弘法さんブログ

第8話(2003年2月)

皆さん、こんにちは。今日は春分の日、早いものでもう桜の季節ですね。お花見シーズンをお見逃しなく!!
先月号では、覚王山・八十八ヵ所霊場(札所)のご本尊のお話をお伝えしました。札所の名前(寺院名)は四国霊場と全く同じですが、ご本尊の名前はどうなっているのでしょうか?さっそく、いくつかの札所の「お接待さん」に確かめてみました。
結論的に申し上げれば、四国霊場と同じご本尊を祀ってある札所は意外に少ないようです。四国霊場では薬師如来のはずが覚王山札所では観音様だったり、中には、弘法大師像と並んで「お接待さん」のご先祖様が祀ってある札所もありました。これから地道に調査をして、いずれ札所とご本尊の一覧表を作りたいと思います。

「お遍路」の順番?

ところで、札所はどういう順番で回るかご存知ですか?「そんなもん、番号順に決まっとるがね」と呟かれた方が多いと思いますが、一番札所からスタートする場合と、八十八番札所からスタートする場合があります。前者を「順打ち」、後者を「逆打ち」と言います。四国霊場の場合、「順打ち」は「阿波→土佐→伊豫→讃岐」という時計回りになります。「逆打ち」は時計と反対方向に回ることになります。
また、「通し打ち」と「区切り打ち」という言葉もあります。「通し打ち」は全区間(八十八ヵ所)を一気に回ること、「区切り打ち」は区間を区切って何回かに分けて回ることを指します。本場四国では「通し打ち」をできるお遍路さんは少なく、主流は「区切り打ち」のようです。
さて、覚王山・八十八ヵ所霊場の場合はどうでしょうか。まず、札所の順番はバラバラです。どうしてそうなったのかは分かりません。ただ、もともとは札番順に並んでいたものが、日泰寺本堂、霊堂、納骨堂の建設、姫池通の拡幅工事などによって移設されたためという話も聞きました。各札所が今の場所に落ち着いたのは、昭和の終わり頃だそうです。
したがって、覚王山・八十八ヵ所霊場では「順打ち」も「逆打ち」もなかなか大変そうですが、その一方で、何しろ半径1キロメートル以内に全札所が集まる「日本最小の・八十八ヵ所霊場」です。全国の霊場で最も「通し打ち」に適した巡礼地と言えます。有り難いことですね。

「お接待さん」の後継者問題

札所番号碑の石柱の裏に○○商店と書いてあるものもありました。「お接待さん」に伺ってみると、○○商店の従業員の皆さんが代々札所のお世話をしているそうです。若い人たちがなかなか後を継いでくれないようで、中小企業や商店と同様に、ここにも後継者問題があるようです。無縁札所になってしまわないように、ひとりで複数の札所を守っている方もいるようです。
さて、先月号でもお伝えしましたが、今日は弘法大師の命日で「御祥当」と言われます。「お接待さん」の皆さん、御苦労様でございます。これからもよろしくお願い致します。合掌。


第7話(2003年1月)

皆さん、明けましておめでとうございます。弘法さんかわら版も創刊2年目に入りました。今年もご愛読頂ければ幸いです。どうぞよろしくお願い致します。
さて、昨年は日泰寺誕生のいきさつなどをご紹介しました。今年は、日泰寺の誇る日本最小の八十八ヶ所霊場について勉強していきたいと思います。
皆さんご存知のように、四国八十八ヶ所霊場は弘法大師(空海)の修行場となったお寺のことです。その寺々(霊場)を巡礼することをお遍路と言います。

巡礼・遍路は、古くから信心深い庶民にとって憧れの旅でした。実は、四国以外にも巡礼地は全国各地に存在しています。津軽、越後、出雲など三十三ヶ所霊場のほか、十三、十七、十八、十九、二十、二十四、二十五、二十七、三十二、三十四、三十六、四十九など、巡礼地の「数」もけっこうバラエティに富んでいますが、もっとも多いのが三十三ヶ所霊場と八十八ヶ所霊場です。なぜこのふたつの「数」が多いのかはよく分かりません(ご存知の方がいらっしゃいましたら、ご教示ください)。
そうした中で、四国と並んで八十八ヶ所霊場を擁しているのは、九州(九州全県)、篠栗(福岡県)、小豆島(香川県)、知多(愛知県)等のほか、ご当地、覚王山日泰寺です。八十八ヶ所もの巡礼となれば、四国全土など相当広域に霊場が散在しているのが一般的ですが、日泰寺の霊場は何と半径数百メートルの範囲に収まっています。一日で回りきれる八十八ヶ所巡礼は、ここ日泰寺だけです。
各地の巡礼地はさまざまな由来で誕生しました。日泰寺の場合、弘法さん(縁日)に合わせて霊場が設置されたのか、あるいは霊場が先で、それに因んで弘法さんという縁日が開始されたのか、定かではありません。日泰寺誕生が明治三十七年であるのに対し、霊場設置と縁日開始は明治42年のようです。地元の方にお借りした「東山名勝」という大正時代の文献の中に、「四国八十八ヶ所は當山境内に於ける呼物とも謂うべきである」との記述があることを勘案すると、どうやら観光名物として意識的に設置されたもののようです(今風に言うと、イベントでしょうか)。
霊場の名前が四国とまったく同じであることも、観光名物として計画的に設置された証左と言えます。一番札所の霊山寺から、八十八番札所の大窪寺まで、四国霊場と日泰寺霊場は完全に一致しています。因みに、知多八十八ヶ所霊場の場合、一番札所は曹源寺、八十八番札所は円通寺と言います。知多の霊場は、既存のお寺を活用して設置されたようです。
ところで、日泰寺の霊場は周辺七ヶ所の場所に分散しています。これらの場所を整理した「覚王山日泰寺の八十八ヶ所霊場と碑塔」という資料があります。それによれば、霊場はもともと札所の番号順に並んでいたそうですが、日泰寺の本堂、霊堂、納骨堂などの新改築、周辺道路の拡幅工事等のために、全体の四割程度が当初の場所から移転したようです。その結果、現在の場所に落ち着いたのは昭和の終り(1980年代)頃ということです。
なお、その資料は、地元の吉野忠夫さんと片岡正明さん(フルーツの弘法屋さんのご主人)が制作された貴重な資料です。編集部(大塚耕平事務所)に余部がありますので、ご興味がある方に差し上げます。お気軽においでください。
平成15年の弘法さんかわら版は、日泰寺八十八ヶ所霊場を中心に、巡礼・遍路に関する情報を皆さんにお届けします。どうぞご期待ください! 
それではまた来月、お会いしましょう!


第6話(2002年12月)

皆さん、こんにちは。今年もあとわずかになりました。弘法さんかわら版を毎月ご愛読頂きまして、本当にありがとうございます。
さて、先月、かわら版といっしょにチラシをお配りした「四国霊場八十八ヶ所・空海と遍路文化展」―弘法さま・名古屋にござる―(名古屋市博物館)をもうご覧になりましたでしょうか?開催は今月23日(月・祝)までです。ご興味のある方は、お急ぎ下さい。四国霊場千三百年の歴史と文化の分かり易い解説、ならびに数々の国宝と重要文化財が展示してあります。この機会にお見逃しなく!!

ところで、今月号では覚王山界隈の地名の由来を勉強してみました。
覚王山・・・「覚王」はお釈迦さまを表します。日泰寺の「山号」です。
覚王山通・・・1904年(明治34年)覚王山日暹寺(にっせんじ)が建てられた時にできた地名です。当初は、中央線千種駅付近から一丁目が始まり、覚王山バス停付近の九丁目までありました。現在は池下交差点の七丁目から九丁目までしか残っていません。参道西側の九丁目には、覚王山名物の「氷屋の丸筆さん」「フルーツの弘法屋さん」「江戸寿司さん」など、有名な老舗がいっぱいです。ちなみに、先日オープンした参道入口東側の「スターバックスさん」は、意外にも末盛通一丁目でした。
山門町・・・日泰寺の山門から覚王山通までの参道の両側にこの名が付けられました。
末盛(末森)・・・日泰寺を東に下った森に囲まれた集落では、かつて陶器作りが盛んだったそうです。陶器のことをむかしは「スエ」といい、陶物(スエモノ)が「スエモリ」となったのではないかと言われています。昭和二十年の区画整理の際に、「末代まで盛える街に」という願いを込めて、末盛となったという話も聞きました。
月見坂・・・江戸時代、瓶杁山(かめいりやま、東山公園の東側)の徳川家別荘と名古屋城をつなぐ道の途中にこの坂がありました。坂道から眺める月が美しかったことから、いつの頃からか自然に「月見坂」と呼ばれるようになったそうです。現在の月見坂町は「はちや整形外科病院さん」の北側になりますが、もともとの月見坂は、末盛通に面した「床屋のコワフール・スズキさん」や「鬼まんじゅうの梅花堂さん」の辺りから田代小学校北の観月町の坂辺りにあったと言います。なお、観月町も月が美しく見えることに由来して付いた地名です。
丸山・・・日泰寺南側の丘陵地一帯を指します。丸山神社の棟木札(今から七百七十年前のもの)に「上野の庄丸山」と書かれていることから、その当時、既に丸山という村があったようです。由来はハッキリしませんが、本当に丸い丘なので、きっと「丸山」になったのだと勝手に想像しています!?
法王町・・・「法王」とは宗教の宗主(=教皇)のことを指します。日泰寺が十九宗派の共同寺院であったことに関連してつけられた地名のようです。
大島町・・・郷土芸能として有名な「棒の手」の名手、大島三右衛門さんの屋敷があったことに由来して付いた地名だそうです。
参考資料:田代小学校創立百周年記念誌など

覚王山の大晦日

大晦日の日泰寺参道では、毎年夜11時頃から「とん汁」のふるまいがあります。場所は「覚王山情報館」(「お好み焼きのおよしさん」と「理容菊水さん」の間)の前です。とん汁でからだを暖めながら、集まった皆さんで「カウントダウン!」(6・5・4・3・2・1・0!オメデトー!)が行われます。日泰寺では「除夜の鐘」を打つことができます(今年は事前申込者のみ)。覚王山商店街の年越し深夜営業のお店については、商店街発行の「覚王山新聞」を参考にして下さい。

それでは皆さん、来年もよろしくお願い申し上げます。よいお年を!!


第5話(2002年11月)


七月から「弘法さんの日」に配布させて頂いています「弘法さんかわら版」も第5号をお届けできるようになりました。たくさんの方が笑顔で受け取ってくださいますので、編集部も毎月21日が楽しみです。今後とも、ご愛読をよろしくお願い致します。「かわら版」のバックナンバー(過去の分)がご入用の方は、遠慮なく編集部(大塚耕平事務所・052-757-1955)までご連絡下さい。

さて、先月号までは、お釈迦様の骨(仏舎利)が名古屋の地にたどり着くまでの、先人たちの努力と、数々の苦難をお伝えしました。では、名古屋の中でも、どうして覚王山(当時の愛知郡東山村大字田代)が塔廟(仏舎利を正式に納める所)の候補地として適していたのでしょうか?
これまでの調査で分かった理由は二つあります。一つは、当時の東山村が、仏教と縁が深い地域だったからです。覚王山に代々住んでみえる方からお借りした「東山名勝」(大正十年発行)という資料によれば、当時の東山村は、東西を結ぶ法六字街道(鍋屋上野火葬場道)、南北に走る四観音道という2つの参拝道の交差点だったようです。
とくに四観音道は、「尾張四観音」と関係する重要な参拝道でした。「尾張四観音」とは、笠寺観音(南区)、荒子観音(中川区)、竜泉寺観音(守山区)、甚目寺観音(海部郡)の四観音を指します。徳川家康が名古屋城築城の際、城下町の鬼門の方角に位置した四観音を「名古屋城鎮護」と定め、結界を張って名古屋城を護ろうとしたことが「尾張四観音」の始まりです。
東山村を通っていた四観音道は、このうち笠寺と竜泉寺を結ぶ道です。現在の覚王山西交差点から北東に入る細い道(トリイ自転車さん裏)から松楓閣、日泰寺西、東山給水塔横を通り、現在の天満緑道につながる道だったそうです。今でも道の名前が地名に残っています。「かわら版・第2号」でお伝えした鉈薬師の前が「四観音道西」、日泰寺北の東山給水塔辺りを「四観音道東」と言います。今まで深く考えたことのなかった地名にも、「なるほどなぁ」とうなずかされます。また、「覚王山郵便局」から「丸山神社」へぬける道がその延長になります。
もう一つは、当時の東山村・加藤慶二村長の尽力によるものです。加藤村長は自らの私財を投じて誘致活動に奔走し、有志の協力も得て十数万坪以上の土地の寄進を実現しました。広大な寄進地を用意できたことが、誘致成功の鍵だったのではないでしょうか。加藤翁は村長を四期務め、地域の発展に献身的に尽くされ、日暹寺(にっせんじ=日泰寺)と東山(覚王山)興隆の多大な功労者だったそうです。古来から、寺院の誘致によって縁日を開き、参拝客に散財して頂くのは、地域経済にとって重要な景気対策だったそうです。加藤村長はそういうこともお考えだったのかもしれません。加藤村長、ありがとうございました!
その後の覚王山の賑わいは、今では想像できないほどだったと言います。日泰寺周辺の半径数百メートル以内に収まっているお手軽な「八十八ヶ所霊場巡り」が大人気で、その人気に目をつけた「弘法さん」の縁日との相乗効果(今風に言うとシナジー効果)も働いて、覚王山までの路面電車は大混雑、臨時電車を出してもさばき切れないほどだったそうです。
覚王山商店街の皆さん!覚王山に再び以前の賑わいがよみがえるよう、一緒に頑張りましょう!
次号は、覚王山界隈の地名の由来を探ります。おたのしみに。

参考資料:「東山名勝」「えーなも探偵団」「田代」他


第4話(2002年10月)

候補地選びの大バトル!

皆さん、こんにちは。10月も後半になりました。早いもので、あと2ヶ月で年末ですね。今年はどんな年の瀬になるでしょうか。
さて、前号では、覚王殿建設地がなかなか決まらず、シャム国王やシャム駐在の外山公使から帝国仏教会がお叱りを受けたというところまでお話ししました。
慌てた帝国仏教会は、覚王殿を京都に建設することを「仮決議」しました。しかし、「是非、私たちの地元に!」という宗派がたくさんありましたので、各宗派は「仮決議」に納得せず、「仮決議」は事実上反故(ホゴ=白紙)にされました。何だか、公共工事や空港の誘致合戦みたいですね。
さて、こうした混乱の中で、有力候補地として頭角を表したのが名古屋市です。会員50余万人を擁する名古屋市の「御遺形奉安地選定期成同盟」が、熱心かつ強力な誘致運動を展開しました。多額の寄付金、建設用地、有志数百名の連署で帝国仏教会に請願書を提出したほか、愛知県知事、名古屋市長も帝国仏教会に書簡を送りました。シャム駐在の日本の公使や領事にも陳情を行い、外務省からも後押しされるようになりました。

決戦、建仁寺!!

明治35年12月(1902)、シャム国皇太子が日本を訪問することになり、帝国仏教会は、何とか皇太子訪日までに覚王殿建設地を決めることを迫られました。同年7月28日、急遽、京都で各宗派管長会が開かれ、大激論の末、建設候補地は名古屋と京都に絞り込まれました。各宗派は名古屋派、京都派に二分され、候補地は一本化できず、結局、11月12日に最終決定会議が開かれることとなりました。場所は京都市東山の建仁寺(京都最初の禅寺、臨済宗)、いよいよ「天下分け目の関ヶ原」という感じだったようです。
当時の記録によれば、建仁寺周辺は朝早くから殺気立ち(仏教の話にふさわしくないですね、この表現。でも、そんな感じだったようです)、今にも両派の大衝突が起きそうな様相を呈しました。午前中の会議では名古屋派が優勢であったため、午後の会議では京都派が採決方法に異議を申し立てましたが受け入れられず、会議をボイコットする事態になりました。そこで、残った委員で強行採決を行い(国会みたいですね)、37対1で、ついに覚王殿建設地は名古屋市に決定しました。
11月15日、仏舎利はただちに名古屋市に奉遷することになり、仮奉安所は門前町(大須)の万松寺になりました。当日の名古屋市内は、家々が仏旗(ぶっき)と軒燈を掲げ、万松寺までの奉迎行列は数10キロの長さに渡ったそうです。記録によれば、行列の荘厳さは筆舌に尽くし難く、まるで皇太子様のご成婚記念行列に匹敵するものであったと言います。ところで皆さん、仏旗をご覧になったことありますか(下図参照)。合計五色で彩られた美しい旗です。
翌明治36年(1903年)10月、名古屋市東区(現在の千種区)田代町で覚王殿造営が始まりました。翌年11月に仮本旗仏堂、玄関書院が落成しました。覚王山日泰寺はどの宗派にも属さない単立寺院で、今も創建当時の19宗派で共同運営されています。

でも、どうして覚王山?

次号では、名古屋市内の中でも、どうして現在の覚王山が選ばれたのかを調べてみたいと思います。
・参考資料 「菩提樹仏教夜話」(京都紫雲寺)

「覚王山秋祭」10月26日(土)27(日)開催!

日泰寺参道が「覚王山秋祭」会場に変身!今年はいろんなパフォーマー達が参道をねり歩き、来場者の皆さんや出店者の方を巻き込んで盛り上がります。開催時間10時~17時


第3話(2002年9月)

日泰寺はもともと日暹寺(にっせんじ) 

皆さん、こんにちは。暑い暑~い夏も過ぎ、九月の中旬になりましたが、いかがお過ごしですか。さて、日泰寺にお釈迦さまの骨(仏舎利=ぶっしゃり)が納められていること、その仏舎利は1898年(明治31年)にインドのピプラーワーというところで発見されたものであること、タイ王室がその仏舎利を日本に寄贈してくださったこと、仏舎利を祀るお寺をここ名古屋市に建設することが仏教界の相談で決まったことなどを、かわら版創刊号でお伝えしました。
ちなみに、日本への寄贈が決まった頃のタイは「シャム」と呼ばれていたことから、当時は覚王山日暹寺(かくのうざん・にっせんじ)と言ったそうです。
(「せん」という字は、「シャム」国の漢字表記です)。1932年(昭和7年)、「シャム」の国名がタイに変更されたことから、1941年(昭和16年)3月31日から覚王山日泰寺(かくおうざん・にったいじ)と改称されて、現在に至っています。

どうして名古屋市に?

でも、どうしてここ名古屋市がお寺の候補地となったのでしょうか。ちょっと調べてみました。1900年(明治33年)6月15日、タイのワットポー大寺院で仏舎利分与の式典が催され、日本から真宗大谷派の光演師(句仏上人)ほか四名が奉迎正使として出席しました。その後、正使一行は仏舎利とともに6月19日に帰国の途につき、7月11日に長崎に到着しました。同19日には仮奉安所に決められていた東山妙法院に納められました。さて、ここからが大変だったようです。
その時点では仏舎利を正式に納める塔廟(「覚王殿」=「覚王」はお釈迦さまの山号)の建設地は決まっていませんでした。候補地として話題になったのは、主に東京、京都、遠州三方ケ原などですが、各地で寄進を申し出る方々が続出し、ほかにも候補地はあったようです。
名古屋市が候補地になった経緯は正確には確認できていませんが、覚王殿の設計図製作を請け負ったのが名古屋市の伊藤満作氏であったことと関係があるようです。帝国仏教会は、正使一行がタイに渡っている間に伊藤氏に設計図製作を依頼し、仏舎利が長崎に到着した翌日、7月12日には縮尺1500分の1の設計図(第一稿)が完成していたといいます。
仏舎利到着後、1年以上経っても覚王殿建設地は確定せず、日本のタイ公使館の外山義文領事がそのことをタイ国王に報告したところ、国王は「まだ地所も決まっておりませんのか、早く建設資財を寄贈したいと思っておりますのに・・・」と大変ご機嫌が悪かったとのことです。

つづきは次号のお楽しみ!!

困った外山公使は、1901年(明治34年)11月26日、帝国仏教会の村田寂順師(会長)と前田誠節師(副会長)に、「一個人の約束と一国の国王との約束とでは重さが異なることをよくよく考慮し、日本仏教徒の恥辱にならぬよう、早急に対処されたい」という厳しい書簡を送りました。
さて、このつづきは次号のお楽しみです。ご期待ください。
・参考資料 「菩提樹仏教夜話」(京都紫雲寺)

★ 覚王山秋祭 10月26日(土)・27日(日)開催決定!

真夏の夏祭に続き、覚王山に「秋祭」がやって来ます。芸術の秋、食欲の秋を日泰寺参道で満喫してください。


第2話(2002年8月)

「覚王山祭」ってご存知ですか?

皆さん、こんにちは。今月も「弘法さん」の日がやってきました。先月の「弘法さん」と今月の「弘法さん」の合間に、ここ日泰寺の参道では「覚王山・夏祭」が開かれました(7月27日、28日)。「覚王山祭」は1998年から始まり、今年で5年目です。春、夏、秋と3回開かれます。「弘法さん」の日は昔ながらの風情のある出店が皆さんをお迎えしていますが、「覚王山祭」の日はエスニック風、レトロ風のお店が並びます。「へ~、知らなかった・・」という皆さん、「弘法さん」だけでなく、「覚王山祭」にも是非お出かけください。覚王山をますます気に入って頂けることと思います。秋には「覚王山・秋祭」を予定してます。ぜひ、お越しください。

「弘法さん」のついでに、ちょっと足を延ばしてみませんか!

さて、今回の「弘法さんかわら版」は、皆さんに鉈薬師(なたやくし)をご紹介します。鉈薬師は、日泰寺の北西側にあります。堂内には、あの有名な仏師(仏像の彫刻師)、円空の作った仏像が並んでおり、しかも、「弘法さん」の開かれる毎月21日のみ、公開(開扉)されます。そう、今日です!
鉈薬師の名前の由来は、円空が名古屋城築城の余材を利用して、鉈一本で仏像を彫り上げたことによるものです。そのため、「円空の一刀彫り」とも呼ばれています。ご本尊・薬師仏を囲んで、十二神将と日光菩薩、月光菩薩の二体の脇侍(わきじ)が安置されています。

尾張藩のお医者さん、帳振甫(ちょうしんぽ)

鉈薬師は、寛文九年(1669年)、尾張藩の藩祖・徳川義直公の御用医師・帳振甫によって建てられました。帳振甫は明国からの渡来人(帰化人)です。お医者さんが建立したお寺であることから、別名「医王堂」とも言われています。近くには、振甫プールがありますが、「振甫」の名前の由来は「帳振甫」からきているのかもしれませんね。

仏師・円空、三十八歳の時の力作

ところで、円空は寛永九年(1632年)、美濃国(現在の岐阜県郡上郡美並村)に生まれました。鉈薬師の仏像を彫ったのは38歳の時です。当時の仏師は、今で言えば、アーティスト、芸術家のようなイメージがあったようです。新進気鋭のアーティストとして、帳振甫が円空に仏像作成を依頼しました。鉈薬師の仏像は独特の作風であり、大陸(当時の唐)の仏像に似ているそうです。明国から渡来した帳振甫が故郷を思い、円空にお願いしたのかもしれませんね。
帳振甫と円空の出会い、依頼の経緯などを調べてみましたが、残念ながらよく分かりませんでした。郷土史に詳しい方がいらっしゃいましたら、是非、教えてください。
円空は生涯で12万体の仏像を彫りあげました。現存する仏像は約3000体、北海道から四国まで日本中に散在していますが、やはり出身地の東海地方にたくさん残っています。元禄八年(1695年)7月15日、岐阜県関市の弥勒寺において、64四歳でにご入定(ご他界)されました。合掌。


第1話(2002年7月)

「弘法さん」の縁日って、いつから始まったのかな?

弘法さんにようこそ!でも、皆さん、どうして弘法さんって言うかご存知ですか?「そりゃあ、あんた、弘法さんがおるんでしょ、日泰寺の中に」と思われると思いますが、おばあちゃん、それは違うんですよ。弘法さんの像は日泰寺参道の周辺にたくさん祀(まつ)られていますが、日泰寺の中に祀られているのはお釈迦さまです。
1898年(明治31年)、インドのピプラーワーというところで発見されたお釈迦さまの骨(仏舎利=ぶっしゃり)を、タイ王室が仏教国である日本に分けてくれることになりました。そこで、日本の仏教各宗派が相談をして、お釈迦さまの骨を祀るお寺を新しく建てることとなり、選ばれた場所がここ旧田代町です。お釈迦さまを表す「覚王」という名前を山号としました。そして、日本とタイ(泰)の友好の証(あかし)として寺院の名前を日泰寺としました。覚王山日泰寺の誕生です。1904年、明治37年のことでした。
さて、ではなぜ弘法さんが祀られるようになったのでしょうか。毎月21日に縁日が開かれるようになったのでしょうか。実はよく分からないんです。一説によると、明治時代の終わりごろ、日本全国で弘法さんブームが起きていたため、参道の賑(にぎ)わいのために弘法さんの命日に縁日が開かれるようになったとも言います。弘法さんが開かれるようになった理由、ご存知の方がいたら教えてください。
ところで、弘法さんと言えば、四国巡礼、八十八寺院のお遍路さんが有名です。1909年、明治42年には、数人の発起人の努力で、日泰寺参道周辺には弘法さんが八十八ヶ所に祀られるようになりました。覚王山日泰寺の八十八ヶ所霊場の誕生です。

「歳弘法(としこうぼう)」の「おもかるさん」

参道のまん中あたりの東側に、「歳弘法」という弘法さんが祀られているお堂があります。弘法さん(弘法大師空海)の1歳から高野山に御入場された(=お亡くなりになった)62歳までの像が祀られています。自分の歳、あるいはお願いをしたい人の歳の弘法さんの像にお参りをすると、御利益(ごりやく)があるそうです。
その入口の小さなお堂には、「おもかるさん(重軽さん)」という「弥勒(みろく)石」が置いてあります。お参りする前と後に石を持ち上げてみて、お参り後に持った時の方が軽く感じられるようなら、願いごとがかなうそうです。試してみませんか?

「弘法さん:かわら版」、(時間つぶしの・・)お役に立てば幸いです!!

さて、「弘法さん:かわら版」は今回が創刊号です。毎月21日の弘法さんの縁日の日に、弘法さん八十八ヶ所霊場や日泰寺にまつわる話、覚王山周辺の話題を皆さんにお伝えしたいと思います。不思議な話、しらない話がいっぱいありそうです。「あんたぁ、こんな話しっとる?」「おみゃあ、こないだ書いてあった話、ちがうがや」などなど、ドシドシと編集部にご連絡ください。お待ちしております。
編集部の場所は、参道出口の正面、広小路通り沿いの覚王山プラザ2Fの参議院議員・大塚耕平事務所内です。では、また来月、お会いしましょう!


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大塚耕平

  • 2002年から「弘法さんかわら版」を書き続けています。仏教に親しみ、仏教から学び、仏教を探訪しています。より良い社会を目指すうえで仏教の教えは大切です。「弘法さんかわら版」は覚王山日泰寺(名古屋市千種区)と弘法山遍照院(知立市)の弘法さんの縁日にお配りしています。縁日はお大師様の月命日に立ちます。覚王山は新暦の21日、知立は旧暦の21日です。
  • 著書に「お大師様の生涯と覚王山」(大法輪閣)、「仏教通史」(大法輪閣)など。全国先達会、東日本先達会、愛知県先達会、四国八十八ヶ所霊場開創1200年記念イベント(室戸市)、中日文化センターなどで講演をさせていただいています。毎年12月23日には覚王山で「弘法さんを語る会」を開催。ご要望があれば、全国どこでも喜んでお伺いします。
  • 1959年愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒、同大学院博士課程修了(学術博士、専門はマクロ経済学)。日本銀行を経て、2001年から参議院議員。元内閣府副大臣、元厚生労働副大臣。現在、早稲田大学総合研究機構客員教授(2006年~)、藤田医科大学医学部客員教授(2016年~)を兼務しています。元中央大学大学院公共政策研究科客員教授(2005年~17年)。