第238話「尾張名古屋・歴史街道を行く」尾張多々見と尾張大隅
ゴールデンウィークが待ち遠しい季節になりましたが、寒暖の差が激しい日もあります。ご自愛ください。 「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺・城郭・尾張藩幕末史―」をお送している今年のかわら版。今月は尾張多々見と尾張大隅です。
★尾張多々見と尾張大隅
三〜四世紀頃の尾張氏の支配領域は、尾張北東部から東部の丘陵地域であったようです。五〜六世紀頃になると、西部、南部を含めた尾張全域に勢力を拡大します。
飛鳥時代の七世紀初め頃、尾張多々見(美)が年魚市(あゆち)の評監に任じられました。評とは行政組織の呼称です。
評が設置され、評監がいたということは、年魚市と呼ばれる地域が朝廷による管理と徴税が行われた豊かな場所であったことの証です。尾張氏は年魚市も支配地に組み込み、さらに知多半島にも勢力を伸ばします。
年魚市は「吾湯市」「愛智」とも書き、「愛知」のもととなった入江の地名を表します。尾張南部の台地群の先に形成された干潟地帯です。
台地群の先端には熱田がありました。それより南が干潟であり、干潟の中には松巨島(まつこしま)と呼ばれる島が形成されました。笠寺台地であり、その周辺一帯が年魚市です。
「あゆち」の「あゆ」は「湧き出る」の意味があり、湧水が豊富なことが地名の由来と考えられます。旅支度をする場所という意味の「足結(あゆ)道(ち)」から派生したとする説もあります。「あゆ」という音が先で、やがて「吾湯」「年魚」と転じ、当て字として「鮎」と書かれたようです。
尾張多々見の息子である尾張大隅は、六七二年の壬申の乱の際、大海人皇子(のちの天武天皇)に助力しました。
続日本紀によれば、大海人皇子が吉野宮を脱して鈴鹿関の東、つまりおそらくは尾張に入った際、尾治大隅が館と軍資金を提供しました。
その功により、六八四年、尾張氏に宿禰(すくね)の姓(かばね)が与えられ、六九六年には尾張宿禰大隅に直広肆の位と水田四十町、七一六(霊亀二)年にも大隅の子尾張稲置も父の功によって田を授かったと記されています。
★氏姓(うじかばね)制度
ここで氏姓制度について整理しておきます。尾張氏の姓は当初は連(むらじ)でしたが、上述のように宿禰を授けられました。
氏姓制度は大和王権の身分や職位を表します。氏も姓も現代では名字の意味で理解されていますが、大和王権の氏姓は異なります。
古代において、中央貴族、地方豪族が、血統や大和王権に対する貢献度に応じて朝廷より氏と姓を授与され、その特権的地位を表した制度です。氏は血族の名称である一方、姓は大王から与えられた称号です。氏姓は世襲していきます。
氏は巨勢、蘇我、葛城など地名に由来するものと、物部、大友、土師など職能に由来するものに分かれます。尾張は畿内の地名に由来しますが、尾張氏が東海に移り住んだことで尾張の地名になりました。
氏を持つ豪族は田荘(たそう)つまり土地を所有し、耕作民である部曲(かきべ)や奴婢(やつこ)を有していました。
姓は、大王家に近い立場にある臣(おみ)、大王家に仕える立場にある連(むらじ)、その下で各部司を管轄する伴造(とものみやつこ)、さらにその下になる百八十部(ももあまりやそのとも)、地方豪族を指す国造(くにのみやつこ)、より狭い地理的範囲での族長である県主(あがたぬし)など、重層的かつ多岐多様にわたります。また、時代とともに変遷しました。
★八色(やくさ)の姓
古代氏姓制度は、六八四年に八色の姓が制定されたことで体系化されます。その目的は上位の四姓、つまり真人、朝臣、宿禰、忌寸の一族を定めることであり、この時に尾張氏に宿禰が授けられました。
大王家に近い一族に、最高位の姓である真人(まひと)を与えました。二十六代継体天皇から数えて五世以内の皇親氏族が対象です。
その次は朝臣(あそん)であり、大伴、物部、石上、中臣などの畿内大豪族に授けられました。第三位が宿禰(すくね)、第四位が忌寸(いみき)です。以下、道師(みちのし)、臣、連、稲置の八種類の姓です。
連姓だった尾張大隅に宿禰が授けられたことで、尾張氏の大和王権における立場はより強くなりました。
九世紀の摂関政治時代に入ると、藤原朝臣が勢力を増しました。また、諸皇子に氏姓を授ける臣籍降下が盛んに行われ、桓武天皇から平朝臣、清和天皇から源朝臣が誕生しました。
多くの氏族が朝臣姓を欲したため、朝臣姓を名乗る豪族や武士が増えました。
尾張氏も藤原氏から養子を迎えたり、藤原氏の娘を娶って、藤原朝臣を名乗るようになります。
つまり、天孫族の尾張氏は連、宿禰と変遷し、さらに藤原朝臣を名乗っていました。
★尾張国府
このように大王家を頂点とする朝廷と地方の関係が氏姓制度をもとに確立してくると、各地方に国府が置かれるようになります。尾張国府は今の稲沢に置かれました。
来月は尾張国府についてです。乞ご期待。
(2022年4月)
第237話「尾張名古屋・歴史街道を行く」尾張氏と日本武尊の歴史
いよいよ春本番。とは言えまだまだ朝晩は寒い日があります。ご自愛ください。 「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺・城郭・尾張藩幕末史―」をお送している今年のからのかわら版。今月は尾張氏と日本武尊の歴史です。
★天孫族の尾張氏
尾張名古屋と聞くと熱田神宮が思い浮かびます。熱田神宮には草薙剣(くさなぎのつるぎ)が祀られていますが、その経緯は意外に知られていません。尾張の古代史を探訪しましょう。
尾張は古代から豊穣な国でした。木曽三川の沖積低地は豊かな米の恵みを、伊勢湾は海の幸をもたらしました。
豊かであるから人が増え、地理的に近い大和王権との関係が形成され、尾張氏(おわりうじ)が治めるようになった地域が尾張と呼ばれるようになります。
日本書紀によると、尾張氏の祖神は天火明命(あめのほあかりのみこと)です。天忍人命(あめのおしひとのみこと)から始まるとされていますが、綿津見神(わたつみのかみ)を始祖とする系図もあります。神話の神々のように思えますが、それに比定される古代尾張氏の人物が実在したはずです。
尾張は畿内に近く、しかも豊かであったことから、尾張氏は大王家に后妃を送り出すようになります。
例えば、尾張氏の遠祖である奥津余曾(おきつよそ)の妹、余曾多本毘売命(よそたほびめのみこと)または世襲足媛(よそたらしひめ)は五代孝昭天皇の皇后となり、その息子は六代孝安天皇となりました。十代崇神天皇は尾張大海媛(おわりのおおしあまひめ)を妃としています。
つまり、尾張氏は天孫族です。
★日本武尊(やまとたけるのみこと)
木曽川や庄内川の扇状地の拡大に伴って、海岸線は南下し、尾張氏の居住域も徐々に南に拡大します。松巨島(まつこしま)が形成された頃には、熱田の辺りにも尾張氏一族が住むようになります。
国造(くにのみやつこ)とは朝廷から任命された地方の統治者です。国造本紀によれば、十三代成務天皇の時代に乎(小)止与命(小豊命、おとよのみこと)が尾張国造に任命されます。乎止与命の息子建稲種命(たけいなだのみこと)も国造に就きます。
十二代景行天皇は息子の日本武尊に東征を命じました。日本書紀では日本武尊、古事記では倭建命(をうす)と記されています。
日本武尊は往路伊勢神宮を参拝し、叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)から草薙剣(天叢雲剣)を授かりました。東征には尾張氏の建稲種命が副将軍として参じ、軍功を上げます。
東征から戻った日本武尊は、副将軍建稲種命の妹宮簀媛(みやずひめ)を娶ります。宮簀媛は日本書紀の表記ですが、古事記では美夜受比売と記されます。
その後、日本武尊は草薙剣を宮簀媛に託して伊吹山に遠征します。しかし、その途中で病になり、さらに伊勢国への遠征途上、能褒野(のぼの、亀山)で亡くなりました。
宮簀媛は草薙剣を奉じて熱田社を建てました。これが熱田神宮の起源であり、現在も草薙剣は御神体として祀られています。大宮司家は代々尾張氏の後裔が務めました。
建稲種命の息子尾綱根命(おつなねのみこと)は応神朝の大臣、その息子(建稲種命の孫)尾張意乎己(尾張弟彦、おわりのおとひこ)も仁徳朝の大臣として活躍。また、十五代応神天皇は建稲種命の孫の仲姫命(なかつひめのみこと)を皇后としました。
★萱津神社と内々神社
尾張国には、萱津神社(あま)や内々神社(春日井)など、日本武尊の東征にまつわる神社が各地にあります。
日本武尊は、東征の往路に萱津神社に参拝しました。村人が漬物を献上すると、日本武尊は「藪二神物」(やぶにこうのもの)と言って称えます。藪の中で神からの授かりもの(あるいは神への供え物)を賜ったという意味かと思われますが、以来、漬物は「香の物」とも呼ばれるようになりました。萱津神社は漬物の神様を祀る珍しい神社です。
陸奥国を平定し、尾張国に戻ってきた日本武尊が内津峠にさしかかった時、早馬の使者がやってきます。副将軍を務めた尾張国造の建稲種命が亡くなったとの報告です。それを聞いた日本武尊は「ああ現哉々々(うつつかな)」と嘆き、その霊を祀ったのが内々神社の始まりと伝わります。
内津峠は春日井と多治見をつなぐ峠であり、江戸時代には名古屋城下と中山道を結ぶ下街道(善光寺街道)が通りました。
その後も尾張氏と大王家の深い関係は続きます。二十六代継体天皇が大和国入りするまでの正妃は尾張連草香(おわりのむらじくさか)の娘、目子媛(めのこひめ)です。
子の勾大兄皇子は二十七代安閑天皇として、高田皇子は二十八代宣化天皇として即位します。三十代敏達天皇と皇后額田部皇女(三十三代推古天皇)の子には尾張皇子(おわりのみこ)がいます。 ★尾張多々見と尾張大隅
尾張多々見の息子である尾張大隅は、露六七二年の壬申の乱の際、大海人皇子(のちの天武天皇)に助力しました。
続日本紀によれば、大海人皇子が吉野宮を脱して鈴鹿関の東、つまりおそらくは尾張に入った際、尾治大隅が館と軍資金を提供しました。
来月は尾張多々見と尾張大隅をご紹介します。乞ご期待。
(2022年3月)
第236話「尾張名古屋・歴史街道を行く」東海道、佐屋街道、美濃街道
春が待ち遠しい季節になりました。とは言えまだまだ寒い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。 「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺・城郭・尾張藩幕末史―」をお送している今年からのかわら版。今月は東海道、佐屋街道、美濃街道の概要をご紹介します。
★七里の渡しと佐屋街道 江戸時代、東国から都に向かう旅人は境川を渡って尾張国に入ります。鳴海潟、松巨島(まつこしま)を経て宮宿(熱田宿)に至ると、経路は三手に分かれます。
宮宿から海路桑名宿に渡るか、あるいは北上して古渡に行き、そこから西進して佐屋街道に入り、佐屋宿から佐屋川を下って桑名宿に向かいます。
また、陸路で都に向かう旅人は、古渡から北西に進み、美濃街道を通って萱津宿、稲葉宿を経て木曽川を渡り、中山道を目指しました。
境川から宮宿までを歩きましょう。旅人は三河国と尾張国の国境である境川を渡ると、鳴海台地を西に進み、鳴海宿、鳴海潟を経て宮宿を目指します。
鳴海宿から宮宿に至る道は、年魚市潟(あゆちがた)に浮かぶ松巨島の北を通る上の道、中央を抜ける中の道、南を進む下の道が代表的な三経路です。
宮宿から桑名宿の海路は距離が七里であることから「七里の渡し」と呼ばれました。
古代東海道は尾張国の両村(ふたむら)、新溝(にいみぞ)、馬津(まつ)の駅(うまや)を経て伊勢に入る陸路のほか、知多半島西岸から伊勢湾を横断することもあったようです。「七里の渡し」の原形です。
近世東海道の宮宿から桑名宿の海路は波が高く、危険を伴いました。そこで海路を避けたい旅人は陸路佐屋宿まで歩きます。佐屋宿から船に乗って佐屋川を下れば、川伝いに桑名宿に到着できるので、海路より安全でした。宮宿から佐屋宿に行く陸路は佐屋街道と呼ばれます。
佐屋街道の北には津島街道がありました。甚目寺や津島神社への参詣道でもあります。津島街道の途中には、織田信長生誕地説のひとつである勝幡城(しょばたじょう)があります。
★鎌倉街道・美濃街道・東海道
さて、陸路だけで都を目指す旅人は、佐屋街道には向かわず、さらに北上して美濃街道に入ります。
庄内川を渡ると萱津宿です。その北には清洲があり、五条川に沿ってさらに北上すると下津(折戸)宿です。下津界隈は稲沢であり、律令時代の国府が置かれ、国分寺、国分尼寺が造られました。
萱津宿から先は、古代、中世においては、折戸宿、黒田宿、近世においては稲葉宿、萩原宿、起宿等を経て木曽川を渡り、美濃国に向かいます。
一宮との境界線である青木川を越えて北上した旅人は、尾張一宮である真清田神社に参拝して黒田宿に向かいます。
黒田宿は尾張国と美濃国を隔てる木曽川の左岸にあり、古くから要衝でした。黒田宿を出ると旅人は木曽川の渡し場である玉ノ井に向かいます。
これらの道筋は中世鎌倉街道、近世東海道の主要経路です。この経路から分岐して、中山道につながるのが岩倉街道や岐阜街道であり、戦国時代には経路上に織田信長が居城した清洲城、小牧山城、岐阜城がそびえました。要衝であった証です。
金華山の岐阜城から濃尾平野が一望できます。在りし日の信長が、宮宿から延びる街道や街道沿いの城郭を眺めていた姿が思い浮かびます。
★名古屋城下町と名古屋五口
都が平城京から平安京へ北に移動したことに伴い、桑名から伊勢国を経由する古代東海道よりも、鎌倉街道、美濃街道を使って近江を目指す旅人が増えました。この経路が基となって近世東海道が整備されます。
さて、宮宿から古渡を経て北上すると、名古屋城下町です。一六一〇(慶長十五)年に徳川家康の命で造られた近世を代表する城下町です。
南北の本町通と東西の伝馬町筋は城下町の骨格を形成します。その交差点は高札場があったことから「札の辻」と呼ばれていました。
城と宮宿を結び、東海道につながるのが本町通です。外堀と城下町の間を東西に走る京町筋の西からは美濃街道、東からは上街道(木曾街道)、下街道(善光寺街道)につながります。
城下町の外縁には、志水口、大曽根口、三河口(岡崎口)、熱田口、枇杷島口の「名古屋五口」があり、そこから脇街道に出ます。
志水口から北へは上街道、大曽根口から北東には下街道、三河口から南東には飯田街道(駿河街道)、熱田口から南には常滑街道、枇杷島口から北西には美濃街道と、脇街道網が整備されていました。
これらの街道は名古屋城下から周辺地域への接続路であり、城下町中心部、外縁部から放射状に延びていました。
★尾張氏と日本武尊(やまとたけるのみこと)
さて、尾張国の街道の骨格をご紹介しましたが、この尾張国は古くから大王家(のちの天皇家)と関係の深い尾張氏が治めたので「尾張」と言います。
来月は尾張氏と日本武尊の歴史をご紹介します。乞ご期待。
(2022年2月)
第235話「尾張名古屋・歴史街道を行く」尾張は街道の国
あけましておめでとうございます。弘法さんかわら版、今年もどうぞよろしくお願いします。
今年から新シリーズ「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺・城郭・幕末史―」をお送りします。まず今年は尾張国の歴史を旅します。どうぞお付き合いください。
★街道の国
尾張は街道の国です。街道沿いに社寺が創られ、要衝に砦や城が築かれ、宿場が置かれました。街道の経路は時代とともに変遷しました。
街道のそこかしこに、尾張氏、斯波氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏の歴史が刻まれています。
尾張は、木曽川、長良川、揖斐川の木曽三川や、濃尾平野中央を流れる日光川や庄内川、年魚潟に流れ込む中小河川が作り上げた肥沃な扇状地です。伊勢湾の海岸線は時とともに徐々に南下し、東海道や鎌倉街道の経路に影響を与えました。
扇状地の端には自然堤防が形成され、江南、大口、一宮、稲沢等の尾張北部の町はその上に生まれました。
つまり、先史時代の海岸線は尾張北部に迫り、尾張南部は海でした。
★尾張の地名の由来
尾張と聞けば織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑があまりにも有名ですが、信長以前はあまり語られません。
そもそも尾張は尾張氏が支配したから尾張と呼ばれるようになりました。律令時代以前に大和国葛城郡に高尾張という集落があり、そこから移り住んだ人々が尾張連(おわりむらじ)と呼ばれ、地名と氏(うじ)名として定着します。
古代において「おはり」は「小墾(こはり)」と書き、「墾」は土地を拓いて開墾することを意味します。接頭語の「小」は「御」が転じたものです。「小治」「大治」と書き、それらが尾張に変化したとする説もあります。「烏波利」「尾治」と書かれた木簡や古文書も見つかっています。
氏名の由来には諸説あるものの、大和王権の大王家と関係の深い尾張氏が治めていた土地が、すなわち尾張です。
そして律令時代には、都と東国を結ぶ古代東海道が尾張国を通りました。
★斯波氏と織田氏
尾張氏は国造(くにのみやつこ)を務め、熱田神宮大宮司も代々継承します。やがて、尾張氏の娘と婚姻した藤原氏が大宮司を務めるようになります。
平安時代末期の大宮司であった藤原季範の娘、由良御前が源義朝に嫁ぎ、源頼朝を産みました。また、季範の養女(孫娘)も足利義康(足利氏祖)に嫁ぎ、足利氏にも血脈を繋いでいます。義康から数えて八代目が室町幕府を開く足利尊氏です。
鎌倉時代には鎌倉と都の間を往来するために、古代東海道がもとになった鎌倉街道(鎌倉往還)が発展し、尾張国は複数の駅(うまや)を擁します。
室町時代初期には美濃国守護の土岐氏が尾張国守護を兼ねていましたが、一四○○年頃に斯波義重が尾張守護に任じられます。
義重は越前国守護でしたが、尾張と遠江の守護も兼ねます。その際、越前守護に仕えていた織田氏も尾張に移り、尾張国の給人となりました。給人とは領主の命を受けて領地を支配する者を指します。
織田氏の先祖は越前織田の劔神社の神職であり、子孫が守護の斯波氏に仕えました。斯波氏は室町幕府の三管領家のひとつです。
やがて織田氏は斯波氏から尾張守護代を命じられ、大和守家と伊勢守家に分かれて勢力を競います。信長はその大和守家の三奉行家のひとつ、弾正忠家(だんじょうのじょうけ)に生まれました。
織田信長の臣下であった豊臣秀吉、同盟者であった徳川家康など、尾張国は多くの武将を輩出しました。
江戸時代の大名は三英傑の配下から出た者が多く、徳川家康に仕えた三河出身者のほか、前田、浅野、池田、山内、蜂須賀などの尾張出身者が各地で大名となりました。系譜を辿ると全国の大名の約7割が尾張と三河の出身者です。
尾張は徳川御三家筆頭、尾張徳川家の領地となり、三河は譜代大名、旗本領、社寺領、天領となりました。
この間、尾張には街道が発展します。もちろん中心は近世東海道です。古代東海道、中世鎌倉街道が原形ですが、経路は変わったところもあります。
★東海道、佐屋街道、美濃街道
そもそも、古代東海道は律令時代に定められた五畿七道のひとつです。
五畿とは大和・山城・摂津・河内・和泉の畿内五国を指し、七道は畿外の東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の七つの地域を表します。
江戸時代になると、一六一〇(慶長十五)年の名古屋開府に合わせ、徳川家康の命で近世東海道が整備されます。そして、周辺地域との間には脇街道が誕生します。
来月は東海道、佐屋街道、美濃街道を概観します。乞ご期待。
(2022年1月)
第234話 愛知の霊場
皆さん、こんにちは。いよいよ師走。今年もあとわずかですね。 昨年来、三河新四国の紙上遍路とそれに関連する話題をお伝えしてきました。 今月は愛知の霊場の数々をご紹介します。
★愛知は霊場の宝庫
長い歴史を経て、愛知は日本一寺院の多い地域となりました。そして、それらの寺群の中にさまざまな霊場が開創されました。 代表的なものが知多四国と三河新四国です。それ以外にも西国三十三所の写しも含め、さまざまな霊場が開創され、今日に至っています。愛知は霊場の宝庫です。
現時点で認識できているものは表のとおりです。 三河新四国と重なるように、三河三弘法や三河海岸大師もあります。 三河三弘法は零番遍照院の見返弘法大師、二番西福寺の見送弘法大師、三番密蔵院の流涕弘法大師です。同じ地域に知立三弘法もあります。 三河海岸大師は三河湾沿いに広がる写し霊場です。
西三河から東三河、奥三河にかけて、かつて各地に独自の本四国写し霊場がありました。西三河の碧南から豊田南部地域は碧海と呼ばれていましたが、そこには碧海新四国があったそうです。豊田から北上して足助に向かう地域は西加茂と呼ばれ、そこにも三河国西加茂郡新四国がありました。
江戸時代には、元祖三河新四国とは別に参河國准四国と呼ばれる写し霊場もありました。西三河、東三河、奥三河、さらには渥美半島も網羅した遍路道です。 参河國准四国の北側に展開していたのが八名(やな)郡准四国八十八ヶ所です。東三河四郡八十八ヶ所とも言われます。
さらに、豊川、豊橋を中心とした寺院で構成される東三新四国八十八ヶ所もあります。 八名郡准四国より南部、鳳来から豊橋に向かう途上に点在するのは豊鳳二十一弘法大師霊場です。旧作手村(新城市)には作手三弘法もあります。
お大師様は三河の人々によほど人気があったのですね。 尾張はどうでしょうか。気になります。
知多半島には知多四国とは別に、尾張直傳弘法という写し霊場もあります。 名古屋には江戸時代に城下に開創された金城下二十一大師や名古屋三弘法があります。 三河、知多、尾張、名古屋とも、まだまだ隠れた写し霊場がありそうです。
★来年から新シリーズ
来年から場所を尾張に移して新シリーズをお伝えします。乞ご期待。それでは皆さん、よい年をお迎えください。
(2021年12月)
第233話 西国三十三所
皆さん、こんにちは。早いもので今年も十一月。冬本番です。くれぐれもご自愛ください 。 来月は愛知県内にある様々な写し霊場をご紹介しますが、その中には西国三十三所の写しもあります。
二大巡礼は四国遍路と西国三十三所です。今月は西国三十三所についてお伝えします。 ちなみに、巡礼は一般名詞ですが、遍路は四国霊場巡りのことを指します。
★西国三十三所の始まり
西国三十三所の起源については、二十四番中山寺の縁起である「中山寺来由記」、三十三番華厳寺の縁起である「谷汲山根元由来記」に次のように記されています。
七一八年(養老二年)、大和長谷寺の開基、徳道上人が重い病で生死をさまよう中、夢に閻魔大王が現れました。大王は「生前の罪業によって地獄へ送られる人々を救うために、滅罪の功徳がある三十三ヶ所の観音霊場をつくり、人々に巡礼を薦めよ」と言い、起請文と三十三の宝印を授けたそうです。
蘇生した上人は三十三観音霊場を開創しますが、人々に広く信仰され、巡礼が盛んになるには至りませんでした。上人は機が熟すのを待つため、三十三の宝印を中山寺の石櫃に納めました。上人は八十歳で亡くなり、いつしか三十三観音霊場は忘れ去られました。
それから約二百七十年後、若き花山天皇(六十五代)は権勢を振う藤原氏の権力闘争に巻き込まれ、在位わずか二年で退位。弱冠十九歳で法皇となりました。無常を感じた法皇は比叡山に遁世。やがて熊野に行き、那智山で千日籠山修行。その折、熊野権現が姿を現し、徳道上人が定めた三十三観音霊場を再興することを託されました。
法皇は中山寺で宝印を探し出し、圓教寺の性空上人の勧めにより、石川寺の仏眼上人に同道して三十三観音霊場を巡拝。これを機に、西国三十三所が始まりました。
晩年、花山法皇は京都花山院に住み、一〇〇八年、四十一歳で生涯を閉じました。
★西国三十三所の札所
こうして誕生した西国三十三所は、一番那智山青岸渡寺(和歌山)から三十三番谷汲山華厳寺(岐阜)に、徳道上人、花山法皇ゆかりの番外三ヶ寺を加えた三十六ヶ寺を巡ります。興福寺、醍醐寺、清水寺など、著名な古刹も含まれています。
結願お礼参りに信濃善光寺を参詣して三十七ヶ寺巡りとしたり、善光寺に加え、高野山金剛峯寺、比叡山延暦寺、奈良東大寺、大阪四天王寺のいずれかにお礼参りする風習もあるそうです。
一番から三十三番までの巡礼道は約一〇〇〇キロメートル、四国遍路の約一四〇〇キロメートルより少し短い道のりです。
ちなみに、三十三という数は、「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五」(観音経)の中で、観世音菩薩が人々を救うために三十三の姿に変化することに由来します。西国三十三所を巡礼すると、観世音菩薩の功徳によって現世での罪業が消え、極楽往生できると信じられています。
★四国遍路と西国三十三所
西国三十三所の札所本尊はすべて観音菩薩です。四国遍路はお大師様を信仰しますが、西国三十三所は宗派的なものではなく、観音菩薩信仰です。四国遍路と西国三十三所の成立時期は、徳堂上人まで縁起を遡れば西国三十三所の方が早く、花山法皇を開創と考えると四国遍路の方が古いことになります。
四国遍路はお大師様の弟子達が十世紀には巡礼していたようですが、西国三十三所の最古の巡礼記録は三井寺とも呼ばれる園城寺(十四番)に伝わる十一世紀後半の「寺門高僧記」の中にあります。
★西国三十三所の写し
僧尼、武士、貴族のみならず、人々にも西国三十三所が広まると、地方の有力な武将や豪族などが西国写し霊場をつくるようになりました。
最も早期の写しは鎌倉時代初期の十二世紀前半、源頼朝によって発願され、源実朝が札所を定めたと伝わる坂東三十三所。関東一都六県にまたがる観音霊場です。
室町時代になると秩父三十四所も開創されました。当初は三十三所でしたが、札所間の揉め事に起因して一ヶ寺増やして三十四所。西国、坂東と合わせて日本百観音も誕生しました。
岩尾城跡(長野佐久)にある一五二五年銘の石碑に「秩父三十四番 西國三十三番 坂東三十三番」と彫られており、この頃には日本百観音が確立していたようです。
坂東三十三所、秩父三十四所が定着するにつれ、元祖である近畿の観音霊場には西国の文字が冠され、西国三十三所と呼ばれるようになりました。
三十三所の写し霊場は現在全国各地に六百以上あるようです。もちろん、愛知県にもあります。
★愛知県は写し霊場の宝庫
さて、今年もあとひと月。昨年から三河新四国をご紹介してきましたが、愛知県には四国遍路や西国三十三所等の写し霊場がたくさんあります。言わば、霊場の宝庫です。来月は愛知県の写し霊場をご紹介して年末を迎えたいと思います。乞ご期待。
(2021年11月)
第232話 神社数日本一は新潟県
皆さん、こんにちは。十月も後半に入り、朝晩は肌寒くなりました。くれぐれもご自愛ください。 寺院数日本一は愛知県ですが、今日は神社についてお伝えします。
★神社数日本一は新潟
寺院と神社を総称して寺社仏閣というように、両者は混交した存在です。全国津々浦々、身近な場所に寺院と神社の双方があるのが日本です。
文化庁「宗教年鑑(令和元年版)」に基づくと、全国の神社数は八〇九八三、神道系宗教団体数は八七四九七です。
都道府県別の神社数最多は新潟の四七〇六、以下兵庫、福岡、愛知、岐阜の順です。
一方、最少はやはり沖縄の十五。次いで、少ない順に和歌山、宮崎、大阪、山口です。人口も多く、縁起を担ぐのが好きそうな大阪に神社が少ないのは意外です。
新潟は実数では日本一をずっと維持しています。なぜそんなに多いのでしょうか。最大の理由は、新潟の人口はかつて日本一だったという意外な事実です。
一八八八年(明治二十一年)の国勢調査では、新潟の人口は一六六万人で最多。二位は兵庫の一五一万人、三位は愛知の一四四万人。東京は一三五万人で愛知に次ぐ四位です。続く一八九三年(明治二十六年)の調査でも、新潟はさらに増えて一七一万人で一位を維持しています。
人口が多いうえに、新潟では集落ごとに神社があります。農業地域で自然の恵みを意識せざるをえない新潟では、自ずと神社の数が多くなったのかもしれません。
ちなみに、寺院と神社の合計でみると、愛知が七九一六で一位、新潟が七四八五で二位。両県で日本全国の寺社の九・八パーセント、約一割を占めます。
★神仏習合の日本仏教
神社に触れたのは日本仏教の特徴が神仏習合、神仏混交だからです。寺院が多ければ神社も多いという関係にあります。
日本への仏教公伝は通説では五三八年。大陸から伝来した仏教は異文化、外国の宗教であり、それを日本の天皇や朝廷が信仰し、仏を祀ることはできません。日本には古(いにしえ)からの自然崇拝、八百万の神々を敬う民族宗教があり、天皇はその祭司の長、神道の長だからです。
しかし、徐々に浸透した仏教は、日本古来の自然崇拝、神道と調和融合します。すなわち、神仏習合、神仏混交です。
最初は仏教が主、神道が従として混交しました。その結果、奈良時代には神社に神宮寺が建てられるようになり、平安時代に本地垂迹説が生まれました。本地である仏や菩薩や天部が、仮の姿である神として人々の前に現れるという考え方です。 本地とは「本来のこと」を意味し、垂迹とは「迹(あと)を垂れる(神仏が現れる)」ことを意味します。
たとえば、阿弥陀如来の垂迹は八幡神、大日如来の垂迹は伊勢神、阿弥陀如来の垂迹は熊野神,観音菩薩の垂迹は賀茂神です。
二千五百年前にインドで生まれた仏教が、ヒンズー教やインドの諸神と向き合った際も、中国で仏教が道教と接した時にも、同じような考え方で融合が起きたそうです。
神仏習合の思想と親和的で、積極的に仏教と混交したのは八幡神です。東大寺大仏造営に協力した宇佐八幡が典型例であり、 最初に菩薩号がつけられたのも八幡神です。
平安時代には熱田権現、蔵王権現など「権現」という考え方を生み、神仏習合、本地垂迹は深まっていきます。仏や菩薩や天部が、人々を救うために仮に姿となって現れる神のことを権現(ごんげん)すなわち「仮の現れ」と呼びました。権現の権とは「仮」「臨時」という意味です。
仏教側から神道を理論的に説明する神道理論も登場しました。当時の仏教界の主流であった密教二宗のうち、天台宗の教えを取り入れたのが山王神道、真言宗の教えを取り入れたのが両部神道です。
★反本地垂迹説
神仏習合はさらに深化し、神の昇華を祈念して建てられた神宮寺に、逆に鎮守社を設ける風習も現れました。
やがて神道側から、神道を主、仏教を従とする反本地垂迹説も現れました。室町時代に入ると、如来は天皇の垂迹であると考える吉田神道や伊勢神道などの系譜も生まれました。また、仏教は花実、儒教は枝葉、神道が根本であるとする根葉花実論も登場しました。
神社の系譜は仏教以上に多様です。神道、信仰にもそれぞれ系譜があり、それらは相互に複雑に絡み合っています。
神社の上社は、諏訪大社、熊野大社、宗像大社、秋葉神社など、多様です。神道の系譜も、古神道(原始神道)、神社神道、皇室神道、教派神道、民族神道など、十数系統に分かれます。信仰の系譜も、八幡信仰、伊勢信仰、天神信仰、稲荷信仰、熊野信仰、白山信仰、春日信仰、浅間信仰など、多岐にわたります。
★西国三十三所
かわら版は四国八十八ヶ所の話から始まりましたが、二大巡礼は四国遍路と西国三十三所です。来月は西国三十三所のルーツなどについてお伝えします。乞ご期待。
(2021年10月)
第231話 寺院数日本一の愛知県
皆さん、こんにちは。九月も後半に入り、朝晩は肌寒い日もあります。くれぐれもご自愛ください。
さて、先月は四十七都道府県で愛知県の寺院数が断トツに多いことをご紹介しました。今月はその理由を考えてみます。
★氏族仏教から国家仏教へ
弘法さんかわら版も今回で二三一号です。長い間ご愛読いただいておりますので、ずいぶん前にご紹介した内容はご記憶にない方が多いと思います。そこでちょっと再述します。
仏教が日本に公式に伝わったのは五三八年です。仏教公伝です。最初は外国の宗教あるいは文化という位置づけですから、浸透するのに少し時間がかかりました。
最初の頃は有力な豪族が自分たち一族の守り神のような位置づけで祀るようになります。 そのため、日本の寺院はもともと飛鳥時代の氏寺から始まりました。つまり、自分たちの氏神様を祀るような感覚で寺院を建立し始めます。
やがて氏族仏教は六四六年(大化二年)の「仏教興隆の詔」を契機に国家仏教となり、それから約四十年後の六八五年(天武十四年)の「造寺奨励の詔」によって寺院建立が本格化しました。
仏教は平安時代末期から鎌倉時代初期に人々に浸透し、室町時代、戦国時代、安土桃山時代を通して寺院数も増えていきました。
江戸時代には幕府が本山末寺制度、檀家制度を敷き、人々はどこかの寺院の檀家となって宗旨人別帳に登録することが義務づけられ、檀家寺の寺請証文がなければ他の地域への移動などに支障をきたしました。
檀家制度は現代の戸籍制度の役割を果たしましたが、徳川家康が中国の明の制度を模したと言われています。
★寺院数日本一の理由
こうした経緯で増えてきたお寺ですが、さて、愛知の寺院数が多いのはなぜでしょうか。その理由は次のとおりです。
第一に、古くから発展し、人口が多い地域であったこと。尾張も三河も早い時期から拓けた地域で、江戸時代には十以上の城下町がありました。明治初期の段階で愛知の人口は全国三位。基本的にはこうしたことが寺院数の多い理由のひとつと考えていいでしょう。でも、それだけでは説明がつきません。
第二に、第一の理由とも関係しますが、愛知は七四一年(天平一三年)の「国分寺建立の詔」によって、最初に国分寺、国分尼寺がつくられた地域のひとつであること。
尾張国府が置かれた稲沢、三河国府が置かれた豊川にそれぞれ国分寺と国分尼寺が創建され、その周辺に寺院が増えていきました。平安時代に立宗した天台宗、真言宗の寺院が早くからつくられたのに加え、鎌倉時代には鎌倉六宗の寺院も増えました。
第三に、愛知が地理的に京都と鎌倉の途中に位置したこと。鎌倉時代には、鎌倉六祖師や多くの高僧が都と東国を行き来し、その道中、愛知に足跡を残しています。そのことが寺院数増加に寄与していると考えられます。
第四に、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康をはじめ、多くの戦国武将を輩出したこと。つまり、武将に庇護され、菩提寺などのゆかりの寺院が増えました。とくに江戸時代に入り、尾張徳川家が浄土宗をはじめとした多くの寺院を庇護したことも影響しています。また、城も多かったことから、その鬼門を守る寺院が建立されました。
第五に、第四の理由とも関係しますが、寺院が戦略上の防衛拠点として利用されたこと。名古屋城下は典型例です。
飯田街道から名古屋城下に入る現在の東区東桜あたりに東寺町がつくられ、東から侵入する敵を防御。南からの攻撃には大須の南寺町が防衛拠点となりました。また、名古屋城の北及び北西方向では、岩倉・小牧・犬山の城下町とその寺町が防衛線でした。西には、稲沢、海部郡あたりに中小の寺院が多数あります。城下の道の要所には「曲がり」を設けて敵の侵入を妨ぎ、その角々に寺院を配置し、戦時の兵の拠点にしました。
第六に、人口が多かったことと相俟って、江戸時代の檀家制度の影響でさらに寺院が増えたこと。檀家寺がたくさん必要となり、寺院数も増えました。
第七に、明治時代の廃仏毀釈に抵抗したこと。一八六八年(明治元年)の「神仏分離令」を機に廃仏毀釈が起きました。鹿児島藩は翌年までに領内の寺院を全廃したそうです。薩長土肥など官軍側の旧藩では、程度の差はありますが同じようなことが起きました。
愛知でも、徳川家康ゆかりの東照宮を擁する鳳来寺などが廃仏毀釈の影響を大きく受けました。尾張藩は戊辰戦争では官軍側でしたが、鳳来寺などの例はあったものの、総じて寺院数が激減することはなかったようです。
今年前半にご紹介した三河大浜で「護法一揆」とも言われた「大浜騒動」が起きるなど、廃仏毀釈には抵抗を示す傾向があったようです。
★神社数は???
日本の仏教は神仏混交です。神社とお寺が併設されてきたことから、神社数も知りたくなりました。神社数日本一は新潟県、愛知県は四番目です。
来月は神社について少し深堀りしてみます。乞ご期待。
(2021年9月)
第230話 三河新四国の宗派とご本尊
皆さん、こんにちは。八月も後半に入りましたが、まだまだ猛暑が続きます。くれぐれもご自愛ください。
さて、昨年からお伝えしてきた三河新四国八十八ヶ所霊場。先月、八十八番法城寺を参拝して結願しました。今月は三河新四国の宗派とご本尊についてです。
★最多は浄土宗系
三河新四国は本四国の霊場と異なり、もともと必ずしもお大師様ゆかりのお寺ばかりではありません。また、一九六五年(昭和四十年)に三度目の再興となったこともあり、宗派は真言宗が中心というわけではありません。この点は、知多四国と同様です。
本四国では八十八ヶ所のうち八十ヶ所が真言宗系のお寺です。知多四国で最も多いのは曹洞宗のお寺でした。
三河新四国四十九ヶ寺(八十八ヶ所)を整理すると、一番多いのが浄土宗系の二十ヶ寺(浄土宗十、浄土宗西山深草派十)、二番目が真言宗系の十七ヶ寺(真言宗醍醐派八、真言宗六、真言宗高野派一、真言宗豊山派一、信貴山真言宗一)、三番目は曹洞宗の七ヶ寺、四番目は臨済宗の三ヶ寺。残るは、時宗と天台寺門宗が各一ヶ寺で四十九ヶ寺です。 詳しくは表をご覧ください。
※三河新四国の宗派
宗派 寺院数 浄土宗 10 浄土宗西山深草派 10 20 真言宗醍醐派 14 真言宗豊山派 1 高野山真言宗 1 信貴山真言宗 1 17 曹洞宗 7 臨済宗 3 時宗 1 天台寺門宗 1 合計 49
★最多は阿弥陀如来・阿弥陀仏
四十九ヶ寺のご本尊も本四国、知多四国とは少し違います。 本四国では薬師如来が二十四、知多四国では観世音菩薩の三十二と最多。
一方、三河新四国では阿弥陀如来・阿弥陀仏の二十(一光千体も含む)が最多。お寺の宗派として浄土宗系が最多なので、当然のことかもしれません。
それに続いて不動明王十(身代わり不動明王明王、流汗不動明王も含む)、観世音菩薩十(千手観音と十一面観音も含む)、弘法大師が四、薬師如来二、その他四です。
一方、四十一ヶ寺の別堂札所のご本尊は、複数の先もあるので、合計で五十八です。 最多は弘法大師十六(冠大師等も含む)、観世音菩薩系が九、地蔵菩薩系が七、阿弥陀如来・阿弥陀仏三、不動明王三、薬師如来三、その他十五です。
詳しくはやはり別表をご覧ください。
★愛知の寺院数は日本一
日本人の生活と切り離せない寺社仏閣。全国津々浦々にある寺社仏閣。お正月の初詣に寺院と神社の両方に行く人も少なくありません。
これまでも何度かお伝えしましたが、四十七都道府県で寺院が一番多いのは愛知です。 寺院の数と聞けば、歴史から考えると京都、人口から想像すると東京が一番多いと連想するのが無理からぬところですが、実は愛知が一番。しかも断トツです。
文化庁が毎年発表する宗教年鑑(令和元年版)によれば、愛知の寺院数は四五五九で日本一。 愛知に続く大阪、兵庫、滋賀、京都が上位五都府県。愛知以外は全部近畿地方。一方、一番少ないのは沖縄の九十。次いで、少ない順に宮崎、高知、鳥取、青森です。
古くから日本の都は奈良、京都です。平安仏教、鎌倉仏教の多くの宗派の祖師や高僧が京都と滋賀にまたがる比叡山延暦寺で修行しましたので、近畿地方に寺院が多いのは頷けます。 沖縄が少ないのは、かつては本土と文化圏が異なっていたためです。一方、宮崎や高知は明治維新に伴う廃仏毀釈の影響を受けています。
因みに、日本最北端の寺院は稚内の天徳寺(曹洞宗)、最南端は竹冨島の喜宝院(浄土真宗)。全国の寺院数は七六八七二、仏教系宗教団体数は八四三二一です。
★寺院数日本一の背景
来月は愛知県が寺院数日本一の背景について、少し深堀りしてみます。 乞ご期待。
(2021年8月)
第229話 三河新四国(八十七番~八十八番)
皆さん、こんにちは。夏本番です。コロナ禍で今ひとつ晴れ晴れしませんが、暑さに気をつけて、ご自愛ください。
昨年からお伝えしている三河新四国八十八ヶ所霊場。いよいよ結願です。
★山崎弁栄上人
さて、結願寺に向かいます。八十五・八十六番から北へ約二キロメートル。深称寺から約一・三キロメートル。大浜上町の交差点を越え、天王交差点手前を右折して住宅街に入ると 八十八番、浄土宗の天王山法城寺。八十七番は本堂内の天王殿です。結願を法城寺とするため、天王堂が八十七番になっています。
一八九四年、九重味淋創業家(石川家)縁戚の資産家、石川市太郎が私財を投じて作った説教場が当寺の始まりです。
開山の山崎弁栄上人(一八五九〜一九二〇年)について触れておきます。
弁栄上人は下総国手賀沼鷲野谷(現柏市)の熱心な浄土門徒の農家に生誕。幼い頃から近所の真言宗の寺で仏画を習っていたそうです。十二歳の時に阿弥陀三尊を夕日の中に感得し、二十歳で出家しました。
その後は上京して増上寺や駒込吉祥寺学林(現駒澤大学)で研鑽を積み、筑波山中で念仏修行、浄土宗本校(現大正大学)設立を勧進、インド仏跡巡拝を行うなど、真摯に仏道に邁進しました。
一九一八年には時宗当麻派本山、無量光寺の六十一世法主に迎えられ、一九二〇年、各地を巡錫中に柏崎市の極楽寺で還浄しました。
西洋楽器を積極的に布教に活用しました。仏教の教えを広めるため、賛仏歌を作詞作曲し、当時は目新しい楽器だった手風琴を自分で演奏し、全国を行脚したそうです。絵画や米粒絵も描く万能者です。
その山崎弁栄上人が開山ですから、法城寺には上人縁の寺宝も多く、その影響が色濃く残る寺院です。凛とした静寂を感じる素晴らしい境内。弁栄上人の遺徳を偲びつつ、合掌して結願です。
ご本尊(八十七番) 火防大師
ご本尊(八十八番) 阿弥陀如来
ご詠歌 今までは 親とたのみし大師ずえ めぐりて納む 法城の寺
★旧三河新四国
紙上遍路、お疲れ様でした。一六二六年(寛永二年)に浦野上人が開創した元祖三河新四国、一九二七年(昭和二年)に再興された旧三河新四国 。先人の努力があってこそ、一九七〇年(昭和四十年)に三度(みたび)誕生したのが現在の三河新四国です。
元祖三河新四国の札所の全貌は調べきれませんでしたが、旧三河新四国はわかります。
再興の契機となった善通寺誕生院貫主から贈られた直傳證は、現在も雲龍寺 (豊田市)本堂に掲げられています。雲龍寺は旧三河新四国では七十六番、現在の三河新四国では十九番・二十番です。
旧三河新四国の札所は、一番薬証寺(蒲郡)から、西尾、碧南、高浜、刈谷、知立、豊田を経て、八十八番香積寺(足助)を巡拝します。
ほとんどの札所が旧三河鉄道沿線に位置し、海沿いの温泉景勝地蒲郡から紅葉で名高い香嵐渓を結ぶ沿線振興策だったようです。駆け足でお遍路しましょう。
スタートの蒲郡は、東三河新四国、三河海岸大師など、複数の弘法霊場が交錯する地域です。中でも五番無量寺 は、三河新四国(六十一番・六十二番)、参河国准四国(五十四番)、東三河新四国(十七番)、三河海岸大師(四番)も兼ねる五冠王です。
碧南に入ると、やはり大浜地区に札所が集中しています。大浜から北上すると知立の遍照院。旧三河新四国では五十七番ですが、現在の三河新四国では開創霊場(零番) です。
さらに北上して猿投へ。大悲殿東昌院は旧三河新四国では奥の院 、現在の三河新四国では十七番・十八番です。もともとは三河三の宮である猿投神社別当寺の白鳳寺。神仏分離令、廃仏毀釈によって廃寺となった後、復興されました。
旧三河新四国は浄土宗系寺院が過半を占め、中でも多いのが西山深草派(三十一ヶ寺)。徳川家康 が三河一向一揆と対峙した際、一向宗の中でも家康方についたお寺が浄土宗に改宗した経緯が影響しているようです。
次に多い曹洞宗(十八ヶ寺)のほか、全部で十六宗派の寺院で構成されています。
札所石柱が残っているお寺も多く、探しながら散策するのは楽しいことです。
★三河新四国の宗派とご本尊
紙上遍路の結願、おめでとうございました。来月は、三河新四国の宗派とご本尊について整理してみます。乞ご期待。
(2021年7月)