弘法さんブログ

第213話 三河新四国 (零〜三番)

皆さん、こんにちは。いよいよ春本番。とはいえ、朝晩は冷え込みます。くれぐれもご自愛ください。今年のかわら版は三河新四国八十八ヶ所霊場についてお伝えしています。さて、今月から紙上遍路に出発。まずは開創霊場をお訪ねし、三河三弘法からスタートです。

★見返弘法大師の遍照院

知立駅あるいは三河知立駅から徒歩十五分、弘法通りを進むと左側に弘法山遍照院の山門があります。

お寺には山号・院号・寺号がありますが、ここ遍照院は院号で親しまれ、三河新四国の開創霊場として知られています。真言宗豊山派のお寺です。

八二二年(弘仁十三年)、お大師様が関東方面に巡錫する途中、当地に約一ヶ月逗留。

修行場として当寺を開創し、旅立ちの際に庭の赤目樫の木でご自身の坐像を三体刻まれました。

三体のうち、最も根本に近いところの木で刻まれた坐像が当寺のご本尊。

別れを惜しんでやや右を向いて振り返っているお姿から、見返弘法大師と呼ばれています。

残りの二体は、二番札所(西福寺)と三番札所(密蔵院)に祀られています。

お大師様自ら建立した名刹として千二百年の法燈を継承。旧暦二十一日の月命日には「弘法さん」の縁日が立ちます。

ご本尊 見返弘法大師
ご詠歌 さらぬだに 竜華の春の 遠ければ 見返り給ふ 慈悲ぞ 深けれ

★流汗不動明王の総持寺

遍照院から北上し、名鉄線を越えて約三キロメートル。一番札所は神路山総持寺、天台寺門宗のお寺です。

先月号で一寺院二札所が三河新四国の特徴とお伝えしましたが、一番札所から四番札所までは一寺院一札所です。

八五〇年(嘉祥三年)、慈覚大師が開山。ご本尊の流汗不動明王は、お大師様が当地ご逗留の際に刻まれました。

衆生(人々)の願いを叶えるべく、汗を流して霊験に努め、いつしか流汗不動明王と呼ばれるようになったご本尊。お顔は黒光りし、お腹には三筋の流れる汗が見えるそうです。

唐風とも思える山門前を通るのは旧東海道。かつては知立神社の別当寺でした。

ご本尊 流汗不動明王
ご詠歌 総て持て 仏の慈悲の深ければ 此の世 後の世 願う心を

★見送弘法大師の西福寺

一番札所から西へ約一・五キロメートル、二番札所は大仙山西福寺。曹洞宗のお寺です。この辺りは知立市と刈谷市が入り組んでおり、西福寺は刈谷市です。

元々は大仙山雲涼院と瑞雲山西福寺というふたつのお寺。約四百年前の戦火で焼失。両寺を引き継いで再建されました。

当山に安置されている見送弘法大師は、お大師様当地ご逗留の際に刻んだ三像のひとつ。したがって、当寺は三河三弘法の二番札所です。

境内から約百メートル離れた奥の院には大師井があります。干ばつに苦しむ当地を救うために、お大師様が錫杖で掘り当てた清水と伝わります。

ご本尊 阿弥陀如来
ご詠歌 わけ登る 花の嵐の 梢より 一ツ木山に 月ぞかがやく

★流涕弘法大師の密蔵院

二番札所から北東に約一キロメートル、三番札所は天日山密蔵院。臨済宗のお寺です。密蔵院も刈谷市です。

創建は八二二年(弘仁十三年)、開創霊場遍照院と同じです。

ご本尊の流涕(りゅうてい)弘法大師はお大師様が彫った三像のひとつ。当寺は三河三弘法の三番札所です。

二番札所と同様に、水不足で苦しむ衆生(人々)を救うためにお大師様がお加持を行い、冷水を湧き出させたと言い伝えられます。

人々が感謝して感涙したという意味でしょうか。流涕弘法大師の「涕」は「なみだ」や「水」を表す漢字のようです。

一七一四年(正徳四年)、木瞼禅師によって改宗、中興されて今日に至っているそうです。

ご本尊 流涕弘法大師
ご詠歌 あいきやうの 誓いを頼む いちりやま かみのかげある 寺に詣りて

★日本三庚申

さて、来月は知立に戻って四番札所の無量壽寺を巡拝した後、北上して豊田市の霊場を巡ります。日本三庚申のひとつを祀る三光寺(七番札所)も参拝します。乞ご期待。

(2020年3月)


第212話 三河新四国 (無量寺松山住職)

皆さん、こんにちは。節分も過ぎ、春が待ち遠しい季節になりましたが、まだまだ寒い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。

今年のかわら版は三河新四国八十八ヶ所霊場についてお伝えしています。今月は、現在の霊場を復活させた無量寺松山孝昌ご住職ほか、関係者のご尽力についてお伝えします。

★昭和二年復興の旧三河新四国

一六二六年(寛永二年)、浦野上人によって開創された元祖三河新四国霊場。

明治時代以降、廃仏毀釈等の影響で廃れかけていましたが、一九二六年(昭和二年)、本四国霊場会会長であり、お大師様の生誕地、七十五番札所善通寺誕生院貫主、佐伯宥粲猊下から弘法大師像と直伝証が三河新四国霊場に授けられました。復活した霊場のことを旧三河新四国と呼んでおきます。

仏教界も廃仏毀釈後の仏教復興に努めていた時期に当たり、本四国としても全国に「写し」霊場が広がることを期待していたのでしょう。

しかし、一九三一年(昭和五年)以降、満州事変、日中戦争、太平洋戦争と十五年も続く戦争の中で、この地域も戦災に遭い、東南海地震(一九四四年)、三河地震(一九四五年)にも見舞われ、お遍路をする余裕も失われ、旧三河新四国は再び賑わいが失われていったそうです。

そして終戦。知多四国八十八ヶ所霊場が賑わいを取り戻す一方、旧三河新四国の巡拝客は絶えがちであったそうです。

★昭和四十年復興の現在の三河新四国

一九六〇年(昭和三十五年)、無量寺の松山孝昌住職の夢にお大師様が現れ、寺に三河新四国の納経帳があり、それを基に三河新四国を復活させるように告げられたそうです。

驚いた松山住職が寺の経蔵を探したところ、夢告どおりに三河新四国の納経帳を発見。さっそく松山住職は復興に向けて活動を開始。

その際、松山住職と一緒になって中心的に活動したのが持法院(岡崎市)の山川快憲住職、薬證寺(蒲郡市)の松山祥憲住職。さらには、よく相談に出向いたのが三河の要のお寺であった遍照院(知立市)の横井早?住職だったそうです。

松山(孝)住職、山川住職、松山(祥)住職の三人は、宗派の異なるお寺に三河新四国復興に協力を呼びかけたそうです。

とは言え、かつての霊場の中には廃寺になった先もあったほか、三河一円の環境も大きく変化していました。

また、昭和二年に復活した戦前の旧三河新四国霊場は大半が三河鉄道沿線のお寺。つまり、三河鉄道の沿線振興策とも関係していたようです。

ところが、その三河鉄道も昭和十六年に名古屋鉄道に吸収され、名古屋鉄道が三河一円に延伸していました。

そんな環境変化も踏まえ、かつての三河鉄道沿線中心であったお寺以外にも協力を呼びかけ、まさしく三河一円のお寺を説得。五年がかりでようやく各寺の足並みが揃ったそうです。

そして、ついに一九六五年(昭和四十年)、八宗派のお寺による現在の三河新四国霊場会が発足し、晴れて再興の運びとなりました。

★二札所と七地域

一六二六年(寛永二年)、一九二六年(昭和二年)に続いて一九六五年(昭和四十年)、三度目の復活を遂げた三河新四国。ふたつの特徴があります。

第一に、ひとつのお寺にふたつの札所が設けられていることです。つまり、一寺院二札所。

お遍路さんの負担を考えてのことだったのかもしれませんが、四十九ヶ寺を巡拝すると八十八ヶ所をお遍路できるようになっています。

第二に、地域ごとに札所がまとまっており、大きくは七地域です。

三河三弘法で知られる知立・刈谷から始まり、豊田、岡崎、豊川と東に進み、そこから西に向かって蒲郡、西尾、そして最後は碧南と巡ります。市町村合併で地名が変わっていますので、旧猿投町や旧幡豆町も含まれていますが、現在の市名で言うと、この七地域です。

★再興五十五周年

再興後は、折々に出開帳等の周年行事が行われたり、高野山管長や本四国霊場会会長がご出仕されることもあったそうです。

一昨年(平成三十年)から昨年(平成三十一年、令和元年)にかけては、「札所再興五十五周年記念宝印授与三河新四国総開帳」が行われ、通常のご朱印のほかに、記念の宝印が頂戴できたそうです。

知多四国霊場と比べると、三河新四国霊場の地域は、お城等の寺以外の史跡も多く、自然も変化に富んでいます。

海を眺めながらの知多四国、丘陵地を巡り史跡を訪ねながらの三河新四国。それぞれに味がありますので、どうぞご堪能ください。

★三河三弘法

さて、来月からいよいよ三河新四国の紙上遍路のスタートです。まずは開創霊場であり三河三弘法の一番札所でもある知立の遍照院からです。乞ご期待。

(2020年2月)


第211話 三河新四国 (浦野上人)

皆さん、明けましておめでとうございます。令和二年、「庚子(かのえね)」の年が始まりました。

かわら版では、これまでに本四国(四国八十八ヶ所霊場)と知多四国八十八ヶ所霊場はご紹介しました。今年のかわら版は、知多と並んで全国のお遍路ファンに知られる三河新四国八十八ヶ所霊場についてお伝えします。

引き続きご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。

★霊場の宝庫

四十七都道府県の中で、お寺の数が最も多いのは愛知県。多くの人が京都府をイメージしますが、実は愛知県が一番です。

最新(二○一六年)統計によれば、愛知県の寺院数は四千五百八十九。二位の大阪府よりも千以上多い断トツトップです。

そのため、霊場もたくさんあります。確認できるだけでも、弘法大師霊場が十三、観音霊場は十一、そのほかにも法然上人霊場や七福音霊場が複数あり、総数は三十超。愛知県は霊場の宝庫です。

その中でも、全国的に知られているのが知多四国八十八ヶ所霊場と三河新四国八十八ヶ所霊場。

知多四国の開創は一八二四年(文政七年)、亮山阿闍梨によるものです。さて、三河新四国はどのような縁起で誕生したのでしょうか。

★浦野上人

江戸時代のはじめ頃、西加茂郷に浦野上人という修行僧がいたそうです。浦野上人は何度も本四国霊場を巡拝し、札所のお砂を持ち帰りました。

浦野上人はそのお砂も活かし、三河一円に本四国霊場の写しを開創することを発心。各地のお寺を十年がかりで説得したそうです。宗派の違うお寺にお大師様の霊場をお願いするのは難儀なことだったと思います。

一六二六年(寛永二年)、浦野上人の努力が実り、三河新四国霊場が誕生。知多四国霊場よりも約二百年古い時代に開創されました。

この浦野上人の縁起は三河新四国八十八ヶ所霊場に言い伝わる伝承。開創時の霊場の全貌等がわかる資料は確認できませんが、該当するお寺の縁起には何某か記録が残っていることと思います。

★直伝開創

江戸時代には巡礼するお遍路さんも多かったそうですが、明治時代の廃仏毀釈等の影響もあって徐々に衰退。寂れかけていた三河新四国霊場に転機が訪れます。

一九二六年(昭和二年)、本四国霊場会の会長であり、お大師様の生誕地、七十五番札所の善通寺貫主から弘法大師像と直伝証が三河新四国霊場に授与されました。

時を同じくして、明治中頃から大正、昭和にかけ、廃仏毀釈からの仏教復興、地域振興、観光地興業等を企図して各地に本四国霊場の写しを開創する動きが広がりました。 例えば、覚王山八十八ヶ所霊場も開創は一九〇四年(明治四十三年)です。

おそらく、善通寺等の本四国霊場関係者、あるいは高野山関係者も、各地に写しが開創されることを歓迎したのでしょう。

そのひとつの手法として、本四国霊場から直伝証を授与するということが行われたようです。

しかも、三河新四国霊場は江戸時代から始まった歴史もあり、本四国霊場としては直伝証を授与するのに一層相応しい写しでした。

三河新四国霊場が開創される直前の一九二五年(大正十四年)、やはり善通寺からの直伝証を契機にして知多四国直伝弘法霊場が開創されました。これは知多四国八十八ヶ所とは別の知多四国直伝霊場と言われています。

★三河鉄道

さらに、この頃の各地の写し霊場開創の動きは、当時普及・延伸されつつあった鉄道の沿線振興策とも密接に関係していたようです。

三河新四国の場合、一九一四年(大正三年)開業の三河鉄道との関係が深かったようです。

三河鉄道は最終的に蒲郡―足助間まで延伸され、昭和二年開創の三河新四国霊場は全てその沿線のお寺となりました。

因みに、その当時の札所を示した地図が、現在の十九番札所雲龍寺(豊田市)本堂に掲げられています。なお、その時の雲竜寺は七十六番札所でした。

★松本孝昌住職

雲龍寺の札所番号が変わっていることからわかるように、三河新四国霊場にはさらに転機が訪れます。

その転機は、現在の六十一番無量寺の松本孝昌住職ほか、何人かのご住職のご尽力によるものです。

来月はその経緯をご紹介します。乞ご期待。

(2020年1月)


第210話 覚王山日泰寺縁起 (12) 日暹寺・日泰寺

皆さん、今年もあとわずかになりました。年末年始、お風邪など召されぬようにくれぐれもご自愛ください。実録・覚王山日泰寺縁起をお伝えしてきた今年のかわら版。いよいよ総集編です。

★日暹寺から日泰寺へ

年初からお伝えしてきた史実を整理します。

一八九八年(明治三十一年)、ピプラーワーでご真骨発見。

一八九九年(明治三十二年)、ご真骨はタイ国王に贈与。バンコクへ。

一九〇〇年(明治三十三年)、タイ国王から日本に分骨。京都へ。

一九〇二年(明治三十五年)、覚王殿建設地が名古屋に決定。ご真骨は名古屋大須へ。

一九〇四年(明治三十七年)、田代村に日暹寺(にっせんじ)創建。ご真骨は覚王山へ。

一九一八年(大正七年)、ご真骨を祀る高さ十五メートルの奉安塔完成。伊東忠太東大教授の設計でガンダーラ様式の花崗岩の仏塔。二階部分にご真骨が安置されています。

奉安塔前には礼拝殿。その木材はご真骨奉遷の功労者稲垣満次郎をタイ公使に任命した際の外相、大隈重信公が寄進したものです。

一九二〇年(大正九年)、新栄にあった日清戦争記念碑が奉安塔西北に移築。

一九二四年(大正十三年)、重さ七十五トンの大梵鐘完成。しかし、鐘楼に吊るされることはなく、一九四二年(昭和十七年)軍需資材として供出。同年十月二十一日、「撞き初めと聞き納め」が行われました。

一九二七年(昭和二年)、プラチャーティポック国王(ラーマ七世)が新たな金銅仏を下賜。かつてチュラロンコン国王より下賜されたご本尊と同じ結跏趺坐像です。 同年、総桧造りの鳳凰台(大書院)完成。

一九三二年(昭和七年)、シャム(暹羅)の国名がタイに変わり、日本語漢字表記も「暹」から「泰」に変更。日暹寺の「暹」はシャムのことです。

シャムはサンスクリット語の「黄金」に由来し、古い時代のインド人または中国人による呼称でした。

民族主義の台頭に伴い、民族名のタイを採用。タイとは「大いなる国」を意味します。

一九四一年(昭和十六年)、日暹寺も日泰寺に変更されました。

★日タイ友好の証

一九五九年(昭和三十四年)四月五日、釈尊生誕二千五百年大法要が営まれました。

一九八四年(昭和五十九年)、念願の本堂完成。日本初の屋内型墓地の霊堂も完成。四階建て、約四千六百基の墓石を納めています。

一九八五年(昭和六十年)、梵鐘と鐘楼完成。

一九八六年(昭和六十一年)、山門 完成。

一九八七年(昭和六十二年)、日タイ修好百周年記念としてチュラロンコン国王像建立。像の前に、タイ国皇太子がタイの花、海江豆(カイコウズ)をお手植え。毎年五月頃に真紅の花を咲かせます。

一九八九年(平成元年)、山門両脇の二尊像が完成。高さ四・五メートルの楠一木造りです。

いずれもお釈迦さまの十大弟子。最長老でお釈迦さま入滅後の教団を率いた迦葉尊者(頭陀第一)と、お釈迦さまの従兄弟で教えを一番たくさん聞いた阿難尊者(多聞第一)です。

一九九七年(平成九年)、高さ三十メートルの五重塔完成。中にはチュラロンコン国王妃の写経が納められていると聞きます。

一九九八年(平成十年)、香積台完成。

二〇〇四年(平成十六年)、日泰寺創建百周年。奉安塔と鳳凰台が一般公開されました。

本堂須弥壇の両側にはお釈迦さまの大壁画。出家遊行に出る場面の「城を出る」と、前正覚山での修業後に下山した際に村の娘から供養を受けた場面の「乳粥の供養」。高山辰雄画伯の作品です。

日タイ友好の証(あかし)、日泰寺にはタイ王室の方々が度々ご来訪されています。一九三一年にはラーマ七世、一九六三年にはプミポン国王(ラーマ九世)、日タイ修好百周年の一九八七年にはワチラロンコーン皇太子、日泰寺創建百周年の二○○四年にも多くのタイ賓客が来訪されました。

最近ではタイの観光客もバスに乗って大勢参拝に来るようになりました。

名古屋が誇る名刹として、その歴史を語り継いでいくことが大切です。

★三河新四国霊場

一昨年、昨年にお伝えした知多四国八十八ヶ所霊場と並んで、県外の皆さんにもよく知られている三河新四国霊場。来年は三河新四国霊場についてお伝えします。 それでは皆さん、よい年をお迎えください。

(2019年12月)


第209話 覚王山日泰寺縁起 (11) 万松寺

皆さん、こんにちは。晩秋の季節。寒さが増してきました。くれぐれもご自愛ください。実録・覚王山日泰寺縁起をお伝えしている今年のかわら版。ご真骨(世界的に本物と認められた仏舎利)がいよいよ名古屋に奉遷されます。

★名古屋奉遷

一九〇二年(明治三十五年)十月二十二日、会長不在のまま、吉田禄在、小栗富治郎、服部小十郎の副会長三名体制で発足した日本大菩提会愛知協賛会。

ご真骨を名古屋に奉遷する日を十一月十五日、仮奉安所は門前町(大須)の万松寺に決定しました。

万松寺は織田信長が父信秀の葬儀の際、位牌に抹香を投げつけた史実で有名な古刹。徳川家康も人質として三年間を過ごしたそうです。

当日は名古屋から数百名の僧侶が京都に出向き、ご真骨を奉迎。特別列車で京都を出発し、名古屋に午前十一時に到着。

市内の家々が仏旗と大菩提の文字を記した軒燈を掲げ、万松寺までの奉迎行列は長さ数キロ。 その荘厳さは、大阪、京都の奉迎行列の比ではなく、未曾有の大盛況。沿道は数十万人で埋まり、当時の新聞は皇太子のご成婚記念行列に匹敵すると報じました。

多くの宗派の管長や僧侶に加え、タイ国を代表して駐日公使ラーチャー・ヌプラバーンも行列に参加しました。

★覚王山日暹寺(にっせんじ)

ご真骨が万松寺に仮奉安された後、いよいよ覚王殿建設が本格化するはずでした。ところが、関係者の目論見ははずれ、建設資金の寄付がなかなか集まりません。

いとう呉服店(後の松坂屋)伊藤次郎左衛門、味噌・醤油で成功した奥田正香(後の名古屋市長)、材木商で衆議院議員も務めた鈴木?兵衛等の有力者も乗り気ではありません。

寄付が集まらない時には私財を投じると言っていた吉田禄在、服部小十郎、小栗富治郎、野村朗も約束を果たしません。

候補地(田代村、千種村、御器所村、広路村、小幡村、弥富村)同士も対立。おまけに、日露戦争直前の世相は戦時ムード。ご真骨に対する関心も薄れつつありました。

この状況に業を煮やした駐タイ公使稲垣満次郎は帰国して、自ら調整に乗り出しました。

稲垣は、日タイ両国友好のために覚王山日暹寺(にっせんじ)という新しい寺を田代村に創建し、その一角に奉安塔を設置するという現実的な構想を提案。当時のタイの国名はシャム(暹羅)であったため、当初の寺名は日泰寺ではなく日暹寺です。

稲垣に呼応し、日置黙仙が各宗派を説得。一九〇三年(明治三十六年)十月五日、日置の説得に応じた二十三宗派管長が日暹寺創建請願書を内務省に提出しました。

十月十二日、内務省から「無宗派各宗総本山」として「覚王山日暹寺」設立の認可が出ました。

初代住職に決まった天台座主吉田源応の意向により、正式な本堂、奉安塔建設は後にして、まずは最低限の仮本堂と庫裡で創建。そこにご真骨を仮奉安することとなり、建設費二万円は加藤慶二等の有力者たちが寄進。

建設に際し、日置が斎主を務める可睡斎(かすいさい)の雲水たちも応援に来名。可睡斎は静岡県袋井市にある曹洞宗の名刹です。

雲水や村人の努力によって、一九〇四年(明治三十七年)十一月、仮本旗仏堂、玄関書院が落成しました。

十一月十五日、ご真骨は万松寺から田代村へ奉遷され、タイ国王から贈られた金銅仏とともに日暹寺に安置。

ご真骨が日本に来て四年、名古屋に来て二年。ようやく最終奉安場所に落ち着きました。

しかし、その後も寄付は集まらず、堂宇等の建設はゆっくり進みました。

奉安塔は一九一四年(大正三年)十一月十五日に地鎮祭、翌年起工し、一九一八年(大正七年)六月に完成。落慶法要の後、六月十五日にご真骨が奉安塔に納められました。

一八九八年、ピプラーワーでご真骨が発見されて二十年、一九〇〇年に日本に迎えて十八年、一九〇二年に名古屋に迎えて十六年、一九〇四年に田代村に迎えて十四年の歳月が過ぎていました。

★迦葉尊者と阿難尊者

その間に、日暹寺周辺には四国霊場の写しが作られました。

一九〇九年(明治四十二年)、山下圓救師、伊藤萬蔵、花木助次郎、奥村新兵衛による勧進帳から始まったそうです。

東山名勝という当時の書物の中に「四国八十八ヶ所は当山境内に於ける呼物とも謂うべき」との記述があることから、四国霊場の写しは参拝客の観光のために計画的に設置されたことが想像できます。

次回は最終回。実録・覚王山日泰寺縁起、総集編です。山門を護る御尊像は仁王像ではなく、迦葉尊者と阿難尊者です。乞ご期待。

(2019年11月)


第208話 覚王山日泰寺縁起 (10) 建仁寺

皆さん、こんにちは。秋本番です。朝晩は冷え込みます。くれぐれもご自愛ください。実録・覚王山日泰寺縁起をお伝えしている今年のかわら版。いよいよご真骨(本物と認定されてい仏舎利)奉安場所が名古屋に決まります。

★建仁寺

一九〇二年(明治三十五年)七月二十八日、各宗派管長会議が京都で開催されました。議論の結果、最終候補地は京都と名古屋の二ヶ所に絞られました。

名古屋が残った主因は、十万余坪の広大な用地と潤沢な資金が確保されていたことです。

京都派も平安同志会を結成。神楽岡、松ヶ崎(左京区)、日岡(山科区)が候補地。しかし、いずれも名古屋に比べて狭いのが難点でした。

その後は京都派、名古屋派が相乱れ、怪文書や醜聞が乱れ飛び、なかなか決め手がありません。

九月十六日、痺れを切らした外務省政務局長山座円次郎は各宗派管長に決定督促の書簡を送りました。そして十月十二日、覚王殿建設地の最終決定会議が建仁寺で開催されることとなりました。 建仁寺は京都市東山区にある臨済宗建仁寺派大本山です。

京都派も名古屋派も苛烈な運動を展開。今風に言えばロビー活動。要するに多数派工作です。

名古屋派は早々と建仁寺に到着する一方、京都派は建仁寺内久院に集まって情報収集と作戦会議。

会場周辺は、仏教には相応しくない言葉ですが(笑)殺気立っていたと伝わっています。

★三十七対一

会場は緊迫していました。決定権者は八十四名。三十三宗派代表と、寺院数に応じて各宗派から選出された五十一名。

午前の会議では名古屋派優勢。情勢を憂慮した京都派は、記名投票で最終決定を行うことを提案。

名古屋派は記名投票では過日に禍根を残すことを危惧し、無記名投票を主張。

結局、記名投票の提案は否決。記名投票が受け入れられないことを理由に八宗派が退席しました。

日蓮宗の津田日厚が、混乱回避を企図して議事日程変更の緊急動議を提出するも否決。混乱回避のために、選定を大宗派に委ねるべきとの提案等を出たものの、これも否決。これを受けてさらに六宗派が退席。

こうした展開の中で、大谷派を除く真宗諸派の僧侶も退席。議場は騒然とします。

京都、名古屋どちらにも組せず、そもそも出席を辞退した中立派も五宗派あり、結局最後まで会議に出席したのは十四宗派、三十八名。

その後、残った委員で無記名投票による採決が行われ、三十七対一の圧倒的多数で建設地が名古屋に決定しました。

有権者は八十四名でしたが、最初から出席辞退の中立派を除くと六十二名。もともと、名古屋支持三十七名に対し、京都支持二十五名。名古屋派が有利な状況だったようです。 嘘のような話ですが、史実です。

一部の宗派から投票の無効の訴えがありましたが、結果が覆ることはありませんでした。

こうして覚王殿は名古屋に建設されることになりました。

★日本大菩提会愛知協賛会

十月二十二日、名古屋では御遺形奉安置選定期成同盟会を解散し、日本大菩提会愛知協賛会に改組。

会長に尾張徳川家当主徳川義礼や愛知県知事深野一三が推されましたがいずれも辞退。会長不在のまま、吉田禄在、小栗富治郎、服部小十郎の副会長三名体制で発足しました。

十一月五日、各宗派管長会議が開催され、十一月十五日に仏舎利を京都から名古屋に奉遷し、大日本菩提会も移転させることが決定しました。

辞意を表明した村田と前田に代わり、会長には仏舎利奉迎使節団の正使を務めた東本願寺の大谷光演(句仏上人)、副会長にやはり使節団の副使を務めた曹洞宗の日置黙仙(後の永平寺貫主)が就任しました。

★名古屋・万松寺

さて、来月はいよいよ名古屋にご真骨が奉遷されます。、仮奉安所となったのは門前町(大須)の万松寺です。乞ご期待。

(2019年10月)


第207話 覚王山日泰寺縁起 (9) 吉田禄在・加藤慶二

皆さん、こんにちは。今年は台風が多いですね。朝晩も冷える日が出てきます。くれぐれもご自愛ください。実録・覚王山日泰寺縁起をお伝えしている今年のかわら版。いよいよご真骨(世界的に本物との認定されている仏舎利)奉安地として名古屋が浮上します。

★吉田禄在

なかなか決まらない覚王殿の建設地。一九〇二年(明治三十五年)年初の時点では名古屋は全く想定外。東京、京都、遠州三方ヶ原、奈良が候補に挙がっていました。

仏舎利分与を主導した大谷派の実力者石川舜台は、三菱ヶ原と呼ばれていた現在の東京駅周辺を想定し、その周りに各宗派の寺務所を配置する構想を抱いていたといわれています。

しかし、石川は一九〇二年、宗派内の事情で東本願寺を離れたことから、以後、建設地決定は迷走します。

こうした中、新たな候補地が浮上します。覚王殿建設地が決まらないとの報道がなされる中、名古屋の吉田禄在が中心になって誘致運動を開始。

三月、名古屋市長青山朗、名古屋米米穀取引所理事長吉田禄在、酒造業小栗富治郎、木材商で名古屋市会議長服部小十郎、名古屋通信社主長谷川百太郎等の有力者による御遺形奉安置選定期成同盟会を結成。

吉田は元尾張藩士。実務能力を見込まれて明治政府に登用され、愛知県第一区長(後の名古屋市長)に任命されました。その後は衆議院議員となり、名古屋港築港、東海道線誘致、名古屋駅建設、広小路建設など、名古屋の近代化に邁進しました。吉田の墓所は日泰寺にあります。

吉田は、大日本菩提会(帝国仏教会)の九人の建設地選定委員に対し、「建設費五十万円確保は容易、ご真骨の日本奉遷までに負った大日本菩提会の負債も支払う、寄付が集まらない場合は吉田、服部、野村朗等が私財を投じて負担する」と明言。太っ腹です。名古屋が一気に有力候補地に浮上しました。

★加藤慶二

期成同盟会は、名古屋が東京と京都の中間に位置し、中京とも呼ばれ、古来仏教有縁(うえん)の地であり、各宗派の別院、関係寺院も揃い、寺院数三万五千、仏教信者二百万人、経済活動も盛んであることをアピールしました。

今でも、愛知県は四十七都道府県の中で寺院数一位。断トツです。

その時点での有力候補地は、田代村、千種村、御器所村、広路村、小幡村、弥富村の六ヶ所。

最有力は自然豊かな丘陵地の田代村。最有力であった理由はふたつ。ひとつは寄進の規模です。

時の田代村村長は加藤慶二。自らの私財を投じ、有志の寄進も募り、何と十万坪以上の土地、二百万円超の寄付金を確保しました。

もうひとつは仏教有縁の地であったことです。田代村は、東西に走る法六字街道、南北に走る四観音道という二つの参拝道の交差点。

とくに四観音道は尾張四観音と関係する重要な参拝道でした。尾張四観音は、笠寺観音(南区)、荒子観音(中川区)、竜泉寺観音(守山区)、甚目寺観音(海部郡)。徳川家康が名古屋城築城の際、城下町鬼門の方角に位置する四観音を名古屋城鎮護の観音と定めたことが始まりです。

また、建設予定地からはお釈迦さまの寝姿に似ている鈴鹿連峰釈迦ヶ岳も望めることから、ご真骨奉安には最適との評判でした。

★沖守固と青山朗

期成同盟会の動きに愛知県知事沖守固(おきもりかた)と名古屋市長青山朗も呼応。大日本菩提会に覚王殿誘致の要請書簡を送付。駐タイ公使稲垣満次郎、領事外山義文も名古屋を後押しする展開になりました。

沖守固は元鳥取藩士。明治維新後、岩倉使節団に随行。自費で英国にとどまり、留学生活を送りました。帰国後、内務省や多くの県に赴任しました。

青山朗は元尾張藩士。明治維新後は軍人になり、退役後に武揚学校(現在の明和高校)校長を務めていましたが、推されて市長に就任しました。

ふたりとも、奇しくも一九一二年(大正元年)に逝去。覚王殿建設、日泰寺創建を見届けてのことでした。

★決戦!建仁寺

地元有力者、知事・市長、駐タイ公使・領事の支持も得て、名古屋はいよいよ有力になりましたが、まだ予断を許しません。いよいよ、京都建仁寺で建設地最終決定の会議が開かれます。詳しくは次回。乞ご期待。

(2019年9月)


第206話 覚王山日泰寺縁起 (8) 伊藤満作

皆さん、こんにちは。立秋が過ぎたとは言え、まだまだ猛暑、酷暑の夏真っ盛り。くれぐれもご自愛ください。今年のかわら版は実録・覚王山日泰寺縁起をお伝えしています。京都に仮奉安されたご真骨(世界的に本物と認められている仏舎利)。いよいよ最終奉安地の選定です。

★日本大菩提会

タイに行った奉迎使節団は、ご真骨を贈与される際にチュラロンコン国王に大事な約束をしました。帰国後にご真骨奉安のための超宗派寺院を創建するということです。

満足した国王はご本尊としてタイの国宝である釈尊金銅仏を下賜。さらに、寺院創建に際して木材の寄進も申し出。超宗派寺院創建の約束、果たさないわけにはいきません。

使節団がタイに到着した一九〇〇年(明治三十三年)六月十一日、日本ではまさしくその日に帝国仏教会を改組して日本大菩提会を創設。

会則第二条は次のように記しました。曰く「本会は釈尊の御遺形を奉持するため覚王殿を建築するを以って目的とす」。

お釈迦さまは「覚りを得た王」という意味で別名「覚王」。したがって、新たに建設するご真骨奉安寺院は「覚王殿」と呼ばれました。

日本大菩提会は、覚王殿に関して敷地十万坪以上、経費一千万円以上という壮大な構想を打ち上げ。現在の東本願寺の敷地が二万二千五百坪。十万坪の土地は容易には確保できません。

建設費の一千万円は膨大な金額です。例えば、米の価格(当時約一円、現在約三千円)で比較すると三千億円、入浴料やコーヒー(いずれも当時約二銭、現在約五百円)で比較すると約二千五百億円、会社員の初任給(当時約十円、現在二十万円)で比較すると約二千億円です。

比較の基準にもよりますが、いずれにしても当時の一千万円は現在のほぼ二〜三千億円に相当する金額です。

★伊藤満作

使節団がタイを訪問している間に、帝国仏教会は覚王殿の予定平面図の作成を依頼しました。

依頼先は名古屋の設計士伊藤満作。真宗大谷派と関係が深く、尾張藩の工匠棟梁であった伊藤平左衛門の一族です。

ご真骨が長崎に到着した七月十二日、縮尺千五百分の一の平面図が完成しました。

名古屋が最終的に覚王殿の有力候補地になったことに、最初の設計に関わったのが名古屋の伊藤満作であったことも影響したのかもしれません。

★外山義文

ご真骨が京都の東山妙法院に仮安置されてから一年が経過。タイのチュラロンコン国王に約束した覚王殿、すなわち超宗派寺院の建設地は一向に決まりません。

そんな中、駐タイ領事外山義文はチュラロンコン国王より再三再四、日本での検討状況を尋ねられました。

進展が捗々しくないことから、木材や資金を早く寄進したいチュラロンコン国王はご立腹。

また、国王が計画している仏教図書館に、日本の各宗派から寄贈することになっていた書籍の提供も進んでおらず、日本として非常に面目ない状況に陥っていたそうです。

一九〇一年(明治三十四年)十一月二十六日、業を煮やした外山領事は、大日本菩提会の会長村田寂順師と副会長前田誠節師に書簡を送り、次のように申し伝えたそうです。曰く「国王との約束の重さを自覚し、日本仏教徒の恥とならぬよう、早急に対処されたい」。

折しも翌一九〇二年(明治三十五年)秋、タイのワチラーウット皇太子(後のラーマ六世)が米国から帰国の途上に日本を訪問することになりました。

帝国仏教会は皇太子来日までに、建設地だけでも決定しておかねばならないという切迫した状況に追い込まれました。

お尻に火がついた仏教界。一九〇二年(明治三十五年)一月、各宗派管長による会議が開かれ、奉安地選定委員会を設置。候補地を調査、選定するように命じました。

★名古屋浮上

さて、いよいよ候補地として名古屋が浮上します。吉田禄在、加藤慶二などの尽力によるものです。詳しくは来月。乞ご期待。

(2019年8月)


第205話 覚王山日泰寺縁起 (7) 晧台寺・妙法院

皆さん、こんにちは。夏本番ですね。熱中症や熱射病にならないよう、くれぐれもご自愛ください。 今年のかわら版は実録・覚王山日泰寺縁起をお伝えしています。いよいよご真骨(世界的に本物と認められている仏舎利)が京都に到着します。

★苦難の海路、情勢激変

一九〇〇年(明治三十三年)六月十九日、タイのチュラロンコン国王から仏舎利を拝受し、大谷光演正使率いる奉迎使節団は、ドイツ商船マーラット号で帰国の途につきます。

出航二日後の二十一日、難破が懸念されるほどの激しい嵐に遭遇。

使節団一行は、かつて嵐の中を遣唐使として渡海した最澄や空海、五度の難破を乗り越えて来日した鑑真等、先人の苦難に自らを重ね合わせたと伝わります。

二十四日、シンガポールに入港し、数日間滞在。三十日、使節団はモルタ号に乗船して出航します。

七月六日、香港に入港すると日本大菩提会(六月十一日に帝国仏教会から改組)から至急電。

その後の上海寄港を止めるようにとの指示です。中国で列強諸国に反発する義和団の反乱が拡大。上海も危険であるとの情報でした。

使節団は上海に向かうモルタ号を下船。七日、香港から長崎に向かうロヒラ号に乗り換えて出航。十日、長崎の外海に到達しました。

★長崎晧台寺

十一日早朝、外海に停泊するロヒラ号に出迎えの小汽船が到着。

使節団は小汽船に乗り換えて長崎の大波止(おおはと)港にご真骨とともに上陸。使命を果たしました。

港では花火が打ち上げられ、大群衆が出迎え。地元の鎮西新聞は「仏骨物語」という連載記事を掲載。当時の関心の高さが伺えます。

上陸した使節団は曹洞宗の晧台寺(こうたいじ)に向かいました。長崎三大寺(皓台寺、本蓮寺、大音寺)のひとつです。

晧台寺には九州各地から僧侶や信徒が集まっていました。十二日から十四日にかけて、各宗派によるご真骨の法要が営まれました。

晧台寺の住職は名古屋出身の金峰玉仙(きんぽうぎょくせん)。歴代住職の中でも最も長く在職し「重興」として尊敬されています。

ご真骨が初めて日本で仮安置された寺の住職の出身地・名古屋に、最終的に奉安されることになるのも奇縁です。

十五日、仏舎利と使節団は長崎を発って列車で門司に向かいました。

諫早、博多、小倉など、停車駅には近隣寺院の僧侶や信徒が集まり、大歓迎。夕刻、門司から馬関丸に乗船。十六日未明、徳山へ到着。徳山からは鉄道で神戸に向かいました。

五月二十三日に海路で神戸を発って約二ヶ月、七月十六日夕方、使節団は鉄路で神戸に戻ってきました。

★四天王寺、東本願寺、妙法院

使節団は神戸で一泊し、十七日、列車で大阪入り。

ご真骨を鳳輿に乗せ、各宗派の僧侶や信徒、関係団体が行列を整えて梅田駅から御堂筋を南下して四天王寺に向かいました。行列には駐日タイ公使ピヤ・リチロング・オナチェットも加わり、沿道は歓迎の人で埋め尽くされました。

十八日、四天王寺で終日拝迎式が行われ、参拝者は数万人に及びました。

十九日、ご真骨を納めて赤地大和錦で覆った聖櫃を奉じ、使節団は天王寺駅、梅田駅を経て、午前九時十七分に京都七条駅に到着。

百一発の花火が打ち上げられ、各寺院の梵鐘が鳴り響き、国旗や仏旗を振る群衆をかき分け、聖櫃は東本願寺に入り、阿弥陀堂を経て大師堂内陣に安置されました。

午後一時、仮奉安所に定められていた東山妙法院に向かう大行列が東本願寺を出発しました。

東山妙法院は貴族や皇族の子弟が歴代住持を務める別格寺院「門跡」のひとつ。青蓮院、三千院とともに天台三門跡と称される名門寺院。

東本願寺から妙法院に至る約三キロの沿道には、露店が立ち並び、大群衆を規制する竹矢来が設置され、三間(約五・五メートル)おきに巡査が立哨する物々しさ。

夏も盛り。暑さ対策として、行路頭上に白木綿の日よけが延々と張られていたそうです。

行列は、先払い、天童子を先頭に、各宗派の管長、僧侶団、タイ公使、奉迎使節団と続き、その後ろには信徒、門徒が連なりました。

京都市内各寺院が打ち鳴らす梵鐘と人々が唱える念仏、お題目等が響く中、午後二時五十五分に行列の先頭が妙法院に到着した時に、行列の末尾はまだ東本願寺を出発できないほどの大行列だったそうです。

★奉安地選定委員会

さて、いよいよ覚王殿の建設場所を巡って騒動が始まります。なかなか決定できない仏教界。奉安地選定委員会を設置します。乞ご期待。

(2019年7月)


第204話 覚王山日泰寺縁起 (6) 大谷光演

皆さん、こんにちは。梅雨の季節です。腰痛や神経痛が気になりますね。くれぐれも ご自愛ください。

今年は実録・覚王山日泰寺縁起をお伝えしているかわら版。世界的に本物と認められ ている仏舎利(お釈迦さまのご真骨)がなぜ日泰寺に祀られたのか。その歴史を探訪 しています。

★ワット・サケット

大谷光演(句仏上人)を正使とする日本からの仏舎利奉迎使節団がバンコクに到着し たのは、一九〇〇年(明治三十三年)六月十一日夕刻。

十二日と十三日、奉迎使節団は旅装を解き、バンコク市内を見学するとともに、チュ ラロンコン国王に拝謁する準備を進めました。

記録には、タイ文科省の役人ルアングバイサルの案内でワット・ボヴォニベーという 寺院を見学したと記されています。

使節団の興味を引いたのは、境内に設置されているパーリ語の語学学校。タイで僧に なるにはパーリ語の学習が必須と聞かされました。

インドで生まれた仏教。シルクロードを経由して中国に伝わった仏典はサンスクリッ ト語、スリランカ、インド洋を経由して東南アジアに伝わった仏典はパーリ語で書か れていました。前者は北伝仏教、後者は南伝仏教です。

仏典を原語で読むことを推奨するタイの仏教教育の熱心さに驚いたそうです。

日本に伝わったのは北伝仏教。サンスクリット語からシルクロードの言葉に訳され、 さらに中国語に訳されて日本に伝わりました。使節団はサンスクリット語で仏典を読 むことの必要性を感じたのかもしれませんね。

十四日、再び文科省の役人の案内で古刹ワット・スドゥースに続いて、高名なワッ ト・サケットを訪問。

ワット・サケットは建物だけでも六百三十棟を擁する大寺院。高さ三十メートル、周 囲二百七十メートルで、ゴールデンヒル(黄金の丘)と呼ばれる高さ五十メートルの 丘の上にあります。その最も高台にある仏塔に、前年、インド(英国政府)から寄贈 された仏舎利が奉安されていました。

★ワット・ポー

ワット・サケット見学中に、急遽、チュラロンコン国王からお召しがあり、稲垣満次 郎駐タイ公使と大谷光演正使ほか一行は宮殿に参内。

国王から仏舎利分骨の示達があり、翌日、贈与の式典が行われることとなりました。

十五日、奉迎使節団は三度(みたび)文科省の役人の案内で今度は大寺ワット・アル ンを見学。そして夕刻、いよいよ式典のために宮殿内のワット・ポーに向かいまし た。

ワット・ポーは「菩提の寺」という意味。王室寺院であり、巨大な黄金の涅槃仏があ ることから「涅槃寺」とも呼ばれています。

ワット・ポーはバンコクで最大、最古の寺院。現在まで続くチャクリー王朝が一七八 二年に始まって以来、ワット・ポーは王族の庇護の下で発展してきました。

記録によれば、式典では王室勅使が式辞を読み、正使大谷光演師が答辞を朗読。

読経、三帰依文の黙誦三拝の後、王室勅使が奉迎正使に仏舎利の入った小黄金塔を授 与。

大谷正使は小黄金塔を日本から持参した宝珠形仏塔の中に納め、さらに金襴の嚢に入 れたうえで二重の桐箱に奉納。仏舎利授与の式典は無事に終了しました。

★大小二仏(結跏趺坐像)

十六日は宮殿内、十七日は古都アユタヤを見学した使節団。

帰国前日の十八日、チュラロンコン国王は奉迎使節団を王宮に招聘。奉迎使節団は帰 国後に超宗派の仏舎利奉安寺院を建立することを約束しました。

満足した国王は、チェンマイの北にある古代タイ国の都で千年以上前に鋳造されたタ イの国宝である大小二仏(結跏趺坐像)を下賜。大きな仏像は仏舎利奉安場所に安置 することを希望し、小さな仏像は大谷正使に贈られました。また、サオパワー・ポン シー王妃の三蔵写経も寄贈されました。

さらに、寺院建立に当たってはタイ国王及び王族から木材を寄贈することを約束され ました。

★長崎晧台寺(こうたいじ)

六月十九日、奉迎使節団は帰国の途につきます。そして、七月十一日に長崎に到着 し、長崎三大寺のひとつ、晧台寺に奉安されます。来月は長崎上陸から京都奉安まで の道中です。乞ご期待。

(2019年6月)


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大塚耕平

  • 2002年から「弘法さんかわら版」を書き続けています。仏教に親しみ、仏教から学び、仏教を探訪しています。より良い社会を目指すうえで仏教の教えは大切です。「弘法さんかわら版」は覚王山日泰寺(名古屋市千種区)と弘法山遍照院(知立市)の弘法さんの縁日にお配りしています。縁日はお大師様の月命日に立ちます。覚王山は新暦の21日、知立は旧暦の21日です。
  • 著書に「お大師様の生涯と覚王山」(大法輪閣)、「仏教通史」(大法輪閣)など。全国先達会、東日本先達会、愛知県先達会、四国八十八ヶ所霊場開創1200年記念イベント(室戸市)、中日文化センターなどで講演をさせていただいています。毎年12月23日には覚王山で「弘法さんを語る会」を開催。ご要望があれば、全国どこでも喜んでお伺いします。
  • 1959年愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒、同大学院博士課程修了(学術博士、専門はマクロ経済学)。日本銀行を経て、2001年から参議院議員。元内閣府副大臣、元厚生労働副大臣。現在、早稲田大学総合研究機構客員教授(2006年~)、藤田医科大学医学部客員教授(2016年~)を兼務しています。元中央大学大学院公共政策研究科客員教授(2005年~17年)。