弘法さんブログ

第184話(2017年10月)

皆さん、こんにちは。秋本番、十月です。朝晩は肌寒い日が増えました。くれぐれもご自愛ください。

今年のかわら版は知多四国八十八ヶ所霊場についてお伝えしています。今月は二十七番からスタートです。

★恵等和尚

二十六番から南下。河和の交差点から西に折れ、南知多道路をくぐって集落の中に入ると二十七番、天竜山誓海寺。道中三・九キロメートルです。

戦国時代の一五五五年、現在地よりも海岸寄りの古布(こう)で開創されたと伝わります。 知多八十八ヶ所霊場開創の折、住職恵等和尚が発願者のひとりである岡戸半蔵に多大な協力をしたそうです。

戦争中の一九四四年、境内が海軍航空隊に徴用されたため、古布の村ごと現在地に移転。

愛染堂には、お大師様が三体彫ったと伝わる愛染明王のうちの一体を奉安。縁結びのご利益があると言われ、女性の信仰を集めています。

ご本尊 釈迦牟尼仏
ご詠歌 彼の岸に 渡らむ古布の誓海寺 波も静かに 法の風吹く

★岡戸半蔵行者

右記のような経緯から、誓海寺境内には知多四国八十八ヶ所霊場の三開山のひとり、岡戸半蔵行者を祀る禅林堂があります。

岡戸半蔵行者は一七五二年、福住村(現在の阿久比町)生まれ。妻子に先立たれ、供養のために発心して本四国を巡拝。

一八一九年、知多四国八十八ヶ所霊場開創を目指す亮山阿闍梨に出会い、武田安兵衛行者とともに大願成就に腐心。屋敷も田畑も売り払い、大師像等を寄進しました。 大願を果たした一八二四年、誓海寺で七十三歳の生涯を閉じました。

ご本尊 釈迦牟尼仏
ご詠歌 御仏の 恵みのままに 身を寄せて 心たのもし 禅林の堂

★ことぶき観音

二十七番から南下、南知多道路沿いに一般道を進むこと二・六キロメートル、山間にたたずむのは二十八番、浄光山永寿寺。

寺の縁起は十世紀初頭の八幡神社まで遡ります。

寺のある集落は、戦国時代の一五八二年、丹波福知山の落ち武者六人がこの地に住みつき、山を切り拓いて作ったことから切山(きりやま)と呼ばれていたそうです。

高さ二メートル(台座から三・五メートル)の聖観音像は「ことぶき観音」として親しまれ、参詣者の福寿無量を願っています。

ご本尊 阿弥陀如来
ご詠歌 欲心を 只一筋に切山の 永寿の人は 弥陀の功徳ぞ

★千枚通しの護符

二十八番から丘陵地や竹林を抜けて二・八キロキロメートル南下。二十九番は大悲山正法寺。

正法寺は、一一六〇年、源義朝とともに野間で謀殺された家臣、鎌田兵衛正清の館跡に建っています。

一二三三年、正清供養のため、比叡山の徹円阿闍梨が護摩堂を建立し、正清の念持仏である毘沙門天を祀ったのが寺の縁起です。

正法寺では薄い和紙でできた「千枚通しの護符」が授けられ、水とともに飲むと病気平癒の霊験があると信じられています。

ご本尊 毘沙門天
ご詠歌 迷はずに 正しき法の道行かば 山田に残す 毘沙門の徳

★上陸大師

来月は大井漁港へ。お大師様が三河から船で渡ってきた地です。お大師様が護摩修法した医王寺をはじめ、五つの札所が密集しています。海上の岩場には上陸大師と呼ばれて親しまれる大師像が毅然と立っています。乞ご期待。


第183話(2017年9月)

皆さん、こんにちは。早いもので九月です。朝晩は肌寒い日もあります。くれぐれもご自愛ください。

今年のかわら版は知多八十八ヶ所霊場についてお伝えしています。今月は二十五番からスタートです。

★弘吉布袋

二十四番から名鉄河和線と国道二四七号線の間を南に二・七キロメートル、富貴駅北側の踏み切るを越えると二十五番、法輪山円観寺。

縁起は室町時代に遡りますが、現在の場所、山号・寺号になったのは一五七四年。

総欅(けやき)造りの護摩堂には、金毘羅大権現、不動明王、薬師如来が祀られ、毎月十日には護摩祈祷が行われます。

堂内には笑顔が印象的な弘吉布袋も鎮座しており、参拝客に親しまれています。

ご本尊 阿弥陀如来
ご詠歌 円やかに 観給う弥陀の 慈眼には 富貴も貴賤も 別ちなからむ

★武田安兵衛行者

二十五番から名鉄河和線に沿ってさらに南下すること三・二キロメートル、開山所の達磨山葦航寺。

知多八十八ヶ所霊場の三開山のひとり、武田安兵衛行者を祀っています。讃岐生まれの安兵衛と、霊場の開基、亮山阿闍梨との出会いの経緯は二月号をホームページからご覧ください。

亮山阿闍梨、岡戸半蔵行者とともに知多八十八ヶ所霊場の開山に奔走。讃岐出身の安兵衛は本四国霊場の砂を集め、これを納めました。

開山の大業を達成した翌年の一八二五年、安兵衛は布土の十王堂で三十六歳の若さで亡くなりました。

ご本尊 釈迦牟尼仏
ご詠歌 一筋に 八十八と願立てて 布土の縁で なるぞはたせり

★安産の観音様(時志観音)

葦航寺から海沿いの国道二四七号線に出て南に二・三キロメートル。急な石段の上に海を見下ろして立つのは番外札所、慈雲山影現寺。

八二七年、佐久島の漁師の網に十一面観音像がかかり、島の草堂に祀っていると、堂守の夢に観音様が現れ「願わくは対岸の陸地に祀れ」との夢告。観音像から出た光明が指し示した先が当地だったと伝わります。

遷座した後はいつしか時志観音と呼ばれるようになり、草堂をもとに一五〇四年開山、一七一五年開創。

領内巡察中の尾張藩初代藩主、徳川義直が当寺で休息。由来に感服した義直は当寺を庇護。義直の安産祈願も叶えたことから、以後、安産の観音様として信仰されました。

ご本尊 釈迦牟尼仏
ご詠歌 時しらぬ 利益はいつも有明の 月の光の いたらぬはなし

★地獄絵図

時志観音から国道二四七号線をさらに一・四キロメートル南下。名鉄河和駅近くにあるのが二十六番、龍華山弥勒寺。

一五九六年に開創。一七五三年の火災で堂宇を焼失しましたが、後の住職、海嶺和尚や天佑和尚らの尽力で再興。今日に至っています。

釜茹で、血の池地獄などが描かれた寺宝「地獄絵図」は毎年春秋のお彼岸の一週間ご開帳され、多くの人が参拝に訪れます。

お庫裏さんは著名な画家と伺っています。お庫裏さんが描いた絵も年々蓄積されているそうです。

ご本尊 弥勒菩薩
ご詠歌 露の身も 今日は嬉しく北方の 弥勒寺尊の あかつきにある

★岡戸半蔵行者

さて、来月は二十七番から。三開山のひとり岡戸半蔵行者を祀る開山所が境内にあります。乞ご期待。


第182話(2017年8月)

皆さん、こんにちは。夏真っ盛りの八月、暑い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。 今年のかわら版は知多八十八ヶ所霊場についてお伝えしています。今月は二十番からスタートです。

★手足弘法

十九番から西に〇・七キロメートル、二十番は萬松山龍台院。

戦国時代の一五七三年、当地の土豪、吉田禎輔が堂宇を建立したのが始まりです。

弘法堂南に立つ萬松稲荷は元々横須賀町(現在の東海市)玉林斎にありましたが、住職の夢に神様が現れ「衆生済度のため龍台院に祀ってほしい」との夢告。明治三〇年に移されました。

弘法堂前に置かれている手足の木型で患部を摩ると治ると信じられ、手足弘法と呼ばれています。

ご本尊 十一面観世音菩薩
ご詠歌 千歳ふる つるの林の 大悲閣 えんぶだごんの 光り輝く

★家康公縁(ゆかり)の寺

二十番から南下。知多半田駅を横目に名鉄河和線に沿って二・一キロメートル、二十一番は天龍山常楽寺。

二十番より約百年前の一四八四年、空観栄覚上人が応仁の乱の戦没者供養のために発願、開創しました。

八世典空上人の母は家康公母(於大の方)の妹、つまり上人は家康公の従兄弟。そのため、家康公は桶狭間の戦、本能寺の変、上洛時の三度に亘って当寺を参拝。家康公縁の寺であったことから、尾張藩初代藩主徳川義直の庇護を受けました。

毎年三月二五日には知多半島各地から宗門僧俗が集まり、法然上人を偲ぶ御忌会が行われます。

ご本尊 阿弥陀如来
ご詠歌 常楽の 彼岸にやがて 到らまし 御名唱ふるは 報恩のため

★お八日(おはちにち)

二十一番からさらに三・七キロメートル南下。武豊平井畑交差点を左折すると、二十二番、御嶽山大日寺。

ご本尊大日如来は元々桓武天皇勅願寺の御嶽山光照院に祀られていましたが、戦乱で堂宇が焼失した際、難を逃れるために大日池に沈められました。約百年後、灌漑工事の際に発見され、大日寺に奉安されました。

旧暦一月二十八日は「お八日」と呼ばれる大日如来の縁日。現在では毎年三月第一日曜日に開かれています。

ご本尊 大日如来
ご詠歌 まんだら界 洽く照らす 御仏の 功徳長尾の 大日の寺

★ヒジリ(聖)田

二十二番から〇・五キロメートル。前田交差点を右折、前方右手に見えてくるのが二十三番、意龍山蓮華院。

応仁の乱の戦乱に苦しむ村を案じた修行僧が草庵を結んだのが始まり。僧は農耕指導も行い、村人から慕われ聖上人と呼ばれました。以来、この辺りの地名はヒジリ田となりました。

昭和四十五年に火災に遭い、以後、順次再建。現在の本堂は鮮やかな色彩が目を引きます。

ご本尊 阿弥陀如来
ご詠歌 寺の名に 因む一連托生は み名を称ふる 口にこもれる

★義朝公供養

二十三番から一・六キロメートル。JR武豊駅を過ぎると左手に現れるのが二十四番、慶亀山徳正寺。

源義朝を討った長田忠致の末裔が、一五一三年、義朝公供養のために地蔵尊を祀ったのが始まりです。

ご本尊脇に安置されている十一面観世音菩薩は天平時代作の重要文化財。明治時代の廃仏棄釈の際、檀家が隠して守ったそうです。

ご本尊 大通智勝仏
ご詠歌 法の雨 降りかかる身の 徳正寺 道大足に 知らで行く人

★二十番台入り

さて、来月は三開山のひとり、武田安兵衛行者を祀る葦航寺にも立ち寄ります。乞ご期待。


第181話(2017年7月)

皆さん、こんにちは。いよいよ夏本番。暑い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。

今年のかわら版は知多八十八ヶ所霊場についてお伝えしています。今月は十七番を先に打ってから十六番に回ります。

★徳本と徳住

名鉄河和線を左手に眺めながら十五番から南下。二・二キロメートル進むと十七番、樫木山観音寺です。

この辺りは、阿久比川の支流、前田川流域の台地となっています。

開基は善随上人。二代は江戸時代の念仏聖として名高い徳本上人の弟子、徳住(入誉上人)。 独特の筆致で知られる徳本。境内の徳本と徳住の名号塔には、徳本の書による南無阿弥陀仏が彫られています。

毎年八月九日が縁日。この日参拝すると九万九千日お参りしたのと同じ功徳があると伝わります。

ご本尊 十一面観世音菩薩
ご詠歌 御仏の 其身誓ひも高岡に 真如の月は 常に照せる

★慈覚大師

十七番から東へ〇・五キロメートル、十六番は鳳凰山平泉寺です。

八三〇年、淳和天皇の勅命で鳳凰を探しに来た慈覚大師が建立した古刹。ご本尊の尾張不動尊は慈覚大師作。国の指定文化財です。

一一九〇年、源頼朝が父義朝の墓参の帰路に参拝し、尾張不動尊に国家安穏を祈願したと伝わります。

境内の「オカラス大明神」は腰に効く「腰の神様」として慕われています。

ご本尊 尾張不動尊
ご詠歌 三毒を 洗ふて清き 平泉寺 不動の利生 いとも賢し

★蓮糸(れんし)の法衣

十六番からさらに東に三・七キロメートル、乙川の集落の中にあるのが番外札所、清涼山奥の院海蔵寺。

阿久比川が大きく蛇行する形が「乙」の字に似ていることから、地名が乙川になったと言われています。

二世住職の田翁和尚。その神通力で遠く離れた高野山の大火を見通し、庭に水を撒いて火を消し止め、高野山より「蓮糸の法衣」が贈られました。

ご本尊 釈迦牟尼仏
ご詠歌 奥の院 高野の山に変らねば 真心こめて 頼め諸人

★次郎長地蔵

番外海蔵寺から乙川集落内を南へ一・〇キロメートル進むと十八番、開運山光照寺です。

境内の観音堂建立時、寺格では二層の堂宇建築が許されなかったものの、時の尾張藩家老成瀬隼人が「庇(ひさし)を付ければ塔にあらず」との名裁定。晴れて今の姿となりました。

江戸時代末期、清水次郎長が半田亀崎で決闘する前に願掛けしたお地蔵様が観音堂の横に祀られています。

勝軍地蔵、次郎長地蔵と呼ばれ、信仰されています。

ご本尊 阿弥陀如来
ご詠歌 乙川の 清き流れに俤を 写せば胸の 垢や落ちなん

★彫長(ほりちょう)と彫常(ほりつね)

十八番から南下し、JR武豊線、阿久比川、国道二四七号線を越えて一・九キロメートル、半田市街に入ると十九番、前明山光照院。

十八番が光照寺、十九番が光照院、寺と院が続きます。

明治十五年建立の玄関と明治四十年建立の弘法堂には、半田の山車の彫刻師、彫長と彫常の師弟が彫った龍と竜虎が飾られています。

ご本尊 阿弥陀如来
ご詠歌 大慈悲の 光を照らす地蔵尊 救い給へよ 此の世后の世

★二十番台入り

さて、来月は名鉄河和線に沿って南下し、半田市から武豊町に入ります。札所も二十番台に入り、徳川家康公が三度参拝したと言われる二十一番、常楽寺にも行きます。乞ご期待。


第180話(2017年6月)

皆さん、こんにちは。梅雨の季節になりました。神経痛も気になります。くれぐれもご自愛ください。

今年のかわら版は知多八十八ヶ所霊場についてお伝えしています。今月は阿久比町の十四番札所からです。

★行者堂

十三番札所を出て阿久比川沿いに西に〇・五キロメートル進むと、十四番札所、円通山興昌寺です。

一五六〇年、桶狭間の戦いに敗れた今川勢の家臣、岡戸祢宜左衛門(ねぎざえもん)がこの地(福住)に残り、緒川(東浦町)の乾坤院から和尚を迎えて開山させたそうです。

山門の左にあるのは行者堂。知多四国霊場の三開山のひとり、岡戸半蔵の行者像を祀っています。美浜町の禅林寺にも半蔵の墓所とともに行者堂があります。

ご本尊 華厳釈迦牟尼仏
ご詠歌 法の風 福住わたる興昌寺 末の世までも 利益残せり

★菅原道真の孫 さらに西進して阿久比川と名鉄河和線を越え、坂部駅西側の集落の中にあるのが十五番札所、龍渓山洞雲院。十四番から一・四キロメートルです。

平安時代の九四八年創建の古刹。開基は菅原道真の孫、菅原雅規。道真が大宰府に配流され、一族も連座。雅規もこの地に流されました。

一時荒廃したものの、一四九三年、雅規の子孫、久松定益が再建。定益の子、定義が寺の近くに坂部城を築城。その子(定益の孫)俊勝に嫁いだのが徳川家康の母、於大の方。訳あって俊勝と再婚しました(後述)。

境内の杉木立の中に伝通院(於大の方)をはじめ、久松家、松平家の墓所があります。

ご本尊 如意輪観世音菩薩
ご詠歌 春の日は 梅が谷間に 輝きて 久松寺に 晴るる淡雲

★伝通院於大の方

於大の方は、戦国史に翻弄された一生を送りました。

一五二八年、緒川(東浦町)城主・水野忠政と妻・於富の間に誕生。

当時、隣接する三河で勢力を伸ばしていた松平清康(家康の祖父)の求めに応じ、忠政は於富を離縁し、清康に嫁がせました。その間に生まれたのが松平広忠(家康の父)。忠政は、水野氏と松平氏の関係強化のため、一五四一年、娘・於大も広忠に嫁がせました。そして一五四三年、岡崎城で広忠と於大の間に生まれたのが竹千代(家康)です。

同年、忠政が逝去。家督を継いだ於大の兄・信元は翌年、松平氏の主君・今川氏と絶縁して織田氏に臣従。

広忠は今川氏との関係を慮り、於大を離縁。於大は、水野氏の支城、刈谷城に移されました。

一五四五年、織田信秀による三河侵攻に際し、広忠は今川氏に加勢を依頼。見返りに竹千代を人質として差し出しました。

一五四七年、信元の意向で於大は阿古居(阿久比)城主・久松俊勝の後妻として再嫁。

俊勝は水野氏の女性を妻に迎えていましたが早逝。俊勝は、水野氏、松平氏双方との関係強化を図り、於大を迎え入れました。

一五四九年、広忠が尾張遠征中に家臣に暗殺されます(森山または守山崩れ)。

於大は俊勝との間に三男三女をもうけましたが、竹千代とも音信を取り続けました。

一五六〇年、桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られ、今川氏から離脱した竹千代改め家康は織田信長と同盟。

家康は、俊勝と於大の息子三人(つまり異父弟)に松平姓を与えて家臣とし、於大を母として迎えました。

於大は俊勝の死後、剃髪して伝通院と号します。

一五八四年、小牧・長久手の戦いの後、子の松平定勝を羽柴秀吉の養子にする話が浮上。於大は強く反対して家康に断念させました。

この養子話が成立していたら、以後の豊臣・徳川の歴史はさらに複雑なものになっていたでしょう。

一六〇二年、家康の滞在する京都・伏見城で逝去。七十八歳の生涯でした。江戸小石川伝通院に埋葬され、墓所は坂部城近くの洞雲院にも建立されました。

★開山所と番外札所

さて、名鉄河和線に沿ってさらに南下。阿久比から半田に向かいます。知多四国霊場には八十八の札所のほかに、三つの開山所、七つの番外札所があります。次回は道中二ヶ所目の番外札所にも寄っていきます。乞ご期待。


第179話(2017年5月)

皆さん、こんにちは。新緑がまぶしい季節になりました。それでも朝晩は冷え込む日 もあります。くれぐれもご自愛ください。 今年のかわら版は知多八十八ヶ所霊場についてお伝えしています。今月は十一番札所 から出発です。

★寺子屋の発祥地

国道三六六号線沿いに南下、JR武豊線東浦駅近くから西側の集落の中に入って進む と、十一番札所、光明山安徳寺。十番札所から二・〇キロメートルです。

開創当初は衣浦湾近くにあったそうですが、水害や大火に見舞われ、現在地に移りま した。

恵心僧都作の薬師如来像は東浦町の指定文化財。

安徳寺は知多地方における寺子屋発祥地。そのためか、明治五年の学制開始とともに 周辺三村が共同で学校を開設。現在の藤江小学校の前身です。

ご本尊 釈迦牟尼仏
ご詠歌 後の世も 此の世も心安徳字 仏の御名に 汚れ洗ふて

★歳弘法

十一番札所から十二番には行かず、半田市亀崎の番外札所、亀宝山東光寺に向かいま す。十一番から三・六キロメートルです。

国道三六六号線は線路下をくぐってJR武豊線の東側へ。国道を左に折れて亀崎小学 校を過ぎた先にあるのが東光寺。

明治三十三年創建当時は念仏の布教所。やがて、和歌山の同名の寺からご本尊と寺号 を移しました。

開基の実空誠感上人がお大師様の誕生から入定までの各年齢の六十二体の大師像を奉 安。東光寺は歳弘法で知られています。

日限(ひぎり)大師、厄除け大師、衆生済度大師を祀る三体大師堂もあり、参詣者の 多い番外札所です。

ご本尊 阿弥陀如来
ご詠歌 身はここに 心はいつか東光寺 弘法大師念じたる身は

★開眼の杖

東光寺から一・〇キロメートル。海に面して、神前神社と並んで立つのが五十四番札 所、亀嶺山海潮院。

文明年間(一四八〇年頃)創建の古刹。亀崎城主や刈谷城主に庇護され、北浦から現 在地に移りました。

もともとの五十四番札所は野間にありましたが、明治の廃仏毀釈で廃院。大師像は他寺で保護され、明治三十四年、海潮院が五十四番札所として承認され、引き継ぎまし た。

大正元年、水野村(現瀬戸市)の盲目の加藤鉄次郎さんが大師像の前で突然目が見えるようになったという霊験が伝わっており、開眼の杖が御礼奉安されています。

ご本尊 釈迦牟尼仏
ご詠歌 亀崎の 海潮院に波静か 釈迦牟尼仏の まもりゆたかに

★水弘法

さて、番号順のルートに戻って亀崎から西に三・四キロメートル。十二番札所は徳応 山福住寺。

永禄二年(一五五九年)、緒川と刈谷の城主だった水野信元が福住村(現阿久比町) にあった寺をこの地に移し、砦の鎮護としたのが縁起です。

眼病にご利益のある水弘法、夢のお告げで三河から移された千体地蔵などが祀られて います。

ご本尊 無量寿如来
ご詠歌 極楽も そのままなれや福住寺 後の楽しみ 有脇の里

★天白地蔵

十二番札所からさらに西に二・七キロメートル。十三番札所は板嶺山安楽寺。名鉄 坂部駅からは一・三キロメートルのところにあります。

観音堂の聖観世音菩薩像は行基作。九年に一度、ご開帳されます。

地蔵堂の天白地蔵に穴の開いた柄杓を供えてお参りすると、耳の遠いのが治るご利 益。かつては遠方からもお年寄りが参拝したそうです。

ご本尊 無量寿如来
ご詠歌 板山の 弥陀に詣れば松ヶ枝に おとなふ風も 念仏の声

★於大の方(伝通院)

さて、来月は名鉄河和線に沿って南下し、阿久比から半田市街に向かいます。家康公 の生母、於大の方(伝通院)の墓所がある洞雲院にも参ります。乞ご期待。


第178話(2017年4月)

皆さん、こんにちは。いよいよ春本番。とは言え、朝晩は冷え込む日もあります。くれぐれもご自愛ください。

今年のかわら版は知多八十八ヶ所霊場についてお伝えしています。今月は六番札所から出発です。

★平景清(かげきよ)

国道一五五号線を南に折れ、「あいち健康の森」の西側にあるのが六番札所、萬年山常福寺。五番札所から四・〇キロメートルです。

壇ノ浦の戦いで敗れた平景清がこの地に逃れ、草庵を結んだのが縁起と言われています。

景清が読経満願の夜に千手観世音菩薩を感得。自ら木像を彫りました。

村人たちがこの地で没した景清の冥福を常に祈るという意味で寺号を常福寺としました。

所在地の地名「半月」は、景清が千手観世音菩薩を半月で彫ったことに因んでいるそうです。

ご本尊 千手観世音菩薩
ご詠歌 半月の法の光の輝きて 迷ひの雲も 晴れて跡なし

★抱き地蔵

六番札所から三・六キロメートル、七番札所は彼岸山極楽寺。国道三六六号線の西側の集落の中にあります。

「村木砦の戦い」で織田信長が本陣を構えたと言われています。

境内東側には樹齢九〇〇年の大楠。東浦町の天然記念物です。

大師堂の前にはお遍路さんに人気の抱き地蔵。抱擁して抱き上げると願いが叶うそうです。

ご本尊 阿弥陀如来
ご詠歌 極楽は いづこと人の尋ねなば この森岡にもありと教えよ

★妙法さま

七番札所から集落の中を南へ一・〇キロメートル進むと、八番札所上世山傳宗院。

JR武豊線、緒川駅の近くですが、緒川は徳川家康の生母・於大(おだい)の方の生誕地。

大師堂の脇に祀られている妙法さまは安産や婦人病にご利益があると信じられており、多くの参拝客が訪れます。

ご本尊 延命地蔵菩薩
ご詠歌 棹さして 渡る緒川の傳宗院 迷う我身を乗せて賜へや

★歓喜天

八番札所から南に向かって二・五キロメートル、九番札所は浄土山明徳寺。

ご本尊の阿弥陀如来は恵心僧都の作と言われています。

境内には、樹齢三五〇年の五葉松、同四五〇年の蘇鉄など、緑が豊かです。

秘仏・歓喜天は夫婦和合、金運のご利益があると言われ、毎年五月五日の御開帳には多くの参拝客があるそうです。

ご本尊 阿弥陀如来
ご詠歌 石浜に 光れる月の明徳寺 気高く仰ぐ 南無阿弥陀仏

★賓頭盧(びんずる)さま

JR武豊線石浜駅からさらに南下、国道三六六号線西側の集落を分け入り、九番札所から一・六キロメートル。十番札所は福聚山観音寺。

思わず通り過ぎそうな路地の角にひっそりと佇む観音寺。集落に溶け込んでいる感じです。

堂内に鎮座する賓頭盧さま。自分の痛む箇所と同じところをさすると治ると言われています。

ご本尊 聖観世音菩薩
ご詠歌 慈悲の目に 衆生見給ふ観世音 詣る人びと生路迷わず

★番外札所

さて、来月もJR武豊線、国道三六六号線に沿ってさらに南下。亀崎にある番外札所にも立ち寄ります。乞ご期待。


第177話(2017年3月)

皆さん、こんにちは。今日はご祥当。お大師様のご命日です。ご祥当が来るといよいよ春ですね。とは言え、まだまだ寒い日もあります。くれぐれもご自愛ください。

今年のかわら版は知多八十八ヶ所霊場についてお伝えしています。今月からいよいよお遍路に出発です。

★戦人塚

知多半島の付け根、豊明市が知多四国八十八ヶ所霊場お遍路の旅の出発点です。

一番札所は清涼山曹源寺。古くて立派な山門の両脇には独特の風情の石仏がたたずみます。

織田信長が今川義元を破った桶狭間から遠くない場所にある曹源寺。

二世住職、快翁龍喜和尚が戦死者を弔う「戦人塚」をつくって以来、今でも供養が続けられているそうです。

毎月二十九日が縁日。十一月二十九日に振る舞われる大根炊きは、下の世話をかけないご利益があるそうです。

ご本尊 釈迦如来
ご詠歌 知多四国 第一番におはします 曹源寺なる釈迦の尊さ

★千体弘法

一番札所から三・五キロメートル、二番札所は法蔵山極楽寺。

国道二十三号線とJR武豊線を越えた先の集落の中に静かにたたずむ極楽寺。

小さな「千体弘法」が両側にずらりと並ぶ大師堂を参ると、一番奥に鎮座するお大師様と目が合うような気がして身が引き締まります。

ご本尊 無量寿仏
ご詠歌 嬉しくも 此処に北尾の極楽寺 慈悲円満の弥陀の力に

★浄め石

二番札所を出て南に下り、旧街道に出た角にあるのが三番札所、海雲山普門寺。二番札所から〇・四キロメートルです。

創建は六七二年(白鳳元年)と伝えられる古刹です。

ご本尊の十一面観世音菩薩は十七年に一度しかご開帳されない秘仏だそうです。

石柱に埋め込まれた輪状の「浄め石」があり、この浄め石を回して願をかけるとかなうと言われています。

ご本尊 十一面観世音菩薩
ご詠歌 ありがたや 寺の名さへも普門品 唱えて暮らせ 朝な夕なに

★刺繍普賢菩薩

三番札所から一・八キロメートル、四番札所は寶龍山延命寺。

荘厳な楼門の前には趣のある小さな白梅。楼門をくぐって境内に入ると、今度は見事な紅梅の木が二本。参詣した日には、一本が満開でした。

かつては七堂伽藍を備えていたそうですが、戦乱で焼失。

比叡山学頭の慶済法印が再興した後は、近隣諸藩から寺領の寄進を受け、寺の基盤が整えられました。

後奈良天皇から下賜された勅額や「刺繍普賢菩薩」、仏眼仏母曼荼羅など、多くの仏画、仏具、経典などが継承されているそうです。

ご本尊 延命地蔵菩薩
ご詠歌 心して 詣れ其の名も延命寺 地蔵の利益 疑ひもなし

★どぶろく祭り

四番札所から西に向かって三・五キロメートル、延命山地蔵寺。

地理的には、五番は八十番台と一緒に打つ人が多いようですが、今回は四番に続いて参拝。

離接する長草天神社で毎年二月に行われる「どぶろく祭り」。酒元組と呼ばれる当番が醸造したどぶろくが振る舞われます。

ご本尊 延命地蔵大菩薩
ご詠歌 六道の 能化を誓う御仏の 利益長草この地蔵寺

★壇ノ浦の戦い

さて、来月は壇ノ浦の戦いで敗れた平家の落ち武者伝説が残る六番札所、常福寺からです。乞ご期待。


第176話(2017年2月)

皆さん、こんにちは。節分も過ぎ、春が待ち遠しい季節になりましたが、まだまだ寒い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。

今年のかわら版は知多八十八ヶ所霊場についてお伝えしています。今月は、霊場を開いた亮山(りょうざん)阿闍梨についてです。

★亮山阿闍梨

亮山阿闍梨は、江戸時代後期の一七七二年、尾張藩士、石田徳右衛門の次男として、今の犬山市辺りで生まれました。

子どもの頃に出家し、法性寺(甚目寺町)に入ります。

一八○六年、三十四歳の時に妙楽寺(知多市)に転住。これを機に、亮玄と名乗ります。

知多に移り住んで三年あまり、一八○九年の三月十七日(新暦五月一日)、夢にお大師様が現れました。

「ここ知多は、わが宿縁の地である。よって、この地に八十八ヶ所霊場を開き、有縁(うえん)の衆生(人びと)を済度(さいど)せよ。やがて二人の行者を遣わすので、協力して大業を成し遂げよ」との夢告でした。

目が覚めた亮玄の枕元には、四国八十八ヶ所霊場のお砂が置かれていたと伝えられています。

★岡戸半蔵

夢告を受けて霊場開創を決意した亮玄は、翌日、四国八十八ヶ所霊場の巡拝に旅立ちます。

同年に続き、一八一二年、一八一八年と相次いで巡拝し、亮玄は三度のお遍路を重ねますが、二人の行者は現れません。

ところが、翌一八一九年、阿久比出身の岡戸半蔵と出会います。

半蔵は一七五二年、福住(知多市)の農家に生まれました。亮玄の二十歳年上です。

早くに妻子を失った半蔵は、菩提供養の日々を送り、一八一六年には禅林堂(美浜町)に供養塔を建立しました。

それから三年経った一八一九年、半蔵は妙楽寺で亮玄と出会います。

亮玄の大願に感銘した半蔵は、私財を投じて八十八ヶ所霊場の開創に尽力し始めました。

時に、亮玄四十七歳、半蔵六十七歳の時です。

★武田安兵衛

亮玄は、四国八十八ヶ所霊場を巡拝中に、高松城下で武田安兵衛と知り合いました。

安兵衛は、一七八八年、讃岐生まれ。亮山より十六歳年下になります。

亮玄と半蔵が大願成就に向けて動き出した一八一九年、安兵衛は諸国遍歴の旅に出ました。

翌年、知多を訪れて亮玄と再会。安兵衛はその後も諸国遍歴を続け、一八二三年、再度知多を訪れます。

そこで亮玄とともに半蔵に会った安兵衛は、ふたりの大願に感銘し、協力を約束。ここに半蔵、安兵衛の二人の行者が揃い、お大師様の夢告どおりとなりました。

時に、亮山五十一歳、半蔵七十一歳、安兵衛三十五歳のことです。

★妙楽寺・禅林堂・葦航寺

亮玄は決意も新たに亮山と名を改め、翌一八二四年、知多四国八十八ヶ所霊場を定め終わり、札所へお大師様ご尊像を奉安。開眼供養を行いました。発願して十五年目のことでした。

それを見届けるように、同年、半蔵は禅林堂で、翌一八二五年、安兵衛は十王堂(美浜町)で没します。半蔵七十二歳、安兵衛三十六歳でした。

やがて亮山は福生寺(知多市)に隠棲し、一八四七年、七十五歳で入寂。

亮山は妙楽寺、半蔵は禅林堂、安兵衛は葦航寺(美浜町)に眠っています。

★戦人塚

さて、来月からいよいよ出発です。豊明市の曹源寺が一番札所。桶狭間の戦いの戦死者を弔う戦人塚があります。乞ご期待。


第175話(2017年1月)

皆さん、明けましておめでとうございます。平成二十九年、「丁酉(ひのととり)」の年が始まりました。
一昨年、昨年と二年間にわたり、四国八十八ヶ所霊場を紙上遍路した弘法さんかわら版。
今年は愛知県に戻り、知多八十八ヶ所霊場についてお伝えします。引き続きご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。

★知多と新三河

日本全国にお大師様の足跡を偲ぶ霊場があります。
八十八ヶ所と名のつくものだけでも、小豆島、篠栗、伊豆、御府内、佐渡、美作など、三十ヶ所以上。
全国を巡錫したお大師様。実際に足跡を残している霊場もあれば、お大師様を偲んで生まれた霊場もあります。
覚王山八十八ヶ所霊場は後者。明治末期から大正初期にかけて、日泰寺への仏舎利奉安を機に誕生。その経緯は過去のかわら版でお伝えしたとおりです。
愛知県内の知多四国八十八ヶ所霊場、三河新四国八十八ヶ所霊場は、全国的にもお遍路さんたちに知られています。
今年のかわら版。知多八十八ヶ所霊場についてお伝えしていきます。

★大井聖崎

言い伝えによれば、お大師様は八一四年(弘仁五年)、諸国行脚、東国巡錫の途中、三河から海路、知多半島に沿って南下。
知多半島東側の南端近く、東に佐久島、南に日間賀島、篠島を擁する大井聖崎(南知多町)に上陸。
その後、同地の医王寺、岩屋寺に逗留された後、半島先端をぐるっと回って西側へ向かい、野間を経て北上。やがて、尾張から伊勢路に向かわれたそうです。
その足跡に沿って開創されたのが知多四国八十八ヶ所霊場。
全行程一九四キロメートル。徒歩でも一週間程度あれば結願できる霊場です。
覚王山八十八ヶ所霊場の札所の寺名は四国霊場と同じですが、知多四国八十八ヶ所霊場の寺名は異なります。
今から約二百年前に、既にあるお寺の中から霊場を定めていったため、寺名は四国霊場と異なることとなりました。
開創の経緯は来月のお楽しみです。

★七市五町

知多四国八十八ヶ所霊場は、知多半島を中心に七市五町にわたっています。
霊場数の多い順に並べると、南知多町(十九ヶ所)、知多市(十三ヶ所)、美浜町(十二ヶ所)、常滑市(十一ヶ所)、五番目はそれぞれ六ヶ所の大府市と半田市、七番目はやはりそれぞれ五ヶ所の阿久比町、東浦町、東海市、十番目は武豊町の四ヶ所、そして豊明市と名古屋市にそれぞれ一ヶ所で八十八ヶ所です。
因みに一番は豊明市の清涼山曹源寺、八十八番は大府市の瑞木山円通寺です。

★島霊場・開山所・番外霊場

日間賀島には三十七番・魚養山大光院、篠島には三十八番・龍門山正法禅寺、三十九番・金剛山医徳院の島霊場が三ヶ所あります(篠島には後述の番外も一ヶ所あり)。
八十八ヶ所のほかに、開山所として三ヶ所、番外霊場として七ヶ所が定められています。

★亮山阿闍梨

来月は知多四国八十八ヶ所霊場の開創者、亮山(りょうざん)阿闍梨についてお伝えします。乞ご期待。


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大塚耕平

  • 2002年から「弘法さんかわら版」を書き続けています。仏教に親しみ、仏教から学び、仏教を探訪しています。より良い社会を目指すうえで仏教の教えは大切です。「弘法さんかわら版」は覚王山日泰寺(名古屋市千種区)と弘法山遍照院(知立市)の弘法さんの縁日にお配りしています。縁日はお大師様の月命日に立ちます。覚王山は新暦の21日、知立は旧暦の21日です。
  • 著書に「お大師様の生涯と覚王山」(大法輪閣)、「仏教通史」(大法輪閣)など。全国先達会、東日本先達会、愛知県先達会、四国八十八ヶ所霊場開創1200年記念イベント(室戸市)、中日文化センターなどで講演をさせていただいています。毎年12月23日には覚王山で「弘法さんを語る会」を開催。ご要望があれば、全国どこでも喜んでお伺いします。
  • 1959年愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒、同大学院博士課程修了(学術博士、専門はマクロ経済学)。日本銀行を経て、2001年から参議院議員。元内閣府副大臣、元厚生労働副大臣。現在、早稲田大学総合研究機構客員教授(2006年~)、藤田保健衛生大学医学部客員教授(2016年~)を兼務しています。元中央大学大学院公共政策研究科客員教授(2005年~17年)。