弘法さんブログ

第204話 覚王山日泰寺縁起 (6) 大谷光演

皆さん、こんにちは。梅雨の季節です。腰痛や神経痛が気になりますね。くれぐれも ご自愛ください。

今年は実録・覚王山日泰寺縁起をお伝えしているかわら版。世界的に本物と認められ ている仏舎利(お釈迦さまのご真骨)がなぜ日泰寺に祀られたのか。その歴史を探訪 しています。

★ワット・サケット

大谷光演(句仏上人)を正使とする日本からの仏舎利奉迎使節団がバンコクに到着し たのは、一九〇〇年(明治三十三年)六月十一日夕刻。

十二日と十三日、奉迎使節団は旅装を解き、バンコク市内を見学するとともに、チュ ラロンコン国王に拝謁する準備を進めました。

記録には、タイ文科省の役人ルアングバイサルの案内でワット・ボヴォニベーという 寺院を見学したと記されています。

使節団の興味を引いたのは、境内に設置されているパーリ語の語学学校。タイで僧に なるにはパーリ語の学習が必須と聞かされました。

インドで生まれた仏教。シルクロードを経由して中国に伝わった仏典はサンスクリッ ト語、スリランカ、インド洋を経由して東南アジアに伝わった仏典はパーリ語で書か れていました。前者は北伝仏教、後者は南伝仏教です。

仏典を原語で読むことを推奨するタイの仏教教育の熱心さに驚いたそうです。

日本に伝わったのは北伝仏教。サンスクリット語からシルクロードの言葉に訳され、 さらに中国語に訳されて日本に伝わりました。使節団はサンスクリット語で仏典を読 むことの必要性を感じたのかもしれませんね。

十四日、再び文科省の役人の案内で古刹ワット・スドゥースに続いて、高名なワッ ト・サケットを訪問。

ワット・サケットは建物だけでも六百三十棟を擁する大寺院。高さ三十メートル、周 囲二百七十メートルで、ゴールデンヒル(黄金の丘)と呼ばれる高さ五十メートルの 丘の上にあります。その最も高台にある仏塔に、前年、インド(英国政府)から寄贈 された仏舎利が奉安されていました。

★ワット・ポー

ワット・サケット見学中に、急遽、チュラロンコン国王からお召しがあり、稲垣満次 郎駐タイ公使と大谷光演正使ほか一行は宮殿に参内。

国王から仏舎利分骨の示達があり、翌日、贈与の式典が行われることとなりました。

十五日、奉迎使節団は三度(みたび)文科省の役人の案内で今度は大寺ワット・アル ンを見学。そして夕刻、いよいよ式典のために宮殿内のワット・ポーに向かいまし た。

ワット・ポーは「菩提の寺」という意味。王室寺院であり、巨大な黄金の涅槃仏があ ることから「涅槃寺」とも呼ばれています。

ワット・ポーはバンコクで最大、最古の寺院。現在まで続くチャクリー王朝が一七八 二年に始まって以来、ワット・ポーは王族の庇護の下で発展してきました。

記録によれば、式典では王室勅使が式辞を読み、正使大谷光演師が答辞を朗読。

読経、三帰依文の黙誦三拝の後、王室勅使が奉迎正使に仏舎利の入った小黄金塔を授 与。

大谷正使は小黄金塔を日本から持参した宝珠形仏塔の中に納め、さらに金襴の嚢に入 れたうえで二重の桐箱に奉納。仏舎利授与の式典は無事に終了しました。

★大小二仏(結跏趺坐像)

十六日は宮殿内、十七日は古都アユタヤを見学した使節団。

帰国前日の十八日、チュラロンコン国王は奉迎使節団を王宮に招聘。奉迎使節団は帰 国後に超宗派の仏舎利奉安寺院を建立することを約束しました。

満足した国王は、チェンマイの北にある古代タイ国の都で千年以上前に鋳造されたタ イの国宝である大小二仏(結跏趺坐像)を下賜。大きな仏像は仏舎利奉安場所に安置 することを希望し、小さな仏像は大谷正使に贈られました。また、サオパワー・ポン シー王妃の三蔵写経も寄贈されました。

さらに、寺院建立に当たってはタイ国王及び王族から木材を寄贈することを約束され ました。

★長崎晧台寺(こうたいじ)

六月十九日、奉迎使節団は帰国の途につきます。そして、七月十一日に長崎に到着 し、長崎三大寺のひとつ、晧台寺に奉安されます。来月は長崎上陸から京都奉安まで の道中です。乞ご期待。

(2019年6月)


第203話 覚王山日泰寺縁起 (5) 石川舜台

皆さん、こんにちは。令和元年、新緑の季節になりました。つい薄着になりがちです が、風邪など召されぬように、くれぐれもご自愛ください。

今年は実録・覚王山日泰寺縁起をお伝えしているかわら版。世界的に本物と認められ ている仏舎利(お釈迦さまのご真骨)がなぜ日泰寺に祀られたのか。その歴史を探訪 しています。

★石川舜台

一八九八年(明治三十一年)、インドとネパールの国境近く、ピプラーワーで発見さ れた本物の仏舎利(お釈迦さまのご真骨)が仏教国タイのチュラロンコン国王から日 本に分骨されることになりました。

駐タイ公使稲垣満次郎と青木周蔵外相から仏舎利奉迎使節団の派遣を要請された仏 教界。いち早くこれに呼応したのは東本願寺(真宗大谷派)の当時の実力者、石川舜 台参務でした。

その背景にはふたつの理由があったようです。

ひとつは、当時は日本仏教が廃仏棄釈の受難から日本仏教が復興し始めた時期。仏舎 利奉迎を主導することで、大谷派が仏教復興の中心的役割を果たそうと考えていたよ うです。

もうひとつは元陸軍の岩本千綱との関係。岩本は退役後にタイに渡り、タイの王室や 要人とも知遇を有する存在でした。

チュラロンコン国王の方針を知らされた東京滞在のリッティロン・ロナチュート駐日 タイ公使は、旧知の岩本に分骨・奉迎事業が円滑に進むよう、協力を要請しました。

そこで岩本は、交流のあった石川舜台にその旨を伝えたそうです。人間関係のご縁と いうのは不思議なものですねぇ。

★釈尊御遺形奉迎使節団

石川の努力もあって、日本への分骨決定から二ヶ月後の一九〇〇年(明治三十三年) 四月、当時の主要十三宗五十六派の管長が協議し、仏舎利拝受を決定するとともに、 帝国仏教会が組織されました。

帝国仏教会は仏舎利仮奉安所と奉迎事務所を京都妙法院に設置。

貴族の子弟が歴代住持を務める別格寺院を門跡と言いますが、妙法院は青蓮院、三千 院とともに天台三門跡と称されてきた古刹です。

協議の結果、タイに派遣する仏舎利奉迎使節団は以下の奉迎正副使四人、随行者十四 人の合計十八人で結成されることとなりました。

正使は東本願寺の次期法主に内定していた大谷光演(句仏上人)。この時、若干二 十五歳。光演の教育係は名古屋生まれの明治の学僧、仏教改革者として著名な清沢満 之(まんし)。光演が奉迎する仏舎利が、後に名古屋に奉安されることになるのも奇 縁です。

副使は曹洞宗の日置黙仙(後の永平寺貫主)、浄土真宗本願寺派の藤島了穏、臨済宗 の前田誠節。

副使の日置は静岡県にある曹洞宗の名門寺院、可睡斎(かすいさい)の斎主。後年、 日泰寺の住職となり、日泰寺造営には可睡斎の雲水たちが活躍しました。

随行者の筆頭、南条文雄は日本の文学博士第一号。語学に堪能で、バンコクでの奉 迎事業では大活躍したと伝わっています。

なお、奉迎使節団の正式名称は釈尊御遺形奉迎使節団。「遺形」は「いけい」また は「ゆいぎょう」と読みます。仏舎利に敬意を表した表現です。

五月二十二日、奉迎使節団は京都を出発。翌二十三日、神戸港から博多丸で出航。翌 二十四日に門司に入港し、二十六日朝、タイに向けて日本を離れました。

使節団は、香港、サイゴンを経てシンガポールに上陸。六月八日、シンガポール号に 乗り換えて出航。六月十一日、バンコクに到着しました。

当時の新聞によると、バンコクでは花火が打ち上げられ、街中に日本とシャムの国旗 が掲揚され、歓迎の人々で溢れていたそうです。

★ワット・ポー寺院

いよいよバンコクでの仏舎利分骨、奉迎の式典です。六月十九日にバンコクを離れる までの九日間。この間、奉迎使節団はワット・ポー寺院で仏舎利を拝受します。来月 はその模様をお伝えします。乞ご期待。

(2019年5月)


第202話 覚王山日泰寺縁起 (4) 稲垣満次郎

皆さん、こんにちは。いよいよ春本番。平成最後の月となりました。季節の変わり目 です。くれぐれもご自愛ください。

今年は実録・覚王山日泰寺縁起をお伝えしています。世界的に本物と認められている 仏舎利(お釈迦さまのご真骨)がなぜ日泰寺に祀られたのか。その歴史です。

★稲垣満次郎

一八九八年(明治三十一年)、インドとネパールの国境近く、ピプラーワーという場 所で本物の仏舎利(お釈迦さまの骨)が発見されました。

翌一八九九年(明治三十二年)、仏舎利は仏教国のタイ(当時はシャム)のチュラロ ンコン国王に寄贈され、タイ国民は歓喜してこれを迎えました。

チュラロンコン国王は寄贈された仏舎利を分骨し、同じ仏教国のセイロン(現在のス リランカ)、ビルマ(同ミャンマー)にも寄贈しました。

タイでのこの出来事を注視していた日本人がいました。初代駐タイ公使、稲垣満次 郎です。

稲垣は肥前(長崎県)平戸藩士の家に生まれ、維新後に日本のアジア外交策を説く 「東方策」という論文を発表して注目を集めていた外交官。

一八九七年(明治三十年)、日タイ修好条約締結に伴ってバンコクに日本公使館が設 置され、稲垣が初代公使に抜擢され、着任していました。

当時のアジアでは日本とタイは数少ない独立国。稲垣は両国の友好関係が深まれば、 欧米列強のアジア進出の歯止めになると考えていたようです。

一九〇〇年(明治三十三年)一月二十七日、稲垣はタイ外相テーワウォン・ワロパ カーン親王に日本への仏舎利分骨を願い出る書簡を送りました。

テーワウォン親王はチュラロンコン国王の弟。条約締結交渉以来、稲垣とは親しい関 係にあったそうです。

二月一日、早くも親王から稲垣に返書が届き、二つのことが書かれていました。

ひとつは、チュラロンコン国王は分骨を認め、日本からの仏舎利奉迎使を受け入れる こと。

もうひとつは、この分骨は日本仏教界全体に対するものであること。日本仏教界が宗 派の垣根を越えて協力することを望んでいました。

二月十四日、稲垣は日本の青木周蔵外相と各宗派管長宛に経緯を伝える書簡を送り、 タイ国王から仏舎利を拝受する奉迎使節団の覇権を要請しました。

稲垣はこの時、自分を公使に任命した大隈重信前外相にも書簡を送付。以後、大隈は 稲垣の動きを側面支援し、日泰寺創建時には木材を寄付しています。

★仏教復興

ところで、その当時の日本の仏教界はどんな様子だったのでしょうか。

一八六八年(明治元年)、神仏判然令が発布され、廃仏毀釈が始まりました。

福沢諭吉は自著の中で「維新の初めに廃仏の議論を聞きて僧侶の狼狽甚だし」と記 しています。

そうした動きに対して、各宗派は対策に乗り出し、最も迅速だったのは東西本願 寺。金策に苦しむ明治政府に資金を融通して懐柔しました。

また、各宗派は欧米諸国に使節団や留学生を派遣し、欧米宗教事情を参考にして日 本仏教の改革と復興を企図。政府に数々の建白書や論文を提出しました。

こうした努力もあって、一八七五年(明治八年)には信教の自由保障の口達が発布 され、信教の自由が確立。

それ以降、各宗派は教育機関等を整備。一八九六年(明治二十九年)、東本願寺の 真宗大学(現在の大谷大学)開学。一九〇〇年(明治三十三年)には帝国仏教会が組 織されました。

ピプラーワーで仏舎利が発見され、日本への分骨が決まったのはまさにこの頃。当時 の仏教界にとっては仏教復興に寄与する朗報でした。

★石川舜台

稲垣の要請に強い関心を示し、いち早く呼応したのは、東本願寺(浄土真宗大谷派) の実力者、石川舜台参務でした。

来月は仏舎利奉迎使節団が結成される経緯をお伝えします。乞ご期待。

(2019年4月)


第201話 覚王山日泰寺縁起 (3) チュラロンコン国王

皆さん、こんにちは。いよいよ春本番ですが、朝晩は寒い日もあります。くれぐれもご自愛ください。実録・覚王山日泰寺縁起をお伝えしている今年のかわら版。世界的に本物と認められている仏舎利(お釈迦さまのご真骨)がなぜ日泰寺に祀られたのか。その歴史です。

★歴史的発見

ウィリアム・クラクストーン・ペッペが発掘した塚の頂上から地下八メートルのところで出土した石板。それは一枚岩をくりぬいて作った大石櫃の蓋でした。

大石櫃は縦百三十二センチ、横八十二センチ、高さ六十六センチ、蓋の重さは百八十五キロ、大石櫃全体では六百九十六キロという記録が残っています。

大石櫃の中には水晶製の壺一個、滑石製の壺四個、数百点の金銀宝玉や装身具などが収められており、壺のひとつには人骨が確認され、その蓋には紀元前四世紀頃の古代文字で何か記されていました。

この発見は本国(英国)に報告され、欧米諸国の考古学者たちに伝わりました。

まもなく、英国、フランス、オーストリアの考古学者が発見場所であるピプラーワーにやってきました。考古学者たちが人骨の入っていた壺の蓋の古代文字を解読したところ、次のような内容でした。

「これは仏陀世尊の舎利(骨)を納めるものであり、栄光ある釈迦族の人々のものである」。つまり、お釈迦さまの骨であるという記述です。

骨壺の大きさは直径十センチ、高さ十五センチでした。この歴史的発見は西洋の歴史学界や宗教学界を驚かせました。

西洋ではお釈迦さまは架空の人物と思われていましたが、この仏舎利の発見が、お釈迦さまは実在の人物であったと認識される契機となりました。

★チュラロンコン国王

ペッペは発掘遺物の全てを英国政府に引き渡しました。

英国政府は発掘遺物をロンドン大英博物館とカルカッタ博物館と発見者ペッペに分配するとともに、仏舎利は当時仏教を国教とする唯一の独立国であったシャムの王室に寄贈することとしました。

この英国政府の判断には、インドがヒンズー教中心の国であったことも影響しています。

二〇〇一年の国勢調査によれば、インドの宗教構成は、ヒンズー教八〇・五%、イスラム教一三・四%、キリスト教二・三%、シーク教一・九%、仏教〇・八%、ジャイナ教〇・四%。ピプラーワーで仏舎利が発見された頃もあまり変わりなかったようです。

発見の翌一八九九年(明治三十二年)一月、タイのチュラロンコン国王はインドへ使者を派遣。仏舎利を拝受しました。

同年二月、仏舎利は軍艦に護衛されてバンコクに到着。白い象に乗せられて街を練り歩き、王立プラケウ寺院に向かい、最高塔ワット・サケットに安置されました。ワット・サケットは十四世紀アユタヤ朝から存在し、標高八十メートルの黄金の丘の上にそびえます。

バンコクでは三十余日も続く大法要が営まれ、仏教を篤く信仰するシャム国民は祝賀ムードにわきかえったと記録されています。

チュラロンコン国王は別名ラーマ五世。一八六八年生まれですから、仏舎利を寄贈された当時は三十一歳。即位してすぐ欧米諸国を視察し、タイの近代化に努めた国王として知られており、今でも国民の人気が高いそうです。

チュラロンコン国王が行った近代化はチャクリー改革と呼ばれています。奴隷売買禁止、議会制・官僚制導入、学校教育開始、鉄道建設など、日本の明治維新と似ています。

ちなみに、チャクリーは王朝の名前。つまり、チャクリー朝ラーマ五世がチュラロンコン国王の正式名です。

★稲垣満次郎

チュラロンコン国王は拝受した仏舎利の分骨を願い出たビルマ(現在のミャンマー)、セイロン(同スリランカ)に分与。ロシアにも分与したとの記録もあります。

さて、この状況に現地で接していたひとりの日本人がいました。初代駐シャム公使、稲垣満次郎です。稲垣はチュラロンコン国王に日本への分骨を願い出ます。詳しくは来月。乞ご期待。


第200話 覚王山日泰寺縁起 (2) ウィリアム・ペッペ

皆さん、こんにちは。春が待ち遠しい季節ですが、寒い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。弘法さんかわら版は二○〇号になりました。ご愛顧ありがとうございます。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

さて、覚王山日泰寺縁起をお伝えしている今年のかわら版。世界的に本物と認められている仏舎利(お釈迦さまのご真骨)がなぜ日泰寺に祀られたのか。その歴史です。

★八大聖地

インド北部のお釈迦さま縁(ゆかり)の地は聖地となっています。

生誕地はルンビニー、覚りを開いた場所はブッダガヤー、覚りの後に初めて説法した地がサーナルート、涅槃(ねはん)に入った(亡くなった)場所のクシナガラが四大聖地。

さらに、修業で籠もった霊鷲山(りょうじゅせん)のあるラージャグリハ、お釈迦さまが模範的な都市として一目置いたヴァイシャーリー、修業場所として信者が寄進してくれた祇園精舎(寺院)の所在地シュラーヴァスティ、昇天伝説のあるサンカーシャを加えると八大聖地。

このうち生誕地のルンビニーは、お釈迦さまの出身であるシャークヤ(釈迦)国の都カピラヴァストゥの近くです。

お釈迦さまは亡くなった後に荼毘に付され、遺骨(仏舎利)はお釈迦さまに帰依していた八つの国(部族)に分けられたと伝わっています。

当然、シャークヤ国にも分骨され、仏舎利を祀った場所がカピラヴァストゥと言われています。都ですから、当然です。

ところが、カピラヴァストゥの場所は考古学的には今なお論争になっていますが、仏舎利が発見されたピプラーワーこそがカピラヴァストゥではないかと考える説が有力です。

それにしても、その仏舎利はどのような経緯で発見されたのでしょうか。

★ウィリアム・ペッペ

その頃、インドは英国の植民地。ビクトリア女王がインド女王として君臨していました。インドには多くの英国人が駐在していましたが、そのひとりがウィリアム・クラクストーン・ペッペ。植民地の地方行政官でしたが、探検家でもあったと言われています。

当時は欧米諸国で考古学が盛んになっており、研究者や探検家によって古代文明のあった地域の探検や発掘が行われていました。映画インディ・ジョーンズのような世界ですね。

英国政府も植民地政策の一環として、一八六二年に考古調査局を設置して遺跡の発掘を奨励。ペッペもその政府の方針に沿って、自分の広大な所有地(管理地)を調査していました。

一八九八年(明治三十一年)、そのペッペがネパール国境に近いピプラーワーという場所で仏舎利を発見するのです。ピプラーワーはお釈迦さまが生まれたルンビニーという場所から西南方向に約三十キロメートル。

ペッペが以前から気になっていた小高い丘。不自然な形であったため、何かの遺跡であろうと考え、一八九七年(明治三十年)春、発掘を開始します。

丘を掘り下げていくと、煉瓦(れんが)造りの墓のような遺構が現れました。表土を取り除くと、全貌は直径三十五メートル余の人造の塚であることが判明。塚の中心に向かって、多数の煉瓦が漆喰(しっくい)で幾重にも積み重ねられていました。

一八九八年(明治三十一年)一月、遺構の頂上から三メートルほど掘り下げたところで石造りの瓶を発見。瓶の中には珠玉、水晶、黄金の装飾品が納められていました。

遺構の中には円形の空間が造られており、その中は土とアショカ王時代の特色を示す煉瓦で固められていました。アショカ王はお釈迦さま没後二百年後にインドを統一。仏教を篤く敬った王です。

そこからさらに五メートル掘り下げると、大きな石板が出現。石板は棺(ひつぎ)の蓋でした。

★歴史的発見

この棺の中から、いよいよ仏舎利(お釈迦さまのご真骨)が発見されます。そしてそれは、お釈迦さまが実在の人物であったことが認識される契機となる歴史的発見となります。詳しくは来月。乞ご期待。


第199話 覚王山日泰寺縁起 (1) 日本とタイ

皆さん、あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

弘法さんかわら版はまもなく二○〇号を迎えます。節目の今年は覚王山日泰寺の縁起を中心にお伝えします。創刊時にもお伝えしていますが、リメイク版です。お付き合いのほど、よろしくお願いいたします。

★「日本」と「タイ」で日泰寺

覚王山日泰寺の縁日には、県内各地からの多くの参拝客に加え、県外や海外からの観光客も訪れます。

覚王山日泰寺の縁日は「弘法さん」と呼ばれて親しまれています。しかし、どうして「弘法さん」の縁日が立っているのでしょうか。

名古屋弁的に表現すると「そりゃあ、おみゃ〜さま、弘法さんがおるんでしょ、日泰寺の中に」と連想する方もいると思いますが、それは違います。

日泰寺本堂に祀られているご本尊は、タイ国王から寄贈された釈尊金銅仏です。

正面にはプミポン国王(ラーマ九世、一九二七〜二〇一六年)直筆の勅額が掲げられており、タイの文字で「釈迦牟尼仏」と記されています。

勅額の両側には、プミポン国王とチュラロンコン国王(ラーマ五世、一八六八〜一九一〇年)のご紋章が輝いています。

さらに、本堂の左側にはチュラロンコン国王の立像(一九八七年建立)があり、タイ国旗が掲げられています。

ここまで書くと、お気づきのことと思います。日泰寺は「日本」と「タイ」で日泰寺です。 なぜ名古屋のこの場所に、「日本」と「タイ」で日泰寺というお寺が創建されたのか。今年の弘法さんかわら版は、その歴史を改めてお伝えしていきます。

★一八九八年(明治三十一年)

お釈迦さまは今から約二五○○年前の人です。本名をゴータマ・シッダールタといい、シャークヤ(釈迦)国の王子として生まれました。

その後、修業の旅に出て覚りを開き、後世、お釈迦さまと呼ばれるようになりました。

仏教、キリスト教、イスラム教は世界三大宗教と言われますが、イエスは約二○○○年前の人、ムハンマドは約一六○○年前の人。お釈迦さまと仏教が一番古い時代です。

西洋では、イエスもムハンマドも実在の人物として扱われてきました。一方、お釈迦さまについては、つい百年ほど前まで実在の人物ではないと考えられていました。日本人やアジアの人々にとっては、意外なことですね。

ところが、今から百二十一年前の一八九八年(明治三十一年)、インド北部、ネパールとの国境付近のピプラーワーという場所でお釈迦さまの遺骨(仏舎利)が発見されました。

日本を含むアジアの仏教国では、仏舎利が伝承されています。その信憑性は高くなく、中には石英やルビーといった鉱石や、人骨ではないものが祀られている場合もあります。

ところが、ピプラーワーで発見された仏舎利は西洋の歴史学、考古学、宗教学の分野でも、本物のお釈迦様の骨(ご真骨)であると認識され、この発見を契機にお釈迦さまは実在の人物であったと考えられるようになりました。

そして、その仏舎利(ご真骨)が覚王山日泰寺に祀られているのです。「どえりゃ〜ことだがや」と思われた人も多いと思いますが、そうです、「どえりゃ〜こと」なのです。

今年の弘法さんかわら版、覚王山日泰寺が建立され、ご真骨が祀られた経緯をお伝えします。実録・覚王山日泰寺縁起です。

★八大聖地

さて、来月は仏舎利が発見されたピプラーワーがどこにあったかをお伝えします。お釈迦さまの八大聖地のひとつ、ルンビニーの近くと言われています。乞ご期待。


第198話(2018年12月)

皆さん、こんにちは。いよいよ師走。今年もあとわずかですね。寒い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。

昨年から知多四国八十八ヶ所霊場についてお伝えしてきたかわら版。先月結願しましたので、今月は総集編です。

★最多は曹洞宗

知多四国八十八ヶ所霊場の開山は亮山阿闍梨。一八〇九年に発願し、岡戸半蔵行者、武田安兵衛行者ともに、十五年後の一八二四年に大願成就しました。

本四国の霊場と異なり、必ずしもお大師様縁のお寺ばかりではない中、亮山阿闍梨は知多半島全域のお寺に協力と参加をお願いして回ったそうです。

その結果、八十八ヶ所霊場の宗派構成は本四国とはずいぶん異なります。

本四国では八十八ヶ所のうち八十ヶ所が真言宗のお寺です(派は複数に分かれています)。

一方、知多四国で最も多いのは、もともと愛知県で勢力が強かった曹洞宗のお寺。三十五ヶ所に及びます。次が真言宗の二十九ヶ所、浄土宗の十一ヶ所と続きます。詳しくは表をご覧ください。

(注)「表」については、下記の「URL」から「かわら版」のPDFファイルにアクセスしてください。「表」がご覧いただけます。

★最多は観世音菩薩

ご本尊も本四国とは少し違います。本四国では薬師如来が二十四ヶ所と多いのが特徴です。病気平癒を祈願するお遍路さんが多かったことを反映しています。

一方、知多四国では薬師如来は四ヶ所。最多は観世音菩薩の三十二ヶ所。様々な観世音菩薩を合計していますので、それぞれの観世音菩薩(例えば十一面観世音菩薩)は阿弥陀如来の十六ヶ所に及びません。

本四国ではご本尊が弘法大師という札所はありませんが、知多四国にはあります。七十五番、雨宝山誕生堂のご本尊が弘法大師です。

★南無大師遍照金剛

知多四国八十八ヶ所霊場の紙上遍路の二年間の旅。お付き合いいただき、ありがとうございました。お疲れ様でした。

来年のテーマは覚王山日泰寺縁起。かわら版創刊時に少しお伝えしましたが、読者の皆様のご要望にお応えしてリメイク版をお届けします。乞うご期待。

引き続きよろしくお願い申し上げます。それでは良い年をお迎えください。南無大師遍照金剛。合掌。


第197話(2018年11月)

皆さん、こんにちは。晩秋ですね。朝晩は寒い日が増えました。くれぐれもご自愛ください。

昨年から知多四国八十八ヶ所霊場についてお伝えしているかわら版、残る札所は二ヶ所。いよいよ結願です。

★烏枢沙摩明王

八十六番から八十七番に向かいたいところですが、知多四国八十八ヶ所霊場の場合、行程上、八十八番を先に打つお遍路さんが多いようです。

しかも、その道中に五番があります。つまり、八十六番、五番、八十八番、そして八十七番という順番。しかし、今回の紙上遍路では五番は四番の次に既に打ち終えています(昨年三月号)ので、八十八番に向かいます。

八十六番から東へ約四・六キロメートで五番、そこから北へ約二・四キロメートル進むと八十八番、瑞木山円通寺。大府市です。

七二九年、行基菩薩が開創。七堂伽藍を備えた古刹でしたが、九三九年(天慶の乱)と一三三三年(建武の乱)の兵火で堂宇を焼失。

一三四八年、夢窓疎石が中興開山して再建。一四○一年に現在地に移転し、今日に至っています。

寺号が「通じ」にかぶる当寺は、便秘や下の病、婦人病、安産にご利益のある「烏枢沙摩(うすさま)明王」のお札で知られています。

お札を東司(便所)に南向きに祀ると、下の病に霊験があるとして信仰されています。

ご本尊 馬頭観世音菩薩
ご詠歌 慈悲深き 大師の恵み 有難や 今日木之山に 法の花咲く

★鷲津砦

八十八番からさらに北上、伊勢湾岸道路、JR東海道本線、新幹線をくぐって進むこと約三・〇キロメートル、名古屋市に入り、いよいよ最後の札所、八十七番は鷲津山長寿寺。

「鷲頭」と聞いて「桶狭間の戦い」を連想された方は戦国史通です。

「鷲津砦」は「桶狭間の戦い」の緒戦で今川軍が陥落させた織田軍の拠点。当寺はもともと「鷲津砦」一帯にあったようです。一九七九年、「鷲津砦」周辺の公園整備に伴い、現在地に移転しました。

江戸時代、大高城主・志水忠継の母、長寿院の遺命で禅寺に改宗。その際に、寺号も長寿寺となりました。

境内には、かつて名古屋広小路にあって「夜開帳」として信仰を集めた柳薬師、住職に化けて参拝者に慕われた狐を祀る高蔵坊稲荷があり、商売繁盛にご利益があると言われています。

知多四国八十八ヶ所霊場はここで打ち終わり、結願です。お疲れ様でした。

ご本尊 聖観世音菩薩
ご詠歌 御仏の 深き恵みに大高の なかき齢も 念仏の徳

★興正寺と遍照院

この後、高野山奥之院に見立てた八事山興正寺(名古屋市)や弘法山遍照院(知立市)に向かうお遍路さんも多いようです。

なお、遍照院は三河新四国八十八ヶ所霊場の零番札所、番外開創の古刹であり、三河三弘法のひとつ。後のふたつは、大仙山西福寺(刈谷市)、天目山密蔵寺(刈谷市)です。

★知多四国霊場会

昨年からお伝えしてきた知多四国八十八ヶ所霊場の紙上遍路。皆さん、お疲れ様でした。

知多四国霊場会の事務局は、五十三番の鶴林山安養院(美浜町)がお務めいただいています。

ベテランのお遍路さんは、先達、権中先達、中先達、権大先達、大先達、特任大先達と昇任していきます。

納め札の色も、参拝回数によって変わります。最初は白、十回以上は緑、二十回以上は赤、三十回以上は銀、五十回以上は金、百回以上は錦です。

札所では、納経帳に「お印」のご朱印を押していただきますが、二回目以降は重ね押しします。

何度も重ね押しをして真朱になった納経帳は、一生涯にわたって功徳の証となり、不思議なご利益、不思議なご加護にあずかると信じられてています。

★来月は総集編

本四国の紙上遍路の時と同様に、来月は知多四国八十八ヶ所霊場のご本尊、宗派等の総集編をお伝えします。乞ご期待。


第196話(2018年10月)

皆さん、こんにちは。秋本番ですね。朝晩は冷え込む日も増えます。くれぐれもご留意ください。

昨年から知多四国八十八ヶ所霊場についてお伝えしているかわら版、残る札所は七ヶ所。今月は八十二番からです。

★知多三山

八十一番から国道二四七号線を北上、東海市に入ります。名鉄常滑線尾張横須賀駅と太田川駅の中間、八十一番から約三・三キロメートル、八十二番は雨尾山観福寺。

七○二年開創、南知多の岩屋寺(四十三番)、常滑の高讃寺(六十一番)と合わせて知多三山と呼ばれる古刹です。

現在の本堂は一六六五年、尾張徳川藩二代藩主、徳川光友公の寄進で建立されました。

山門前には、知多四国八十八ヶ所霊場の開山、亮山阿闍梨お手植えの紅白椿。「行く末奇譚が起きる」と告げた亮山阿闍梨。檜が芽吹く珍木となりました。

ご本尊 十一面観世音菩薩
ご詠歌 菩提心 起りて木田の観福寺二世の安楽 この外になし

★大里の大坊

八十二番からさらに北へ約一・二キロメートル、八十三番は待暁山弥勒寺。

七四九年、行基菩薩開創の古刹。かつては一山六寺七堂伽藍を擁した大寺院。今も「大里の大坊」と呼ばれます。

関ケ原の戦いの折、西軍についた九鬼義隆の水軍が上陸。兵火に遭って、ご本尊と仁王門を残して焼失。尾張徳川藩二代藩主、徳川光友公の寄進で再興しました。

境内中央の八角形の拝殿に祀られる「お塔さま」と呼ばれる宝篋印塔。毎月一日と八日は「お塔さま」の縁日。周囲を回るとご利益があると信じられています。

ご本尊 弥勒菩薩
ご詠歌 限りなき 弥勒の御世に大里の 法の御庭に となふ声明

★夢窓疎石

八十三番から東に約一・七キロメートル進むと八十四番、瑞雲山玄猷寺。

後醍醐天皇を追弔し、夢窓疎石が開創。夢窓疎石は国師号を七つも持つ鎌倉時代末期から室町時代初期の禅僧。その国師号のひとつ、「玄猷国師」に由来して寺号となりました。

境内の弘法堂は一九三三年、お大師様一千百年御遠忌を記して建立されたものです。山門に祀られる極彩色の四天王像は一見の価値があります。

ご本尊 十一面観世音菩薩
ご詠歌 慈悲深き 母にもまさる観世音 心安らか 姫島の里

★火防せの観音様

八十四番から北へ約一・四キロメートル、八十五番は慈悲山清水寺。

十七世紀末の元禄年間、村の庄屋の六兵衛の屋敷が大火で全焼した後の一六九五年、村人が現在地の南西、丸根集落に祀られていた観音様を当地に迎えて堂宇を建立。

以来、村から火難がなくなり、村人は「火防(ひぶ)せの観音様」として篤く信仰するようになりました。

寺の南西に湧いていた野井戸(清水)の水を宮中に献上。寺号の由来となりました。

ご本尊 聖観世音菩薩
ご詠歌 み仏の 功徳ながるるいわ清水 汲みて心の 穢れ洗わん

★細井平洲

八十五番から北西へ約二・三キロメートル、八十六番は大悲山観音寺。

一二六六年開創と伝わる当寺は、十六世紀半ばに火災によって堂宇を焼失。一五八五年、名古屋大須宝生院の鏡融宝印の助力で再興。

さらに豊臣秀頼の祈願所となり、一帯五町歩を下付されて興隆。除災招福を願う参拝者が遠方からも参拝したと言われています。

当地は江戸時代中期の儒学者、細井平洲の出身地。平洲は当寺の九世義観宝印に師事し、儒学等を修得。後に、米沢藩主上杉鷹山や尾張藩主徳川宗睦の指南役となり、尾張藩校明倫堂の督学(学長)も務めました。

ご本尊 聖観世音菩薩
ご詠歌 一心に 願ひを加家の観音寺導き給へ この世後の世

★残る札所は二ヶ所

残る札所は二ヶ所。名古屋市と大府市です。頑張りましょう。乞ご期待。


第195話(2018年9月)

皆さん、こんにちは。夏本番ですね。健康にはくれぐれもご留意ください。昨年から知多四国八十八ヶ所霊場についてお伝えしているかわら版、今月は七十八番からです。

★亮山阿闍梨入寂の寺

五つの札所が密集する佐布里に別れを告げ、七十七番から名鉄常滑線古見駅方向に約二・八キロメートル、七十八番は宝泉山福生寺。

七十八番と次の七十九番は、知多四国八十八ヶ所霊場を開創した亮山阿闍梨縁の札所として知られています。亮山阿闍梨は一八四七年、当寺で入寂されました。

一九一三年に火災に遭い、堂宇のほとんど焼失した際、木造の大黒天が運び出され、堂裏の宝泉池の畔に安置すると突然豪雨が降り出し、火災が鎮火したそうです。以来、防火、厄除の守護神「やけん大黒天」として信仰を集めています。

ご本尊 不動明王
ご詠歌 幸よきを 祈りかいある福生寺 不動のこころ 夢な忘れじ

★第十三代住職・両山阿闍梨

七十八番からさらに古見駅近くまで西進すること約一・四キロメートル、七十九番は白泉山妙楽寺。

一三九〇年、後花園天皇の勅願所として開創された古刹。七堂伽藍を備えた大寺院だったそうですが、戦国時代に兵火に遭い、豊臣秀吉には寺領を没収されて衰退。

一六三五年に当地に再興され、一八〇六年に亮山阿闍梨が第十三代住職となりました。

境内には四〇〇年以上前に地蔵池から出た「いぼ地蔵」が祀られており、いぼの治癒にご利益があると信仰されています。

ご本尊 無量寿仏
ご詠歌 磯辺ふく 松風の音も妙楽寺 波はしつやか 光るたのしさ

★開山所

七十九番には亮山阿闍梨を祀る開山所があります。昨年のかわら版でお伝えしましたが、亮山阿闍梨の生涯について復習しておきます。

一七七二年に犬山辺りで生まれ、その後、名古屋東照宮守護寺の天王坊二十六世亮厳法印に師事。

一八〇六年、妙楽寺第十三代住職となり、一八〇九年、お大師様の夢告によって知多四国八十八ヶ所霊場の開創を発願。

十六年の歳月を経て、一八二四年に大願成就。一八四七年三月十八日、奇しくも夢告発願と同じ日に七十八番福生寺で入寂しました。

★すがた弘法(影弘法)

名鉄常滑線に沿って北上、七十九番から約一・八キロメートル、朝倉駅を越えると八十番、海嶋山栖光院。

十六世紀半ば以前の開創の古刹。一六二年建立の観音堂に祀られているご本尊、聖観世音菩薩は三十三年ごとに開帳される秘仏です。

大師像の祀られたお茶所。長年お接待用の竈を焚いていたところ、白壁にお大師様の姿が現れたという「すがた弘法(影弘法)」。今も写真で拝観できます。

境内から大師堂に登る石段の両側に続く白壁の築地塀が印象的です。

ご本尊 聖観世音菩薩
ご詠歌 ましませる 里の名さえも寺本の 仏の功徳 世にも遍し

★天室春公首座

八十番から名鉄常滑線と国道二四七号線を跨いで約〇・七キロメートル、寺本駅近くの八十一番は巨渕山龍蔵寺。知多市最後の札所です。

一六一七年、地蔵菩薩に深く帰依する京の公卿が当地に移り住んだことが当寺の縁起です。 近郷に病が蔓延した際、公卿が地蔵菩薩に平癒祈願。たちまち病が癒えたことに村人が感謝し、堂宇を建てて地蔵菩薩を奉安したことが始まりです。

公卿は開基の天室春公首座となりました。

ご本尊 地蔵菩薩
ご詠歌 昔より 優しきものと言い伝ふ 仏の御顔 深き慈悲相

★残る札所は七ヶ所

来月から東海市に入ります。残る札所は七ヶ所。頑張りましょう。乞ご期待。


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大塚耕平

  • 2002年から「弘法さんかわら版」を書き続けています。仏教に親しみ、仏教から学び、仏教を探訪しています。より良い社会を目指すうえで仏教の教えは大切です。「弘法さんかわら版」は覚王山日泰寺(名古屋市千種区)と弘法山遍照院(知立市)の弘法さんの縁日にお配りしています。縁日はお大師様の月命日に立ちます。覚王山は新暦の21日、知立は旧暦の21日です。
  • 著書に「お大師様の生涯と覚王山」(大法輪閣)、「仏教通史」(大法輪閣)など。全国先達会、東日本先達会、愛知県先達会、四国八十八ヶ所霊場開創1200年記念イベント(室戸市)、中日文化センターなどで講演をさせていただいています。毎年12月23日には覚王山で「弘法さんを語る会」を開催。ご要望があれば、全国どこでも喜んでお伺いします。
  • 1959年愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒、同大学院博士課程修了(学術博士、専門はマクロ経済学)。日本銀行を経て、2001年から参議院議員。元内閣府副大臣、元厚生労働副大臣。現在、早稲田大学総合研究機構客員教授(2006年~)、藤田医科大学医学部客員教授(2016年~)を兼務しています。元中央大学大学院公共政策研究科客員教授(2005年~17年)。