弘法さんブログ

第14話(2003年8月)

残暑お見舞い申し上げます。先月26日、27日に行われました「覚王山夏祭」は天候にも恵まれ、たいへんな賑わいでした。事務局の皆さん、ボランティアの皆さん、出店者の皆さん、本当にお疲れ様でした。

以前の札所は一軒家?

先月の弘法さんの日に、日泰寺本堂東側のB地区をやや北へ歩いた所にある二二番札所で貴重なお話を伺うことができました。二二番札所は、今は大人2人が入れるくらいの小さな祠(ほこら)ですが、戦後間もない頃は八畳二間に台所も付いており、一時は一家五人が住んでいたそうです(かわら版第八号でお伝えしたことの事実確認ができました)。そのご家族は、今でもご恩返しとして札所の世話をされているそうです。

観光客で溢れた「放生池」

さて、二二番札所を北に進むと日泰寺の参拝者大駐車場があります。ここには以前「姫が池」という池がありましたが、別名「放生(ほうじょう)池」とも呼ばれていました。昔は観光名所であり、コイやフナが群れをなし、池の周辺には売店が軒を並べていました。かわら番編集部の面々も子供の頃は「放生池」で釣りやザリガニ捕りをしていました。
「放生」とは、捕らえられた魚や鳥を逃がしてやることです。人間は日頃の食生活や日常生活で多くの殺生(せっしょう)を行っていることから、功徳を積む意味で「放生」という考え方が生まれたそうです。起源は中国ですが、日本では天武天皇の命で始まったとも言われています。全国の寺院には「放生池」や「放生会(ほうじょうえ)」と呼ばれる縁日があります。

山号の歴史

ところで、覚王山が日泰寺の山号であることは以前にご紹介しました。お寺の名前に山号をつけるようになったのも、その起源は中国です。日本では、奈良時代の飛鳥寺でも法隆寺でも山号はなく寺名だけでした。
平安時代になって、最澄(伝教大師)や空海(弘法大師)が中国から帰国し、山中に寺を建てるようになって山号が普及したそうです。そして、比叡山延暦寺、高野山金剛峰寺の建立によって山号は完全に定着し、鎌倉時代には平地の寺まで山号をつけるようになったそうです。

新しい覚王山マップ完成!

新しい「覚王山マップ」が完成しました。新しいお店や情報が盛り沢山です。覚王山商店街の店頭や大塚耕平事務所にあります。ご自由にお持ち帰り下さい。覚王山周辺は、面白いお店や史跡がいっぱいです。名古屋の新しい観光名所となるように、今後とも日泰寺や日本最小の札所の話題をご紹介していきます。乞うご期待!


第13話(2003年7月)

皆さん、こんにちは!「弘法さんかわら版」も二年目に入りました。今後ともよろしくお願い致します。過去のかわら版(バックナンバー)は編集部(大塚耕平事務所・覚王山バス停前、電話052-757-1955)にございます。
大塚耕平のホームページhttp://www.oh-kouhei.org/にもアップ(掲載)してあります。

住宅?密集地域はB地区

覚王山八十八ヶ所霊場は1キロメートル四方に全ての札所が集まる「日本最小の霊場」です。札所はAからGの七地区に分かれており、一番多くの札所が集まっているのが日泰寺本堂東側のB地区です。B地区には、五~二十三番、二十五番、八十六~八十八番の二十三の札所が二百坪くらいの土地にギュウギュウに詰め込まれています。仏様の住む集合住宅、あるいは住宅密集地域という感じでしょうか。

歴史的建造物もギュウギュウ

ところで、日泰寺境内には、本堂、普門閣、寺務所、山門などがありますが、いずれも鉄筋コンクリート造りで、どちらかというと近代的な風情です。ところが、本堂の裏手に回ると、大規模な「坐禅堂」、大書院「鳳凰台」、そして「草結庵」と「同夢軒」という二つの茶室が有名な「庭園八相苑」があります。本堂前の近代的な雰囲気とは対照的に、いかにも日本的な落ち着いた佇まい(たたずまい)です。本堂の東側には松坂屋創業家(伊藤家)別邸「楊輝荘」、西側には御殿風の建築が目を引く料亭「松風閣」もあります。八十八ヶ所霊場以外にも興味深い史跡や建築物があるのが、ここ覚王山日泰寺の周辺なのです。

水の空海、火の最澄

先月号では弘法大師(空海)のお名前の移り変わりを説明させて頂きました。遣唐使として遠路中国に行かれた際には「遍照金剛」というお名前を中国の高僧から頂いたこともご紹介しました。中国では天台宗の開祖として高名な伝教大師(最澄)も一緒に修行をされたそうです。
両大師には数々の伝承が残っています。空海は雨乞いの名人であったほか、渇水に苦しむ土地に杖を差し、経を唱えると地下水が噴出したと言われています。そうした水場は全国各地にあり、「弘法水」と言われています。
一方、最澄には火にまつわる伝承が残っています。最澄が建造した比叡山延暦寺には、千年以上燃え続けている有名な「不滅の灯明」があります。遣唐使から帰国した際に使っていた「灯明の火」も、福岡県の「千年家」と言われる灯番家が四十数代も守り続けているそうです。

覚王山夏祭は26~27日

さて、5月号でお伝えした「焙烙灸(ほうろくきゅう)」は八十七番札所で弘法さんの日に行われています。全国的には無病息災、体力増進を祈願して「土用の丑の日」に実施されることが多いようです。
「土用の丑の日」と言えばウナギですね。覚王山日泰寺参道には「魚長さん」という鮮魚料理屋さんがあります。お昼時には、お店の中から美味しそうなウナギの匂いがしてきます。ウナ丼880円、たいへんお値打ちです。美味なることは編集部がお約束します。

日泰寺のお坊さんが参道で健康と安全を祈願してくださる幻想的な儀式「泰火祭」が25日(金)の午後7時から行われます。翌26日(土)と27日(日)は恒例の覚王山夏祭です。是非お出掛けください。


第12話(2003年6月)

皆さん、こんにちは!今月も弘法さんの日がやってきました。
「弘法さんかわら版」も12号になりました。昨年の七月に創刊号を配布させて頂いて以来、今回でちょうど一年です。毎月、たくさんの皆さんが受け取ってくださるおかげです。本当にありがとうございます。過去のかわら版(バックナンバー)をご希望の方は、ご遠慮なく編集部(大塚耕平事務所:覚王山バス停前、電話052-757-1955)までご連絡ください。なお、大塚耕平のホームページhttp://www.oh-kouhei.org/ にもアップ(掲載)してあります。

「無空」→「空海」→「弘法大師」

「弘法さん」=「弘法大師」は、ほかにも「お大師さん」「弘法さま」「お弘法さん」などとも呼ばれます。しかし、「弘法大師」というのは、大師がお亡くなりになった八十年も後に、朝廷から与えられた称号(諡号=しごう)だそうです。
幼少の頃から神童と言われていた大師は、十八歳の時に生家(善通寺誕生院=現在の七十五番札所)を出て名を「無空」と改め、やがて山岳修験者となりました。そして阿波の太龍寺岳(太龍寺=二十一番札所)や土佐の室戸岬(最御崎寺=二十四番札所)などで激しい修行を重ね、二十歳の時に和泉国槇尾山寺(四番札所)で得度し、名を「如空」としました。後に「教海」、さらには「空海」と改めました。
また、遠路中国に行かれた際には、「遍照金剛」というお名前を中国の高僧から頂いたそうです。

四国巡礼地は「弘法大師」修行の場

四国八十八ヶ所霊場は、大師が四十二歳の時に、それまでに修行をした場所を連ねて開創されたと伝えられています。
大師がお亡くなりになった後、高弟「真済」が霊場を遍歴したのがお遍路の始まりだそうです。また、「右衛門三郎」という人物が、自己の非を悟って四国霊場を巡ったのがお遍路の始まりと解説している本もあります。
いずれにしても、大師に対する信仰は徐々に高まり、平安時代末期には修行僧を中心に巡礼が行われていたようです。室町時代に入ると一般庶民も参加するようになり、お遍路が完全に定着したのは室町時代末期から江戸時代にかけてと言われています。


知立の「弘法さん」

ところで、先月の「弘法さん」は露店の数が少なかったと思いませんか。実は知立の「弘法さん」と日が重なり、露店商の皆さんが分散したそうです。知立の「弘法さん」は旧暦の月命日(21日)に開催されますが、先月は新暦(覚王山)と旧暦(知立)の月命日が同じ日になったようです。
知立の「弘法さん」は、三河三弘法の一番札所として知られる「遍照院」(へんじょういん)で開かれます。「見返弘法大師」と呼ばれる本尊が祀られています。旧暦の21日には沢山の露店で賑わうそうです。そちらにも、是非お出掛けください。それでは、また来月お会いしましょう。


第11話(2003年5月)

皆さん、こんにちは!今月も弘法さんの日がやってきました。あっという間に一ヶ月が過ぎてしまいますね。
さて、先月号では「お遍路さんの衣装」についてご説明しました。白装束で行脚する由来もお分かり頂けたかと思います。ちょっと変わった行事が行われている札所についてご紹介させて頂きます。
「日本最小の八十八ヵ所霊場」であるここ覚王山日泰寺周辺の巡礼地は、小さな祠が単に並んでいるだけではなく、一軒一軒独立したお堂となっており、毎月21日になるとそれぞれの管理者の方が「お接待」をしてくださいます。番外の祠や、一部の祠は日泰寺が管理してくださっているとも聞きますが、基本的には、各札所ごとの「お接待さん」がいらっしゃり、あくまでも自主管理をされているようです。今風に言えば、ボランティアです。それぞれの札所の「お接待さん」相互の交流はあまりないようですね。「弘法さんかわら版」編集部としては、今後、「お接待さん」相互のネットワーク作りにもお役に立ちたいと思います。

「焙烙(ほうろく)灸」って何?

常連の参拝客の方々の中には、ビニール袋一杯の小銭(ほとんどが1円か5円玉)を用意して、全部の札所の賽銭箱に入れていく方もいらっしゃるようです。各札所では、それぞれ趣向を凝らしたお接待をしてくださいます。お菓子などをサービスしてくれるところもあります。珍しいお接待のひとつとして「焙烙(ほうろく)灸」というものがあります。
「焙烙灸」の由来は、昔、炎天下で暑さ負けした武将が、カブトの上から灸をすえたところ、たちまち元気になったという話に端を発しています。以来、すり鉢のような容器(=焙烙皿)を頭にのせて、そのうえでもぐさを炊いて灸をすることを「焙烙灸」と言うようになりました。そして、弘法大師がこの「焙烙灸」の効能を熱心に説いたと言われています。
その結果、全国各地のお寺や巡礼地で、一年で最も暑い盛りの「土用の丑の日」や弘法大師のご縁日(毎月21日)に「焙烙灸」を行うようになったそうです。ここ覚王山巡礼地において、編集部が確認できた「焙烙灸」を行っている祠は、八十八番札所周辺です。ほかにもあるかもしれませんね。
医学的には、頭の上に「百会のツボ」と言われる「ツボ」があるそうです。「焙烙灸」はその「百会のツボ」に灸をして刺激することで、脳の活性化、ボケ防止、夏バテ防止をはじめ、心身の健康に対して効果があると言われています。そのため、「焙烙灸」は無病息災、身体健全を祈願するお加持(祈祷)となっています。弘法大師は医学的な知識もあったのかもしれませんね。

「八十八ヵ所」の由来

ところで皆さん、過去のかわら版で巡礼地には「十八」とか「三十三」、そして最も一般的な「八十八」とか、いろんな数があることをご紹介しました。覚えていらっしゃるでしょうか。
さて、「八十八ヵ所」の由来は何でしょうか?いろんな説がありますが、「米」の文字から、五穀豊穣を祈念する数字であると言われたり、厄年の合計(男42、女33、子供13)とも言われています。真相は何でしょうか。
では、その他の数(十七とか三十三)にもそれぞれ由来があるのでしょうか。「お遍路」は奥が深いですね。興味が尽きません。
それでは皆さん、また来月お会いしましょう!!


第10話(2003年4月)

皆さん、こんにちは。4月になりました。お花見には行かれましたでしょうか。今月前半は花冷えのする日が続きましたが、だいぶ暖かくなってきました。お花見に時期はちょっと寒かったですよね。
覚王山祭り(春祭)の日もあいにくの天気でした。事務局の皆さんも、出店している皆さんも、本当に寒そうでした。お疲れさまでした。夏祭は天候に恵まれるといいですね。
さて、先月は「お遍路の順番」をご説明しました。「順打ち」、「逆打ち」、「通し打ち」、「区切り打ち」など、いろいろな回り方があることをご紹介しました(詳しくは前号をご覧ください)。今月は「お遍路さんの衣装」について調べてみました。

白装束の由来

「お遍路さんの衣装」と言えば、ご存じ、白衣に輪袈裟、手甲、脚半を身に付け、数珠を手にした白装束です。腰には、納経帳を入れた布袋(さんや袋)をぶら下げます。
白衣はもともと「死に装束」です。巡礼ブームに沸いた江戸時代には、不治の病の治癒を願った巡礼者が、お遍路の途中で倒れて亡くなることが日常茶飯事だったそうです。そこで、「せめて手厚く弔いたい」と願った「お接待さん」たちが、白装束を用意して提供したのが「お遍路さんの衣装」の始まりといわれています。「そりゃあ、知らんかったわ」と言う方も多いことと思います。

「お遍路さんの衣装」の定番は下の図のとおりです(「高知県東部四国霊場めぐり」のホームページhttp://www.attaka.or.jp/haru03/henro/he_kiso4.htmlを参考にさせて頂きました)。「金剛杖」、「納経帳」、「納め札」は最低限の必須アイテムだそうです。とくに、「金剛杖」は弘法大師の分身と言われ、大切に扱わなくてはなりません。
菅笠には「同行二人」と書くそうですが、これは「弘法大師と道連れ」という意味のようです。お遍路もいろいろとお作法やしきたりがあって、勉強が必要ですね。
本場四国では、一番札所の霊山寺(徳島県鳴門市)の門前に「門前一番街」というお店があるそうです。巡礼アイテムや土産物を売っているお店ですが、白装束一式が1万2千円前後で用意できるそうです。

覚王山スタイル

「日本最小の八十八カ所霊場」に覚王山霊場ですが、白装束で回っている方は見かけないですね。「霊場巡りは必ずこの服装」と決まっている訳ではないそうですが、やはり白装束を身にまとうと雰囲気が違います。
覚王山霊場は全国的には無名です。地元(愛知県下)でもあまり知られていません。しかし、「日本最小の八十八カ所霊場」は観光名所になるかもしれませんね。そのためにも、いずれ、覚王山スタイルと呼ばれるような独自の「お遍路の衣装」を考えてみようと思います。
では、また来月お会いしましょう。


第9話(2003年3月)

皆さん、こんにちは。今日は春分の日、早いものでもう桜の季節ですね。お花見シーズンをお見逃しなく!!
先月号では、覚王山・八十八ヵ所霊場(札所)のご本尊のお話をお伝えしました。札所の名前(寺院名)は四国霊場と全く同じですが、ご本尊の名前はどうなっているのでしょうか?さっそく、いくつかの札所の「お接待さん」に確かめてみました。
結論的に申し上げれば、四国霊場と同じご本尊を祀ってある札所は意外に少ないようです。四国霊場では薬師如来のはずが覚王山札所では観音様だったり、中には、弘法大師像と並んで「お接待さん」のご先祖様が祀ってある札所もありました。これから地道に調査をして、いずれ札所とご本尊の一覧表を作りたいと思います。

「お遍路」の順番?

ところで、札所はどういう順番で回るかご存知ですか?「そんなもん、番号順に決まっとるがね」と呟かれた方が多いと思いますが、一番札所からスタートする場合と、八十八番札所からスタートする場合があります。前者を「順打ち」、後者を「逆打ち」と言います。四国霊場の場合、「順打ち」は「阿波→土佐→伊豫→讃岐」という時計回りになります。「逆打ち」は時計と反対方向に回ることになります。
また、「通し打ち」と「区切り打ち」という言葉もあります。「通し打ち」は全区間(八十八ヵ所)を一気に回ること、「区切り打ち」は区間を区切って何回かに分けて回ることを指します。本場四国では「通し打ち」をできるお遍路さんは少なく、主流は「区切り打ち」のようです。
さて、覚王山・八十八ヵ所霊場の場合はどうでしょうか。まず、札所の順番はバラバラです。どうしてそうなったのかは分かりません。ただ、もともとは札番順に並んでいたものが、日泰寺本堂、霊堂、納骨堂の建設、姫池通の拡幅工事などによって移設されたためという話も聞きました。各札所が今の場所に落ち着いたのは、昭和の終わり頃だそうです。
したがって、覚王山・八十八ヵ所霊場では「順打ち」も「逆打ち」もなかなか大変そうですが、その一方で、何しろ半径1キロメートル以内に全札所が集まる「日本最小の・八十八ヵ所霊場」です。全国の霊場で最も「通し打ち」に適した巡礼地と言えます。有り難いことですね。

「お接待さん」の後継者問題

札所番号碑の石柱の裏に○○商店と書いてあるものもありました。「お接待さん」に伺ってみると、○○商店の従業員の皆さんが代々札所のお世話をしているそうです。若い人たちがなかなか後を継いでくれないようで、中小企業や商店と同様に、ここにも後継者問題があるようです。無縁札所になってしまわないように、ひとりで複数の札所を守っている方もいるようです。
さて、先月号でもお伝えしましたが、今日は弘法大師の命日で「御祥当」と言われます。「お接待さん」の皆さん、御苦労様でございます。これからもよろしくお願い致します。合掌。


第8話(2003年2月)

皆さん、こんにちは。今日は春分の日、早いものでもう桜の季節ですね。お花見シーズンをお見逃しなく!!
先月号では、覚王山・八十八ヵ所霊場(札所)のご本尊のお話をお伝えしました。札所の名前(寺院名)は四国霊場と全く同じですが、ご本尊の名前はどうなっているのでしょうか?さっそく、いくつかの札所の「お接待さん」に確かめてみました。
結論的に申し上げれば、四国霊場と同じご本尊を祀ってある札所は意外に少ないようです。四国霊場では薬師如来のはずが覚王山札所では観音様だったり、中には、弘法大師像と並んで「お接待さん」のご先祖様が祀ってある札所もありました。これから地道に調査をして、いずれ札所とご本尊の一覧表を作りたいと思います。

「お遍路」の順番?

ところで、札所はどういう順番で回るかご存知ですか?「そんなもん、番号順に決まっとるがね」と呟かれた方が多いと思いますが、一番札所からスタートする場合と、八十八番札所からスタートする場合があります。前者を「順打ち」、後者を「逆打ち」と言います。四国霊場の場合、「順打ち」は「阿波→土佐→伊豫→讃岐」という時計回りになります。「逆打ち」は時計と反対方向に回ることになります。
また、「通し打ち」と「区切り打ち」という言葉もあります。「通し打ち」は全区間(八十八ヵ所)を一気に回ること、「区切り打ち」は区間を区切って何回かに分けて回ることを指します。本場四国では「通し打ち」をできるお遍路さんは少なく、主流は「区切り打ち」のようです。
さて、覚王山・八十八ヵ所霊場の場合はどうでしょうか。まず、札所の順番はバラバラです。どうしてそうなったのかは分かりません。ただ、もともとは札番順に並んでいたものが、日泰寺本堂、霊堂、納骨堂の建設、姫池通の拡幅工事などによって移設されたためという話も聞きました。各札所が今の場所に落ち着いたのは、昭和の終わり頃だそうです。
したがって、覚王山・八十八ヵ所霊場では「順打ち」も「逆打ち」もなかなか大変そうですが、その一方で、何しろ半径1キロメートル以内に全札所が集まる「日本最小の・八十八ヵ所霊場」です。全国の霊場で最も「通し打ち」に適した巡礼地と言えます。有り難いことですね。

「お接待さん」の後継者問題

札所番号碑の石柱の裏に○○商店と書いてあるものもありました。「お接待さん」に伺ってみると、○○商店の従業員の皆さんが代々札所のお世話をしているそうです。若い人たちがなかなか後を継いでくれないようで、中小企業や商店と同様に、ここにも後継者問題があるようです。無縁札所になってしまわないように、ひとりで複数の札所を守っている方もいるようです。
さて、先月号でもお伝えしましたが、今日は弘法大師の命日で「御祥当」と言われます。「お接待さん」の皆さん、御苦労様でございます。これからもよろしくお願い致します。合掌。


第7話(2003年1月)

皆さん、明けましておめでとうございます。弘法さんかわら版も創刊2年目に入りました。今年もご愛読頂ければ幸いです。どうぞよろしくお願い致します。
さて、昨年は日泰寺誕生のいきさつなどをご紹介しました。今年は、日泰寺の誇る日本最小の八十八ヶ所霊場について勉強していきたいと思います。
皆さんご存知のように、四国八十八ヶ所霊場は弘法大師(空海)の修行場となったお寺のことです。その寺々(霊場)を巡礼することをお遍路と言います。

巡礼・遍路は、古くから信心深い庶民にとって憧れの旅でした。実は、四国以外にも巡礼地は全国各地に存在しています。津軽、越後、出雲など三十三ヶ所霊場のほか、十三、十七、十八、十九、二十、二十四、二十五、二十七、三十二、三十四、三十六、四十九など、巡礼地の「数」もけっこうバラエティに富んでいますが、もっとも多いのが三十三ヶ所霊場と八十八ヶ所霊場です。なぜこのふたつの「数」が多いのかはよく分かりません(ご存知の方がいらっしゃいましたら、ご教示ください)。
そうした中で、四国と並んで八十八ヶ所霊場を擁しているのは、九州(九州全県)、篠栗(福岡県)、小豆島(香川県)、知多(愛知県)等のほか、ご当地、覚王山日泰寺です。八十八ヶ所もの巡礼となれば、四国全土など相当広域に霊場が散在しているのが一般的ですが、日泰寺の霊場は何と半径数百メートルの範囲に収まっています。一日で回りきれる八十八ヶ所巡礼は、ここ日泰寺だけです。
各地の巡礼地はさまざまな由来で誕生しました。日泰寺の場合、弘法さん(縁日)に合わせて霊場が設置されたのか、あるいは霊場が先で、それに因んで弘法さんという縁日が開始されたのか、定かではありません。日泰寺誕生が明治三十七年であるのに対し、霊場設置と縁日開始は明治42年のようです。地元の方にお借りした「東山名勝」という大正時代の文献の中に、「四国八十八ヶ所は當山境内に於ける呼物とも謂うべきである」との記述があることを勘案すると、どうやら観光名物として意識的に設置されたもののようです(今風に言うと、イベントでしょうか)。
霊場の名前が四国とまったく同じであることも、観光名物として計画的に設置された証左と言えます。一番札所の霊山寺から、八十八番札所の大窪寺まで、四国霊場と日泰寺霊場は完全に一致しています。因みに、知多八十八ヶ所霊場の場合、一番札所は曹源寺、八十八番札所は円通寺と言います。知多の霊場は、既存のお寺を活用して設置されたようです。
ところで、日泰寺の霊場は周辺七ヶ所の場所に分散しています。これらの場所を整理した「覚王山日泰寺の八十八ヶ所霊場と碑塔」という資料があります。それによれば、霊場はもともと札所の番号順に並んでいたそうですが、日泰寺の本堂、霊堂、納骨堂などの新改築、周辺道路の拡幅工事等のために、全体の四割程度が当初の場所から移転したようです。その結果、現在の場所に落ち着いたのは昭和の終り(1980年代)頃ということです。
なお、その資料は、地元の吉野忠夫さんと片岡正明さん(フルーツの弘法屋さんのご主人)が制作された貴重な資料です。編集部(大塚耕平事務所)に余部がありますので、ご興味がある方に差し上げます。お気軽においでください。
平成15年の弘法さんかわら版は、日泰寺八十八ヶ所霊場を中心に、巡礼・遍路に関する情報を皆さんにお届けします。どうぞご期待ください! 
それではまた来月、お会いしましょう!


第6話(2002年12月)

皆さん、こんにちは。今年もあとわずかになりました。弘法さんかわら版を毎月ご愛読頂きまして、本当にありがとうございます。
さて、先月、かわら版といっしょにチラシをお配りした「四国霊場八十八ヶ所・空海と遍路文化展」―弘法さま・名古屋にござる―(名古屋市博物館)をもうご覧になりましたでしょうか?開催は今月23日(月・祝)までです。ご興味のある方は、お急ぎ下さい。四国霊場千三百年の歴史と文化の分かり易い解説、ならびに数々の国宝と重要文化財が展示してあります。この機会にお見逃しなく!!

ところで、今月号では覚王山界隈の地名の由来を勉強してみました。
覚王山・・・「覚王」はお釈迦さまを表します。日泰寺の「山号」です。
覚王山通・・・1904年(明治34年)覚王山日暹寺(にっせんじ)が建てられた時にできた地名です。当初は、中央線千種駅付近から一丁目が始まり、覚王山バス停付近の九丁目までありました。現在は池下交差点の七丁目から九丁目までしか残っていません。参道西側の九丁目には、覚王山名物の「氷屋の丸筆さん」「フルーツの弘法屋さん」「江戸寿司さん」など、有名な老舗がいっぱいです。ちなみに、先日オープンした参道入口東側の「スターバックスさん」は、意外にも末盛通一丁目でした。
山門町・・・日泰寺の山門から覚王山通までの参道の両側にこの名が付けられました。
末盛(末森)・・・日泰寺を東に下った森に囲まれた集落では、かつて陶器作りが盛んだったそうです。陶器のことをむかしは「スエ」といい、陶物(スエモノ)が「スエモリ」となったのではないかと言われています。昭和二十年の区画整理の際に、「末代まで盛える街に」という願いを込めて、末盛となったという話も聞きました。
月見坂・・・江戸時代、瓶杁山(かめいりやま、東山公園の東側)の徳川家別荘と名古屋城をつなぐ道の途中にこの坂がありました。坂道から眺める月が美しかったことから、いつの頃からか自然に「月見坂」と呼ばれるようになったそうです。現在の月見坂町は「はちや整形外科病院さん」の北側になりますが、もともとの月見坂は、末盛通に面した「床屋のコワフール・スズキさん」や「鬼まんじゅうの梅花堂さん」の辺りから田代小学校北の観月町の坂辺りにあったと言います。なお、観月町も月が美しく見えることに由来して付いた地名です。
丸山・・・日泰寺南側の丘陵地一帯を指します。丸山神社の棟木札(今から七百七十年前のもの)に「上野の庄丸山」と書かれていることから、その当時、既に丸山という村があったようです。由来はハッキリしませんが、本当に丸い丘なので、きっと「丸山」になったのだと勝手に想像しています!?
法王町・・・「法王」とは宗教の宗主(=教皇)のことを指します。日泰寺が十九宗派の共同寺院であったことに関連してつけられた地名のようです。
大島町・・・郷土芸能として有名な「棒の手」の名手、大島三右衛門さんの屋敷があったことに由来して付いた地名だそうです。
参考資料:田代小学校創立百周年記念誌など

覚王山の大晦日

大晦日の日泰寺参道では、毎年夜11時頃から「とん汁」のふるまいがあります。場所は「覚王山情報館」(「お好み焼きのおよしさん」と「理容菊水さん」の間)の前です。とん汁でからだを暖めながら、集まった皆さんで「カウントダウン!」(6・5・4・3・2・1・0!オメデトー!)が行われます。日泰寺では「除夜の鐘」を打つことができます(今年は事前申込者のみ)。覚王山商店街の年越し深夜営業のお店については、商店街発行の「覚王山新聞」を参考にして下さい。

それでは皆さん、来年もよろしくお願い申し上げます。よいお年を!!


第5話(2002年11月)


七月から「弘法さんの日」に配布させて頂いています「弘法さんかわら版」も第5号をお届けできるようになりました。たくさんの方が笑顔で受け取ってくださいますので、編集部も毎月21日が楽しみです。今後とも、ご愛読をよろしくお願い致します。「かわら版」のバックナンバー(過去の分)がご入用の方は、遠慮なく編集部(大塚耕平事務所・052-757-1955)までご連絡下さい。

さて、先月号までは、お釈迦様の骨(仏舎利)が名古屋の地にたどり着くまでの、先人たちの努力と、数々の苦難をお伝えしました。では、名古屋の中でも、どうして覚王山(当時の愛知郡東山村大字田代)が塔廟(仏舎利を正式に納める所)の候補地として適していたのでしょうか?
これまでの調査で分かった理由は二つあります。一つは、当時の東山村が、仏教と縁が深い地域だったからです。覚王山に代々住んでみえる方からお借りした「東山名勝」(大正十年発行)という資料によれば、当時の東山村は、東西を結ぶ法六字街道(鍋屋上野火葬場道)、南北に走る四観音道という2つの参拝道の交差点だったようです。
とくに四観音道は、「尾張四観音」と関係する重要な参拝道でした。「尾張四観音」とは、笠寺観音(南区)、荒子観音(中川区)、竜泉寺観音(守山区)、甚目寺観音(海部郡)の四観音を指します。徳川家康が名古屋城築城の際、城下町の鬼門の方角に位置した四観音を「名古屋城鎮護」と定め、結界を張って名古屋城を護ろうとしたことが「尾張四観音」の始まりです。
東山村を通っていた四観音道は、このうち笠寺と竜泉寺を結ぶ道です。現在の覚王山西交差点から北東に入る細い道(トリイ自転車さん裏)から松楓閣、日泰寺西、東山給水塔横を通り、現在の天満緑道につながる道だったそうです。今でも道の名前が地名に残っています。「かわら版・第2号」でお伝えした鉈薬師の前が「四観音道西」、日泰寺北の東山給水塔辺りを「四観音道東」と言います。今まで深く考えたことのなかった地名にも、「なるほどなぁ」とうなずかされます。また、「覚王山郵便局」から「丸山神社」へぬける道がその延長になります。
もう一つは、当時の東山村・加藤慶二村長の尽力によるものです。加藤村長は自らの私財を投じて誘致活動に奔走し、有志の協力も得て十数万坪以上の土地の寄進を実現しました。広大な寄進地を用意できたことが、誘致成功の鍵だったのではないでしょうか。加藤翁は村長を四期務め、地域の発展に献身的に尽くされ、日暹寺(にっせんじ=日泰寺)と東山(覚王山)興隆の多大な功労者だったそうです。古来から、寺院の誘致によって縁日を開き、参拝客に散財して頂くのは、地域経済にとって重要な景気対策だったそうです。加藤村長はそういうこともお考えだったのかもしれません。加藤村長、ありがとうございました!
その後の覚王山の賑わいは、今では想像できないほどだったと言います。日泰寺周辺の半径数百メートル以内に収まっているお手軽な「八十八ヶ所霊場巡り」が大人気で、その人気に目をつけた「弘法さん」の縁日との相乗効果(今風に言うとシナジー効果)も働いて、覚王山までの路面電車は大混雑、臨時電車を出してもさばき切れないほどだったそうです。
覚王山商店街の皆さん!覚王山に再び以前の賑わいがよみがえるよう、一緒に頑張りましょう!
次号は、覚王山界隈の地名の由来を探ります。おたのしみに。

参考資料:「東山名勝」「えーなも探偵団」「田代」他


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大塚耕平

  • 2002年から「弘法さんかわら版」を書き続けています。仏教に親しみ、仏教から学び、仏教を探訪しています。より良い社会を目指すうえで仏教の教えは大切です。「弘法さんかわら版」は覚王山日泰寺(名古屋市千種区)と弘法山遍照院(知立市)の弘法さんの縁日にお配りしています。縁日はお大師様の月命日に立ちます。覚王山は新暦の21日、知立は旧暦の21日です。
  • 著書に「お大師様の生涯と覚王山」(大法輪閣)、「仏教通史」(大法輪閣)など。全国先達会、東日本先達会、愛知県先達会、四国八十八ヶ所霊場開創1200年記念イベント(室戸市)、中日文化センターなどで講演をさせていただいています。毎年12月23日には覚王山で「弘法さんを語る会」を開催。ご要望があれば、全国どこでも喜んでお伺いします。
  • 1959年愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒、同大学院博士課程修了(学術博士、専門はマクロ経済学)。日本銀行を経て、2001年から参議院議員。元内閣府副大臣、元厚生労働副大臣。現在、早稲田大学総合研究機構客員教授(2006年~)、藤田保健衛生大学医学部客員教授(2016年~)を兼務しています。元中央大学大学院公共政策研究科客員教授(2005年~17年)。