第248話 「不承不承(ふしょうぶしょう)」
皆さん、こんにちは。立春は過ぎましたが、まだまだ寒い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。
かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。
冬になると、朝起きても布団から出たくないですよね。学校や仕事のために不承不承起きざるをえません。と言って使った「不承不承(ふしょうぶしょう)」も仏教用語です。もともとは「請」という漢字を用いて「不請不請」と書きました。「不請」には「望んでいない」という意味があります
仏教には「不請の友」という言葉が登場します。「大無量寿経」に「諸々の庶類(しょるい)のために不請の友となる」と記されています。「さまざまな人々のために進んで友となる」という意味です。
仏や菩薩が衆生(しゅじょう=人々)や「生きとし生けるもの」を救うために、自ら働きかけることを「友となる」と喩えている表現です。「人々は求めていなくても、人々の心を察し、仏や菩薩が自ら友となって救ってくださる」という有難い話です。つまり、仏や菩薩とはそのような存在であることを説いています。
このように「不請」とは、「嫌々」ということではなく「仏や菩薩が衆生に対して進んではたらきかける」ことを意味します。私たちは「知らないうちに仏や菩薩に救われている」「仏や菩薩はいつも寄り添ってくれている」ということです。
仏や菩薩でなくても陰で支えてくれている人はいます。両親や友人が好例です。「自分の知らないところで働きかけてくれている「不請」の人々です。
こうした本来の意味が理解されていた昔は「不請の友」と揮毫する人もいました。例えば、昔の学校では、卒業記念に生徒に一筆書く際に「不請の友」と記し、横に自分の名前を添える先生が結構いたそうです。先生の生徒を思う気持ちの表れであり、生徒にとっては卒業後も心の支えになったことでしょうね。
ところが「頼まれていなくてもやる」という含意が「本意ではないがやる」「嫌々ながらやる」というニュアンスに変化し、やがて「承知していない」という意味を込めて「不承不承」という漢字に転じました。
このコラムで何度もお伝えしているように、仏教用語から転じた日常用語の多くは本来とは逆の意味で使われています。それは、人間の心の身勝手、我欲のなせる業(わざ)です。「不承不承」に至っては、漢字まで変わってしまいました。
「欲や願いを実現することが人生だ」と考えれば、思い通りにならない現実は「不承不承」。いつも誰かに支えられているという感謝の気持ちを持てば人生は「不請不請」です。自分も「不請不請」家族や友人を支えることこそ、仏教の諭す生き方です。
自分にとって「祥しくない」という意味で「不祥不祥」とも書きますが、これも本来の意味と違いますね。「不承不承」ではなく、皆が「不請不請」生きていけば、本当に素晴らしい世の中になります。そう願って、ではまた来月。
第247話 仏教用語「ウヤムヤ」
耕平さんかわら版、今年もよろしくお願いいたします。
寒い日が続きますので、くれぐれもご自愛ください。かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。
知らず知らずのうちに使っている仏教用語。
それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。
コロナ禍が続いていますが、各国とも徐々に重症化率が下がって入出国規制もウヤムヤになってきた感じがします。と言って使った「ウヤムヤ」も仏教用語です。
「法華経方便品」に「存して有(う)と為さず,亡びて無(む)と為さず」と記されていることに由来します。
元々の意味は「あるのかないのかはっきりしないこと」です。
おぼろげな様子、曖昧模糊(あいまいもこ)な状態を表現します。
漢字では「有耶無耶」と書きますが、これを漢文訓読式に読むと「有りや無しや」です。
仏教用語から派生して「有耶無耶(有りや無しや)」という表現が先にでき、それを音読して「ウヤムヤ」という表現に発展したそうです。
「うやむや」は古語で「そうだ(肯定)」を表す「う」と「そうでない(否定)」を表す「む」を続けたものと説明している辞典もあります。
その辞典では、「う」「む」という日本語は「うむを言わさず」という場合にも使われているとも説明します。
うーむ、どうでしょう。
「ガチャガチャ」「ゴチャゴチャ」のように状況を音で表す擬声音のことを言語学では「オノマトペ」と言います。
擬声音の多くは「どたばた」「うろちょろ」「あたふた」「ちらほら」のように1番目と3番目の音を変え、2番目と4番目の音が揃っており、「うやむや」もこの類型に入る言葉だという説もあります。
「オノマトペ」には漢字の当て字が当てられます。
尾崎紅葉は「金色夜叉」の中で「じたばた」に「地動波動」という漢字を当てました。
「ずたずた」に「寸断寸断」、「どきどき」に「動悸動悸」という当て字も見かけます。
井上ひさしは「もこもこ」を「模糊模糊」と書いています。
「うやむや」という擬音が先にあって、それに「有耶無耶」という漢字が当てられたとする「オノマトペ」説もあります。
余談ですが「うやむや」の話を書いていたら「うんたらかんたら」のことを思い出しました。
阿弥陀仏、観音菩薩などの仏様にはそれぞれ固有の「ご真言」があります。
その仏様についてサンスクリット語(梵語)で表現している内容をそのまま音写したものです。
不動明王の「ご真言」は「のうまくさんまんだばさらだんせんだまかろしゃだそわたやうんたらたかんまん」と非常に長く、覚えることがなかなか難しいものです。
そのため、その最後の音の「うんたらたかんまん」から派生して、うろ覚えの時に「あ~何と言うか、よくわからないけど、あれだよ」というニュアンスで「○○うんたらかんたら」というようになったそうです。
ついでに、上の文章で出てきた「うろ覚え」も以前ご紹介した「うろうろ」という仏教用語から派生したという説もありますが、「うろ(空・虚・洞)」という漢字をもとに生まれた言葉という説もあります。
語源は「うやむや」なものが多いですね(笑)。ではまた来月。
第246話 仏教用語「法螺(ほうら)」
皆さん、こんにちは。早いもので師走です。寒くなりました。くれぐれもご自愛ください。
かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。
今年はサッカーワールドカップで盛り上がりました。サッカーに限らず最近の若いスポーツ選手は「絶対に勝ちます」「負ける気がしません」「自分が決めます」等々、自信満々の受け答えをします。
昔だったら「そんなホラを吹いて」と言われそうな発言ですが、有言実行だから凄いですね。水泳の北島選手あたりから、若いスポーツ選手の発言が変わってきたような気がします。練習の裏づけがあればこその自信ですね。
この「ホラを吹く」という表現も仏教用語です。「螺」とは巻貝。大きな巻貝に穴を開けて音を吹き鳴らす道具が「法螺(ほうら)」です。
やがて短縮されて「ホラ」と言うようになりました。法螺を作る巻貝が法螺貝。サンスクリット語で「サャンクハ」と言います。
古代インドでは戦場の出陣の合図として「法螺」が使われました。シルクロードを経て唐に伝わった法螺を密教僧が日本に持ち込みました。
主に真言宗や天台宗の法会で使われるようになり、やがて東大寺のお水取り(修二会)でも吹かれるようになりました。山伏の携える道具としても浸透し、山中で吹けば野獣を追い払い、魔を退けると信じられました。
お経にも登場します。無量寿経には「法鼓(ほっく)を扣(たた)き、法螺を吹く」、法華経にも「大法螺を吹き、大法鼓を撃ち」と記されています。
大無量寿経では、お釈迦様が衆生(人々)に教えを説く場面に「法螺を吹く」という表現が出てきます。
すなわち「法螺を吹く」とは本来「仏の説法」のことを指します。説法の場に人々を集めるための合図として法螺貝を吹いたことに由来します。
法螺貝の音を聞いて集まってみたものの、法螺を吹いたお釈迦様の弟子たちの話は大したものではありませんでした。「お釈迦様のように偉そうにものを言う」という意味に転じ、やがて「嘘をつく」という含意になったそうです。
本来「法螺を吹く」のはお釈迦様。弟子や衆生(人々)がホラを吹く、すなわちお釈迦様の説法を真似て立派なことを語っても実行が伴わないのが常。そういう文脈でも「ホラを吹く」は「ウソをつく」を意味しました。
ちなみに「仏語(ぶつご)に虚妄(こもう)なし」と言い、お釈迦様は嘘をつきません。 雄弁に演説することを「獅子吼(ししく)」と言います。この「獅子吼」も実はお釈迦様の説法のことを指します。つまり仏教用語。ついでに「演説」も仏教用語です。世の中、仏教用語だらけですね。
「絶対大丈夫」と大言壮語して、そのとおりにならなかった時に「ほら、見てごらん」という時の「ほら」も「法螺」に由来するとの説もあります。「ホラ」かもしれません(笑)。
今年もいよいよあとわずかです。来年は「絶対に良い年になる」と法螺を吹くわけにはいきませんが、そう願って新年を迎えたいと思います。
来年もかわら版をご愛読のほど、よろしくお願い申し上げます。それでは皆さん、よい年をお迎えください。
第245話 仏教用語「開発(かいほつ)」
皆さん、こんにちは。早いもので十一月。寒くなりました。くれぐれもご自愛ください。
かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。
最近は電子マネーやスマホ決済が普及し、世の中どんどん進みますね。新しい技術や製品が開発され、中高年にとってはついていくのもひと苦労です。
さて、この「開発」も仏教用語です。仏教用語的には「かいほつ」と読みます。
人間は誰でも仏性(ぶっしょう)を宿しています。その一方、仏性に反するような「欲」や「執着」も一緒に宿しており、仏性に従って生きていくのはなかなか難しいことです。
仏教用語としての「開発」は仏性を「開き発(ほっ)せしめる」ことを意味します。仏性は誰にも備わっており、それを開くことができるか、それを発揮することができるか、それが問われています。
仏性を「開き発せしめる」ために、修行をし、仏道を学びます。しかし、人間が人間である限り、「欲」や「執着」から逃れることはできず、成仏する(仏に成る、つまり覚る)のは命が尽きる時です。
このように、仏教で用いられる「開発」とは、仏となる性質、つまり、自らの仏性を開き、「覚(悟)り」に至ることを意味する言葉です。
この仏教用語としての「開発」からの転用で、自然や技術を利用して、人間により有用なものを生み出す行為が「開発(かいはつ)」と呼ばれるようになり、一般化していきました。
そういう使われ方はかなり古い時代から登場しています。たとえば、中世には既に「新田開発」という表現が登場しました。原野などの未開地を、新しく開墾する際に使われました。
明治以降、それがより定着し、戦後の高度成長期には現世的な幸福の代名詞として「開発」優先の考え方が人間を支配しました。
仏教用語としての「開発」は、日常会話で使われる「開発」とは真逆ですね。自然を破壊し、人間の豊かさだけを追求する行為が、結果的に様々な災禍につながっています。
仏教用語的な「開発」は仏性を開くことであり、「欲」や「執着」から解放され、全てのものに感謝する生き方です。そうであれば、自然や他の生物に害を及ぼす開発至上主義に陥ることはありません。
一方、日常用語としての「開発」は、むしろ人間の「欲」や「執着」を満たすために自然や他の生物を脅かすことにつながっています。
最近、諸外国では、人間と他の生物、自然の万物共生を目指し、貧困や環境破壊、感染症など、あらゆる問題と関わりをもち、物心両面の真の開発(かいほつ)に取り組む「開発(かいほつ)僧」という仏教者が増えていると聞きます。
自然に対して謙虚になること、自然に対して感謝すること、そのうえで他の生物と共存すること、それこそが仏性を「開発(かいほつ)」する人間の生き方です。今年も大型台風に見舞われ、地球温暖化の影響を感じる年でした。「開発」の意味を熟考したいと思います。
来月はいよいよ師走ですね。ではまた来月、ごきげんよう。
(2022年11月)
第244話 仏教用語「愛嬌(あいきょう)」
皆さん、こんにちは。いよいよ秋本番ですが、朝晩は肌寒い日も増えてきました。くれぐれもご自愛ください。
かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。日本人の生活に溶け込んでいるということですね。
今年も大リーグでは大谷選手が大活躍しました。大谷選手は能力が凄いばかりでなく、何となく愛嬌がありますよね。と言って使った「愛嬌」も実は仏教用語です。
仏様の優しく温和な雰囲気や表情を「愛敬相(あいぎょうそう)」と言います。人々を「愛(いつく)しみ」「敬(うやま)う」仏の心を表します。
もともとは「愛敬」と書いて「アイギョウ」と読みました。本来は仏のように穏やかで、慈悲深い表情や立ち振る舞いを指すわけですが、お経の中で「あいきょう」と濁らずに読まれるうちに、やがて「嬌」という字が当てられました。訓読みでは「嬌(なまめ)かしい」と読み、色っぽい、艶っぽいという含意もあります。
周囲の気を惹くために「愛嬌をふりまく」という使い方は、本来の意味からは少しはずれています。
接頭語を加えた「ご愛嬌」とは「非礼や失敗を怒らないで笑って見逃してね」と許しを乞うような意味です。他人の失敗を「ご愛嬌だから気にしなくていいよ」という使い方は適切ですが、自分の失敗を「ご愛嬌ですから」と自ら言ってお愛想笑いするのは、実は非礼、傲慢に当たります。
「愛想が尽きた」という場合の「愛想」も「愛敬相」から生じた言葉です。「もう穏やかに見守るわけにはいかない」という意味ですが、本来は「愛相」と書きます。「仏の顔も三度まで」はつまり「もはや愛想よくするわけにはいかない、怒ってるぞ」ということです。
「愛敬相」から生まれた「愛嬌」と「愛想」は、いずれも本来は仏様のお顔のことだったのですね。
余談ですが、飲食店でお客さんが「おあいそ」と言うのは「お勘定して」ということですが、本来は店の側が使う言葉でした。
店の側がお客さんに対して代金を請求する時に「お楽しみのところを代金の話などして愛想がなくて申し訳ありません」「愛想を尽かされるかもしれませんがお勘定書きです」「お勘定のことを申し上げるなんて愛想のないことですが」といった文脈で使っていました。「あちらの席のお客様、おあいそです」と店員さん同士が使っていたのを聞いて、いつの間にか「通(つう)」を気取って客も使うようになったというわけです。
異説もあります。その昔、京都のお坊さんたちはけっこう遊郭通いをしていたそうです。遊女の間で仏教用語が面白がられて使われ、帰るお坊さんに対して「あら、もうお愛想尽かし」と言ったことから「お愛想」が「お勘定」になったという説です。
常連客を気取って「オヤジ、おあいそ」と声をかけるのは、本来の意味はお店に対して「愛想が尽きたからもう帰る」と言っていることになります。
日常会話の中に定着した仏教用語、面白いですがなかなか難しいですね。ではまた来月。
(2022年10月)
第243話 仏教用語「突慳貪(つっけんどん)」
皆さん、こんにちは。九月になりました。本格的な秋も間近。朝晩は肌寒い日も増えてきます。くれぐれもご自愛ください。
かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。
今年の大リーグも大谷選手とダルビッシュ選手が大活躍。どちらも大好きな選手ですが、活躍できなかった試合後のインタビューはちょっとつっけんどんな感じになります。まあ、仕方ないですね。この「つっけんどん」も実は仏教用語です。
漢字では「突慳貪」と書きます。「慳貪」は、仏教における「慳(物惜しみをすること)」と「貪(貪欲なこと)」を組み合わせた熟語ですが、日常会話の中での「突っ慳貪」は「無愛想なこと」「無慈悲なこと」「無情けなこと」等々の印象を表します。
「慳」はサンスクリット語で「マートサリヤ」。煩悩のひとつで、物惜しむこと、自分の利益だけを追求し続けること、財宝に執着して人に施す心の余裕のない状態を指します。
「貪」はサンスクリット語で「ラーガ」。やはり煩悩のひとつで、「むさぼること」「心を満たす対象を欲求し続けること」を意味します。
ちなみに「貪(とん)=むさぼり」「瞋(じん)=怒り」「癡(ち)=愚か」は仏教の三毒です。欲望そのものが悪いのではなく、三毒が理性を失わせ、時に怒りにつながります。
その昔、竹下登首相が「怒りは敵だ」と言っていたそうです。「怒り」の感情を露わにすることは、結局、自分も周囲も気分を悪くするだけ、敵を作るだけ。したがって、「怒り」は自分を害する「敵」と見做して制御することの大切さを諭した名言です。
「突慳貪」は仏教的には「周囲が驚くような唐突さで自分の欲するままに貪ること」。要するに周囲への思いやりに欠ける態度ですね。
仏教用語における「突慳貪」の反対語は「不慳貪」。物惜しみせず、広い心で他人を思いやること姿勢を表します。文字面とは印象が違いますね。
「不慳貪」は「施しの心」で満たされていることを指し、その状態を「布施」とも表現します。そうです、お坊さんに渡す「おふせ」つまり「布施」です。
なぜ「布を施す」と書くかと言えば、その昔、人々は物惜しみすることなく僧侶の袈裟にするために、布を贈ったからです。
「突慳貪」のことを書いていたら「ぶっきらぼう」という言葉が頭を過りました。これも仏教用語のような語感ですが、残念ながら違います。
「ぶっきらぼう」は、水飴を煮つめて回転させながら、引き伸ばして切った白い棒状の飴のことを指す「打っ切り棒(ぶっきりぼう)」が転じた語です。飴がブチっと切られた姿、味や形に面白みがないことから、「素っ気ない」様子を表すようになったとされます。
ブチっと切った木の切れ端は、丁寧に切ったり、加工された木材に比べて、素っ気なく、愛想なく見えることから「ぶっきらぼう」という表現が生まれたとする説もあります。
ちょっと脱線しました。そんなに「突慳貪」「ぶっきらぼう」にしないでください(笑)。ではまた来月。
(2022年9月)
第242話 仏教用語(獅子身中の虫)
皆さん、こんにちは。立秋は過ぎましたが、まだまだ暑い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。
かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。 今年のNHK大河ドラマは「鎌倉殿の13人」。鎌倉幕府内の暗闘がよくわかる脚本になっています。
日本の歴史上初めての武家政権である鎌倉幕府は、源頼朝以下の源氏嫡流、それを支える坂東武士の北条氏、比企氏、三浦氏などの有力一族によって運営されていましたが、政権が安定するまでには紆余曲折がありました。
その展開は、幕府内には獅子身中の虫だらけというように感じる構成になっていますが、歴史の真実は誰にも分りません。現在に伝わる鎌倉幕府の歴史は、幕府公認の歴史書「吾妻鏡」に基づくものです。
さて、上記で使った「獅子身中の虫」も元々は仏教用語です。獅子はライオンを意味しています。「獅子身中の虫」は仏教の「梵網経」というお経に登場します。
曰く「獅子身中の虫、自ら獅子の肉を食らい、余外の虫に非ざるが如し。是くの如く仏子自ら仏法を破り、外道・天魔の能く破壊するに非ず」。現代語で表現すれば「獅子は体内に巣を作る害虫に食い尽くされて死ぬ。外から食われて死ぬのではない」という趣旨です。
もう少し紐解くと「獅子は自身の体内に巣食う害虫に食われて死ぬのであり、外から虫に食われるのではない。これと同じように悪い仏徒が自ら仏法を破壊するのであり、外道や天魔が仏法を破壊するのではない」ということです。
仏教の信者でありながら仏教に損害を与える者、仏の教えの恩恵を受けながら仏教に害を与える者。悪い仏教徒は仏法を自ら(内側から)破壊する、決して周囲が(外側から)仏法を破壊することはない、という教えです。
これは、一人ひとりにおいても同じです。人の心には誰しも「仏心」が宿っていますが、それに気づくかどうか、それが開くかどうかが、人の生き方や言動に関わってきます。
そして、人の心の中には「魔」も宿っています。もちろん「魔」も仏教用語です。「魔」はマーラ(魔羅)と呼ばれる悪魔のことです。
ちょっと魔がさして嘘をついてしまう、罪を犯してしまう、人の道に反したことをしてしまう。つまり、「魔」は一人ひとりの心に宿る「獅子身中の虫」です。
時代が下り「獅子身中の虫」は、仏教以外でも用いられるようになりました。獅子を組織、虫を組織に損害を与える人に喩え、組織の中の裏切り者や組織に悪影響を及ぼす人を指す意味に転じていきます。
その人に悪意がある場合だけでなく、悪意はないものの、その立ち振る舞いや言動によって悪い影響を周囲や組織全体に与える人のことを指します。
自らの心の内面に向き合うとともに、自分が組織や会社の「獅子身中の虫」になっていないか、自問自答が必要ですね。お互いに信頼し合えることが大切です。ではまた来月。
(2022年8月)
第241話 仏教用語(大袈裟)
皆さん、こんにちは。今年は六月から猛暑でしたが、いよいよ夏本番。くれぐれもご自愛ください。
かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。
最近の夏の暑さは異常です。死にそうな日もあります。「そんな大げさな」と思う人もいるかもしれませんが、熱中症で何人も亡くなります。ご自愛ください。と言って使った「大げさ」も仏教用語。「大袈裟」と書きます。
漢字を見てピンときた方も多いと思います。「袈裟」はお坊さんの衣装のことです。「袈裟」はサンスクリット語で壊色(えじき)や混濁色を表す「カーシャーヤ」の音写。仏教では出家僧侶は財産になるような私有物を持つことを禁じられ、衣服も例外ではありません。そのため、ボロ布や端布を縫い合わせて作った衣服が袈裟の始まりです。色褪せた衣を五列つなげば五條袈裟、七列なら七條袈裟、九つなら九條袈裟と言います。
在家者が白い布をまとっていたのと区別するため、草木や金属の錆を使って染め直され(染壊)、黄土色や青黒色にしました。そのため「カーシャーヤ」と言われたのです。
出家僧は下着、普段着、儀式着の3枚の袈裟と食事や托鉢に使う持鉢のみを持つことを許され「三衣一鉢(さんねいっぱつ)」と称されました。
しかし、仏教が西域、中国、朝鮮、日本と伝わると、時代とともに袈裟は徐々に装飾が施され、金襴の刺繍が入ったり、派手な図柄も見受けられるようになり、「大袈裟」と言われるようになります。
とくに日本において顕著であり、袈裟の色や装飾で僧侶の位階や特権を表すものになり、紫衣(しえ)、紫袈裟の着用には天皇の勅許が必要となりました。なお、一般の僧は黒い衣であったことから黒衣(こくえ)と言います。
臨済宗の開祖栄西が大袈裟を着て町を歩き、説法も尊大であったことから、必要以上に誇張することを「大袈裟」と言うようになったとする説もあります。
必要以上に大きい、実態以上の表現という意味で「大袈裟」が用いられるようになったのは近世以降であり、栄西の話も面白おかしく「大袈裟」に創作された話のようです。
袈裟は特別な場合を除き、右肩を出すようにして掛ける「偏袒右肩(へんだんうけん)」という着方をします。これは如来が両肩を覆って着用している「通肩(つうけん)」に対する着方であり、仏への崇拝と畏敬の念を表しています。インドでは尊敬する人物の前では敵意が無い事を示すために右肩を出す事が通例であったからです。
師匠は弟子の修行が十分に達成されたと判断した時、仏法の核心を伝授し、その証として祖師伝来の袈裟と持鉢を与えます。これを「衣鉢を継ぐ」と表現します。
なお「袈裟を着る」とは言いません。僧侶の世界では衣(ころも)は「着る」ですが、袈裟は「着ける(つける)」と言い分けています。
首から架ける輪袈裟という簡易型の袈裟は、僧侶の他、在家信徒も法要の時などに使用しますね。ではまた来月。
(2022年7月)
第240話 仏教用語(上品・下品)
皆さん、こんにちは。立春も過ぎ、春が待ち遠しい季節になりました。でもまだまだ寒い日が続きます。コロナも含め、くれぐれもご自愛ください。
かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。
他人の身なりや行動を見て「あの人は上品ね」「あの人は下品だな」と思ったことはありませんか。何気なく使っている「上品」「下品」という言葉ですが、実はこれも仏教用語です。
「上品」「下品」だけではなく実は「中品」もあります。これらの仏教用語は死後に極楽浄土へ行く時に意味をもつ言葉です。仏教用語としては「じょうぼん」「ちゅうぼん」「げぼん」と読み、仏教の「九品(くほん)」という考え方から来た言葉です。
観無量寿経では往生の仕方を上品・中品・下品の三つに分け、さらにそれぞれを上生(じょうしょう)中生(ちゅうしょう)下生(げしょう)に細分化。合計九つに分けています。 つまり、上から順に上品上生、上品中生、上品下生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生です。
阿弥陀仏のいる極楽浄土に往生を願う衆生(人々)を生前の生き方に応じて九つに分け、これを「九品」と称します。生前の生き方は往生を左右する重要な決め手なのです。
「品」はサンスクリット語の「プラカーラ」が原語で「同じ種類を集めたもの」を意味します。仏経典に頻出する仏教語で「ほん」と読みます。
「品目」「品物」「品行」「品性」等々、現代用語でも多用されるこれらの単語は全て仏教用語です。それぞれ「ほんもく」「ほんもつ」「ほんぎょう」「ほんしょう」です。
仏教は差別、区別はしない慈悲と博愛の心で衆生を導いてくれますが、だからと言って人々の生前の生き方がどうでもよいというわけではありません。生前の人柄や言動が亡くなった後の往生に関わってくることを諭します。生前の行いは来世の九品の生まれ変わりにも影響します。
善行を積めば上品上生の極楽に行くし、悪事をはたらけば下品下生の地獄に堕ちます。ここから「品」の優劣を表現する言葉として、上品とか下品の日常用語に転化しました。
「中品」と聞くと「凡人」のような印象を抱きますが、仏経典では「中品上生」は戒律を守り、悪業を行わない者、「中品中生」は戒律を守り、常に礼儀正しい者、「中品下生」は父母に孝行し、世間に対して仁と義を守り、慈しみの心を実行する者とあります。「中品」を実践するのも大変そうです。
お寺にある阿弥陀如来像を見ると、必ず独特の手の組み方をしています。手の形で「印(いん)」を表しています。人間が亡くなると極楽浄土から阿弥陀如来がやってきて、その人の「品」による往生のしかたを九種類の「印」で示しているのです。
因みに仏教の基本的な「五戒」は、不殺生戒、不飲酒戒、不妄語戒、不偸盗戒、不邪婬戒。食事をすれば、必ず動植物の命をいただきます。これだけでも不殺生戒を犯しています。お酒も飲みますし、到底「中品」にはなれそうもありません。ではまた来月。
(2022年6月)
第239話 仏教用語(一大事)
皆さん、こんにちは。新緑の季節ですが、まもなく梅雨も到来します。腰痛などに気をつけてご自愛ください。
かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。
コロナも3年目に入りました。年初からはロシアによるウクライナ侵攻もあり、世界にとっては一大事です。と言って使った「一大事」。これも実は仏教用語です。
仏教用語としての「一大事」はまさしく「ただ一つの重大な事柄」です」。お経にも登場します。法華経では「衆生(人々)を導いて仏の悟りの道に入らせること」が「一大事」とされ、そのために仏がこの世界に出現するとされています。
つまり「仏様の大仕事」というのが「一大事」の本来の意味です。仏様がこの世に現れなければならなかった根本の事情。人々を救うこと、人々を悟りに導くこと、仏様がこの世に出現した究極の目的、それが「一大事」です。
仏教の「一大事」は最も大事な目的のことです。仏様にとって人々を救う以上の目的はなく、それを超える大事はなく、最も重要な目的が「一大事」なのです。
やがて「大事」という言葉は日常的に使われるようになり、命に関わることも「大事」と称されました。軍記物語などには「大事の手」という表現が登場しますが、これは「命に関わる手傷」という意味です。
時代劇の定番の台詞に「御家(おいえ)の一大事」というものもあります。これは武家の価値観に沿った「大事」です。何よりも大切なことを「大事」と呼ぶことは上述のとおりですので、単なる家臣の失態や事故などは「一大事」ではありません。主家が存続するか否か、これが武家における「一大事」です。
やがて日常的に「大事な品物」「大事な用件」「大事な人」等々、「大事」を頻繁に使うようになります。そして、比較的重い事柄を指して「一大事」という表現も使われるようになりますが、上述のとおり、本来の「一大事」は「人々を覚りに導くこと」です。
徒然草五十九段に「大事を思ひ立たん人は、去りがたく、心にかからん事の本意を遂げずして、さながら捨つべきなり」と記されています。
現代語訳すれば「大事なことをやろうと考える人は、どうしても心離れず気にかかって仕方がないということがあっても、それをやり遂げてからにしようなどとは考えず、全部打ち捨てて、すぐに行動を起こすべきである」となります。
徒然草に従えば「大事」なこととは「全てのことをかなぐり捨ててでも優先すること」になります。そういう基準で「大事」か否かを考えると、日頃「大事」と思って気にかかっていることも、意外に気にならなくなります。悩みも悩みでなくなります。
「断捨離」する際の基準にも役に立つかもしれませんね。「あれも大事」「これも大事」と思うと何も捨てられませんが、「大事」の意味を理解すれば、「あれもいらない」「これもいらない」と思い至り、気持ちが楽になるかもしれません。
さて、あなたにとっての「一大事」は何でしょうか。ではまた来月。
(2022年5月)