弘法さんブログ

第222話 三河新四国(五十七番~六十二番)

皆さん、こんにちは。いよいよ師走。今年もあとわずか。寒さが厳しくなりますので、くれぐれもご自愛ください。

今年のかわら版は三河新四国八十八ヶ所霊場についてお伝えしています。さて、今月は形原温泉から西浦温泉に向かいます。

★形原城ゆかりの利生院

五十五・五十六番から集落の中を西に進むこと約一キロメートル、名鉄蒲郡線を越えると五十七番、上野山利生院。浄土宗西山深草派のお寺です。

五十三番真如寺、五十五番実相院と同様、利生院も形原城と因縁の深いお寺です。

形原城は江戸時代初期に当地に置かれた形原藩の居城。一五六〇年、桶狭間の戦いの後に形原松平氏は今川氏から離れて松平宗家に従いました。

これに怒った今川氏真が人質にとっていた形原城主松平家広の妻子を城から見下ろせる稲生浜で処刑するという悲しい出来事もありました。

一五七四年、当寺を建立したのは形原城主松平家忠。開山者の智巌法印は家老松平藤兵衛の次男であり、城主の祈願所として開創されました。

一五九〇年、城主松平家信は家康の関東移封に従い、形原を離れて関東上総国五井(現在の千葉県市原市)に移ったものの、関ヶ原の戦い後の一六〇一年に居城を形原に戻りました。

一六一九年、家信は丹波篠山、摂津高槻城に移封となって形原を再び離れることとなり、形原城も廃城。本丸のあった丘の峰には、地元の稲荷大社が建てられました。

その際、城の守護仏聖観世音菩薩が当寺に移されました。このほかにも、当寺には形原城ゆかりの遺物や逸話がたくさん伝わります。

境内は高台にあり、城跡の小高い丘と海が南に百五十メートルの位置に見えます。

五十八番は本堂西側にある観音堂です。

ご本尊(五十七番)阿弥陀如来
ご本尊(五十八番)聖観世音菩薩
ご詠歌 ただたのめ たのむこころの まことより ほとけのりしょう ありがたのはら

★西浦温泉と覚性院

五十七番・五十八番から海を左手に眺めながら南下すること約二キロメートル、西浦駅から南に百メートルの住宅街の中にあるのが五十九番、神田山覚性院。浄土宗西山深草派のお寺です。

西浦温泉は三河湾に突き出た西浦半島一帯に湧出。かつては東海の熱海の異名を持ちました。

西浦半島一帯は古くは万葉の地として歌垣にも選ばれていますが、温泉の歴史は新しく一九五三年の開湯。二〇〇六年に西浦温泉開湯五十周年を記念して、西浦温泉の温泉街の各所に七福神像が置かれました。

覚性院は一六五〇年の開創。当初は西浦半島寄りの知柄地区にありましたが、一九〇五年、念仏観逸上人によって現在地に移されたそうです。寺号は法楽寺。

六十番は本堂内左側にある法楽殿です。

ご本尊(五十九番)阿弥陀如来
ご本尊(六十番)善光寺如来 薬師如来
ご詠歌 みひかりや 西浦さとに かがやきて 朝な夕なに 法楽の声

★癌封じ寺の無量寿寺

五十九・六十番から名鉄西浦駅を越えて北に約二百メートル進むと、六十一番、西浦山無量寺。真言宗醍醐派のお寺です。

九五一年開創の古刹。西浦不動、癌封じ寺の名で知られるお寺です。

境内に中国の敦煌・洛陽や蘭洲の石窟寺院をモデルにした珍しい「千仏洞めぐり」があります。

この洞窟めぐりは、ほの暗い通路の壁面に千体の石仏を配置し、洞窟の奥にはガンダーラの仏や大きな大日如来座像が安置されています。

天然記念物に指定されているお大師様お手植えの大楠の横には、朱塗りの癌封じ堂があり、平癒祈願の絵馬がたくさん奉納されています。

参道には身代わり滝不動。また日本大雁塔は玄奘三蔵ゆかりの中国西安の大雁塔を三分の一に復元。高さ二十メートルです。

松山孝昌住職は現在の三河新四国の復興発願者です。

六十二番は境内西側にある観音堂。

ご本尊(六十一番)不動明王
ご本尊(六十二番)聖観世音
ご詠歌 厄除けと ガン病封じの ぐわんなれば 不動たのもし 西浦の里

★三河の小京都、西尾へ

二〇一一年に旧幡豆町、旧一色町、旧吉良町を合併した西尾市は抹茶の産地、三河の小京都として知られています。

平安時代には吉良荘が置かれ、その後は足利氏、吉良氏、今川氏、松平氏などの武士勢力が攻防を繰り広げた要衝です。

来年一月は西尾市に入ります。それでは皆さん、良い年をお迎えください。


第221話 三河新四国 (五十一〜五十六番)

皆さん、こんにちは。冬も近くなり、寒い日が増えました。今年はインフルエンザとコロナの両方に気をつけなくてはなりません。くれぐれもご自愛ください。今年のかわら版は三河新四国八十八ヶ所霊場についてお伝えしています。さて、今月は蒲郡市西部の形原温泉に向かいます。

★人形供養

四十九・五十番から蒲郡駅北側の市街地を北西に約二キロメートル進むと、五十一番、松全山薬證寺。真言宗醍醐派のお寺です。

蒲郡の基盤を築いた藤原俊成がここに国家鎮護道場をつくったのが起源。当初の寺号は安養寺だったそうです。

寺号が変わったのは一七五一年。当地の上ノ郷城の城主が病を患い、当寺に病気快癒の祈祷を依頼。十七日間続いた祈祷の結果、城主は無事快癒。以来、寺号が薬證寺に改められました。

人形供養でも知られており、毎年三月四日には人形供養祭りが行われます。

五十二番は本堂右側にある大師堂です。

ご本尊(五十一番) 不動明王
ご本尊(五十二番) 秋葉三尺坊大権現 ご詠歌 大聖の 諸病を癒す 願なれば 薬を證す 寺に祈れよ

★形原温泉

五十一・五十二番から徐々に蒲郡駅周辺市街地を離れ西進。やがて国道二四七号線を西浦半島に向かって南下。名鉄蒲郡線を越えて大坪を左折すると形原温泉に入ります。

五十一・五十二番から約七キロメートル進むと五十三番、海性山真如寺。浄土宗西山深草派のお寺です。

形原温泉は、天正年間(十六世紀後半)に補陀寺の祖丘禅師が夢のお告げによって湯を掘り当てたと伝わります。その後涸渇したものの、一九四五年の三河地震の影響で再び湧出しました。

温泉旅館が増えたために再度枯渇したものの、一九九八年、海岸から内陸に一・五キロメートルの原山の地下で湯脈が発見され、今日に至っています。

当寺の前身は佐久島の西にあった寺島という小さな島にあった草庵。寺島は波に削られ、今はほとんど見えないそうです。

一四六七年に幡豆郡山口郷に移転。火災に遭ってさらに移転して当地に落ち着きました。

九代住職聴覚上人の時に当地の有力者、松平庄右エ門が諸堂を寄進。末寺、檀家の多い三河の大伽藍になったそうです。

夏に訪ねた際には、境内に数えきれないほど多くの美しい風鈴が飾られていました。お盆の行事だったのでしょうか。

五十四番は本堂南側にある観音堂です。

ご本尊(五十三番) 阿弥陀如来
ご本尊(五十四番) 子安観世音菩薩
ご詠歌 ご霊場 めぐりかさねて 形原寺 真如の光 いとどさやけき

★眼病除け

五十三・五十四番から集落の中を抜けて約百メートル南に進むと、五十五番、行基山実相院。浄土宗西山深草派のお寺です。

遠くに形原の海が見下せる小高い丘の上にあります。

天平年間(八世紀半ば)に諸国行脚した行基が巡錫、逗留。仏法有縁の地と感得して当地に小堂を建て、小高い丘は行基山と呼ばれるようになったそうです。

時代は下って一五一〇年、形原城主松平光重の四男実長が、五十三番札所の真如寺二世誉月和尚の下で得度。

名を暁誉と改め、行基山に当寺を建立。当初は長福寺と言われたそうです。

形原城は江戸時代初期に当地に形原藩が置かれた時の居城。浜の名にちなんで稲生城、あるいは海に囲まれていたことから海岩城とも呼ばれたそうです。今川氏、松平氏の興亡に翻弄されたお城でした。

五十六番は本堂西側にある行基殿。一九三三年、ご本尊の日限地蔵に願掛けした村人の眼病が平癒。その御礼の額が奉納されています。

ご本尊(五十五番) 阿弥陀如来
ご本尊(五十六番) 日限地蔵大菩薩
ご詠歌 石段を 登るえにしの行基山 大師をおがむ 心なりけり

★癌封じの無量寺

五十五番・五十六番から海の方に向かって西進。形原城と縁の深い利生院を経て、来月は西浦温泉に向かいます。三河新四国の発願寺でもある癌封じ寺で知られる無量寺に向かいます。乞ご期待。

(2020年11月)


第220話 三河新四国 (四十五~五十番)

皆さん、こんにちは。いよいよ秋本番。朝晩は冷え込みます。くれぐれもご自愛ください。 今年のかわら版は三河新四国八十八ヶ所霊場についてお伝えしています。さて、今月から蒲郡市に入ります。

★三河高野山の金剛寺

三河新四国最東端の四十三・四十四番から折り返し、一路西に向かいます。

国道一号線から御津を経て国道二十三号線に入り、三河湾を眺めながら西に進むこと約十五キロメートル。三谷温泉を擁する乃木山にあるのが四十五番、弘法山金剛寺。真言宗高野(山)派のお寺、三河高野山とも称されます。

蒲郡市には、三谷のほかにも形原、西浦などの温泉街がありますが、三谷は最も長い歴史を持つ愛知県下有数の古湯。行基による発見と伝えられます。

寺伝によれば、当寺の前身は大同年間(八〇六年〜八一〇年)に弘法大師が開創。その後、現在の金剛寺は一九三八年(昭和十三年)に名古屋の財界人滝信四郎が開創。前年には高さ三十メートルの弘法大師像も寄進しています。

滝信四郎は一八六八年(慶応四年)生まれ。一八九五年(明治二八年)に名古屋の繊維問屋・滝兵(現タキヒヨー、一七五一年宝暦元年創業)の五代目を継承。

一九二六年(大正十五年)には創業地(江南市)に滝実業学校(現滝学園)を創設するなど、多方面に活躍した近代名古屋を代表する財界人です。

蒲郡市は自然も豊かで温暖な地であることから、縄文・弥生時代から人が居住し、古代史にも周辺の地名が登場。既に集落を形成していた歴史的な地域です。

平安時代に三河国司を務めた藤原俊成が当地の基盤を築き、源平時代には熊野との間に海上交通も栄えた要地。

以後も多くの貴族や武士が当地に関与し、戦国時代になると松平氏、今川氏等が攻防を繰り広げました。

江戸時代には、形原藩、吉田藩、岡崎藩等が統治に関わるなど、古くからの寺社仏閣が多い地域です。因みに、現在の市域の多くは旗本・寺社領だったと言われています。

ご本尊は本四国六十一番札所香園寺のご本尊子安大師の分身。女人、子供の守り本尊として信仰を集めています。

四十六番は弘法大師像近くにある奥之院です。

ご本尊(四十五番) 子安大師
ご本尊(四十六番) 毘沙門天、准胆(?)観音、不動明王
ご詠歌 たかきより あまねくてらす みひかりの 大師のめぐみ いとあらたなり

★光昌稲荷

四十五・四十六番から乃木山を下り、再び国道二十三号線を西に向かって約二キロメートル進むと、三河三谷駅南側、八劔神社のある集落の中に四十七番、海平山光昌寺があります。曹洞宗のお寺です。

一〇九六年(永長元年)開創の古刹ですが、当初は天台宗だったそうです。度重なる兵火の末に、曹洞宗に改宗したそうです。

本堂は一九二六年(大正十五年)に総欅(けやき)柱で再建。ご本尊は丈約八十センチの釈迦牟尼仏です。

本堂の横には鳥居の朱色が鮮やかな光昌稲荷。参道には寺院には珍しい幟立石もあり、神仏習合の色濃い境内です。

四十八番は、山門を入った右側の弘法堂です。

ご本尊(四十七番) 釈迦牟尼仏
ご本尊(四十八番) 弘法大師
ご詠歌 海平の 峰の松風 鐘の音も 南無や大師の 慈悲ぞこもれる

★東三四国五十八番

四十七・四十八番から蒲郡市街地を西に向かいます。

善応寺に向かう途中、竹島と蒲郡ホテルを横目に進みます。一九一二年(明治四十五年)、三河湾の景勝地である竹島と桟橋で繋がる対岸部に料理旅館「常盤館」が創業し、当時の文豪や政財界人から人気を博しました。

一九三四年(昭和九年)には竹島対岸の小高い山に「蒲郡ホテル」が建築され、現在も国の近代化産業遺産に認定されており、愛知県三河地方を代表する歴史的建築物です。

約三キロメートル進むと、蒲郡駅の北側の市街地の中にあるのが四十九番、巖松山善応寺。浄土宗西山深草派のお寺です。

開創は一四五九年(長禄三年)、慶順和尚が開創しました。

江戸時代から約二百五十年建っていた木造本堂を一九六一年(昭和三十六年)に鉄筋コンクリート造りで再建。当時としては珍しかったでしょうが、本堂内は百八十人分の椅子席が並びます。高齢者にはありがたいご配慮です。

その当時の蒲郡市は温泉客や観光客の最盛期。市街地、繁華街の真ん中にある当寺の新築された本堂も、参拝客で賑わったことでしょう。

五十番は本堂内左側にある厳松殿。

ご本尊(四十九番) 阿弥陀如来
ご本尊(五十番) 観世音仏
ご詠歌 こえのみず にごれどすめど へだてなく だいひのつきの てらさぬはなし

★形原城と形原松平氏

来月はさらに西に進んで形原温泉に向かいます。形原城、形原松平氏縁(ゆかり)の実相院、利生院に向かいます。乞ご期待。

(2020年10月)


第219話 三河新四国 (別格・四十一~四十四番)

皆さん、こんにちは。まだまだ暑い日が続きますが、コロナや熱中症に気をつけてご自愛ください。

今年のかわら版は三河新四国八十八ヶ所霊場についてお伝えしています。さて、今月は高名な豊川稲荷を参拝します。

★豊川稲荷の妙厳寺

三十九番・四十番から南へ約三キロメートル進むと大伽藍が目に入ってきます。別格霊場、圓福山妙厳寺。豊川稲荷と呼ばれて親しまれていますが、曹洞宗の名刹です。

日本三大稲荷のひとつとされ、今も門前町が健在。広大な敷地に百余の堂宇が並ぶ大伽藍です。

一四四一年(嘉吉元年)、曹洞宗法王派(寒巌派)の東海義易が開創。

境内に祀られる秘仏、豊川吒枳尼真天(だきにしんてん)。白狐の背に乗り、宝珠を手に稲穂を担いで岩の上を飛ぶ天女の姿から豊川稲荷の名で呼ばれるようになりました。

東海義易は幼名岩千代。九歳の時に曹洞宗法王派五世の華蔵義曇に入門。

その弟子、寒巌義尹(法王派法祖)が入宋。一二六七年(文永四年)、日本への帰路に加護を受けた吒枳尼天を護法神として尊崇。

その後、寒巌の六代目法孫にあたる東海義易が妙厳寺開創に際し、寒巌自作の吒枳尼天像を山門の鎮守として奉安。豊川稲荷の誕生です。

妙厳寺開創時に平八郎と名乗る翁に化けた狐が寺男として義易に仕え、義易入寂後は愛用の釜を遺して忽然と姿を消したという話が伝わります。この釜は本殿奥に安置されています。

戦国時代には、今川義元が伽藍を整備。吉本寄進の山門が今も残ります。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、九鬼嘉隆など、多くの戦国武将が豊川稲荷を庇護。江戸時代には大岡忠相や渡辺崋山も帰依し、一八二八年(文政十一年)には大岡邸の一角に江戸参詣所(東京別院)が創建され、今日の赤坂見附豊川稲荷となっています。

一八七一年(明治四年)、神仏分離令が妙厳寺にも及びましたが、翌年には稲荷堂をそのまま寺院鎮守として祀ることが認められました。もっとも、境内参道に立ち並んでいた鳥居は撤去され、豊川稲荷の呼称も使われなくなり、以降は豊川吒枳尼真天と号するようになります。

しかし、間もなく通称として豊川稲荷と呼ぶことが復活。江戸時代に参詣目印に東海道に建立された石鳥居が一九三〇年(昭和五年)に境内に移設され、今日に至っています。

江戸時代に全国の寺社に吒枳尼天を勧請していた愛染寺(伏見稲荷本願所)が廃寺になったことにより、明治以降は豊川稲荷が寺院への吒枳尼天勧請の中心的な役割を担うようになりました。

ご本尊(別格霊場) 千手観音
ご本尊(豊川閣) 吒枳尼天
ご詠歌 円福に 稲をせおいし御すがたは めぐりて祈る 心にぞ知

★大亀由来の寿命院

豊川稲荷からさらに約二キロメートル東進し、名鉄豊川稲荷駅とJR飯田線を越え、さらに国道一五五線を横切ると、姫街道沿いに四十一番、松亀山寿命院があります。三河新四国最東端の霊場であり、真言宗醍醐派のお寺です。

当地は豊川の川岸。松の大木の根元に大亀がいるのを見た尊聖上人が一四二八年(正長元年)に松亀山と号して開創しました。

四十二番は山内にある仏木殿です。

ご本尊(四十一番) 不動明王
ご本尊(四十二番) 弘法大師
ご詠歌 ことぶきの 命守りし不動尊 恵みはひろき 松の亀山

★三河国二葉松の徳宝院

四十一・四十二番から国道一五五線を約四キロメートル南下、城下交差点を右折してJR飯田線を横切って牛久保に行くと、四十三番、宮嶋山徳宝院があります。真言宗のお寺です。

一五六〇年(永禄三年)、牛久保城主小笠原佐渡守が城の鬼門の方角(戌亥=北西)に祈願所堂宇を建立したのが当寺の始まり。

ご本尊は一三九五年(応永二年)に作られた不動明王。

寺宝に三河国二葉松という古門書があるそうです。天正年間(一七三六~一七四一年)に佐野監物住職が作成したもので、三河地方の地誌、城郭、寺社仏閣、古墳などを詳しく書き残した貴重な郷土資料。是非拝見したいものです。

四十四番は本堂の左奥にある清龍殿です。

ご本尊(四十三番) 不動明王
ご本尊(四十四番) 三宝荒神、清龍権現
ご詠歌 詣るより 頼みをかくる宮嶋の 法の光に あうぞうれしき

★子安弘法の金剛寺

来月から蒲郡市に入ります。まずは三谷温泉の山上にそびえる子安弘法で有名な弘法山金剛寺。新幹線からも見える子安弘法。乞ご期待。

(2020年9月)


第218話 三河新四国 (三十五〜四十番)

皆さん、こんにちは。七月は各地で豪雨の連続でした。今月も引き続き、猛暑や豪雨にお気をつけください。

今年のかわら版は三河新四国八十八ヶ所霊場についてお伝えしています。さて、今月は岡崎市から豊川市に入ります。

★近藤勇首塚

三十三・三十四番から国道一号線を南東方向にさらに約五キロメートル進むと、旧東海道五十三次のひとつ本宿近くにあるのが別格三十五番、大神光二村山法蔵寺。浄土宗西山深草派のお寺です。背後に二村山を擁しています。

当寺は文武天皇(六八三〜七○七年)の祈願所として出生時という寺号を賜っていた古刹。

一三八七年(嘉慶元年)、松平親氏(松平八代の初代、家康の先祖)が諸堂宇を再建した際に法蔵寺に改名しました。

徳川家康が幼少期(竹千代時代)に当寺で文字を学んでいたことから、手習い用の紙を乾かすために利用した御草紙掛松があります。

当寺には新撰組隊長、近藤勇の首塚もあります。筆者も当寺を訪問した際にそれを聞き、「どうしてかな」と不思議でした。

幕末、近藤勇は甲斐の国や勝浦で官軍に敗れて捕縛され、武蔵板橋で斬首。その首は京都三条河原でさらし首にされました。

伝承によれば、その首をかつての同士、斉藤一(別名・山口二郎)が奪い、新撰組ゆかりの宝蔵寺(新京極裏町)の称空義天和尚に埋葬を頼んだそうです。

しかし、同和尚はその直前に法蔵寺三十九代貫主に転任が決まっていたことから、近藤勇の首を密かに京都から当地に運び、首塚をつくって供養したそうです。

ご本尊(三十五番) 阿弥陀如来
ご詠歌 空海の 築きし庵 二村の 大悲まします 六角の堂

★隠居寺

三十五番法蔵寺の山門に登る階段の下に、三十六番、二村山勝徳寺があります。やはり、浄土宗西山深草派のお寺です。

法蔵寺は別格と名のつく大寺院でしたので、かつて寺内に賀勝軒という庫裏と威徳院という別院があり、法蔵寺の住職が交替すると、前住職が賀勝軒や威徳院に移り住んだそうです。言わば隠居寺。

一九五七年(昭和三十二年)、賀勝軒と威徳院が統合され、現在の勝徳寺になりました。

ご本尊(三十六番) 阿弥陀如来
ご詠歌 ありがたや 光明真言 となえつつ 登りておがむ 二村の山

★船山古墳

三十六番から再び国道一号線に戻って南東方向に約十キロメートル、豊川市に入って追分交差点を左に進むと国府(こう)上宿の集落に三十七番、法厳寺があります。真言宗醍醐派のお寺です。

永禄年間(九六八〜九八九年)に三河太守、大江定基の祈願所として寺禄を与えられていたそうです。

すぐ近くに船(舟)山古墳。東三河地方で最大規模の古墳であり、五世紀後半頃の築造と言われています。

被葬者は明らかではありませんが、雄略天皇時代に穂国造(ほのくにみやつこ)に任命された菟上足尼(うなかみのすくね)の墓所とする説があります。因みに、穂国は邪馬台国説もある東三河にあった古代国家です。

古墳は姫街道(東海道脇往還)沿いに位置し、当地は国府、国分寺、国分尼寺が集まる律令制下の三河国中心地。

かつては古墳の周りに十三ヶ寺が建ち並んでいました。法厳寺もその一寺を縁起とするものかもしれません。

三十八番は境内の金剛殿です。

ご本尊(三十七番) 不動明王
ご本尊(三十八番) 弘法大師
ご詠歌 詣るよう 詣れる人の 神の宿 光をうくる 法厳の寺

★女ぎつねのしかえし

三十八番から姫街道を東に進むこと約五キロメートル、三十九番は小林山快泉院。真言宗醍醐派のお寺です。

一六八九年(元禄二年)の開創時は快楽寺と呼ばれた当寺は古くから近隣集落の祈祷所として親しまれ、江戸時代には寺子屋も開いていたそうです。

雌狐を驚かせた住職が仕返しをされる「女ぎつねのしかえし」という民話が伝わっています。 四十番は本堂南にある遍照殿です。

ご本尊(三十九番) 不動明王
ご本尊(四十番) 弘法大師
ご詠歌 野をもすぎ 林も行きて 快楽の 不動の威力 たのまぬはなし

★豊川稲荷の妙厳寺

来月は三河新四国の別格霊場、圓福山妙厳寺に行きます。豊川稲荷として知られる妙厳寺。曹洞宗永平寺派のお寺です。乞ご期待。

(2020年8月)


第217話 三河新四国 (二十七〜三十四番)

皆さん、こんにちは。いよいよ夏になりました。今年も猛暑になりそうです。コロナにも気をつけて、くれぐれもご自愛ください。

今年のかわら版は三河新四国八十八ヶ所霊場についてお伝えしています。さて、今月は岡崎城近くの岡崎旧市街に向かいます。

★松本観音

二十五・二十六番から旧街道を南下して約二・五キロメートル進むと、旧城下町の町家の中にあるのが二十七番、松本観音浄誓院。浄土宗のお寺です。

開創は一六五〇年(慶安三年)。松本観音の呼称で親しまれている尼寺。本堂前にも松本観音と記された大提灯が吊るされています。

浄誓院のある松本町はかつて花町として栄え、街中にあった当寺は昔から松本観音と呼ばれて親しまれていました。

ご本尊の阿弥陀如来は鎌倉時代初期の運慶作と伝わります。丈約一・五メートル、眼に水晶がはめ込まれている木彫の秘仏です。

戦災で焼失したものの、一九五二年(昭和二十七年)、九品院ご住職が托鉢行で再建。以来、九品院ご住職が当寺の住職を兼ねているそうです。

二十八番は寺内にある松本観音です。

ご本尊(二十七番) 阿弥陀如来
ご本尊(二十八番) 十一面観世音
ご詠歌 清らけき 誓いの船を まつもとの 仏あわれと みそなわすなり

★源義経と浄瑠璃姫

二十七・二十八番から約三キロメートル。再び旧街道を南下し、岡崎城を右側に眺めながら名鉄名古屋本線を越えて左に曲がり、六所神社に隣接する二十九番、金實山安心院。曹洞宗のお寺です。

当寺の前身は源義経建立の妙大寺。義経がまだ牛若丸の頃、奥州下向の折に知己となった三河国矢作宿の浄瑠璃姫の菩提を弔うために寿永年間(十二世紀末)に建てたと伝わります。

兵火で荒廃したものの、一四三九年、六名影山城主(岡崎市)の城主であった成瀬国平が再興し、安心院として開山しました。成瀬氏はのちに犬山城主となります。

ご本尊は源義経が日夜拝んでいたと言われる丈約二十センチの十一面観世音の木彫座像です。

三十番は、本堂左に祀る金峯殿です。

ご本尊(二十九番) 十一面観世音
ご本尊(三十番) 千体地蔵尊
ご詠歌 みめぐみに だかれやすけき 心こそ かね宝にも まさりこそすれ

★千人塚

二十九・三十番から約一キロメートル東に進むと、岡崎市内を一望できる小高い山の上にあるのが三十一番、萬燈山吉祥院。真言宗醍醐派のお寺です。

この山は絵女房山と呼ばれる古戦場跡。古くから地元の人達も立ち入らない山でしたが、毎年万灯を掲げて戦で亡くなった武士たちを供養。いつしか萬燈山と呼ばれるようになりました。

一九〇五年、英照法印阿闍梨が入山。散在していた武士の骨を集めて千人塚を築き、万灯を焚いて加持祈祷、供養を続けたところ、やがて山の霊気も消え、一九〇九年(明治四十二年)に開山。

加持祈祷の霊験は評判となり、遠方からも信者が集まる心通霊神根本修験道場として今日に至っています。

山は標高約五十メートル、石段を登っていくと樹木に囲まれた急な参道には石仏が点在しています。

三十二番は山内にある萬燈山大師堂です。

ご本尊(三十一番) 不動明王
ご本尊(三十二番) 弘法大師
ご詠歌 寺の名も 萬燈山とたたへしを きけばたのもし のりのよろこび

★身代り片目不動明王

三十一・三十二番から国道一号線を南東方向に約十キロメートル、旧東海道五十三次のひとつ藤川宿にあるのが法弘山明星院。真言宗醍醐派のお寺です。

ご本尊は身代り片目不動明王。当院の前身は熊野那智山の末寺としての草庵です。

その昔、徳川家康と鵜殿長持(今川方)が近くの扇子山で交戦。徳川方が劣勢の中、白衣の武将が現れて加勢し、徳川方が辛勝。しかし、その武将は今川方に片目を射抜かれてしまったそうです。

家康が戦勝のお礼に戦場近くの草庵を訪れると、ご本尊の不動明王の片目がつぶれていたという逸話が伝わります。

草庵はやがて寺となり、当院が開創されたのは一六七五年(延宝三年)。三河一円の修験者の道場として栄えました。

以来、歴代の徳川将軍や各地の大名は、参勤交代の折に当院に立ち寄り、武運長久や道中安全を祈願したそうです。

三十四番は本堂左にある大聖殿、行者堂です。

ご本尊(三十三番) 身代り片目不動明王
ご本尊(三十四番) 開運厄除け弘法大師、役行者
ご詠歌 一心に 祈る心の尊きを 不動はききて 願かなえん

★近藤勇首塚の法蔵寺

来月は旧東海道をさらに進み、本宿の法蔵寺に向かいます。新選組近藤勇の首塚があることはほとんど知られていません。その後は豊川市に入ります。乞ご期待。

(2020年7月)


第216話 三河新四国 (十九〜二十六番)

皆さん、こんにちは。梅雨の季節になりました。腰痛が気になりますね。くれぐれもご自愛ください。

今年のかわら版は三河新四国八十八ヶ所霊場についてお伝えしています。さて、今月は豊田市から岡崎市に入ります。

★楠木正成の供養寺、雲龍寺

十七・十八番札所から猿投インターに向かい、さらに南下。約五キロメートル進むと十九番、水月山雲龍寺。曹洞宗のお寺です。

開創は一三〇五年(正平五年)。寺伝によれば、楠木正成・正行親子の供養寺として建てられ、当初は多聞寺と呼ばれていたそうですが、その後、足利勢の襲来を恐れて雲龍寺と改称。

場所も当初は挙母城下にありましたが、水害の影響で一七〇六年(宝永三年)に現在地に移転。

山門前には高さ約二メートルの立派な宝篋印塔。一七五二年(宝暦二年)の一揆の犠牲者を供養しているそうです。

二十番は寺内の如意殿。併設されている保育園・幼稚園から子供の声が響きます。

ご本尊(十九番) 聖観世音菩薩
ご本尊(二十番) 十一面観世音菩薩・如意輪観世音菩薩・延命地蔵菩薩
ご詠歌 わがおもふ 心のうちは むつのかど ただまろかれと いのるなりけり

★徳川将軍家菩提寺の大樹寺

さて、いよいよ岡崎市に向かいます。十九・二十番から国道二四八号線を南下、約三十キロメートル進んで岡崎旧市街地入り。二十一番は徳川将軍家菩提寺として知られる成道山大樹寺。浄土宗のお寺です。

一四七五年(文明七年)、松平氏第四代親忠が建立。

八代広忠の時に今川方の武将となった松平家。今川の人質として育った九代家康(当時は元康)は桶狭間の戦いに出陣。

今川義元が敗れ、大樹寺に逃げ込んだ家康。松平家の墓前で自刃しようとしますが、時の住職登誉上人に諭されて思いとどまります。

その時に登誉上人に賜った「厭離穢土(おんりえど)欣求浄土(ごんぐじょうど)」という言葉は以来、家康の馬印となりました。穢れた世を浄土にして衆生(人々)を救えという意味です。

歴代将軍の等身大の位牌のある位牌堂には、教科書等によく登場する家康の木像があります。山門は三代将軍家光の造営。本堂から山門を通して岡崎城が直線上に一望できることで有名です。

二十二番は本堂左にある成道殿です。

ご本尊(二十一番) 一光千体阿弥陀如来
ご本尊(二十二番) 如意輪観音・彌勒菩薩・弘法大師
ご詠歌 雨風の あらき浮き世も たえやすし 慈悲の大樹の かげに宿れば

★青年育成道場の九品院

大樹寺門前の道を東へ約一キロメートル、二十三番は荒井山九品院。やはり浄土宗のお寺です。

一八二八年(文政十一年)、大樹寺から要請を受けて青年僧育成道場として誕生。しかし、大樹寺の塔頭寺院ではありません。

三河新四国の昔の資料には「一日五回の勤行には徳本行者が創始した波念仏が聞こえてきます」と記してありましたが、今も続いているのでしょうか。

市街地の中にありますが、山寺の風情を感じさせる閑静な境内です。

二十四番は、山門内の善光寺堂です。

ご本尊(二十三番) 阿弥陀如来
ご本尊(二十四番) 一光三尊善光寺如来
ご詠歌 みほとけに くほんのすくい あるなれば よもやもれまじ つみのこのみは

★十三仏・千体弘法の持法院

二十三・二十四番から市街地を南下、約二キロメートル行くと二十五番、龍北山持法院。真言宗醍醐派のお寺です。

急な坂を上った高台にあり、一六七三年(延宝元年)の開創です。

ご本尊は十三仏。釈迦如来、文殊菩薩等の十三仏が四段に鎮座し、全体として一体の十三仏になっている珍しいご本尊です。

二十六番は本堂左側の大師堂。丈約十五センチの千体弘法が三方の壁にぎっしり祀られています。

また、境内東の小山には本四国八十八ヶ所霊場の石仏が安置されています。

ご本尊(二十五番) 十三仏
ご本尊(二十六番) 弘法大師
ご詠歌 阿りがたや 持法の庭に 来て見れば 法(のり)の御声の 絶えやらぬなり

★源義経ゆかりの安心院

来月はさらに旧道を南下して岡崎城、六所神社方面に向かいます。二十九番は源義経ゆかりの安心院です。乞ご期待。

(2020年6月)


第215話 三河新四国 (十一〜十八番)

皆さん、こんにちは。緊急事態宣言が解除されましたが、新型コロナウイルス感染症の再拡大に留意しながらの日常です。何かとご不自由なことと思います。お見舞い申し上げます。かわら版が、少しでも皆さんの気晴らしになれば幸いです。今年のかわら版は三河新四国八十八ヶ所霊場についてお伝えしています。さて、今月は三河新四国の最北端、猿投に向かいます。

★万人地蔵大菩薩の薬師寺

九・十番札所から飯田街道(国道一五三号)を北上すること約八キロメートル、名鉄三河線越戸駅のそばに十一番札所、瑠璃光山薬師寺があります。浄土宗のお寺です。一七五一年(宝暦元年)、尼僧念仏道場として開創したと伝わります。

昭和四十一年十二月十五日、近くの越戸保育園前で居眠り運転のダンプカーによる交通事故が発生。園児・保母さん十一名が亡くなるという痛ましい事故でした。

脇仏の万人地蔵大菩薩は、犠牲者を弔うために一般の方々に、ひとのみずつ削っていただいて奉安されたものです。十二番札所はそのお地蔵様を祀る瑠璃殿です。合掌。

ご本尊(十一番) 薬師瑠璃光如来
ご本尊(十二番) 万人地蔵大菩薩
ご詠歌 よしみずの 流れも清き やくしでら 大師はいつも ここにまします

★聖観音と馬頭観音

十一・十二番札所から飯田街道沿いに約五百メートル進むと、十三番札所の身掛山観音院。真言宗醍醐派のお寺です。

開創は一六六五年(寛文五年)。飯田街道に面する境内には、本堂を挟んで右に聖観音、左に馬頭観音の石仏が並び、凛とした気が漂います。十四番札所はその馬頭観音を祀る馬頭殿です。

ご住職自ら仏画を描き、四季の草花を描いた堂内の天井画も見事。 お正月の本四国お砂踏み法要は巡拝客で賑わいます。

ご本尊(十三番) 聖観世音菩薩
ご本尊(十四番) 馬頭観音
ご詠歌 このきしは 越戸の里の みかけやま 大師のおしえ 結ぶうれしさ

★勘八峡から香嵐渓へ抜ける石野

十三・十四番からさらに飯田街道を北上、越戸ダムや勘八峡を横目に猿投グリーンロードの力石インターチェンジの交差点を過ぎ、足助・香嵐渓方面に向かう途中の石野に十五番札所、金重山廣昌院があります。浄土宗のお寺です。十八番は境内にある金重殿です。

開創は一四七九年(文明十一年)。当初は極楽山浄土院と言われたそうですが、一四八八年(長享二年)に現在の山号院号に改称されたそうです。

飯田街道を挟んだ反対側には、廣昌院よりも古い一二六四年(文永元年)開創の楽命山如意寺(真宗大谷派)があり、山門・本堂・書院・鐘楼・大鼓楼とも見事。

勘八峡から香嵐渓に抜ける山深い街道沿いに廣昌院や如意寺が林立する風景は、かつて石野が宿場町のように栄えていた証と言えます。

ご本尊(十五番) 阿弥陀如来
ご本尊(十六番) 弘法大師
ご詠歌 勘八を すぎし土陰に うつせみの まぬけはてたる ここぞすずしき

★旧三河新四国奥の院の東昌寺

十五・十六番から香嵐渓に向かいたいところですが、残念ながらUターン。南下して猿投グリーンロードに入ります。中山インターを降りて北上、猿投神社の大鳥居の右奥を進むと、三河新国の最北端、十七番は大悲殿東昌寺があります。曹洞宗のお寺です。

猿投の地名は日本書紀に登場します。曰く、第十二代景行天皇に東征を命じられた大碓命が猿投山中で逝去。景行年間は紀元前後と推定されます。そして、猿投神社は第十四代仲哀天皇元年に勅願により創建されました。

東昌寺の前身は猿投神社の神宮寺である白鳳寺。猿投山内にあり、一四三四年(永享六年)には七ヶ寺三十六坊と隆盛を極めたと記される古刹。秀吉や家康にも庇護されたものの、明治維新の廃仏毀釈で廃寺。

一九一八年(大正七年)に岡島魯宗禅師が神社の鬼門除け観音像を本尊として一ヶ寺を復興。一九三二年(昭和七年)に東昌寺として再興したと伝わります。東昌寺の境内や山中には、前身時代の相当古い石仏が散在します。

旧三河新四国の奥の院とも伝わり、十八番は本堂南にある大師堂です。猿投山中であり、春秋の桜や紅葉の美しさが想像できます。

ご本尊(十七番) 千手千眼観世音
ご本尊(十八番) 釈迦如来・阿弥陀仏・弘法大師・千手観音
ご詠歌 春は花 あきはもみじの猿投山 まさしくここぞ のりのともしび

★徳川家菩提寺の大樹寺

来月は再び南下。豊田市の最後の札所、十九番雲龍寺を経て岡崎市に入り、徳川家菩提寺の大樹寺に向かいます。岡崎市内は名刹揃いです。乞ご期待。

(2020年5月)


第214話 三河新四国 (四〜十番)

皆さん、こんにちは。感染症対策の影響でせっかくの春も気うつですが、ご自宅での気晴らしにかわら版を読んでいただければ幸いです。くれぐれもご自愛ください。

今年のかわら版は三河新四国八十八ヶ所霊場についてお伝えしています。さて、今月は知立市から豊田市に向かいます。

★かきつばた祭りの無量壽寺

三番札所から国道一号線を約十二キロメートル東進。刈谷市から再び知立市に入ると、四番札所は八橋山無量壽寺。臨済宗のお寺です。

開創は七〇四年(慶雲元年)ですから、お大師様が当地にご逗留した時より百年以上も前からの古刹です。

平安時代の歌聖、在原業平が当地で歌を詠んで以来、古来名勝地として知られてきました。

江戸時代には、筑前の僧、売茶方農和尚が在原業平を慕って当寺に住み、業平旧蹟の再興を願って全国を行脚。当寺の名を各地に広めたと言われています。

毎年五月にはかきつばた祭りが催され、参詣客がたくさん訪れます。

ご本尊 聖観世音菩薩
ご詠歌 古きより かきつの里の 無量壽寺 大師の慈悲に 人ぞ寄るなり

★枝垂れ桜の龍興寺

四番札所から県道十二号線を北上すること約九キロメートル。豊田市に入って最初に向かうのは五番札所、鈴木山龍興寺。臨済宗のお寺です。

その昔、紀州の鈴木七郎左衛門穣重延という人が奥州へ向かう道中、脚を患って当地に定住。その後、先祖や主従の菩提を弔うために草庵を立てたのが当寺の始まりと伝わります。

一五五六年(弘治二年)、熱田からやってきた南溟和尚が再興し、臨済宗に改宗。

広い石段と白の塗壁の上に建つ山門、春に咲く枝垂れ桜は見事です。

境内にある黄檗殿が六番札所です。

ご本尊(五番)聖観世音菩薩
ご本尊(六番)薬師如来
ご詠歌 石段を のぼる門に松風の ひらけるあしたに 龍興寺の鐘

★日本三庚申の金谷寺

五・六番札所から約十キロメートル北上し、トヨタ自動車本社工場を横目に愛知環状鉄道沿いに進んで豊田市内に入ります。名鉄三河線の上拳母駅南側の旧市街の中にあるのが、七番札所の金谷閣三光寺。真言宗醍醐派のお寺です。

寺の縁起は、碧海郡から移された庚申堂を基に一六〇三年(慶長八年)に秋応法印が開基したとか、あるいは一六〇〇年(慶長五年)に金谷村の近藤何某が堂宇を建立したとも言われます。 その後、一六六二年(寛文二年)、挙母城主三宅能登守勝が本堂や山門を再建したと伝わります。

ご本尊はお大師様作の庚申尊(青面金剛王童子)。日本三庚申のひとつとも言われ、春の初庚申大祭は参拝客で賑わいます。

ちなみに庚申信仰とは、庚申(かのえさる)の夜に人の体内にいる三尸(さんし)の虫が良くないことをするのを防ぐために不眠行を行う道教の慣習が仏教等と結びついたものです。

八番札所は本堂左にある護摩堂です。

ご本尊(七番)庚申尊(青面金剛王導士)
ご本尊(八番)弘法大師・不動明王・薬師如来
ご詠歌 明けらく後の 佛の御世までも 光り伝へよ みひかり(三光)の寺

★久蔵地蔵の光明寺

七・八番札所から南下すること約五百メートル、九番札所は遍照山光明寺。浄土宗のお寺です。

開創は一五七一年(元亀二年)。挙母城主の與語久兵衛が、前年の姉川の戦い(織田信長と浅井長政・朝倉義景の戦い)に参戦。戦死した一六歳の甥、坂井久蔵の供養のために地蔵菩薩(久蔵地蔵)を彫り、阿弥陀如来を安置して念仏道場を作ったのが始まり。

開基はその與語久兵衛と矢作川の川湊を管理していた與語久三郎。ふたりは兄弟あるいは親子と伝わります。

一六四三年(寛永二十年)、教誉但順大徳が再興しました。

十番札所は境内にある直心堂です。

ご本尊(九番)阿弥陀如来
ご本尊(十番)久蔵地蔵菩薩
ご詠歌 みほとけの 慈悲の光明(みひかり) くまもなく 挙母の里に 照りわたるかな

★三河新四国最北端の東昌寺

光明寺から国道二四八号、一五三号を矢作川沿いに北上し、飯田街道を進んで次の札所に向かいます。

その後は旧猿投町に入り、三河新四国の最北端、猿投神社の奥にある東昌寺を目指します。乞ご期待。

(2020年4月)


検索でさがす

大塚耕平

  • 2002年から「弘法さんかわら版」を書き続けています。仏教に親しみ、仏教から学び、仏教を探訪しています。より良い社会を目指すうえで仏教の教えは大切です。「弘法さんかわら版」は覚王山日泰寺(名古屋市千種区)と弘法山遍照院(知立市)の弘法さんの縁日にお配りしています。縁日はお大師様の月命日に立ちます。覚王山は新暦の21日、知立は旧暦の21日です。
  • 著書に「お大師様の生涯と覚王山」(大法輪閣)、「仏教通史」(大法輪閣)など。全国先達会、東日本先達会、愛知県先達会、四国八十八ヶ所霊場開創1200年記念イベント(室戸市)、中日文化センターなどで講演をさせていただいています。毎年12月23日には覚王山で「弘法さんを語る会」を開催。ご要望があれば、全国どこでも喜んでお伺いします。
  • 1959年愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒、同大学院博士課程修了(学術博士、専門はマクロ経済学)。日本銀行を経て、2001年から参議院議員。元内閣府副大臣、元厚生労働副大臣。現在、早稲田大学総合研究機構客員教授(2006年~)、藤田医科大学医学部客員教授(2016年~)を兼務しています。元中央大学大学院公共政策研究科客員教授(2005年~17年)。