耕平さんブログ

第199話 仏教用語 (自然、自由自在)

皆さん、あけましておめでとうございます。かわら版、今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。寒い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。

一昨年から日常会話の中の仏教用語をご紹介しているかわら版。今までに登場したのは、我慢、愚痴、迷惑、意地、分別、無上、遊戯、退屈、出世、彼岸、世界、人間、知恵、四苦八苦、悲願、ありがとう、縁起、挨拶、呂律、達者、学生、無学、真実、機嫌、大丈夫、貪欲、変化、道楽、金輪際、覚悟。

いやはや、たくさんあります。いちいち語源や意味を考えながら使っていると、頭が痛くなりそうです。仏教用語を自然に自由自在に使いこなせるといいですね。

この「自然」も「自由自在」も仏教用語。「自然」は「じねん」と読み、自(おの)ずからそうなっている様(さま)、神仏の計らいで生じている世界、人間の手が加わっていないこと、仏教の真理を指す言葉です。

最近は自然災害が大規模化しています。人間が自然を破壊している結果と言えますが、「自然」は神仏のはからいによって生じている世界。「自然」を破壊すれば、神仏がお怒りになるのはもっともなことです。

人間は「自然」に対して敬意を払い、謙虚に向き合うことが大切です。科学技術で「自然」をコントロールするなどという考えは、大それたことです。

「自由自在」の「自由」。あらゆる束縛から解き放たれた覚り(悟り)の境地を「自由」と言います。自分勝手に好きにしてよいという意味ではありません。

「自由」であれば、覚りを得て、仏教の真理に至っている「自然」な存在となれるので、そのことを「自在」と言います。

仏のことを時に「自在人」と呼ぶのはそのためです。観世音菩薩のことを観自在菩薩と言う場合の「自在」もそういう意味です。般若心経にも出てきます。

「自由」と「自在」がセットになった「自由自在」。日常会話では「あの人は自由自在だ」「自由自在に何でもやってみたい」「自由自在に操る」という表現で「好き勝手な性格だ」「好きなことをやりたい」「思いどおりにする」というようなことを表しがちですが、仏教における本来の意味とは異なります。

「私は自由人」と言う人が時々いますが、仏教的には「私は覚りを開いている人間だ」という意味となり、少々不遜な発言かもしれません。

「自由人」になるということは、あらゆることに感謝し、自分は生かされているということを理解し、自然を敬い、謙虚に生きていくことです。

そういう意味の「自由自在」な人が多くなれば、家庭も組織も社会も国も、「自然」な姿に近づけることと思います。

今年も仏教用語の探検をまだまだ続けます。どうぞお付き合いください。ではまた来月。

(2019年1月)


第198話 仏教用語 (金輪際、覚悟)

皆さん、こんにちは。今年もいよいよ師走。寒い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。

今までに登場したのは、我慢、愚痴、迷惑、意地、分別、無上、遊戯、退屈、出世、彼岸、世界、人間、知恵、四苦八苦、悲願、ありがとう、縁起、挨拶、呂律、達者、学生、無学、真実、機嫌、大丈夫、貪欲、変化、道楽、金輪際、覚悟。いやはや、たくさんあります。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしているかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

今年はどんな一年でしたでしょうか。年末には一年を振り返り、新年から気持ちも新たに何かに取り組もうという覚悟を決める人も多いことでしょう。

禁煙を決意する人は「こんりんざい、タバコは吸わない」、受験に向けて勉強に力を入れようと思う人は「こんりんざい、怠けない」等々、覚悟にもいろいろあります。

さて、時々使ってしまう「こんりんざい」という言葉は「金輪際」と書きます。「金輪際」も「覚悟」も仏教用語です。

まずは「金輪際」。インドの古い世界観では、世界の中心に「須弥山(しゅみせん)」と呼ばれる山が高くそびえていました。漢訳仏典では「妙高山」と表わされることもあります。

「須弥山」の周囲には「四大州」と呼ばれる大陸があり、それを支えている土台のことを「金輪(こんりん)」と呼びます。その「金輪」の最も深い部分が「金輪際」。世界の果てを表します。転じて、物事の極みや極限状態を指すようになりました。

次に「覚悟」。一般に「覚悟」と言えば、重大な決意や決心を意味します。一方、仏教の「覚悟」は、真理を覚(悟)る、真理に目覚めることを意味します。

「涅槃経」という仏経典には、「仏とは覚と名づく。自ら覚悟し、また能く他を覚す」と説いています。「覚悟」を得た人を「仏」と称し、その教えに随うのが仏教徒です。

時代劇などで、斬りかかる相手に「お覚悟」と叫ぶシーンがよくありますが、これは「もうこれまでと覚りなさい」という意味で使われています。「もうだめだ」ということを「覚りなさい」ということですね。

人間は独り善がりな存在です。自分だけが正しいと思い、自分だけで何かを成し遂げられると過信し、「私には覚悟がある」「必ずできる覚悟がある」などと「覚悟」を乱発します。

「覚悟」ができればそれは「仏」になるということ。人間はそんなに簡単に「覚悟」はできません。

「無量寿経」という仏経典に「独り来り、独り去りて、ひとりとして随う者なけん」と書かれています。人間は一人ひとりが独立していますが、この世は独りでは生きていけないものであり、何かに生かされているのが人間という存在。「覚悟」「覚悟」と力むよりも、他者や見えざるものに感謝して、「おかげさま」の気持ちで生きることが大切です。

和歌にも「おのが目の 力で見ると思うなよ 月の光で月を見るなり」とあります。自分の「覚悟」で何かができるのではなく、何かの「おかげさま」で自分が成り立っていることを「金輪際」忘れないこと。来年は心がけたいものです。

日常会話の中に浸透している仏教用語。まだまだたくさんあり、知らないことばかり。奥が深いですねぇ。それでは皆さん、良い年をお迎えください。

(2018年12月)


第197話(2018年11月)道楽

皆さん、こんにちは。今年も晩秋の十一月。寒い日も増えてきました。くれぐれもご自愛ください。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしているかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

寒くなると、鍋物が恋しくなります。「食欲の秋」は食道楽には楽しい季節。そのあとは忘年会シーズンにお正月。食道楽冥利に尽きます。

食道楽の「道楽」も仏教用語です。今では「道楽」というと、遊んでばかりいる人、怠け者といった意味で使われることが多く、「ドラ息子」の「ドラ」も「道楽息子」から転じているようです。

「阿育王経」という仏経典に「道楽を得る」という記述があります。仏教では「道楽」は「覚り」を意味することから、「道楽を得る」とは「覚りの境地に達する」ことです。

「法華経」にも「道を以て楽を受く」とあり、「道」を修めることによって得られる「楽」という「結果の悦び」を表します。

つまり、仏教的には本来は良い意味で、高尚な言葉。仏教用語としては「ドウギョウ」と読みます。

普通の人では到達できない素晴らしい境地、覚りの境地が「道楽」。それが今では良くないイメージで使われるようになったのはなぜでしょうか。

江戸時代には、趣味に励み、極めることは格好良く、伊達で洒脱と思われていました。その趣味が相当の水準に達した時には「道楽の境地」などと洒落た言い回しをしました。

それがいつしか、仕事や本業そっちのけで遊び呆けることを表す言葉に転じていきました。「道楽」は軽い趣味の域を越え、度を越した放蕩な趣味への没頭を表すのが現代的な意味ですね。

仏教では「楽」には「道楽」と「俗楽」の二種類あり、刹那的な「俗楽」におぼれることなく、迷いを脱して、仏道を願い求めて「道楽」に達することを説きます。

人間、なかなか仏教的な「道楽」の境地には達することはできません。目の前にある「欲」や「俗楽」の誘惑に負け、現代的な「道楽」人生に陥ってしまいます。

余談ですが、江戸時代の「三大道楽」は園芸道楽、釣り道楽、文芸道楽だったそうです。園芸道楽の人気は、初期はツバキとキク。やがてツツジ、アサガオ、ランが加わり、大名は競い合って庭園造りに熱中し、庭石や樹木を収集。「道楽」が悪い意味に転じていく片鱗が伺い知れます。

釣り道楽は、船を浮かべてのキス釣りが一番人気。泊まりがけの釣りは旦那衆の贅沢な趣味だったそうです。文芸道楽は、俳諧、和歌、紀行文等々、いろいろなジャンルがあったそうです。道楽は隠居してからが特に本格的になったそうです。

日常会話の中に浸透している仏教用語。まだまだたくさんあり、知らないことばかり。奥が深いですね。


第196話(2018年10月)貪欲

皆さん、こんにちは。十月、秋本番ですね。朝晩は寒いぐらいの日も増えてきました。くれぐれもご自愛ください。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしているかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

十月と言えば、「食欲の秋」。あるいは、「スポーツの秋」「読書の秋」とも言いますが、何かを貪欲に追求するには、天候や気温に恵まれた季節ということでしょう。

貪欲に追求する「貪欲(どんよく)」。これも仏教用語です。濁らずに「とんよく」と読みます。語感からはあまり良い印象は受けませんが、日常会話では「あの人は貪欲だよね」などと、時には良い意味も込めて使う場合もあります。しかし、仏教用語的にはやはりあまり良い意味ではありません。

「欲」は迷いの根源です。「律蔵」という仏教の戒律書には「すべては燃えている。貪欲(とんよく)の火によって、瞋恚(しんい)の火によって、愚痴(ぐち)の火によって燃えている」というお釈迦様の言葉が残されています。

「貪欲(貪り)」「瞋恚(怒り)」「愚痴(無知)」は仏教では「三毒」と呼ばれ、人間の持つ三つの根本煩悩とされています。

「貪欲」はサンスクリット語で「ラーガ」といい、自己の欲したものを、次から次へと求め続ける激しい欲望を意味しています。人間の「五欲」である「食欲」「財欲」「色欲」「名誉欲」「睡眠欲」、全てにおいて「貪欲」は戒められています。

初期の経典のひとつである「スッタニパータ」には「一切のものは虚妄であると知って貪りを離れる人は、迷いの世界から抜け出すことができる」と説かれています。

一方、「欲」は人間の努力の原動力でもあります。試合に勝ちたい、試験に合格したい、豊になりたい。こうした動機が、努力の源です。つまり、健全な「欲」ではなく、貪るほどの欲望である「貪欲」を戒めています。

「食欲の秋」と言っても、食べ過ぎ、飲み過ぎは禁物。今年の秋は生活や食生活も変化させて、「健康の秋」といきましょう。豊かになることは良いことですが、「金の亡者」と言われるような姿勢は変化させなくてはなりません。と言って使った「変化」も仏教用語です。

「変化」は「へんげ」と読みます。仏教の「変化」は、仏性、仏が人々を救うために仮の姿(化身、権現)となって現れることを指します。救いの求めがあると現れ、危機が収まれば消えます。

全ての人に仏性は宿っています。誰もが内面、内心に、仏性、仏心を宿しています。それに気づくか否か、仏性に準じた人間になれるか否か。つまり、「変化」できるか否かが、自らを律して自らを救えるか否かの分かれ道となります。「貪欲」から解放される大切な鍵と言えます。

日常会話の中に浸透している仏教用語。まだまだたくさんあり、知らないことばかり。奥が深いですね。


第195話(2018年9月)大丈夫

皆さん、こんにちは。早いもので九月。今年も終盤ですね。だんだんと朝晩は冷え込む日も増えてきます。くれぐれもご自愛ください。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしているかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

九月と言えば台風シーズン。最近は地球温暖化の影響で台風の規模も巨大化。被害の拡大が懸念されます。台風の備えは大丈夫でしょうか。

さて、この「大丈夫」も仏教用語です。「体調は大丈夫?」「仕事の準備は大丈夫、任せてください」などと、日常用語の中に頻繁に登場しますね。

仏教では「丈夫」は「菩薩(ぼさつ)」のことを意味します。菩薩とは人々を救うため、世の中を良くするために、自ら覚りを得ようとしている修行者のことを言います。

仏教典の原語であるサンスクリット語の「マハー・プルシャ」が大丈夫と訳されました。マハーは「偉大な」、プルシャは「人間」。つまり「偉大な人間」。それが転じて菩薩のことを指すようになりました。

現代語の「大丈夫」は「問題ない」「準備万端」「自信ある」というような意味。それもそのはず、「偉大な人間」ですから何事に対しても大丈夫なはずです。

広辞苑によると「とりわけ壮健なこと」「あぶなげのないこと」「間違いの無い様」などと書かれており、英語の「ノー・プロブレム」に近い言葉です。

しかし、本来の意味がわかってしまうと逆に「大丈夫、大丈夫」と簡単には言いにくくなりますね(笑)。そこが重要です。「何があっても大丈夫」という自信の気持ちとともに、自分が「偉大な人間」などと思わずに、謙虚に対応することが重要です。

仏教が漢語に翻訳された段階では、学識人徳の備わった優れた人を「丈夫」と褒め称え、「丈夫」に「大」がついた「大丈夫」は仏の異名となりました。つまり、「私は大丈夫」という表現は「私は仏。完璧な人間です」という意味になります。

やがて、室町時代ぐらいから「大丈夫なり」という表現が使われるようになり、現代語につながっていきました。

「君、今年の業績は大丈夫か」「社長、大丈夫です」、「こんな天気で出かけて大丈夫かな」「大丈夫だよ、きっと何とかなるよ」等々、社会活動や個人の日常会話の中で頻繁に登場する「大丈夫」。これほど「大丈夫」が多用される現代社会は、逆に間違いや自信過剰の多き世の中である証かもしれません。「想定外」とは「大丈夫」に根拠がなかった結果です。

「準備万端、大丈夫」と過信せずに努力を怠らないこと、「健康は大丈夫」と過信せずに暴飲暴食を慎むこと、「人間関係は大丈夫」と過信せずに周りの気持ちを慮ること。「大丈夫」という言葉を使うたびに、「過信せず、謙虚に」ということを思い起こすことが大切です。仏教はそれを教えています。

日常会話の中に浸透している仏教用語。まだまだたくさんあり、知らないことばかり。奥が深いですね。


第194話(2018年8月)機嫌

皆さん、こんにちは。酷暑です。くれぐれもご自愛ください。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしているかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

夏休み。久しぶりの帰省や旅行で親戚や旧友に会い、「ご機嫌いかがですか」と言い交すことも多い季節ですね。この「機嫌」も仏教用語です。本来は「譏嫌」と書き、文字通り「譏(そし)りを嫌う」という意味です。

今日では、「私は機嫌が悪い」と自分の気持ちを表現したり、「相手の機嫌を損ねない」と他者の気持ちを慮る両面で使われます。

世間のお布施で生活している僧や修行者が衣食住などで贅沢をすることは、世間の顰蹙(ひんしゅく)、すなわち「譏り(そしり)」を買うことでした。お布施で贅沢三昧することは許されません。

そこで戒律が課せられました。蓄財をしない、贅沢をしないという「遮戒」。仏弟子が仏道に励むことができるようにという配慮から生まれた戒律です。

仏弟子が人々から敬われず、「譏り」を受けるようになれば、僧伽(そうぎゃ=仏教教団)は立ち行かなくなります。たった一人の非行でも、世間から「譏り」を受ければ、僧伽の存続は危うくなります。

「譏り」を受けることを「嫌う」。戒律を定めて「譏り」を避ける。世間の「譏り」を受けないように「機(タイミング)」を覗う。それが「機嫌」の本来の意味です。やがて、そこから他者の心を覗う意味や、安否を気遣う意味に変化していきました。

世間の機を計り、自らを律し、慎ましく生きる本来の「機嫌」。しかし、現代の使われ方は、相手の顔色を覗い、良い評価を下してもらえるように阿る「ご機嫌」。自らが中心であるかの如く「私は機嫌が悪い」などと一人称で使う「機嫌」。どちらも本来の意味とはほど遠い使い方ですね。

「ご機嫌」取りはほどほどに、俺様意識丸出しの「自分の機嫌」を優先することなく、「機嫌」の本来の意味を旨とした慎み深い日々を過ごしたいものです。

嫌なことに遭遇し、自分の気持ちを指して、「私は機嫌が悪い」などと表現することは、「機嫌」の本来の意味とは異なります。

では「私は気分が悪い」と表現するとどうでしょうか。「気」を「分ける(シェアする)」ということは、自分の気分が悪ければ、相手も気分が悪いということかもしれません。だから気まずい雰囲気になります。自分が相手を嫌いな時は、相手も自分を嫌っています。「気分」も仏教用語のような気がしてきました。

日常会話の中に浸透している仏教用語。まだまだたくさんあり、知らないことばかり。奥が深いですね。

今日も「機嫌」良く過ごしましょう。自らを律して「譏り」を受けないように慎ましく過ごすこと。それが「機嫌」良く過ごすことの本来の意味です。ki


番外編(旧暦と新暦)

皆さん、こんにちは。八月も最終日ですが、暑い日が続きますね。くれぐれもご自愛ください。

さて、このかわら版。毎月のお大師様(弘法大師空海)の月命日(二十一日)に開かれる覚王山日泰寺(名古屋)と弘法山遍照院(知立)の「弘法さん」の縁日にお配りしています。

ところが、知立の「弘法さん」は今日が八月二回目。そうなってしまった理由は、知立の縁日が「旧暦」の二十一日に開かれているからです。

日泰寺と遍照院のかわら版の号数調整のために、今月は特別編。「新暦」と「旧暦」について少し整理しておきます。

「旧暦」とは、改暦があった場合、それ以前に使われていた暦法のことを指します。日本では、明治時代初期に「旧暦」から「新暦(現在の暦)」に変更されました。

日本の「旧暦」は正式には「天保暦」と言います。「天保暦」は、今なお占いや伝統行事などで需要があり、「旧暦」または「陰暦」の俗称で用いられています。但し、厳密に言うと、現在「旧暦」として使われている暦は改暦前の「天保暦」と微妙に異なり、正確には「修正天保暦」です。

さて、今年のNHK大河ドラマは「西郷どん」。幕末から明治維新の頃の話ですが、明治初期には、近代化と称して様々なことが東洋風(日本風)から西洋風に改められました。暦もそのひとつです。

「天保暦」は明治五年十二月二日(一八七二年十二月三十一日)まで使われていまし。その翌日の十二月三日をもって、明治六年(一八七三年)一月一日に改められ、「グレゴリオ暦(太陽暦)」に改暦されました。

改暦の実施は、前月の明治五年十一月九日(一八七二年十二月九日)に急遽布告されました。急な実施の背景には、明治維新後、明治政府の財政が厳しかったため、月給制度にした官吏の給与の支払い回数を一回減らすためであったとも言われています。

「旧暦」では明治六年に「閏六月」があったため、年十三回給与を支払う必要がありました。真偽のほどは定かではありませんが、ありそうな話ですね。

因みに、「新暦」ではひと月が「三十日」か「三十一日」、二月だけが「二十八日」または「二十九日(四年に一度の閏年)」です。

一方、「旧暦」ではひと月が「二十九日」の「小月」か、または「三十日」の「大月」。そして、調整のため、三年に一度の「閏月」が入ります。

「新暦」は太陽暦なので太陽の周りを地球が回る周期を基準にしている一方、「旧暦」は太陰暦で月の満ち欠けを基準にしていたからです。つまり、月の満ち欠けをひと月とし、年十二回の満ち欠けを一年としていました。

その結果、太陽暦の一年が「三六五・二四二二日」であるのに対し、太陰暦の一年は「三五四・三六七一日」。この差が約三年でひと月分になるため、三年に一度の「閏月」が入ります。

西洋では太陽暦であることは、南蛮貿易が行われていた中世から日本でも知られていたようですが、一年の日数の違いやその理論的背景を解明し、理解していた昔の人たちは凄いですね。安倍晴明の時代から、天文学博士がいたことから、そうした人々の系譜が西洋と東洋の暦の違いを解明していたようです。

もっとも、「新暦」への移行は社会全般に徹底されたわけではなかったようです。

明治六年版の「官暦(政府発行の暦)」では、改暦の混乱を避けるために「旧暦」が併記され、結局、翌年以後も「旧暦」併記が続けられました。伝統行事や生活慣習などへの影響を考慮したものでしたが、「旧暦」併記が「新暦」普及を阻害するとの批判もあり、賛否両論の論争が繰り返されました。

一九○八年(明治四十一年)、帝国議会で「陽暦励行に関する建議」が可決され、一九一○年(明治四十三年)の「官暦」から「旧暦」併記が行われなくなりました。一九一○年の「旧暦」併記廃止は、人々に「旧暦」廃止と認識され、「旧暦」に基づいた行事が「新暦」や月遅れに移行する転機になりました。今から百八年前のことです。

知立の「弘法さん」はかなり古くから行われていたために「旧暦」のまま続けられていますが、覚王山の「弘法さん」が始まったのはまさしく一九一○年頃。最初から「新暦」で始まったものと思われます。

覚王山日泰寺は、一八九八年に北インドで発見された仏舎利(お釈迦様の骨)をタイの国王から分骨され、それを奉安するために帝国仏教会公認、多宗派共同で開創されたお寺です。だから、日本とタイで「日泰寺」です。

「弘法さん」の縁日は、お大師様に縁のある全国各地で平安時代以降、広がっていました。ルーツはお大師様の京都での拠点、東寺の南大門の前で開かれた縁日です。

明治維新後の廃仏毀釈によって、お寺が破壊されたり、仏教行事が中止になることもあったそうですが、日本社会に長く定着していたために、明治時代中頃から徐々に復興。「弘法さん」の縁日も、全国各地で新たに始まるところもあったようです。

一九○四年に開創された日泰寺。仏舎利が奉安された舎利殿や本堂への参拝客が増え、さらに賑わいを増すための催しとして始まったのが「新暦」二十一日の日泰寺の弘法さんの縁日です。今風に言えば、イベントですね。

それに対して知立の「弘法さん」の縁日は歴史が違います。お大師様が東国巡錫をした足跡が三河や知多に残っていますので、京都東寺で弘法さんの縁日が始まって以降、全国の縁の地に広がっていく中で、三河や知多でも開かれるようになったものと推察します。

三河新四国八十八ヶ所霊場は寛永二年(一六二五年)に西加茂郷の浦野上人が開創したと伝わります。したがって、弘法さんの縁日も、それ以降に始まったものでしょう。なお、昭和四十年には霊場会が発足しました。弘法山遍照院は、三河新四国八十八ヶ所霊場の開創札所です。

因みに、知多四国八十八ヶ所霊場の開創はこのかわら版でお伝えしたとおり、文化六年(一八○九年)です。三河新四国八十八ヶ所霊場の方が約二百年も古いことになります。

それでは皆さん、また来月お会いしましょう。


第193話(2018年7月)真実

皆さん、こんにちは。いよいよ夏ですね。暑い日が増えます。くれぐれもご自愛ください。日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしているかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

先月は「学生(がくしょう)」についてお伝えしました。「学生」は、この世の中の「真実」を追求するために学びます。

この世の中の「真実」とは何でしょうか。それが問題です。「真実」も仏教用語です。

本当に信じられるもの、信じられることに出会いたい。それは、人間の本質的な欲求と言ってもよいでしょう。

「真実」とは、言葉の響きとして「正しい」こと、という語感が伴っています。つまり、「真実」とは「正しい」こと。

しかし、人間は「正しい」ことを巡って争います。人によって「正しい」と思うことが異なるからこそ争いが起きます。家族の中でも、近所づきあいの中でも、それぞれが「正しい」と思うことが異なるので、争いが起きます。民族や国による争いも同じです。

浄土真宗の開祖、親鸞聖人の言葉として、次の一節があります。「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まこと(真実)あることなきに、ただ念仏のみぞ、まこと(真実)にておわします」。

お釈迦様は今から二千五百年前の人です。そのお釈迦様と同じ時代に生きた人が、哲学の元祖ソクラテス。

ソクラテスは「正しい」ことや「正義」は定義できないとしました。以来、今日まで続く哲学の二千五百年の歴史の末に、現代哲学も未だに「正しい」ことや「正義」は定義できないとしています。

仏教は本来、どのように生きるかを考える哲学です。西洋のソクラテス、東洋のお釈迦様、ふたりは東西の哲学のルーツ。そして、いずれも「正しい」ことは一概には言えない、万人に通用する「真実」は存在しないことを教えています。

仏教の場合、そこで、仏の教え、仏の覚りのみが「真実」であるとしています。仏の教え、仏の覚りとは、感謝、謙虚、素直な気持ちで全ての事象を受け入れること。我欲と固執から解放されれば、争いごとは起きないことを諭しています。

そういう姿勢で生きることが大切であるということ自体が「真実」であり、何が「真実」かを巡って争うことは、不毛であり、結論のないことであると言うことでしょう。

因みに、現代の哲学者の最高峰はアマルティア・センというインドの学者。アジア人で唯一のノーベル経済学賞受賞者でもあります。

齢八十半ばのセンの最新著書は「正義のアイデア」。その中でも、何が「正義」か、何が「正しい」か、何が「真実」かは定義できない。時間の許す限り熟議を尽くすことが、少しでも良い結論に到達する唯一の道と教えてくれています。

日常会話の中に浸透している仏教用語。まだまだたくさんあり、知らないことばかり。奥が深いですね。


第192話(2018年6月)学生・無学

皆さん、こんにちは。今年も梅雨の季節がやってきました。神経痛が気になる季節です。くれぐれもご自愛ください。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしているかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

六月になりました。四月には新入生だった学生も、学校生活に慣れてくる頃です。勉強に、クラブに、学生の皆さんには学校生活を有意義に過ごしてもらいたいですね。

この「学生」も実は仏教用語です。仏教では、「学生」は「ガクショウ」と読みます。「学匠」とも書きます。

日本仏教の二大巨人、伝教大師最澄と弘法大師空海。ふたりは、同じ遣唐使船団に参加して唐に留学しました。

その時点で、最澄は既に朝廷に認められたエリート僧なので、「還学生(げんがくしょう)」という国費留学生。一方、無名の空海は「留学生(るがくしょう)」という私費留学生。というように、古くから「学生」が仏教用語として定着していました。

元々はお寺に寄宿して学問を学ぶ者のことを指したそうですが、やがて仏教を学ぶ者を「学生」と呼ぶようになりました。

比叡山延暦寺を開いた最澄は、山内で学ぶ「学生」たちの学則、「山家学生式(さんげがくしょうしき)」という書物を著しています。

近世に入り、仏教用語から派生して一般に学問をする者を「学生(がくせい)」と呼ぶようになり、明治時代に「student」の訳語として定着しました。

今も大学の教壇に立っていますが、学生諸君にいつも言っています。「自由に好きなことを学べる唯一の期間なのだから、何にでも興味をもって、学生生活を有意義に過ごすように」。しっかり学べば、「無学」ではなくなります。

この「無学」も仏教用語。本来の意味は正反対です。「学ぶものが無い」のが「無学」ですから、相当学識のある高僧のことを「無学」と言っていました。したがって、「有学(うがく)」はまだ勉強不足の状態です。学識が有るという意味ではありません。

「無学」と「有学」。一般的に使われる意味とは正反対です。

毎年、最初の講義で、学生諸君に「高校までの授業と大学の授業では何が違うか」と聞くと、いろいろな答えが返ってきます。「答え」があるのが高校までの授業、「答え」はなく、自分で考えるのが大学の授業。自分自身で「考える」ことが大切です。

仏教本来の意味では、「生きる」とは何か、「真実」とは何かを「考える」のが「学生」です。単に「答え」を求めているのではありません。

因みに「真実」も仏教用語。来月は「真実」についてお伝えします。日常会話の中に浸透している仏教用語。まだまだたくさんあり、知らないことばかり。奥が深いですね。


第191話(2018年5月)呂律・達者

皆さん、こんにちは。新緑の季節ですね。でも、朝晩は冷え込む日もあります。くれぐれもご自愛ください。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしているかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

四月、五月は、学校や会社の新人歓迎会等で一杯飲む機会が多い季節です。最近の若い人はあまりお酒を飲まなくなりましたが、今の四十歳代より上の世代は、新人歓迎会等で無理に飲まされて二日酔いになったり、自ら深酒して呂律(ろれつ)の回らなくなった先輩に閉口した経験があるのではないでしょうか。

飲みすぎて、舌が回らず、言葉がはっきりしないことを「呂律が回らない」などと言いますが、この「呂律」も実は仏教用語です。

仏教ではお経に節や旋律をつけて歌のように唱えることがあります。声明(しょうみょう)とか梵唄(ぼんばい)といいます。現代風に言えば仏教音楽でしょうか。ご詠歌(えいか)も仏教音楽には欠かせないですね。

この声明の旋律には、「呂(りょ)」「律(りつ)」「中曲」の三種類の音階があります。そのことに端を発して、「呂律」は声明の調子、音の調子という意味になりました。

因みに、京都・大原三千院には、上述のような声明の構造を踏まえて、「呂川」「律川」と名づけられた川が流れています。

仏教音楽はその後の日本の音楽に大きな影響を与えています。平家琵琶、謡曲、浄瑠璃、浪花節、各地の音頭、民謡、盆踊りの歌、演歌など、日本人の音楽の底辺には仏教音楽があります。

「呂律」の読みが「りょりつ」から「ろれつ」に変化し、言葉の調子という意味になったようです。

コンパや宴会の2次会にカラオケはつきもの。「呂律」が回らないぐらい酔っていても、カラオケでマイクを握ったら、見事に歌う「達者」な人がいますよね。

「達者」な人は何かに長けた人のことを指します。また、お年寄りに対して「お達者ですね」と言う時は、「お元気ですね」「健康ですね」という意味ですね。「フーテンの寅さん」などの映画の台詞では、しばしの別れの際の送る言葉として「達者でな」と言いますが、これは「元気でな」という意味です。よく使うこの「達者」も仏教用語です。

仏教では、真理に到達した修行者、覚りに至った者を「達者」と表現します。学ぶべきことを学び終わり、真理に到達した者、という意味ですが、転じて現代では、年齢を重ねて長じた高齢者に対する敬意の言葉、何かに秀でた人を褒める言葉として定着しました。

いやはや、これほど日常会話の中に仏教用語が多いと知ると、何だか気になって「呂律」が回らなくなりそうです。仏教用語に「達者」にならないといけないですね。

日常会話の中に浸透している仏教用語。まだまだたくさんあり、知らないことばかり。奥が深いですね。


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大塚耕平

  • 2002年から「弘法さんかわら版」を書き続けています。仏教に親しみ、仏教から学び、仏教を探訪しています。より良い社会を目指すうえで仏教の教えは大切です。「弘法さんかわら版」は覚王山日泰寺(名古屋市千種区)と弘法山遍照院(知立市)の弘法さんの縁日にお配りしています。縁日はお大師様の月命日に立ちます。覚王山は新暦の21日、知立は旧暦の21日です。
  • 著書に「お大師様の生涯と覚王山」(大法輪閣)、「仏教通史」(大法輪閣)など。全国先達会、東日本先達会、愛知県先達会、四国八十八ヶ所霊場開創1200年記念イベント(室戸市)、中日文化センターなどで講演をさせていただいています。毎年12月23日には覚王山で「弘法さんを語る会」を開催。ご要望があれば、全国どこでも喜んでお伺いします。
  • 1959年愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒、同大学院博士課程修了(学術博士、専門はマクロ経済学)。日本銀行を経て、2001年から参議院議員。元内閣府副大臣、元厚生労働副大臣。現在、早稲田大学総合研究機構客員教授(2006年~)、藤田医科大学医学部客員教授(2016年~)を兼務しています。元中央大学大学院公共政策研究科客員教授(2005年~17年)。