六十四番に統合されたものの、明治三十六年に復興。大正十年に寺号を元に戻し、現在地へ。

開創時のご本尊と伝わる延命地蔵大菩薩は南北朝時代の安阿弥の作。昭和三十九年には、知多半島最大の大梵鐘が鋳造、奉安されました。

ご本尊 延命地蔵大菩薩
ご詠歌 神護る 山に吹く風 清らかに 延命地蔵 ゐます相持院

★絹本著色仏涅槃図

六十五番から国道一五五線を北上。常滑高校の前を通って約五・三キロメートル、六十六番は八景山中之坊寺。

聖徳太子開創の宮山金蓮寺の九坊中の一坊として開創。一五八四年に兵火に遭って金蓮寺は焼失。それから七年後、政憲和尚が金蓮寺のご本尊、十一面観世音菩薩を奉じて中興。

寺宝として、国指定文化財の「絹本著色仏涅槃図」や奥州中尊寺の寺宝だった大般若経などがあるそうです。

ご本尊 十一面観世音菩薩
ご詠歌 法の道 守る心の中之坊 堅き石瀬や かなやまの里

★大野城

六十六番から七十一番は名鉄常滑線大野町駅周辺。来月は戦国時代の重要拠点であった大野城の歴史について少し触れたいと思います。乞ご期待。


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大塚耕平

  • 2002年から「弘法さんかわら版」を書き続けています。仏教に親しみ、仏教から学び、仏教を探訪しています。より良い社会を目指すうえで仏教の教えは大切です。「弘法さんかわら版」は覚王山日泰寺(名古屋市千種区)と弘法山遍照院(知立市)の弘法さんの縁日にお配りしています。縁日はお大師様の月命日に立ちます。覚王山は新暦の21日、知立は旧暦の21日です。
  • 著書に「お大師様の生涯と覚王山」(大法輪閣)、「仏教通史」(大法輪閣)など。全国先達会、東日本先達会、愛知県先達会、四国八十八ヶ所霊場開創1200年記念イベント(室戸市)、中日文化センターなどで講演をさせていただいています。毎年12月23日には覚王山で「弘法さんを語る会」を開催。ご要望があれば、全国どこでも喜んでお伺いします。
  • 1959年愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒、同大学院博士課程修了(学術博士、専門はマクロ経済学)。日本銀行を経て、2001年から参議院議員。元内閣府副大臣、元厚生労働副大臣。現在、早稲田大学総合研究機構客員教授(2006年~)、藤田医科大学医学部客員教授(2016年~)を兼務しています。元中央大学大学院公共政策研究科客員教授(2005年~17年)。