皆さん、こんにちは。いよいよ春本番ですが、朝晩は寒い日もあります。くれぐれもご自愛ください。実録・覚王山日泰寺縁起をお伝えしている今年のかわら版。世界的に本物と認められている仏舎利(お釈迦さまのご真骨)がなぜ日泰寺に祀られたのか。その歴史です。

★歴史的発見

ウィリアム・クラクストーン・ペッペが発掘した塚の頂上から地下八メートルのところで出土した石板。それは一枚岩をくりぬいて作った大石櫃の蓋でした。

大石櫃は縦百三十二センチ、横八十二センチ、高さ六十六センチ、蓋の重さは百八十五キロ、大石櫃全体では六百九十六キロという記録が残っています。

大石櫃の中には水晶製の壺一個、滑石製の壺四個、数百点の金銀宝玉や装身具などが収められており、壺のひとつには人骨が確認され、その蓋には紀元前四世紀頃の古代文字で何か記されていました。

この発見は本国(英国)に報告され、欧米諸国の考古学者たちに伝わりました。

まもなく、英国、フランス、オーストリアの考古学者が発見場所であるピプラーワーにやってきました。考古学者たちが人骨の入っていた壺の蓋の古代文字を解読したところ、次のような内容でした。

「これは仏陀世尊の舎利(骨)を納めるものであり、栄光ある釈迦族の人々のものである」。つまり、お釈迦さまの骨であるという記述です。

骨壺の大きさは直径十センチ、高さ十五センチでした。この歴史的発見は西洋の歴史学界や宗教学界を驚かせました。

西洋ではお釈迦さまは架空の人物と思われていましたが、この仏舎利の発見が、お釈迦さまは実在の人物であったと認識される契機となりました。

★チュラロンコン国王

ペッペは発掘遺物の全てを英国政府に引き渡しました。

英国政府は発掘遺物をロンドン大英博物館とカルカッタ博物館と発見者ペッペに分配するとともに、仏舎利は当時仏教を国教とする唯一の独立国であったシャムの王室に寄贈することとしました。

この英国政府の判断には、インドがヒンズー教中心の国であったことも影響しています。

二〇〇一年の国勢調査によれば、インドの宗教構成は、ヒンズー教八〇・五%、イスラム教一三・四%、キリスト教二・三%、シーク教一・九%、仏教〇・八%、ジャイナ教〇・四%。ピプラーワーで仏舎利が発見された頃もあまり変わりなかったようです。

発見の翌一八九九年(明治三十二年)一月、タイのチュラロンコン国王はインドへ使者を派遣。仏舎利を拝受しました。

同年二月、仏舎利は軍艦に護衛されてバンコクに到着。白い象に乗せられて街を練り歩き、王立プラケウ寺院に向かい、最高塔ワット・サケットに安置されました。ワット・サケットは十四世紀アユタヤ朝から存在し、標高八十メートルの黄金の丘の上にそびえます。

バンコクでは三十余日も続く大法要が営まれ、仏教を篤く信仰するシャム国民は祝賀ムードにわきかえったと記録されています。

チュラロンコン国王は別名ラーマ五世。一八六八年生まれですから、仏舎利を寄贈された当時は三十一歳。即位してすぐ欧米諸国を視察し、タイの近代化に努めた国王として知られており、今でも国民の人気が高いそうです。

チュラロンコン国王が行った近代化はチャクリー改革と呼ばれています。奴隷売買禁止、議会制・官僚制導入、学校教育開始、鉄道建設など、日本の明治維新と似ています。

ちなみに、チャクリーは王朝の名前。つまり、チャクリー朝ラーマ五世がチュラロンコン国王の正式名です。

★稲垣満次郎

チュラロンコン国王は拝受した仏舎利の分骨を願い出たビルマ(現在のミャンマー)、セイロン(同スリランカ)に分与。ロシアにも分与したとの記録もあります。

さて、この状況に現地で接していたひとりの日本人がいました。初代駐シャム公使、稲垣満次郎です。稲垣はチュラロンコン国王に日本への分骨を願い出ます。詳しくは来月。乞ご期待。