弘法さんブログ

第248話 「尾張名古屋・歴史街道を行く」年魚市潟の浜道

皆さん、こんにちは。春が待ち遠しい季節になりましたが、まだまだ寒い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。
昨年から「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺城郭・幕末史―」をお送しています。今年は中世鎌倉街道を東から西に歩いています。題して鎌倉街道を歩く。今月は年魚市潟を旅します。

★年魚市潟の浜道

旅人は東海道を進み、鳴海宿を過ぎて、鳴海台地の嫁ヶ茶屋、古鳴海へと向かいます。
鳴海台地の西に広がる湿地帯は、河川の河口が集中する鳴海潟、年魚市(あゆち)潟です。古代、中世、近世を通して、この一帯は鎌倉街道、東海道の要所です。
河川が運ぶ土砂が堆積し、新田開発も行われ、中世から近世にかけて徐々に陸地化していきました。
江戸時代中期までの年魚市潟の地形は、松巨島(まつこしま)を囲むように、南から、鳴海台地、八事台地、瑞穂台地、熱田台地が取り巻き、その間を、扇川、藤川、天白川、山崎川、精進川が流れ、干潟を形成。松巨島は中州の先端部が独立して島になったものであり、笠寺台地とも呼ばれていました。
鳴海台地の先端に到達すると、そこから先は干潟です。松巨島を経由して宮宿に行く経路は、上の道、中の道、下の道の三本ありました。おそらく、潮の干満等、水位によって選択する経路が違ったのでしょう。
上の道は野並の辺りから干潟に出て、瑞穂台地の井戸田から北上し、熱田台地の古渡に至ります。
中の道は鳴海台地の古鳴海から松巨島に渡り、白毫寺を経て熱田台地の夜寒里に行きます。そこから宮宿や古渡に向かいます。
下の道は鳴海台地の三王山から干潟に出て、松巨島の狐坂(笠寺)に向かい、松巨島の西側、白毫寺辺りから熱田台地の宮宿に至りました。
熱田台地は半島を形成しており、周囲には干潟、河口、湾が入り組んでいました。台地上の熱田神宮近くには尾張最大の前方後円墳、断夫山古墳があります。周囲の古墳群とともに尾張氏の陵墓と考えられます。

★愛知の語源

年魚市の音「あゆち」は古代中世の郡名のもととなり、愛知の表記につながります。
万葉集で高市黒人が詠んだ「桜田へ鶴鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた)潮干にけらし鶴鳴き渡る」の年魚市(あゆち)に由来し、律令制下で愛知郡という郡名に転じました。歌枕としても親しまれました。
古代には、年魚市のほかに、鮎市(あゆち)、愛智(あいち)、吾湯市とも書かれ、尾張氏の系図の肩書に年魚市評の表記がある人物もいます。七〇一(大宝元)年、大宝律令制定以前は評(こおり)が置かれていたことがわかります。
大宝律令制定を機に、評や県といった行政単位は郡となりました。愛知郡の表記は複数あり、阿由市郡、鮎市郡、年魚市郡と表記されています。
七一三(和銅六)年以降、好字二字令により表記が愛智または愛知に改められたと推測されます。
鮎は誕生してから一年で生涯を終えることから一年魚、略して年魚と記されました。また「あゆ」は「物の湧き出す」ことを意味します。
年魚市潟に流れ込む川では鮎が湧いてくるように獲れたと伝わります。つまり、鮎は川の中から湧いてくる魚という意味です。
そして年魚市潟で湧き出したものとは鮎ならぬ水。多くの河川の水とともに、扇状地の伏流水が湧き出る干潟が年魚市潟です。

★七里の渡し

一六〇一(慶長六)年、東海道に伝馬制が敷かれ、五十三次の宿駅が置かれました。
熱田台地の先端に位置する宮宿は、東海道五十三次の四十一番目の宿場。佐屋街道や中山道に至る美濃街道との分岐点です。
一般には宮宿と呼ばれていたようですが、幕府や尾張藩の公文書では熱田宿です。
宮宿と桑名宿の間は海路「七里の渡し」で結ばれました。「桑名の渡し」「熱田の渡し」「宮の渡し」「間遠の渡し」とも呼ばれます。
「七里の渡し」は一六一六(元和二)年に公認された東海道唯一の海上路であり、満潮時の陸地沿い航路は約七里、干潮時の沖廻り航路が約十里、渡し船の所要時間は二~三刻(とき)(四~六時間)でした。
「七里の渡し」は海難事故がしばしば発生する東海道の難所であり、海路を避けたい旅人は迂回路である脇往還、佐屋街道に向かいました。
宮宿は渡船場として東海道随一の賑わいを見せ、旅籠屋数も最大規模を誇りました。
湊町であるとともに、古くからの熱田神宮の門前町であり、名古屋城下、岐阜とともに、尾張藩町奉行の管轄地でした。
宮宿近くには熱田神宮のほか、源頼朝生誕地と伝わる誓願寺、前述のとおり尾張国最大の前方後円墳である断夫山古墳などがあり、旅人が旅情を味わえる好適地でした。

★熱田社

来月は宮宿にある熱田社を参ります。宮宿に逗留し、宮宿を通る旅人が洩れなく参拝した名所です。現在の熱田神宮です。乞ご期待。


第247話 「尾張名古屋・歴史街道を行く」鎌倉街道を歩く

あけましておめでとうございます。今年も弘法さんかわら版、ご愛読のほど、よろしくお願いいたします。

昨年から「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺城郭・幕末史―」をお送しています。今年は中世鎌倉街道を東から西に歩きたいと思います。題して鎌倉街道を歩く。どうぞお付き合いください。

★東海道と鎌倉街道

三河国を横切り、境川を渡ると尾張国に入ります。境川は三河国と尾張国の境界線となっていました。

この地域は、律令制下の尾張国を構成する八郡のうち山田郡に属しました。

古代東海道は、尾張国内に両村(ふたむら)、新溝(にいみぞ)、馬津(まつ)の三つの駅(うまや)がありました。両村は山田郡、新溝は愛智郡、馬津は海部郡です。

駅には駅長(うまやおさ)がおり、旅人に人馬の継立、渡し舟や人足を用意し、食事や宿泊場所を提供していました。駅は後の宿場の原型です。

新溝と馬津の中間地点には、木曽川を渡る草津湊もありました。草津湊はのちの萱津宿に発展します。

中世鎌倉街道には、尾張国内に沓掛、鳴海、熱多(熱田)、萱津、折戸(下津)、黒田の六つの宿が置かれました。

近世東海道における尾張国内の東海道五十三次は鳴海宿と宮宿であり、時代とともに駅や宿の数や場所も変わりました。

伊勢湾の海岸線は古代、中世、近世と時代とともに南下していきます。古代の海岸線は尾張北部に位置しましたが、中世、近世には扇状地が陸地化するとともに、新田開拓も進み、海岸線は南下しました。

そのため、近世東海道は鎌倉街道と重なる部分もありますが、海岸部では概ね鎌倉街道よりも南に位置しています。陸路中山道に向かう美濃街道も鎌倉街道と一部は共有しますが、同じではありません。

★両村駅と二村山

境川を渡って尾張国へ入ると、沓掛城、大高城、鳴海城、丹下砦、善照寺砦、中嶋砦、丸根砦、鷲津砦の三城五砦が林立する桶狭間の戦いの舞台です。

桶狭間の戦いの前日、今川義元は鎌倉街道を西進してきました。義元配下であった松平元康(家康)が先鋒を務めたことから、元康の領地である三河は難なく軍を進め、沓掛城に宿泊。その夜の未明、元康は大高城に兵糧入れを行い、翌日の昼に義元は織田信長に討たれました。

沓掛宿は、旅人が駅舎の軒下に藁沓をかけていた様子をみた歌聖在原業平がこの地を沓掛と名づけました。

沓掛を過ぎると高さが約四十間(約七十二メートル)の山が見え、その麓に両村駅がありました。両村は周辺集落の中間地点という意味から自然に生じた地名であり、山の名は両村に準じて二村山となりました。

二村山からは東に濃尾平野、西に岡崎平野が見え、遠くには猿投山、伊吹山、御嶽山が一望できます。古来名勝地、歌枕として知られ、都に向かう源頼朝が立ち寄って詠んだ歌碑もあります。

江戸時代の尾張名所図会には次のように紹介されています。

「絶頂より四望するに、東の方には木曽の御岳・駒ヶ岳、峩々として高く、三河の猿投・村住の双峰黛色深く、苅屋(刈谷)の城、挙母の里までも眼下にさえぎり、北を望めば越しの白山、立山をはじめ、尾濃の数峰連なりて、あたかも波濤のごとし。しばらく目をとどむれば、金城煙雲の間に彷彿たり。西は蒼海洋々として、布帆の往来、漁人の扁舟(小舟)あざやかに、南は知多の浦山、遠くは伊勢の朝熊岳までもここの詠に入る、実に尾張第一の光景といふべし」。

鳴海宿に至るこの道筋は、旅人が道中の安全を祈願した青木地蔵、鹿島神社、十王堂、二村山峠地蔵尊などの仏跡が豊富な地域です。

★間宿の有松

古代からある濁池を過ぎ、蔵王権現、八松八幡社、鴻仏目地蔵尊、諏訪社、浄蓮寺、相原観音堂、古鳴海八幡社、野並八剣社などを経て、徐々に名古屋城下町に近づきます。

途中、新海池の辺りには大塚古墳や赤塚古墳があり、古代尾張氏がこの地域まで進出していたことがわかります。

江戸時代には鎌倉街道よりも南に近世東海道が置かれ、街道沿いに有松の町ができました。

桶狭間村と鳴海村の間に位置するこの一帯は人家のない地域でしたが、尾張藩が東海道沿いに新たな村を開くことを計画。一六〇八年、知多郡全域に高札を掲げて移住を呼びかけて開かれたのが有松村です。

一六四一年、この村の絞り染めを尾張藩二代藩主光友が気に入り、尾張の特産品として保護しました。後に五代将軍徳川綱吉に有松絞りの手綱を献上したところ称賛され、有松絞りの名声は天下に轟きました。

有松は沓掛宿と鳴海宿の間宿(あいのしゅく)でしたが、有松絞りに代表される手工業の町として賑わいました。鳴海宿にも鳴海絞りがありました。

★年魚市潟の浜道

来月は鳴海宿から宮宿(熱田宿)の経路にある年魚市潟(あゆちがた)の浜道を歩きます。乞ご期待。


第246話 「尾張名古屋・歴史街道を行く」尾張藩通史

いよいよ師走。今年もあっと言うまでした。寒くなりました。くれぐれもご自愛ください。 「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺・城郭・尾張藩幕末史―」をお送している今年からのかわら版。今年の最後は尾張藩通史です。

★初代義直と四代吉通の遺訓 徳川幕府の御三家筆頭尾張藩の領地は尾張全域のほか、美濃、三河、信濃、近江、摂津と広範囲に飛地が存在しました。

木曽御用林からの収入、新田開発分等を含めた実高は約百万石に達していました。

 初代藩主義直は家康九男。幼少のため、初期の藩政は家康の老臣たちが担いました。 義直は三代将軍家光とは叔父と甥。微妙な関係にあったこと等も影響し「王命に依って催さるる事」という勤王精神を遺訓としました。このことは幕末史に影響します。

 二代光友に続く三代綱誠の時代に、異母兄松平義昌は陸奥梁川藩の大久保松平家、同母弟松平義行は美濃高須藩の四谷松平家としてそれぞれ独立。異母弟松平友著は尾張藩内で家禄を得て川田久保松平家となり、この三家が分家御連枝となりました。

 分家御連枝は藩主に嫡子が絶えた際に藩主を輩出する役目を担いました。

 四代吉通は六代将軍家宣から七代将軍への就任を要請されましたが、大奥や御三家、幕閣が抵抗し、実現しませんでした。吉通は七代将軍家継誕生直後に亡くなり、同年、息子の五代五郎太も急逝。陰謀めいた話が後世に伝わります。

 将軍継嗣騒動に巻き込まれたことが影響し、吉通は「尾張は将軍位を争わず」を遺訓としました。

以来、尾張藩では将軍位を継承するよりも、神君家康公より与えられた尾張藩を護ることの方が大切であるとの家風が形成されます。このことも幕末史に影響します。

★七代宗春と八代将軍吉宗の対立 六代継友は三代綱誠の十一男。七代将軍家継が幼少、病弱であったため、八代将軍の有力候補となりました。

 しかし、同じ御三家の紀州藩主吉宗が八台代将軍に就任。ここでも暗闘があったようです。

 歴代藩主の中で最も有名なのが三代綱誠の二十男、つまり継友の弟である七代宗春。 当時は将軍吉宗による緊縮的な享保の改革が行われていましたが、尾張藩主となった宗春は、名古屋城下に芝居小屋や遊廓の設置を認め、祭りを奨励し、能楽、歌舞伎、等々、様々な文化を盛んにします。宗春の藩政は緊縮的な享保の改革を行っていた吉宗の幕政に対立するものでした。

 宗春が参勤交代で江戸に下向すると、幕府の意を受けた御付家老竹腰正武が国元で宗春の諸政策を覆す騒ぎとなり、尾張藩内は混乱します。

 一七三九年、吉宗は尾張藩内の混乱を理由に宗春に隠居謹慎を申し渡しました。

 宗春の従弟八代宗勝は藩政を転換し、倹約令を中心とした緊縮政策を行いました。

★高須四兄弟

 藩校明倫堂の創設などを行った九代宗睦の実子は早逝。十代斉朝は御三卿一橋家からの養子でした。藩祖義直の血統を継いでいましたが、斉朝にも実子がなく、義直からの血統は斉朝の代で断絶します。

 十一代斉温、十二代斉荘、十三代慶臧は将軍家や御三卿からの養子。藩政にほとんど関わらず、藩内の不満が高まりました。

 藩内では、将軍家周辺からの養子藩主を是認する御付家老等の幕府迎合的な江戸派と、幕府の藩政介入に反発する尾張派、別名金鉄党の対立が浮き彫りになります。金鉄党は分家御連枝高須藩からの藩主擁立運動を起こします。

 結局、、水戸の血筋を引く高須藩主松平義建の嫡子、十四代慶勝(慶恕)が誕生します。 王命尊重の藩祖義直の遺訓、尾張藩護持を諭す四代吉通の遺訓、そして慶勝が水戸系であること、御付家老の対立とそれに付随する藩内抗争等が相俟って、尾張藩の幕末史は複雑化します。

 慶勝は水戸系の一橋派に与し、安政の大獄で隠居処分となります。

 十五代茂徳は慶勝の弟です。藩内は慶勝派、茂徳派に二分され、他藩同様、尊攘派、佐幕派の対立に加え、成瀬、竹腰の両御付家老の勢力争いも絡んで混沌とします。

 一八六〇年、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると慶勝が復権。一六代義宜は慶勝の息子。慶勝は藩政の実権を掌握し、幕政にも参与して公武合体派の重鎮となり、第一次長州征伐総督に立てられるなど、幕末動乱に巻き込まれていきます。

 幕末の京都守護職松平容保会津藩主、京都所司代松平定敬桑名藩主は、慶勝、茂徳の弟です。茂徳は一橋家を継ぎます。

 この慶勝、茂徳、容保、定敬は高須四兄弟として幕末史で重要な役割を担っていきます。

★鎌倉街道を歩く

 今回はここまでとして、尾張藩幕末史については別の機会に年間を通してお伝えしますが、来月出版の拙著「尾張名古屋 歴史街道を行く」の中でも扱っています。

来年は「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺・城郭・尾張藩幕末史―」の続きとして「鎌倉街道を歩く」をお届けします。乞ご期待。

それでは皆さん、良い年をお迎えください。

(2022年12月)


第245話 「尾張名古屋・歴史街道を行く」清洲城と名古屋城

 十一月です。寒くなりました。くれぐれもご自愛ください。 「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺・城郭・尾張藩幕末史―」をお送している今年からのかわら版。今月は清洲城と名古屋城です。

★清須会議と小牧長久手の戦い

 尾張と聞けば、信長、秀吉、家康の三英傑を思い浮かべます。しかし、桶狭間の戦い以前と同様に、本能寺の変、関ケ原の戦い以後の尾張国の史実も意外に知られていません。

 一五八二年、本能寺の変で信長と嫡男信忠を討った明智光秀は、山崎の戦いで秀吉に敗れました。

 その後の織田家の体制を決めるために清洲城に重臣たちが集まります。世に言う清洲会議です。

 清洲会議の経過と結論には諸説ありますが、信長の次男信雄と三男信孝が対立する中、柴田勝家は信孝を、秀吉は信忠の嫡男三法師を後継者に推挙し、結局、三法師が家督を相続することで合意。

しかし、まもなく秀吉が信孝と勝家の謀反を理由に合意を反故にして信雄を主君として擁立。秀吉は賤ヶ岳の戦い、北ノ庄城の戦いで信孝、勝家を滅ぼしました。

 戦後、信雄が安土城に入って信長後継を宣言しようとしたところ、今度は信雄と秀吉が対立。信雄は隣国三河の家康と同盟を結びます。

 一五八四年、秀吉と家康は小牧長久手の戦いで交戦。秀吉は苦戦。結局、秀吉は計略を図って信雄と単独和睦し、大義名分を失った家康は撤兵します。

 以後の尾張国は信雄に統治されました。

★福島正則→松平忠吉→徳川義直 信雄本拠の長島城が天正地震で倒壊したため、一五八六年、清洲城を大規模改修して居城としました。

 その後、信雄は北条氏滅亡後の関東転封を拒んだため、一五九〇年、秀吉に改易され、尾張国は福島正則ら豊臣家武将に分割支配されます。

 秀吉没後の一六〇〇年、関ヶ原の戦いが勃発。東軍は清洲城を集結地点として関東から西進。西軍石田三成が敗れました。

 戦後、戦功をあげた清洲城主福島正則は安芸広島に加増転封されました。

 一六〇三年に徳川幕府が誕生し、江戸時代が始まります。

 福島正則の後に清洲城に入封されたのは家康の四男松平忠吉。当時は清洲藩と称し、尾張国全域と美濃国の一部を領地とする五十二万石でした。一六〇六年、家康直轄領であった知多郡も忠吉に与えられましたが、翌一六〇七年、関ケ原の戦いの戦傷がもとで忠吉は二十八歳で早逝します。

その後、忠吉の弟で家康九男の甲斐甲府藩主徳川義直が清洲藩を継承しました。

★清須越しと名古屋城

 幕府は大坂の豊臣秀頼及び豊臣恩顧の西国大名の反攻に備える必要がありました。

 当初家康は清洲城を対豊臣の拠点にしようとしましたが、清洲は庄内川水系の下流域にあって水害が多いこと、水攻めされる危険があること、一五八五年の天正地震で清洲城及び城下町が液状化したこと、当時の清洲城主織田信雄が大規模改修を行ったものの液状化被害の解決に至らなかったこと、城郭が小規模で大量の兵を駐屯させられないこと等々の弱点を懸念しました。

 一六〇九年、家康は廃城となっていた那古野城址、つまり名古屋台地(熱田台地北部)の北西端に名古屋城築城を決断。

翌一六一〇年、西国大名を中心とした天下普請を命じ、天守台石垣は加藤清正が普請奉行となりました。

 清洲城及び清洲城下町の移転も命じ、清洲城の資材は名古屋城築城に再利用され、清洲城下町は武家屋敷のみならず社寺仏閣、町屋に至るまで丸ごと移転。清洲越しです。

 長く尾張国支配の要だった清洲城と清洲城下町は破却され、名古屋城と名古屋城下町が尾張の中心となります。

 名古屋城を北端に、南北の本町通、東西の伝馬町筋を主軸にして、碁盤割の城下町が造られました。

 碁盤割の範囲は、北は名古屋城に隣接する京町筋、南は大江町筋、西は御園町通、東は久屋町通の範囲です。御園町通の西側には堀川が開削されました。

 家臣のみならず、清洲城下の町屋約二七〇〇戸のほとんどが移転し、三社一一〇寺、清洲城小天守も名古屋に移りました。

 その際、清洲にあった町名も名古屋に移し、町人は原則として移転時に住んでいた町に住むこととされます。

 名古屋移転に伴い、清洲藩は尾張藩と改められます。家格も徳川御三家筆頭という将軍家に次ぐ立場に置かれ、城下町である名古屋は江戸時代中頃には三都に次ぐ大都市となります。

 一六一四年の大坂冬の陣、翌一六一五年の大坂夏の陣で豊臣氏は滅亡。豊臣方の侵攻に備えた名古屋城と名古屋城下町は家康の想定した機能を果たすことなく、太平の時代に入ります。

★尾張藩通史

 そして二六〇年後、尾張藩及び名古屋城、名古屋城下町が幕末の命運を握る局面を迎えます。来月は尾張藩通史をお送りします。乞ご期待。

(2022年11月)


第244話 「尾張名古屋・歴史街道を行く」桶狭間の戦、三城五砦史

早いもので十月。今年もあと三ヶ月弱となりました。朝晩は冷え込みます。くれぐれもご自愛ください。

「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺・城郭・尾張藩幕末史―」をお送している今年からのかわら版。今月は桶狭間の戦、三城五砦史です。

★今川義元、最後の夜を過ごした沓掛城 沓掛城は鎌倉街道沿いの要衝にあり、十四世紀に築城されました。

 戦国時代の城主近藤景春は松平広忠(家康父)の家臣でしたが、尾張国織田信秀(信長父)が三河へ進出するようになると近隣土豪とともに信秀に帰順。しかし、一五五一年に信秀が亡くなると、鳴海城主山口教継とともに今川義元の傘下に入ります。

 一五六〇年、二万五千の大軍を率いた今川義元は沓掛城に入りました。五月十八日、義元は松平元康(家康)に大高城への兵糧入れを指示し、翌十九日朝、沓掛城を出発。義元は大高道を通って桶狭間に入り、そこで信長の奇襲を受けて討死します。

 代わって城主になったのは桶狭間の戦で勲功一番と称され、沓掛三千貫文を与えられた簗田政綱。その後は織田信照、川口宗勝が城主を務めました。

 一六〇〇年、関ヶ原の戦いで宗勝は西軍に参陣。敗戦後に捕えられ、沓掛城は廃城となりました。

★松平元康兵糧入れの大高城 大高城は、桶狭間の戦の前夜、松平元康が兵糧入れを行ったことで知られる城です。

 築城は土岐氏が尾張守護であった南北朝時代以前。天文年間(一五三二〜五五年)には織田信秀支配下にあり、一五四八年、今川義元が攻めたものの落城しませんでした。

 信秀死後、息子の信長から離反した鳴海城主山口教継の調略で、大高城は沓掛城とともに今川方の手に落ちます。これに対し、信長は鳴海城と大高城の連絡路を断つため、大高城近くに丸根砦と鷲津砦を築造。

 桶狭間の戦の直前に織田勢の包囲を破って今川方の鵜殿長照が大高城に入り、五月十八日夜には松平元康が兵糧を届け、元康も城の守備につきました。

 翌十九日、義元討死の一報を聞いた元康は岡崎城に退き、大高城は再び織田配下となります。廃城となった旧城地に一六一六年、尾張藩家老の志水家が館を建てました。

★鳴海城包囲網の三砦 鳴海城は応永年間(一三九四〜一四二八年)に足利義満配下の安原宗範が築城。

 天文年間には織田信秀配下にあり、山口教継が駿河国今川義元に備えるべく城主を務めていました。しかし信秀が没すると、息子信長を見限った教継は今川氏に帰順。教継は息子教吉に鳴海城を任せます。

 一五五三年、信長は鳴海城を攻めるも落城させられませんでした。

 しかしその後、信長の計略によって今川義元に謀反を疑われた教継・教吉父子は切腹に追い込まれます。城主は今川家譜代の岡部元信に代わり、今川氏直轄の重要拠点となりました。

 これに対抗すべく、信長は一五五九年に鳴海城周囲に丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を築造。 翌年の桶狭間の戦では、今川軍は緒戦で大高城近くの丸根砦、鷲津砦を撃破。次は鳴海城を囲む三砦に狙いを定め、戦いを優位に進めていました。ところがその直後、今川義元が討ち取られて総崩れとなります。

 三砦攻撃のために待機中であった鳴海城兵は無傷であり、戦力的優位は維持されていましたが、鳴海城主岡部元信は義元の首級と引き換えに城明渡しに応じ、鳴海城は信長の手に落ちました。戦後、佐久間信盛・信栄父子が城主をつとめ、天正年間末期に廃城になります。

★桶狭間の戦、前哨戦の丸根砦、鷲津砦

 丸根砦と鷲津砦は一五五九年、信長が大高城近くに築造。相互に見通せる距離にありました。

 一五六〇年五月十九日、丸根砦には佐久間盛重、鷲津砦には織田秀敏と飯尾定宗・尚清父子を将とする織田軍が立て籠もったものの、松平元康率いる今川軍が攻撃。 報せを聞いた信長が清洲城を出陣し、熱田社に着いた頃には両砦は落城し、煙が上がっていました。

 信長は丹下砦へ入り、その後善照寺砦へ移動。義元が桶狭間で休息中と聞いた信長は、さらに中嶋砦を目指します。

 砦への道の脇は深田のため一騎ずつしか通れず、敵から丸見えであることから家老衆が制止したものの、信長は振り切って中嶋砦に進軍。

 突然の雷雨で視界が遮られたことが幸いし、中嶋砦から出撃した信長は義元本隊に突撃。義元を討ち取りました。

 桶狭間の戦後、信長と家康が同盟関係になったために丸根砦と鷲津砦は存在意義を失い、放棄されました。

★清須城と名古屋城

 中世から戦国時代の尾張国の中心は清洲、そして江戸時代には名古屋が中心となります。来月は清洲城と名古屋城についてお伝えします。乞ご期待。

(2022年10月)


第243話 「尾張名古屋・歴史街道を行く」織田家城郭史

早いもので九月。日中は暑くても朝晩は冷え込む日も出てきます。くれぐれもご自愛ください。 「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺・城郭・尾張藩幕末史―」をお送している今年からのかわら版。今月は織田家城郭史です。

★尾張の中心、清洲城 清洲城は一四〇五年、尾張守護の管領斯波義重によって築城されました。

 清洲は尾張国の中央部に位置し、鎌倉街道、美濃街道、伊勢街道が合流し、中山道にも繋がる交通の要衝です。

 清洲城は当初、尾張守護所下津城の別郭でした。一四七六年、守護代織田家の内紛に伴う戦で下津城が焼失。一四七八年、守護所は清洲城に移りました。

 尾張下四郡を支配する守護代清洲織田氏(大和守家)の本拠でしたが、やがてその重臣の立場から頭角を現した織田弾正忠家の当主織田信秀が居城します。

 信秀が清洲城から那古野城に拠点を移すと、守護代織田信友が入城。一五五五年、信友は信秀の嫡男信長と結んだ織田信光によって討たれ、信長が清洲城に入りました。

 一五六二年、信長と徳川家康が清洲城で同盟を締結。清洲同盟で東側への懸念がなくなったことから、一五六三年、信長は美濃国斎藤氏との戦に備えて小牧山城に移動。

 一五八二年、本能寺の変で信長が討たれると、清洲城で清洲会議が行われ、城は次男織田信雄が相続。

 豊臣秀吉による小田原征伐後、信雄は国替え命令に従わなかったために改易され、清洲城は豊臣秀次が治めた後、一五九五年に福島正則の居城となります。

 一六〇〇年の関ヶ原の戦いでは東軍の後方拠点となり、安芸に転封された福島正則に代わり、徳川家康の四男松平忠吉が入城。忠吉は早逝し、一六〇七年、代わって家康九男の徳川義直が入城。

 一六〇九年、家康によって清洲から名古屋への遷府が命じられ、一六一〇年から城下町の移転開始。いわゆる清洲越しです。清洲城は解体され、名古屋城築城の資材として利用されました。名古屋城御深井丸西北隅櫓は清洲城天守の資材を転用して作られたため、清洲櫓と呼ばれました。

 名古屋城完成と清洲越しの完了に伴い、清洲城の歴史は終わりました。

★東方への備え、古渡城・末森城・守山城

 古渡城は一五三四年に織田信秀が築いた平城です。東南方面の敵対勢力である今川氏や松平氏に備えるためです。

 当時、信秀は今川氏豊から奪った那古野城に居城していましたが、古渡城に移った後は那古野城を嫡男信長に譲りました。

 一五四八年、美濃に侵攻した信秀の留守を狙い、清洲の守護代織田信友が古渡城を攻撃。落城は免れたものの、城下町は焼失。

 同年、信秀は末森城を築いて移ったため、古渡城はわずか十四年で廃城となります。

 末森城は一五四八年、東山丘陵の端に織田信秀が築城。縁起を担いで末盛城とも書かれました。末森城も今川氏や松平氏の侵攻に備えた城であり、実弟織田信光の守山城と合わせて東方防御線を構成しました。

 標高約四十メートルの丘に建つ平山城です。地形を利用して斜面の中腹に幅広の空堀を備え、内堀北の虎口には三日月堀と称される半月形の丸馬出がありました。

 一五五二年、信秀が亡くなると末森城は次男信行が継ぎます。

 一五五六年、信行は林秀貞、柴田勝家などとともに信長と敵対。しかし、稲生の戦いで信長に敗れ、末森城に籠城。信長は末森城下を焼き討ち。城内にいた母土田御前の願いで信行は許され、末森城は陥落を免れます。

 一五五八年、信行が再び謀反を企てたものの、柴田勝家が信長に内通。清洲城に呼び出された信行は謀殺されました。

 末森城は廃城となりましたが、一五八四年の小牧長久手の戦いに際し、織田信雄が拠点として末森城を使います。信雄は馬出や総構えの構造を造りました。

 城の西北山麓にあった信秀の霊廟は城の東南の桃巌寺に移され、信行とともに供養されています。

★名古屋城の前身、柳ノ丸と那古野城

 那古野城は今川氏親が尾張東部まで勢力を拡大した時期に名古屋台地(熱田台地北部)の西北端に築いた柳ノ丸を起源とします。庶流の那古野氏が居城としました。

 一五三二年、織田信秀が計略により今川氏豊を追放して柳ノ丸を奪い、この時に信秀が那古野城と命名しました。

 その後、信秀は那古野城を幼い信長に譲り、自身は同じ台地の東南を固めるために古渡城を築いて移りました。

 一五五五年、信秀の後を継いでいた信長は一族の織田信友を滅ぼして清洲城に移り、那古野城は叔父信光、重臣林秀貞らが護りましたが、やがて廃城となります。

 廃城後の城址周辺は鷹狩に使われるような荒野になっていましたが、五十四年後の一六〇九年、徳川家康が旧城地に名古屋城築城を命じました。那古野城の旧城地は名古屋城二之丸に当たります。 ★桶狭間の戦い、三城五砦史

 信長の名前は桶狭間の戦いで一躍全国に知られることになります。来月は桶狭間の戦いを巡る三城五砦史をお送りします。乞ご期待。

(2022年9月)


第242話 「尾張名古屋・歴史街道を行く」大和守家と伊勢守家

立秋を過ぎましたが、まだまだ暑い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。 「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺・城郭・尾張藩幕末史―」をお送している今年からのかわら版。今月は大和守家と伊勢守家についてです。

★尾張守護代織田氏の台頭

 尾張では守護の斯波氏を抑えて守護代織田氏が台頭します。さらに守護代分家に過ぎなかった織田信長が尾張を制します。

 尾張の戦国史は複雑です。信長台頭までを辿ります。

 一四六七(応仁元)年、応仁の乱が勃発。尾張、越前、遠江の三国守護斯波義廉は西軍、家督争いで対立する斯波義敏は東軍となりました。

 一四七五年、東軍の駿河守護今川氏が遠江に侵攻。尾張にいた東軍義敏の子義寛がこれを撃破。同じ東軍であっても領国侵犯は許しませんでした。

 越前では西軍から東軍に寝返った朝倉孝景が越前守護を自称して西軍を一掃。一四八一年、朝倉氏は同じ東軍であり主君でもあった義敏の勢力も駆逐。両軍相乱れて敵味方が判別できない状態でした。

 尾張国は守護代織田敏広(伊勢守家)が西軍であり、西軍優勢の地域でした。この頃、尾張守護所は下津城(中島郡)から清洲城(春日井郡)に移されます。

★幕府裁定で上下四郡分割統治

 斯波義廉は八代将軍足利義政の不興を買って管領職、三国守護職、斯波氏家督の全てを剥奪され、西軍優勢の尾張へ落ち延び、敏広とともに巻き返しを図ります。

 しかし、応仁の乱終結後の一四七八年、東軍であった尾張又守護代織田敏定(大和守家)が九代将軍足利義尚から正式な尾張守護代と認められると、義廉と敏広は討伐対象となって清洲城を追われます。

 織田敏広は岳父である美濃国守護代斎藤妙椿(旧西軍)の支援を得て、清洲城を包囲。 一四七九年、幕府仲裁により敏広と妙椿は清洲城の包囲を解き、尾張上四郡(丹羽郡、葉栗郡、中島郡、春日井郡)を伊勢守家(岩倉織田氏)、尾張下四郡(愛知郡、知多郡、海東郡、海西郡)を大和守家(清洲織田氏)が治めることで和睦しました。

 一四八一年、伊勢守家と大和守家が再び争い、勝利した伊勢守家を継いだ織田寛広は斯波義寛に帰順し、一四八三年、都から尾張に下向した義寛が清洲城に入城。これにより尾張は一時的な安定期を迎えます。

 一四九四年、美濃国守護土岐氏の家督争いが起きると、守護代斎藤妙純と重臣石丸利光が対立。隣国の争いに際し、織田寛広(伊勢守家)は斎藤方、織田敏定(大和守家)は石丸方に付き、尾張国内は乱れます。合戦終結の翌年、斎藤妙純が近江で戦死。後ろ盾を失った伊勢守家の勢力は衰えました。

 この間、斯波氏の領国であった遠江には駿河国守護今川氏親が侵攻。斯波義寛を継いだ義達は遠江遠征を繰り返したものの、織田氏は従軍せず。遠征を巡って斯波氏と織田氏に意見の対立があったようです。

 一五一三年、下四郡守護代織田達定が守護斯波義達に反旗を翻したものの、義達によって返り討ちにされます。

 守護代の下剋上を阻止した義達は遠江遠征を続けたものの、一五一五年、敗北して今川方の捕虜となり、尾張へ送還されて失脚。わずか三歳の斯波義統が当主となり、斯波氏の実権は失われました。

★織田信長による尾張統一

 この混乱期に台頭したのが清洲織田氏(大和守家)三奉行家のひとつである織田弾正忠家の織田良信・信定親子です。津島湊に居館を構えて水上交易を押さえ、海西郡や中島郡にまで勢力を伸ばし、一五二七年、信定が子の信秀に家督を譲った頃の弾正忠家は主家を凌ぐ勢力を誇っていました。

 一五三二年、信秀は今川氏豊から那古野城を奪い、さらに勢力を拡大し、美濃国斎藤氏、三河国松平氏、駿河国今川氏との緊張を高めていきます。

 信秀没後、相続を巡って大和守家から干渉されたものの、織田信長が家督を継承。信長は守護斯波義統が下四郡守護代織田信友に討たれると、子の斯波義銀を奉じて清洲織田氏(大和守家)を滅ぼし、さらに対立する岩倉織田氏(伊勢守家)も滅ぼしました。

 その後、義銀が信長追放を企てると、逆に義銀を追放して尾張を統一しました。 織田家中の混乱に乗じて今川義元が尾張に進出すると、一五六〇年、信長は桶狭間の戦いで義元を討ち取りました。

信長は、尾張知多郡や三河碧海郡を治めていた水野信元、義元が没して今川方から離脱して岡崎に帰城した三河の松平元康、養女を嫁がせた甲斐の武田信玄と同盟を締結。信長はこうした外交戦略で東側、南側の懸念を払拭したうえで、美濃・伊勢へ勢力を広げました。

 以後、一五八二年に本能寺の変で亡くなるまでの信長の一生はよく知られています。

★織田家城郭史

 越前剣神社の神官を祖とし、斯波氏家臣から尾張守護代として台頭した織田氏。来月は尾張における織田家城郭史をお送りします。乞ご期待。

(2022年8月)


第241話「尾張名古屋・歴史街道を行く」斯波氏と織田氏

 今年は六月から猛暑でしたが、いよおいよ夏本番。くれぐれもご自愛ください。 「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺・城郭・尾張藩幕末史―」をお送している今年からのかわら版。今月は斯波氏と織田氏についてです。

★尾張国の鎌倉街道

 尾張国の古代は尾張氏が司り、中世は斯波氏が支配します。やがて織田氏が台頭し、近世は尾張徳川家が治めます。

 織田信長の生涯はよく知られていますが、中世斯波氏と信長以前の織田氏の歴史は複雑です。尾張の中世史に入ります。

 平安時代末期、熱田大宮司を務めていたのは藤原季範(すえのり)です。

 季範は父が目代として赴任した尾張国で生まれました。母は尾張氏であったため、季範は尾張氏一族として熱田神宮大宮司を務めることになります。

 この頃、都では源平の争いが激化し、その対立が全国に波及しつつありました。武士が古代東海道や東山道で東西を往来する頻度が増し、とりわけ東国武士と繋がる源氏は尾張国を頻繁に訪れていました。

 やがて源義朝が季範の娘、由良御前を娶り、ふたりの間に生まれたのが源頼朝です。

 また、季範の養女(孫娘)は足利義康(足利氏祖)に嫁ぎ、熱田大宮司家は足利氏にも血脈をつなぎました。義康から数えて八代目が室町幕府を開く足利尊氏です。

 頼朝が鎌倉幕府を開くと、鎌倉と京の往還道として、古代東海道と宮宿から東山道に向かう経路が東西交通の要路となりました。尾張国の鎌倉街道です。

★尾張守護・斯波氏

 鎌倉時代から室町時代にかけて氏姓制度に基づく朝廷支配は形骸化し、朝廷が任命する国司は力を失い、武士が各地の守護大名として台頭します。

 室町幕府の足利将軍家とつながりの深い有力氏族のひとつが斯波氏です。斯波氏は鎌倉時代に足利宗家から分家したことに始まります。氏名(うじな)は鎌倉時代に陸奥国斯波郡を所領としたことに由来します。

 十四世紀、後醍醐天皇の倒幕運動に宗家足利尊氏が与すると、当主斯波高経がこれに従いました。建武新政を始めた後醍醐天皇と尊氏が袂を分けると、高経はやはり尊氏を支えて室町幕府の有力者となります。

 その後、高経の四男義将が執事となり、高経が後見します。執事は足利宗家の家政機関として家領や従者を管理する立場を超え、幕政に参与する有力守護大名の長を意味する管領職に形を変えます。高経は管領の父として幕府の主導権を握りました。

 高経没後、義将は三代将軍義満、四代将軍義持を支え、約三十年間にわたって幕府宿老として大きな影響力を持ちました。

 斯波氏は畠山氏、細川氏とともに三管領家となり、しかも筆頭の家柄として重んじられます。

 義将の子義重は、一三九九(応永六)年の応永の乱における功により尾張守護職に、さらに後には遠江守護職に任じられ、父から継いだ本領越前を合わせた三ヶ国守護職を務めます。以後、戦国期を通して約百五十年間、尾張国は斯波氏の領国となりました。

 斯波氏は子孫が代々尾張守に叙任されたことから足利尾張家と呼ばれるようになります。

★織田氏の登場

 義重は、越前における被官である織田氏、甲斐氏、二宮氏らに尾張赴任を命じ、荘園・公領に給人として配置します。

 一四〇五(応永十二)年、義重は尾張守護所であった下津城の別郭として清洲城を築城しました。 一四二九(永享元)年、六代将軍に足利義教が就くと、強権的な政治を行う義教と宥和的な政策を目指す義重の子義淳は相容れません。一四三二(永享四)年、義淳は管領を辞職し、翌年病没しました。

 義淳を継いだ弟の義郷やその子義健も相次いで早逝し、その間に勢力を伸ばした細川氏や畠山氏に押され、斯波氏の権勢は大きく後退します。

 細川氏が畿内を制し、畠山氏も畿内周辺に領地を有していたのに対し、斯波氏の領国は都から遠い尾張・越前・遠江に分散していました。そのため、斯波氏の当主は都に住み、領国支配を守護代に任せます。

 その結果、領国の実権は次第に越前守護代朝倉氏や尾張守護代織田氏等の重臣に握られます。

 義健没後、義敏と義廉が家督を巡って争い、その際に将軍家・畠山氏の家督争いも絡み合い、一四六七(応仁元)年に応仁の乱が勃発。義廉は西軍の主力となりました。

 一方東軍に属した義敏も越前に下って一円支配を目指しましたが、越前守護代の朝倉氏に実権を奪われました。

 尾張では義敏の子孫が守護代織田氏に推戴され、斯波氏は形式的な守護として存続しました。遠江は駿河守護今川氏の支配下となり、斯波氏の越前・尾張・遠江における影響力は失われました。 ★斯波氏と織田氏

 尾張国史に斯波氏の家臣として登場した織田氏。その後、伊勢守家(清洲織田氏)と大和守家(岩倉織田氏)に分かれて勢力を争います。来月は織田家攻防史です。乞ご期待。

(2022年7月)


第240話「尾張名古屋・歴史街道を行く」国分寺と国分尼寺

梅雨の季節ですが、既に三十度を超えた日もあります。天候不順です。くれぐれもご自愛ください。 「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺・城郭・尾張藩幕末史―」をお送している今年からのかわら版。今月は国分寺と国分尼寺についてです。

★氏族仏教から国家仏教へ

 日本への仏教公伝は五三八年です(五五二年説もあります)。当初は氏族仏教でしたが、六四五(大化二)年の仏教興隆の詔を機に朝廷が認める国家仏教に転じていきます。

 四十五代聖武天皇の頃、平城京で疫病が蔓延し、民衆には不安が広がりました。 これを払拭すべく、七四一(天平十三)年、聖武天皇は各地の国府に国分寺・国分尼寺建立の詔を発します。

★国分寺

 続日本紀には、尾張国の国府の場所は鵜沼川(木曽川)下流と記されています。

 尾張国分寺は矢合町(やわせちょう)椎ノ木辺りと考えられます。三宅川左岸の北東方向、自然堤防上に国府推定地(尾張大国霊神社付近)があります。他の国府と国分寺の位置関係に比べるとかなり遠くに建立された印象です。国府域が広かったとも言えます。

 矢合の畑の中に国分寺址の石碑があり、寺域は大規模で、金堂・講堂・塔の遺構が確認されています。金堂・講堂・南大門が南北一直線に並び、金堂左右に回廊があり、その東に塔が配置されていました。

 日本紀略には、八八四(元慶八)年に尾張国分寺が焼失し、国分寺を愛智郡の願興寺に移したと記されています。願興寺は十世紀には衰退して廃寺に至ります。

 その後の変遷は不詳ですが、創建時の遺構北方において、円興寺から改称した国分寺が法燈を伝承しています。創建期の国分寺跡の北に位置します。円興寺と願興寺の関係は不詳です。

 円興寺は十四世紀の創建で、開基は大照和尚、覚山和尚、柏庵宗意と諸説あります。 木造釈迦如来坐像が大小二体あり、いずれも宝髻を結い、宝冠をいただくので、宝冠釈迦像と呼ばれます。寺の南に熱田神宮の神領である鈴置郷があったため、檜材寄木造りの熱田大宮司夫妻坐像も伝わります。

 円興寺はかつて北方の一本松の地にありましたが、十七世紀初頭に矢合城址の現在地に移り、その際に旧国分寺の釈迦堂(国分寺堂)が椎ノ木から境内に移されました。 旧国分寺の本尊とされる薬師如来像も安置され、のちに円興寺の本尊となりました。そうした経緯から、旧国分寺の継承寺院となりました。

 江戸時代の尾張名所図会では、近隣の円光寺(萩寺)とともに「両円こう寺」として紹介されています。後に円興寺改め国分寺となります。

★四楽寺

 いずれの国においても、国分寺の周りには徐々に寺院が増えていきます。最初は南都六宗の寺院が創建され、やがて最澄、空海が平安仏教の礎を築くと、天台宗、真言宗の寺院が建立されていきます。

 尾張国は奈良や京都、比叡山、高野山に近いことが影響し、南都六宗、天台宗、真言宗の寺院が他国よりも早く、かつ多数建立され、全国で最も寺院数が多い地域となっていきます。

 旧国分寺の東西南北には四楽寺と呼ばれた末寺が建立されました。北方の安楽寺、東方の平楽寺、南方の長楽寺、西方の正楽寺です。長楽寺の後継は現在の長歴寺です。

★国分尼寺

 国分尼寺が建立された場所は国分寺跡から北西に半里弱の法花寺町辺りです。

 近くにある法華寺が国分尼寺を伝承するとの説もあります。 これは、江戸時代中期の尾張藩士で国学者として知られていた天野信景が著作「塩尻」の中で「国分尼寺の名残が法花寺村の法華寺にあたる」と記して以来の説です。

 九八八(永延二)年の尾張国郡司百姓等解文、一〇〇九(寛弘六)年の大江匡房奏状において国分尼寺修造に関する記述があり、国分寺より長く十一世紀までは存続したことが確認されています。

 その後の経緯は不詳ですが、寺伝によれば永正年間(一五〇四〜二一年)に無味禅公が才赦桂林を招いて尼寺跡地に堂宇を建て、国鎮寺と号したことに始まります。織田氏の兵火に遭ったものの、残った小堂を現在地に移し、後に法華寺と改称しました。

 法華寺から西へ半里弱の位置に建仁年間(一二〇一〜〇四年)創建の善応寺があります。織田信長の鉄砲隊長であった道求一把が再興したと伝わります。この地域には尾張氏や織田氏との由来が伝わる社寺が多数あります。

 善応寺の南東一里弱の位置に長暦寺があります。上述のとおり、四楽寺のひとつ長楽寺の法燈を継承する寺院です。 ★斯波氏と織田氏

 国府、国分寺、国分尼寺と揃った尾張国。都にも近く、豊かな尾張国の守護として斯波氏が任命されます。来月は斯波氏と織田氏についてです。乞ご期待。

(2022年6月)


第239話「尾張名古屋・歴史街道を行く」尾張国府

 新緑が映える季節になりましたが、寒暖の差が激しい日もあります。ご自愛ください。 「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺・城郭・尾張藩幕末史―」をお送している今年のからのかわら版。今月は尾張国府についてです。

★尾張国府と駅路

 尾張氏が治めた尾張国にも律令制の下で国府が置かれます。国府は各地の中心地域に設けられ、国府間は道で結ばれます。

 七世紀頃の文献や木簡には尾張国と尾治国の二つの表記が見られます。いずれも「尾張氏が治めた国」という意味です。

 尾張氏は尾張国造を務めました。国造は「くにのみやつこ」または「こくぞう」と読み、地方を治める官職を指します。

 各地の国造は土着の豪族が務め、尾張国においては尾張氏です。

 六四五(大化元)年の大化改新から七〇一(大宝元)年の大宝律令の間に、古代国は徐々に整理されて令制国(りょうせいこく)に置き換わります。

 令制国とは律令制に基づいて設置された地方の行政単位です。律令国とも言い、中央から国司が任命または派遣されました。

 令制国の政府機関は国衙(こくが)または国庁(こくちょう)であり、国衙の所在する地域を国府(こくふ、こう)または府中と呼びます。尾張国の国府は稲沢です。

国府には国庁のほか、国分寺・国分尼寺、総社(惣社)が設置され、令制国における政治・司法・軍事とともに宗教の中心地となりました。

 国分寺・国分尼寺の建立は七四一(天平十三)年、聖武天皇による国分寺建立詔に端を発します。

 都と令制国の国府の間には駅路(七道駅路)が造られ、川や海に隣接する国府には、国府津と呼ばれる湊も設けられました。

 この時代の伊勢湾の海岸線は稲沢に近い位置にあり、周辺には木曽川や日光川が流れていたことから、尾張国府の国府津の役割を担ったのが津島です。

 国府には国司のほか、役人や国博士、国医師などが配置され、小国で数十人、大国では数百人規模だったと推定されます。周辺に集まる農民や商人も含めると千人を超える町となり、畿内以西の大国や大宰府では数千人に達していました。

★松下と下津

 肥沃な尾張国は農業生産力が高く、古代から須恵器なども作られ、畿内に近いこともあって、朝廷を支える律令国として成長します。

 尾張国府の具体的な場所については、地名を根拠に次の二ヶ所が比定されています。 ひとつは稲沢の松下。この地域には「国衙」という小字があります。推定地域は三宅川の自然堤防上であり、真北を基線として国府が形成されたと考えられます。近くに尾張大国霊神社が総社として鎮座していたことも有力な根拠です。

 もうひとつは稲沢の下津。この地域には「国府」と名の付く小字があり、相次ぐ洪水が原因で松下から下津に国府が移ったとする説もあります。下津は宿場町として発展し、室町期には守護所も置かれました。その基盤が国府時代に形成されたと考えられます。

 倭・百済連合軍と唐・新羅連合軍が戦った白村江の戦い(六六三年)以降、大陸や朝鮮半島からの侵攻に備え、朝廷は九州に防人を配置します。尾張国は防人に任じられた東国人が西国に向かう際の往還路となり、往来が増え、街道や宿場町の原形が生まれます。

★尾張八郡

 七〇一(大宝四)年に朝廷は初めて「日本」という国号を使いました。その後、地方は国・郡・里の三段階に区分されます。七〇四年には全国の国印が鋳造され「尾張国」という表記が定着します。

 律令体制下においても国造は存続し、律令国造と呼ばれます。しかし支配の実権は国司に移り、国造は祭祀を司る世襲制の名誉職として、国造の後裔である郡司が兼任しました。九世紀に編纂された国造本紀には、全国百三十五の国造の設置時期と被官者の記録があります。

 九二七(延長五)年の延喜式によれば、尾張国は海部・中嶋・葉栗・丹羽・春部・山田・愛智・知多の八郡とされています。

 鎌倉時代にも依然として国府と国司は存在しましたが、南北朝時代の混乱で国司の実権は失われ、守護の力が増大します。

 室町時代に入ると守護による領国支配が進み、軍事警察権のみならず行政権も手にした守護を守護大名と呼ぶようになります。国司は名目だけの官職となり、守護大名や守護代、有力な国人などから勃興した戦国大名が領国支配の正当性を主張するようになります。国府は徐々に忘れ去られた存在になっていきました。

この時期に尾張国を治めたのが三管領のひとつ斯波氏であり、後に斯波氏の臣下から織田氏が台頭します。

★国分寺と国分尼寺

 尾張国府が置かれた稲沢には、国分寺と国分尼寺も創建されました。来月は稲沢の国分寺、国分尼寺についてです。乞ご期待。

(2022年5月)


検索でさがす

大塚耕平

  • 2002年から「弘法さんかわら版」を書き続けています。仏教に親しみ、仏教から学び、仏教を探訪しています。より良い社会を目指すうえで仏教の教えは大切です。「弘法さんかわら版」は覚王山日泰寺(名古屋市千種区)と弘法山遍照院(知立市)の弘法さんの縁日にお配りしています。縁日はお大師様の月命日に立ちます。覚王山は新暦の21日、知立は旧暦の21日です。
  • 著書に「お大師様の生涯と覚王山」(大法輪閣)、「仏教通史」(大法輪閣)など。全国先達会、東日本先達会、愛知県先達会、四国八十八ヶ所霊場開創1200年記念イベント(室戸市)、中日文化センターなどで講演をさせていただいています。毎年12月23日には覚王山で「弘法さんを語る会」を開催。ご要望があれば、全国どこでも喜んでお伺いします。
  • 1959年愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒、同大学院博士課程修了(学術博士、専門はマクロ経済学)。日本銀行を経て、2001年から参議院議員。元内閣府副大臣、元厚生労働副大臣。現在、早稲田大学総合研究機構客員教授(2006年~)、藤田医科大学医学部客員教授(2016年~)を兼務しています。元中央大学大学院公共政策研究科客員教授(2005年~17年)。