弘法さんブログ

第18話(2003年12月)

皆さん、こんにちは。今年最後の弘法さんかわら版です。早いもので今年も残りわずかとなりました。
先月24日まで愛知県美術館で「空海と高野山」展が開かれていました。編集部スタッフも見学してきましたが、弘法大師自筆の書や巨大な曼荼羅(まんだら)の見事さに圧倒されました。

守り本尊

来年の干支(えと)は申(さる)です。干支にはそれぞれ、開運や厄除けの守護仏である「守り本尊」が定められています。干支は方角を表すことから、「守り本尊」も方角ごとに決まっていることになります。因みに、申は西南西を示し、「守り本尊」は大日如来です。

弘法大師と大日如来

大日如来は弘法大師が開いた真言宗の総本尊、つまり最高仏です。「日(=太陽)のように大いに遍く照らす」という意味が込められおり、大宇宙の根源と考えられています。申年の弘法さんの縁日は、大日如来のご加護で賑わいを増すかもしれませんね。

仏像は五種類

ところで、方角は東西南北とそれぞれの間の八つあることから、「守り本尊」も八つです。種類としては菩薩が五つ、如来が二つ、明王が一つです。
実は仏像の種類は五つあります。菩薩、如来、明王のほかに、古代インドの民間信仰の神々をとりいれた天部という種類、および以上の四種類のいずれにも属さないその他のグループです。最後のグループには、実在した高僧の像も含まれます。
菩薩は大衆を救うお釈迦様、如来は悟りを開いたお釈迦様の化身、明王は悪と闘う天界からの使者です。見た目も違います。菩薩は宝冠を戴いた貴族の姿、如来は髪が盛り上がり一枚衣を半身にまとった姿、明王は激しく憤怒に満ちた表情で武器を携えています。
もっとも、大日如来は例外で、如来ですが菩薩の姿をしています。

覚王山の「守り本尊」

日本最小の覚王山八十八カ所霊場にも八体の「守り本尊」が鎮座されています。日泰寺本堂東側のB地区の一角で、八体並んで世の中を見守ってくださっています。山門からすぐそばですので、ご自分の干支の「守り本尊」にお参りされてはいかがでしょうか。
弘法大師の八十八カ所四国遍路、法然上人の二十五霊場巡り、親鸞聖人の二十四輩巡りなど、宗祖・高僧の聖跡を巡ることを祖師巡礼と言います。全国各地にその「写し」があり、覚王山は四国遍路の「写し」です。
巡礼には石仏巡りや七福神巡りというものもあります。来年の弘法さんかわら版では、そうした話題もご紹介したいと思います。乞うご期待。

除夜の鐘と大日如来

さて、いよいよ年末です。今年の煩悩を消すために日泰寺の除夜の鐘を突き、申年の平穏を願って大日如来にお参りしてください。
弘法さんかわら版も次号から三年目に入ります。来年も引続きご愛読のほど、よろしくお願い致します。


第17話(2003年11月)

皆さん、こんにちは。すっかり秋も深まり、朝晩は寒々としてきました。くれぐれもご自愛ください。

弘法大師のご利益

さて、先月、弘法さんかわら版をお配りしている時に、ある読者の方から「眼病快癒のご利益がある『目なおしのお札』のこと、知っとる?」と尋ねられました。
これまで、渇水を癒す「弘法水」(第13号)、安産子育て祈願の「子安弘法」(第16号)といった、数々の弘法大師のご利益を紹介してまいりましたが、まだまだ他にもあるようですね。早速、編集部で調べました。

道隆寺の目なおし薬師様

眼病治癒にまつわる弘法大師の偉業は、四国八十八カ所霊場の七十七番札所、桑多山道隆寺(そうださんどうりゅうじ)に言い伝えられています。
この寺のご本尊は、弘法大師が自ら彫った薬師如来像です。ある時、道隆寺を目の不自由な丸亀藩(香川県)士、京極左馬造が訪れ、薬師如来像に快癒を祈願したところ、たちどころに目が見えるようになったそうです。以来、この薬師如来像は「目なおし薬師様」と呼ばれ、今でも多くの方が眼病快癒を願って道隆寺を訪れます。
しかし、この薬師如来像がご開帳されるのはなんと五十年に一度だけ。なかなか貴重なご本尊ですね。

覚王山の「目なおし薬師様」

さて、日本最小の覚王山八十八カ所霊場の七十七番札所はどうなっているのか確かめてきました。日泰寺奉安塔の奥、F地区の一角に道隆寺があり、石造りの薬師如来様が二体並んで鎮座されていました。ちょっと遠いですが、眼がお疲れの皆様、お参りの際に足を伸ばされてはいかがでしょうか。
「目なおしのお札」については、参道の途中で配られていたという話は聞きましたが、それ以上のことはわかりませんでした。何かご存知の方がいらっしゃいましたら、是非編集部にご教示ください。

錫杖と独鈷

栃木県足利市富田には、眼病快癒のご利益のある井戸水があります。渇水に苦しむこの地を訪れた弘法大師が、持っていた杖(錫杖=しゃくじょう)で地面に突いて清水を湧かせ、その水に眼病治癒の願をかけられたそうです。「弘法水」と「目なおし」が結びついているんですね。
温泉や湧水にまつわる弘法大師伝説は、独鈷(とっこ)や錫杖で地面や岩を突いたというものが一般的です。県内でも、鳳来町に弘法大師が全国行脚の際に発見した赤引(あかひき)温泉があります。一度行ってみたいですね。

弘法大師は鉱物博士

水にまつわる数々の伝説は、弘法大師が鉱物学や地理学にも詳しかったことを示しています。鉱脈や水脈を発見する術に長けており、事実、四国八十八カ所霊場のほとんどは鉱物資源や水源の豊富な山に位置しています。
中世の高僧は、希代の文化人や学者であったようです。弘法大師の場合は鉱物博士ですね。


第16話(2003年10月)

皆さん、こんにちは。今月の12日から13日にかけて、「覚王山秋祭」が行われました。おでかけになりましたか。関係者の皆さん、お疲れさまでした。

安産・子育て祈願の子安大師

さて、弘法大師は実に様々な偉業(奇跡)を成し遂げたと伝えられています。このかわら版でも、焙烙灸(ほうろくきゅう)で病気を治したり、井戸水を掘り当てたというお話を紹介させていただきました。
ほかにも、子安(安産、子育て)の奇跡を起こしたと言われています。
ある時、弘法大師が伊予の国(愛媛県)の香園寺(こうおんじ)というお寺を訪ねたところ、ひとりの妊婦が難産に苦しんでいるのを見つけました。そこで、栴檀(せんだん)の木を焚いて祈祷したところ、無事に元気な男の子が生まれたと伝えられています。栴檀の木の皮は、古くから漢方薬や虫除け剤として使われていたようですが、どのような薬効があったのでしょうか。
以来、香園寺は第六十一番札所となり、山号も栴檀山とされました。大正時代には子安講ができ、安産、子育てにご利益があるとして女性の信仰を集めました。
子安の奇跡に因んで、弘法大師のことを子安弘法とか子安大師と呼ぶこともあります。

お地蔵さんの赤いよだれかけ

ところで、お地蔵さんと言えば赤いよだれかけですね。でも、なぜよだれかけを掛けているのでしょうか。
それはお地蔵さんが子どもを守るという役目を果たしているからです。
古来、お地蔵さんは村々の境にあり、人々が集まり、縁結びのきっかけになったと言われています。そうした由来から転じて子育ての象徴へと発展したそうです。そして、よだれかけを掛けるのは、お地蔵さんに子ども守ってもらうようお願いするためです。「この匂いがわが子のものです。どうぞよろしくお願いします」というわけですね。

覚王山の子安弘法

日本最小の覚王山八十八ヶ所霊場にも、もちろん香園寺があります。日泰寺本堂の東側、札所が密集するB地区の中です。子安弘法と彫られた石碑もしっかりと建っており、また付近にはたくさんのよだれかけが掛かっています。お子さんやお孫さんのために、ぜひ一度お参りしてください。

東洋一の子安大師像

東洋一大きな子安大師像は愛知県蒲郡市三谷にあります。全長六十二尺(17.78メートル)の像です。名古屋の熱心な信者さんが建立を発願し、昭和13年に完成したそうです。なぜ62尺かと言うと、弘法大師が62歳でご入定(他界)されたことに因むものです。

参道ミュージアム

11月3日まで覚王山商店街振興組合「街づくり委員会」主催の参道ミュージアムが開かれています。最も盛り上がるのは11月1日から3日までの3日間。数々の芸術作品の展示やミニ演劇が楽しめます。ぜひお出かけください。


第15話(2003年9月)

皆さん、こんにちは。もうお彼岸になってしまいました。早いですねぇ。季節の変わり目ですので、健康にはくれぐれもご留意ください。

★お彼岸は純国産

そのお彼岸ですが、秋分・春分の日をはさんで前後三日間が彼岸の期間になります。十三世紀に渡来した中国の大休和尚というお坊さんが、「日本国には春秋に彼岸という風習がある」と記録しています。お彼岸という風習は中国にもインドにもなく、日本固有のものです。純国産の習慣が仏教信仰と結びついて現在のかたちになったと言われています。ご存じでしたか。

★苦難の船出から千二百年目

さて、弘法大師がはるばる唐の都・長安(現在の西安)をめざして海を渡ったのは804年(延暦23年)のことでした。今年は2003年ですから、ちょうど1200年目になります。
弘法大師は国内で修行を続けていましたが、経典はインドの言葉であるサンスクリット語(梵語)で書かれていたほか、呪文や秘文について分からないことが多かったため、教義を学ぶために唐に渡ることを決意したのです。弘法大師、30歳の時でした。

★口伝から始まった仏教の教え

仏教の教えを説くお経は非常にたくさんの種類があります。「八万四千の法門」という言い方もあり、正確にいくつのお経があるか分かりません。
お釈迦様(仏陀)はその教えを記録に残しませんでした。全て口伝(くでん)です。そこで、お釈迦様が亡くなった(入滅)後、500人の阿羅漢(あらかん=悟りを得た人)が集まり、教えを記録する作業が始まりました。しかし、お釈迦様は弟子の個性に合わせた教えを説いていたので、実に様々な経典が生まれ、以来、多くの内容に発展していったそうです。
弘法大師は、そうした教えの定義(教義)を学ぶために唐に渡りました。

★覚王山霊場の開山は誰?

ところで、ここ覚王山の「日本最小の八十八カ所霊場」は誰が開山したのでしょうか。
記録によれば、明治42年、山下圓救師、伊藤萬蔵、花木助次郎、奥村新兵衛による勧進帳から始まったそうです。以後、大正初期にかけて八十八カ所が整備されました。
八十八カ所霊場がAからGの七地区に分かれていることは以前にご紹介しました。本堂から東に向かい、姫が池(放生池)通りを渡ってC地区からD地区に行く途中に、開山の祖、山下圓救師の墓所があります。是非一度、お参りしてください。

★「空海と高野山」特別展覧会

弘法大師入唐千二百年を記念して、愛知県美術館にて「空海と高野山」特別展覧会が開催されます。国宝21点と重要文化財96点が一堂に集結します。高野山の宝物の全容を紹介する初めての機会です。乞うご期待!
開催期間 10月10日(金)~ 11月24日(月)
場所 愛知県美術館(栄の県立芸術文化センター内)
電話 971-5511


第14話(2003年8月)

残暑お見舞い申し上げます。先月26日、27日に行われました「覚王山夏祭」は天候にも恵まれ、たいへんな賑わいでした。事務局の皆さん、ボランティアの皆さん、出店者の皆さん、本当にお疲れ様でした。

以前の札所は一軒家?

先月の弘法さんの日に、日泰寺本堂東側のB地区をやや北へ歩いた所にある二二番札所で貴重なお話を伺うことができました。二二番札所は、今は大人2人が入れるくらいの小さな祠(ほこら)ですが、戦後間もない頃は八畳二間に台所も付いており、一時は一家五人が住んでいたそうです(かわら版第八号でお伝えしたことの事実確認ができました)。そのご家族は、今でもご恩返しとして札所の世話をされているそうです。

観光客で溢れた「放生池」

さて、二二番札所を北に進むと日泰寺の参拝者大駐車場があります。ここには以前「姫が池」という池がありましたが、別名「放生(ほうじょう)池」とも呼ばれていました。昔は観光名所であり、コイやフナが群れをなし、池の周辺には売店が軒を並べていました。かわら番編集部の面々も子供の頃は「放生池」で釣りやザリガニ捕りをしていました。
「放生」とは、捕らえられた魚や鳥を逃がしてやることです。人間は日頃の食生活や日常生活で多くの殺生(せっしょう)を行っていることから、功徳を積む意味で「放生」という考え方が生まれたそうです。起源は中国ですが、日本では天武天皇の命で始まったとも言われています。全国の寺院には「放生池」や「放生会(ほうじょうえ)」と呼ばれる縁日があります。

山号の歴史

ところで、覚王山が日泰寺の山号であることは以前にご紹介しました。お寺の名前に山号をつけるようになったのも、その起源は中国です。日本では、奈良時代の飛鳥寺でも法隆寺でも山号はなく寺名だけでした。
平安時代になって、最澄(伝教大師)や空海(弘法大師)が中国から帰国し、山中に寺を建てるようになって山号が普及したそうです。そして、比叡山延暦寺、高野山金剛峰寺の建立によって山号は完全に定着し、鎌倉時代には平地の寺まで山号をつけるようになったそうです。

新しい覚王山マップ完成!

新しい「覚王山マップ」が完成しました。新しいお店や情報が盛り沢山です。覚王山商店街の店頭や大塚耕平事務所にあります。ご自由にお持ち帰り下さい。覚王山周辺は、面白いお店や史跡がいっぱいです。名古屋の新しい観光名所となるように、今後とも日泰寺や日本最小の札所の話題をご紹介していきます。乞うご期待!


第13話(2003年7月)

皆さん、こんにちは!「弘法さんかわら版」も二年目に入りました。今後ともよろしくお願い致します。過去のかわら版(バックナンバー)は編集部(大塚耕平事務所・覚王山バス停前、電話052-757-1955)にございます。
大塚耕平のホームページhttp://www.oh-kouhei.org/にもアップ(掲載)してあります。

住宅?密集地域はB地区

覚王山八十八ヶ所霊場は1キロメートル四方に全ての札所が集まる「日本最小の霊場」です。札所はAからGの七地区に分かれており、一番多くの札所が集まっているのが日泰寺本堂東側のB地区です。B地区には、五~二十三番、二十五番、八十六~八十八番の二十三の札所が二百坪くらいの土地にギュウギュウに詰め込まれています。仏様の住む集合住宅、あるいは住宅密集地域という感じでしょうか。

歴史的建造物もギュウギュウ

ところで、日泰寺境内には、本堂、普門閣、寺務所、山門などがありますが、いずれも鉄筋コンクリート造りで、どちらかというと近代的な風情です。ところが、本堂の裏手に回ると、大規模な「坐禅堂」、大書院「鳳凰台」、そして「草結庵」と「同夢軒」という二つの茶室が有名な「庭園八相苑」があります。本堂前の近代的な雰囲気とは対照的に、いかにも日本的な落ち着いた佇まい(たたずまい)です。本堂の東側には松坂屋創業家(伊藤家)別邸「楊輝荘」、西側には御殿風の建築が目を引く料亭「松風閣」もあります。八十八ヶ所霊場以外にも興味深い史跡や建築物があるのが、ここ覚王山日泰寺の周辺なのです。

水の空海、火の最澄

先月号では弘法大師(空海)のお名前の移り変わりを説明させて頂きました。遣唐使として遠路中国に行かれた際には「遍照金剛」というお名前を中国の高僧から頂いたこともご紹介しました。中国では天台宗の開祖として高名な伝教大師(最澄)も一緒に修行をされたそうです。
両大師には数々の伝承が残っています。空海は雨乞いの名人であったほか、渇水に苦しむ土地に杖を差し、経を唱えると地下水が噴出したと言われています。そうした水場は全国各地にあり、「弘法水」と言われています。
一方、最澄には火にまつわる伝承が残っています。最澄が建造した比叡山延暦寺には、千年以上燃え続けている有名な「不滅の灯明」があります。遣唐使から帰国した際に使っていた「灯明の火」も、福岡県の「千年家」と言われる灯番家が四十数代も守り続けているそうです。

覚王山夏祭は26~27日

さて、5月号でお伝えした「焙烙灸(ほうろくきゅう)」は八十七番札所で弘法さんの日に行われています。全国的には無病息災、体力増進を祈願して「土用の丑の日」に実施されることが多いようです。
「土用の丑の日」と言えばウナギですね。覚王山日泰寺参道には「魚長さん」という鮮魚料理屋さんがあります。お昼時には、お店の中から美味しそうなウナギの匂いがしてきます。ウナ丼880円、たいへんお値打ちです。美味なることは編集部がお約束します。

日泰寺のお坊さんが参道で健康と安全を祈願してくださる幻想的な儀式「泰火祭」が25日(金)の午後7時から行われます。翌26日(土)と27日(日)は恒例の覚王山夏祭です。是非お出掛けください。


第12話(2003年6月)

皆さん、こんにちは!今月も弘法さんの日がやってきました。
「弘法さんかわら版」も12号になりました。昨年の七月に創刊号を配布させて頂いて以来、今回でちょうど一年です。毎月、たくさんの皆さんが受け取ってくださるおかげです。本当にありがとうございます。過去のかわら版(バックナンバー)をご希望の方は、ご遠慮なく編集部(大塚耕平事務所:覚王山バス停前、電話052-757-1955)までご連絡ください。なお、大塚耕平のホームページhttp://www.oh-kouhei.org/ にもアップ(掲載)してあります。

「無空」→「空海」→「弘法大師」

「弘法さん」=「弘法大師」は、ほかにも「お大師さん」「弘法さま」「お弘法さん」などとも呼ばれます。しかし、「弘法大師」というのは、大師がお亡くなりになった八十年も後に、朝廷から与えられた称号(諡号=しごう)だそうです。
幼少の頃から神童と言われていた大師は、十八歳の時に生家(善通寺誕生院=現在の七十五番札所)を出て名を「無空」と改め、やがて山岳修験者となりました。そして阿波の太龍寺岳(太龍寺=二十一番札所)や土佐の室戸岬(最御崎寺=二十四番札所)などで激しい修行を重ね、二十歳の時に和泉国槇尾山寺(四番札所)で得度し、名を「如空」としました。後に「教海」、さらには「空海」と改めました。
また、遠路中国に行かれた際には、「遍照金剛」というお名前を中国の高僧から頂いたそうです。

四国巡礼地は「弘法大師」修行の場

四国八十八ヶ所霊場は、大師が四十二歳の時に、それまでに修行をした場所を連ねて開創されたと伝えられています。
大師がお亡くなりになった後、高弟「真済」が霊場を遍歴したのがお遍路の始まりだそうです。また、「右衛門三郎」という人物が、自己の非を悟って四国霊場を巡ったのがお遍路の始まりと解説している本もあります。
いずれにしても、大師に対する信仰は徐々に高まり、平安時代末期には修行僧を中心に巡礼が行われていたようです。室町時代に入ると一般庶民も参加するようになり、お遍路が完全に定着したのは室町時代末期から江戸時代にかけてと言われています。


知立の「弘法さん」

ところで、先月の「弘法さん」は露店の数が少なかったと思いませんか。実は知立の「弘法さん」と日が重なり、露店商の皆さんが分散したそうです。知立の「弘法さん」は旧暦の月命日(21日)に開催されますが、先月は新暦(覚王山)と旧暦(知立)の月命日が同じ日になったようです。
知立の「弘法さん」は、三河三弘法の一番札所として知られる「遍照院」(へんじょういん)で開かれます。「見返弘法大師」と呼ばれる本尊が祀られています。旧暦の21日には沢山の露店で賑わうそうです。そちらにも、是非お出掛けください。それでは、また来月お会いしましょう。


第11話(2003年5月)

皆さん、こんにちは!今月も弘法さんの日がやってきました。あっという間に一ヶ月が過ぎてしまいますね。
さて、先月号では「お遍路さんの衣装」についてご説明しました。白装束で行脚する由来もお分かり頂けたかと思います。ちょっと変わった行事が行われている札所についてご紹介させて頂きます。
「日本最小の八十八ヵ所霊場」であるここ覚王山日泰寺周辺の巡礼地は、小さな祠が単に並んでいるだけではなく、一軒一軒独立したお堂となっており、毎月21日になるとそれぞれの管理者の方が「お接待」をしてくださいます。番外の祠や、一部の祠は日泰寺が管理してくださっているとも聞きますが、基本的には、各札所ごとの「お接待さん」がいらっしゃり、あくまでも自主管理をされているようです。今風に言えば、ボランティアです。それぞれの札所の「お接待さん」相互の交流はあまりないようですね。「弘法さんかわら版」編集部としては、今後、「お接待さん」相互のネットワーク作りにもお役に立ちたいと思います。

「焙烙(ほうろく)灸」って何?

常連の参拝客の方々の中には、ビニール袋一杯の小銭(ほとんどが1円か5円玉)を用意して、全部の札所の賽銭箱に入れていく方もいらっしゃるようです。各札所では、それぞれ趣向を凝らしたお接待をしてくださいます。お菓子などをサービスしてくれるところもあります。珍しいお接待のひとつとして「焙烙(ほうろく)灸」というものがあります。
「焙烙灸」の由来は、昔、炎天下で暑さ負けした武将が、カブトの上から灸をすえたところ、たちまち元気になったという話に端を発しています。以来、すり鉢のような容器(=焙烙皿)を頭にのせて、そのうえでもぐさを炊いて灸をすることを「焙烙灸」と言うようになりました。そして、弘法大師がこの「焙烙灸」の効能を熱心に説いたと言われています。
その結果、全国各地のお寺や巡礼地で、一年で最も暑い盛りの「土用の丑の日」や弘法大師のご縁日(毎月21日)に「焙烙灸」を行うようになったそうです。ここ覚王山巡礼地において、編集部が確認できた「焙烙灸」を行っている祠は、八十八番札所周辺です。ほかにもあるかもしれませんね。
医学的には、頭の上に「百会のツボ」と言われる「ツボ」があるそうです。「焙烙灸」はその「百会のツボ」に灸をして刺激することで、脳の活性化、ボケ防止、夏バテ防止をはじめ、心身の健康に対して効果があると言われています。そのため、「焙烙灸」は無病息災、身体健全を祈願するお加持(祈祷)となっています。弘法大師は医学的な知識もあったのかもしれませんね。

「八十八ヵ所」の由来

ところで皆さん、過去のかわら版で巡礼地には「十八」とか「三十三」、そして最も一般的な「八十八」とか、いろんな数があることをご紹介しました。覚えていらっしゃるでしょうか。
さて、「八十八ヵ所」の由来は何でしょうか?いろんな説がありますが、「米」の文字から、五穀豊穣を祈念する数字であると言われたり、厄年の合計(男42、女33、子供13)とも言われています。真相は何でしょうか。
では、その他の数(十七とか三十三)にもそれぞれ由来があるのでしょうか。「お遍路」は奥が深いですね。興味が尽きません。
それでは皆さん、また来月お会いしましょう!!


第10話(2003年4月)

皆さん、こんにちは。4月になりました。お花見には行かれましたでしょうか。今月前半は花冷えのする日が続きましたが、だいぶ暖かくなってきました。お花見に時期はちょっと寒かったですよね。
覚王山祭り(春祭)の日もあいにくの天気でした。事務局の皆さんも、出店している皆さんも、本当に寒そうでした。お疲れさまでした。夏祭は天候に恵まれるといいですね。
さて、先月は「お遍路の順番」をご説明しました。「順打ち」、「逆打ち」、「通し打ち」、「区切り打ち」など、いろいろな回り方があることをご紹介しました(詳しくは前号をご覧ください)。今月は「お遍路さんの衣装」について調べてみました。

白装束の由来

「お遍路さんの衣装」と言えば、ご存じ、白衣に輪袈裟、手甲、脚半を身に付け、数珠を手にした白装束です。腰には、納経帳を入れた布袋(さんや袋)をぶら下げます。
白衣はもともと「死に装束」です。巡礼ブームに沸いた江戸時代には、不治の病の治癒を願った巡礼者が、お遍路の途中で倒れて亡くなることが日常茶飯事だったそうです。そこで、「せめて手厚く弔いたい」と願った「お接待さん」たちが、白装束を用意して提供したのが「お遍路さんの衣装」の始まりといわれています。「そりゃあ、知らんかったわ」と言う方も多いことと思います。

「お遍路さんの衣装」の定番は下の図のとおりです(「高知県東部四国霊場めぐり」のホームページhttp://www.attaka.or.jp/haru03/henro/he_kiso4.htmlを参考にさせて頂きました)。「金剛杖」、「納経帳」、「納め札」は最低限の必須アイテムだそうです。とくに、「金剛杖」は弘法大師の分身と言われ、大切に扱わなくてはなりません。
菅笠には「同行二人」と書くそうですが、これは「弘法大師と道連れ」という意味のようです。お遍路もいろいろとお作法やしきたりがあって、勉強が必要ですね。
本場四国では、一番札所の霊山寺(徳島県鳴門市)の門前に「門前一番街」というお店があるそうです。巡礼アイテムや土産物を売っているお店ですが、白装束一式が1万2千円前後で用意できるそうです。

覚王山スタイル

「日本最小の八十八カ所霊場」に覚王山霊場ですが、白装束で回っている方は見かけないですね。「霊場巡りは必ずこの服装」と決まっている訳ではないそうですが、やはり白装束を身にまとうと雰囲気が違います。
覚王山霊場は全国的には無名です。地元(愛知県下)でもあまり知られていません。しかし、「日本最小の八十八カ所霊場」は観光名所になるかもしれませんね。そのためにも、いずれ、覚王山スタイルと呼ばれるような独自の「お遍路の衣装」を考えてみようと思います。
では、また来月お会いしましょう。


第9話(2003年3月)

皆さん、こんにちは。今日は春分の日、早いものでもう桜の季節ですね。お花見シーズンをお見逃しなく!!
先月号では、覚王山・八十八ヵ所霊場(札所)のご本尊のお話をお伝えしました。札所の名前(寺院名)は四国霊場と全く同じですが、ご本尊の名前はどうなっているのでしょうか?さっそく、いくつかの札所の「お接待さん」に確かめてみました。
結論的に申し上げれば、四国霊場と同じご本尊を祀ってある札所は意外に少ないようです。四国霊場では薬師如来のはずが覚王山札所では観音様だったり、中には、弘法大師像と並んで「お接待さん」のご先祖様が祀ってある札所もありました。これから地道に調査をして、いずれ札所とご本尊の一覧表を作りたいと思います。

「お遍路」の順番?

ところで、札所はどういう順番で回るかご存知ですか?「そんなもん、番号順に決まっとるがね」と呟かれた方が多いと思いますが、一番札所からスタートする場合と、八十八番札所からスタートする場合があります。前者を「順打ち」、後者を「逆打ち」と言います。四国霊場の場合、「順打ち」は「阿波→土佐→伊豫→讃岐」という時計回りになります。「逆打ち」は時計と反対方向に回ることになります。
また、「通し打ち」と「区切り打ち」という言葉もあります。「通し打ち」は全区間(八十八ヵ所)を一気に回ること、「区切り打ち」は区間を区切って何回かに分けて回ることを指します。本場四国では「通し打ち」をできるお遍路さんは少なく、主流は「区切り打ち」のようです。
さて、覚王山・八十八ヵ所霊場の場合はどうでしょうか。まず、札所の順番はバラバラです。どうしてそうなったのかは分かりません。ただ、もともとは札番順に並んでいたものが、日泰寺本堂、霊堂、納骨堂の建設、姫池通の拡幅工事などによって移設されたためという話も聞きました。各札所が今の場所に落ち着いたのは、昭和の終わり頃だそうです。
したがって、覚王山・八十八ヵ所霊場では「順打ち」も「逆打ち」もなかなか大変そうですが、その一方で、何しろ半径1キロメートル以内に全札所が集まる「日本最小の・八十八ヵ所霊場」です。全国の霊場で最も「通し打ち」に適した巡礼地と言えます。有り難いことですね。

「お接待さん」の後継者問題

札所番号碑の石柱の裏に○○商店と書いてあるものもありました。「お接待さん」に伺ってみると、○○商店の従業員の皆さんが代々札所のお世話をしているそうです。若い人たちがなかなか後を継いでくれないようで、中小企業や商店と同様に、ここにも後継者問題があるようです。無縁札所になってしまわないように、ひとりで複数の札所を守っている方もいるようです。
さて、先月号でもお伝えしましたが、今日は弘法大師の命日で「御祥当」と言われます。「お接待さん」の皆さん、御苦労様でございます。これからもよろしくお願い致します。合掌。


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大塚耕平

  • 2002年から「弘法さんかわら版」を書き続けています。仏教に親しみ、仏教から学び、仏教を探訪しています。より良い社会を目指すうえで仏教の教えは大切です。「弘法さんかわら版」は覚王山日泰寺(名古屋市千種区)と弘法山遍照院(知立市)の弘法さんの縁日にお配りしています。縁日はお大師様の月命日に立ちます。覚王山は新暦の21日、知立は旧暦の21日です。
  • 著書に「お大師様の生涯と覚王山」(大法輪閣)、「仏教通史」(大法輪閣)など。全国先達会、東日本先達会、愛知県先達会、四国八十八ヶ所霊場開創1200年記念イベント(室戸市)、中日文化センターなどで講演をさせていただいています。毎年12月23日には覚王山で「弘法さんを語る会」を開催。ご要望があれば、全国どこでも喜んでお伺いします。
  • 1959年愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒、同大学院博士課程修了(学術博士、専門はマクロ経済学)。日本銀行を経て、2001年から参議院議員。元内閣府副大臣、元厚生労働副大臣。現在、早稲田大学総合研究機構客員教授(2006年~)、藤田医科大学医学部客員教授(2016年~)を兼務しています。元中央大学大学院公共政策研究科客員教授(2005年~17年)。