耕平さんブログ

第227話 仏教用語(行儀、食堂、食事)

皆さん、こんにちは。早くも初夏の季節です。新緑を眺めて自粛疲れを癒しましょう。くれぐれもご自愛ください。

かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。

入園、入学から1 ヶ月が経ちました。初めて家族以外と集団生活をする幼稚園年少園児、本格的な学校規則に直面する小学校一年生。行儀やマナーを身につけなくてはなりません。コロナ禍で制約のある生活ですから、教えられる行儀やマナーも通常とは違うかもしれません。たいへんです。

ここで登場した「行儀」も仏教用語です。日常会話的には、いろいろな場面での立居振舞、礼儀作法などのことを指しますが、仏教用語的には戒律の「律」を表す言葉です。

十二世紀の「四分律行事鈔資持記(しぶんりつぎょうじしょうしじき)」という律宗の書物の中に「行儀とは行事の軌式を謂ふ。像末(ぞうまつ)の教を以て行儀を顕さずんば安(いずく)んぞ能く久しく住せんや」と記されています。「戒律あるいは生活や行事のかたちを整えることが肝要である」という意味です。

このように仏教用語の「行儀」は、仏事の方式、僧の行為や動作の作法を表す言葉として使われていました。

「行儀」という言葉が僧以外の一般の人々の言動に関して使われるようになったのは室町時代からと言われています。

御伽草子の「猿源氏草紙(さるげんじそうし)」の中で「かの殿のふだんの行儀を委(くわ)しく知りて候」と記されているのは、今日の日常会話での使われ方の原形です。さらに進んで「行儀が良い」「行儀が悪い」という使われ方は、近代に登場した用法です。

幼稚園児や小学校一年生が身に付けるものとしては、食事の際の「行儀」もそのひとつ。「いただきます」の挨拶や、食堂での所作です。この「食堂」も仏教用語です。

日常会話的には「しょくどう」と読みますが、仏教用語では「じきどう」です。

「食堂」は修行僧が食事をする堂宇。お寺には「七堂伽藍」と称される七つの建物があり、「食堂」はそのひとつ。食事の作法を身につけ、食物への感謝を通して自己研鑽する場です。

「食事」も「じきじ」と読み、仏教用語です。動物も植物も全て命です。人間が生きることは他の命をいただくこと。人間は他の生物の命を奪うことなしに生存できません。「食事」は修行の中でそのことを自覚し、命をいただくことに感謝をする修行の機会です。

明治になり、若者が故郷を離れて各地の高等学校や大学で学びました。若者たちは寄宿舎や学生寮に入りましたが、そこでの食事室がやがて「食堂」と呼ばれるようになりました。

関東大震災以後、東京では安く食事を提供する店が急増し「大衆食堂」と呼ばれるようになりました。「大衆(だいしゅ)」は修行僧のことを表す仏教用語。過去にご紹介したとおり「学生(がくしょう)」も仏教用語です。

「学生食堂」「大衆食堂」は全部仏教用語。いやはや驚き。それではまた来月、ごきげんよう。

(2021年5月)


第226話 仏教用語(正真正銘)

皆さん、こんにちは。ずいぶん暖かくなってきました。コロナ禍の自粛疲れを癒し、春本番をお楽しみください。でも感染再拡大には気をつけて、くれぐれもご自愛ください。

かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。

さて、日本の春夏秋冬は素晴らしいものですが、季節感というのはなかなか微妙なもの。春と言えば三月から五月ですが、三月はまだ寒いし、五月はもう初夏のような日も多く、正真正銘の春と言えば、やっぱり四月ですね。

と言って使った「正真正銘」、これも仏教用語です。日常会話的には「これぞ本物」「嘘偽りのないこと」などを強調するために使われるのが「正真正銘」です。

日本に伝わった経典は、もともとはサンスクリット語(梵語)で書かれており、それをインド、西域、中国の訳経僧が最初は西域の言葉に、さらにはそれを漢訳したものです。サンスクリット語から直接漢訳されたものもあります。

多くの天才的な訳経僧が活躍しました。そのうちのひとり、紀元三世紀頃の竺法護(じくほうご)というインドの僧は「正法華経」を翻訳し、その中でブッダ(お釈迦様)の正しい覚りを「無上正真道」と訳しました。「正真」という言葉はここから派生しています。

「正真」はお釈迦様の覚り、智慧(知恵)、知見、見識です。お釈迦様の覚りの内容はサンスクリット語でニルヴァーナ、漢訳で「涅槃」と言います。「欲」や「執着」が「苦」を生みます。「欲」や「執着」は「嫉妬」や「煩悩」の火種となり、時には大きな炎となって自らも焼き尽くします。

お釈迦様はそうした「欲」や「執着」から解放されることを覚り、「涅槃」の境地に達したのです。その覚りが「正真」であり、言わば「涅槃」と同じような意味かもしれません。

それに続く「正銘」は「正しい銘が刻まれている」という意味であり、「正真」と同義語。つまり「正真正銘」は同義語を重ねて「本物の覚りの証(あかし)」であることを強調し、そこから「本物の証」という日常会話の使われ方に転化していきました。

「正真正銘」の反対は何かと言えば「嘘八百」。江戸時代、江戸市中の町の多さ、大坂市中の橋の多さから「八百八町」「八百八橋」という表現が登場しました。

お釈迦様の教えの数多さが「八万四千」という数で表されたことに端を発し、「八」は数の多さを示す代名詞となり、「八万地獄」「八万奈落」などの言葉につながっていったと言われています。

その流れで、嘘ばかり言っていることが江戸の町民から「嘘八百」と言われるようになりました。

「正真正銘」とは反対の「嘘八百」も仏教と微妙に関連しているのには驚きました。

「欲」や「執着」から解放されれば、「正真正銘」の覚り。何かに「嫉妬」したり「煩悩」から「嘘八百」を言う必要もなく、心穏やかに過ごせますね。

それではまた来月。ごきげんよう。

(2021年4月)


第225話 仏教用語(火の車)

皆さん、こんにちは。いよいよ春本番。もうすぐ桜も満開ですが、朝晩は寒い日もあります。くれぐれもご自愛ください。

かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。

コロナ禍が一刻も早く収束することを祈ります。まだまだコロナ対策が必要ですが、国の財政も火の車です。この「火の車」も仏教用語です。

仏教用語的には「かしゃ」と読みます。日常会話の「火の車」は、お金の工面が大変なことの比喩として用いられますが、仏教用語としては地獄の話と関係しています。

お釈迦様に背いた弟子として知られているのが提婆達多(だいばだった)。仏法の教えに反して多くの罪を犯したうえ、お釈迦様を襲おうとしました。罪深い提婆達多は生きながら地獄に堕ち、その時「火車」が迎えにきました。

地獄に堕ちた提婆達多は「火車の責」に遭うのですが、これがまた凄い。「火車」に乗せられて焼かれ、生き返らせられては再び焼かれることを繰り返す地獄の刑罰です。

芥川龍之介の名作「地獄変」にも「火車の責」に絡む話が出てきます。ご興味があれば、実際にお読みください。要するに、自分の利益と快楽のための行為が過ぎると「地獄に墜ちる」というお話です。

地獄は嫌ですよね。やっぱり地獄より天国に行きたいですが、仏教には天国はありません。黒澤明監督の名作「天国と地獄」という映画もあるので、「天国と地獄」は対語と考えがちですが、仏教では「地獄」の反対は「浄土」「極楽」です。

「天国」は神様が住む場所を指しますが、仏教の「浄土」は場所の名であるばかりではなく、人間の「心の中」「覚(悟)り」そのものを表す言葉です。「欲」や「執着」を律して「嫉妬」や「煩悩」から解放された心こそが「浄土」。そういう人ばかりになればこの世はたしかに「浄土」です。

「極楽浄土」と言うように「極楽」と「浄土」はセット。「極楽」も同じことを指します。「欲」や「執着」から逃れることは、生身の人間にとって簡単なことではありません。だから「極楽」や「浄土」は「彼岸(ひがん)」すなわち「人間の住む此岸(しがん)の彼方(かなた)の岸」と言われる由縁です。

三月は「お彼岸」のうえ、二十一日はお大師様の年命日の「ご祥当」。四月になれば八日はお釈迦様の誕生日の「花祭り」。

仏教にご縁の深いこの時期は、「火の車」「地獄」「極楽」「浄土」「彼岸」「此岸」などの意味をよく考え、「欲」と「執着」を律することの大切さを噛み締めたいですね。

空高く優雅に舞うように飛ぶとんぼと「極楽」を合体させて「極楽とんぼ」。日常会話的には何の心配もなく、呑気(のんき)に暮らしている人のことを指しますが、仏教用語的には「欲」や「執着」から解放されている人を表します。人間、なかなか「極楽とんぼ」にはなれません。

それではまた来月。ごきげんよう。

(2021年3月)


第224話 仏教用語(兎角)

皆さん、こんにちは。春が待ち遠しい季節になりましたが、まだまだ寒い日が続きます。新型コロナウイルス感染症も含め、くれぐれもご自愛ください。

かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。

去年からコロナ禍に直面し、大変な状況が続いています。コロナ禍前の話題やニュースはすっかり色褪せてしまい、思い出せないほどです。とかく世間はそんなもの。アッという間に過去のことを忘れます。コロナ禍も早く収束し、そうなるといいですね。

夏目漱石の名作「草枕」の冒頭の一節に「智に働けば角が立つ、情に棹(さお)させば流される、意地を通せば窮屈だ。兎角(とかく)この世は住みにくい。」とあります。

さて、ここまでに二度登場した「とかく」も仏教用語です。漢字では「兎角」と書きます。

「うさぎ(兎)」に「つの(角)」で「兎角」。兎には角はありませんので、中国の古典では「ありえないこと」「起こりえないこと」の喩えとして「兎角」という言葉が使われていました。

十一~十二世紀頃、宋の時代の「述異記」という書物の中に「亀に毛を生じたり、兎に角を生ずるのは、兵乱の兆し」という記述があります。あってはならないことが起きる凶事の予兆の喩えとして使われ、「兎角亀毛」という表現が定着しました。

「楞伽経(りょうがきょう)」「毘婆沙論(びばしゃろん)」という仏経典の中にも「言葉は妄想であって、兎角亀毛のようなもの」とか「輪廻転用する人間は、兎角亀毛のごときもの」という表現がでてきます。

いずれの経典も五世紀頃のものであり、中国の古典で「兎角亀毛」という表現が定着するよりも早い時期に仏教用語として使われていたようです。

仏教用語としての「兎角」は「ありえないこと」の比喩ですが、夏目漱石が使っている「兎角」は「何にしても」「いずれにせよ」というような接続詞的役割を果たしており、既に意味が変わっています。ちなみに夏目漱石は「兎角」という表現を作品の中で多用しており、お気に入りの言葉だったようです。

さらに日常用語としては「とにかく」「ともかく」のように、「に」「も」を挟む使い方もされます。

「とにかく」も「兎に角」と書く場合がありますが、日本語文法的には、「とにかく」の「と」は「そのように」、「とにかく」の「かく」は「このように」という意味を指す副詞。つまり、副詞が組み合わさってできた単語です。

「とにかく」に似た言葉が「ともかく」。やはり「兎も角」と書く場合があります。「とにかく」も「ともかく」も「何にしても」「いずれにせよ」という意味であり、夏目漱石が使っていた「兎角」とほぼ同じような語感です。

余談ですが、空海の名作「三教指帰(さんごうしいき)」という小説風仏教書には、「兎角公」という家主、「亀毛先生」という儒家が登場します。この頃には「兎角亀毛」が定着していた証(あかし)ですね。

それではまた来月、ごきげんよう。

(2021年2月)


第223話 仏教用語(所詮)

あけましておめでとうございます。去年はコロナで大変な一年でしたが、早く収まってほしいものです。寒さ厳しい折柄、くれぐれもご自愛ください。

日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介し始めて五年目に入りました。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。かわら版、今年もご愛顧のほど、どうぞよろしくお願い申し上げます。

日常会話に含まれている仏教用語についていろいろ書いていると勉強になります。人間はいかにあるべきか、人間はいかに生きるべきか、仏教用語の本来の意味から教えられることが多々あります。とは言え、所詮(しょせん)素人が趣味で書いていること。詳しくは本職のお坊さんに聞いてください。私は所詮、素人ですから。

と、二度にわたって使った「所詮」も仏教用語です。日常会話的には「あれこれ言っても、結局は」とか「とどのつまり」「つまるところ」「畢竟(ひっきょう)」などの意味で使われています。

仏教用語の「所詮」はずいぶん意味が異なります。そもそも「能詮(のうせん)」という言葉と常にセットで使われていました。「所詮」は日常会話の中に浸透しましたが、「能詮」は普及しませんでした。不思議ですね。

仏教には「八万四千の法門」と言われるように、非常に多くの教えやお経があります。その中で説き明かされる内容が「所詮」、その内容を説き明かす言葉や文字が「能詮」です。

漢字的に言えば、「所」は「される」という受動を示すもの、「能」は「する」という能動を示すもの。したがって、「所詮」は説き明かされる意味や内容、「能詮」は説き明かすための文字や文章を指します。ちょっと難しいですね。

平たく言えば、「所詮」はお経や仏教が教えている内容、「能詮」はお経そのものやその中に書き記されている文字や文章のことを指します。

昨年までにお伝えしてきましたように、日常会話の中の仏教用語は、不思議なことに、本来の意味とは逆の意味で使われていることが多いのです。

「所詮」はつまりお経の教えの内容なので、本来は「素晴らしいもの」という意味。しかし、日常会話で使われている「所詮」は「一見素晴らしそうだけれども、実は大したことないもの」というような否定的な語感を含んでいますね。

「あの人は立派な人だ。所詮、学者だから(だって学者だから、素晴らしいのは当然だよね)」というのが本当の使い方です。ところが、日常会話では「あの人は立派な人だけど、所詮学者だからね」と否定的な使い方をされます。

人間は、自分の価値観や先入観にとらわれ、とかく他者の価値観や自分と異なる意見を否定的に捉えがちです。それは、人間の業(ごう)、性(さが)とも言えます。だからこそ、争いごとや意見の対立が生まれます。「所詮、人間はその程度のもの」は日常会話の使い方、「所詮、人間だからそれを乗り越えられるはず」は仏教用語的な使い方。

所詮、仏教用語。されど、仏教用語。日常会話の中の仏教用語の本来の意味を知ることで、人生を豊かなものにしたいですね。それではまた来月、ごきげんよう。

(2021年1月)


第222話 仏教用語(玄関、庫裏)

皆さん、こんにちは。気がつけば師走、今年もあとわずか。早いですねぇ。年末のご多忙な中、体調を崩されぬよう、くれぐれもご自愛ください。

かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。

どこの家でも年末の恒例は大掃除。普段はあまり掃除しないところも年に一回は念入りにお掃除されることと思います。最後は玄関を整え、門松を立てて新年を迎えます。

この「玄関」も仏教用語です。

「玄関」の「玄」は「深い覚(悟)り」を意味します。深い覚りである「玄妙(げんみょう)」に入るための「関門」という意味を表すのが「玄関」。つまり、覚りのへ入口です。

鎌倉時代になると、禅宗が発展しました。禅宗では、覚りを開くための道場である寺院の入口のことを「玄関」と呼ぶようになりました。

その頃の家は、公家、武士、庶民のいずれも、屋敷や家に明確な出入口はなく、縁側のようなところから出入りするのが普通だったそうです。

室町時代から戦国時代に時代が進むと、公家や武士の屋敷では、訪問者を恭(うやうや)しく送迎したり、訪問者に威厳を示すために、禅寺を模して「玄関」が登場しました。

高位の公家や勢力を誇る武士の屋敷は立派な門構えとなり、大規模な門と「玄関」が発展していきました。

一方、町人や農民には「玄関」は許されなかったそうです。現在のように、庶民の家、普通の家の出入口も「玄関」と呼ぶようになったのは江戸時代以降のことです。

毎日、覚りへの入口、すなわち「玄関」を通っていることに気づくと、神妙な気分になりますね。家の内でも外でも、感謝の気持ちを忘れずに、覚りを開けるように自らの気持ちを引き締めて身を律する瞬間が玄関を通る時です。

「玄関」をきれいに掃除して整え、気持ちよくお正月を迎えたいですね。お正月と言えば「おせち料理」。「おせち料理」は「御節料理」と書きます。「御節」も仏教用語と言いたいところですが、これは違います(笑)。

公家の行事である「節会(せちえ)」の習慣が庶民にも広がり、「おせち料理」と呼ばれるようになりました。

料理を作る場所は、普通の家では台所。お寺の台所のことを「庫裏(くり)」と言います。仏教寺院における伽藍のひとつです。「庫裡」とも書きます。どちらも「うち」や「なか」を意味する漢字です。

お寺の住職の奥さんのことを「おくりさん」と呼ぶのは、この「庫裏」に由来します。かつてはお寺の食事係の僧を「お庫裏さん」と言ったので、必ずしも奥さんのことだけを指したわけではありません。禅宗では食事係は「典座(てんぞ)」とも言われます。

さてさて、こんなことを書き続けていると、年末の大掃除も手が回らなくなります。このあたりで切り上げて、片付けにかかりましょう。

それでは皆さん、良い年をお迎えください。

(2020年12月)


第221話 仏教用語 (あうん)

皆さん、こんにちは。今年も十一月。寒くなってきたうえに、年末の慌ただしさが増してきます。くれぐれもご自愛ください。

かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。

年末が近くなると、忘年会シーズン。今年は自粛気味かもしれませんが、毎年恒例の気の合う友人同士の忘年会。「あうんの呼吸」で日程が決まります。

この「あうん」も仏教用語です。漢字では「阿吽」と書きます。

仏教とともに日本に伝えられたサンスクリット語は梵字(ぼんじ)とも言います。その梵字にもひらがなの五十音のようなものがあり、その最初の「ア」の字、最後の「フーン」の字を漢字で音写したものが「阿吽」です。

始まりと終わりにちなんで、全ての物事の始まりと終わりを意味します。仏教とりわけ密教では、一切の万物が発生する根源とその究極の帰着、宇宙の始まりから終わりまでを表す言葉です。

つまり「阿」は万物が発生する原理、「吽」は万物の帰着、あるいは「阿」は覚(悟)りを求める菩提心、「吽」はその結果としての涅槃。わかったような、わからないような話ですが、そこは「阿吽の呼吸」で理解してください(笑)。

このように「細かい説明はしないけど、阿吽の呼吸でわかってよ」「まあ、いろいろあるけど、長い付き合い、阿吽の仲なんだから理解してよ」というように、いかにも日本的な意思疎通にぴったりの概念だったので、日常会話の中にも定着したのでしょう。

「言わなくてもわかり合えること」「言葉にしなくても通じ合うこと」が「阿吽」の仲です。

口を開けた「阿形(あぎょう)」、口を閉じた吽形(うんぎょう)の一対の像は、お寺の金剛力士像(仁王像)、神社の狛犬(本来は獅子と狛犬の一対)、沖縄のシーサーなどにみられます。

「阿吽の呼吸」に似た「以心伝心」という四文字熟語。仏教とりわけ禅宗では、言葉では表せない仏法の真髄を無言のうちに師から弟子に伝えることを意味します。

十世紀頃の中国北宋の仏教史書「景徳伝灯録」という文献の中の記述、「仏の滅する後、法を迦葉に対し、心を以て心に伝う」に基づきます。

この記述に登場する「迦葉」はお釈迦様の十大弟子のひとり「マハーカッサパ」。別名「頭陀第一」とも言われたお釈迦様の後継者です。

ちなみに日泰寺山門の一対の像は「阿形」と「吽形」ではなく、その「迦葉(かしょう)尊者」と、お釈迦様の従兄弟の「阿難(あなん)尊者」。阿難尊者はお釈迦様の教えを一番たくさん聞いていたので「多聞第一」とも呼ばれました。

日泰寺の尊像は「阿形」と「吽形」でないことは、「阿吽の呼吸」でご理解ください。それではまた来月、ごきげんよう。

(2020年11月)


第220話 仏教用語 (刹那、快楽)

皆さん、こんにちは。いよいよ秋本番。朝晩は冷え込む日も増えてきました。くれぐれもご自愛ください。

かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。

先月号では、食欲の秋、スポーツの秋なので、美食三昧、スポーツ三昧の「三昧(さんまい)」についてご紹介しました。楽しいことばかりに没頭すると、刹那(せつな)的だとか、刹那主義だとか言われる向きもありますが、この「刹那」も仏教用語です。

「刹那」はサンスクリット語の「シャナ」の音写。実は時間の単位を表します。とりわけ、もっとも短い、つまり最小の時間単位が「せつな」です。

具体的にどのぐらいの長さかについては諸説ありますが、よく言われるのは弾指(指をひとはじきする)間に刹那が六十五回。指をひとはじきするのに一秒もかかりません。仮にひとはじき〇・一秒だとすると、その六十五分の一は〇・〇〇一五秒です。とにかくすごく短い時間を指します。

二世紀インドの高名な僧、龍樹(ナーガールジュナ)は「刹那」に具体的な時間的長さを設定することはせず、とにかく「極めて短い時間」「瞬間」であるとして、人間の「念」の時間と説明しています。

仏教では輪廻転生(生まれ変わり)が説かれており、お釈迦様の弟子たちが自分の前世や来世の心配ばかりするのを憂いて、「今この刹那を大切に生きなさい」と諭しました。「今」「ここ」を全力で生きることの大切さを教えています。

つまり、仏教的には「刹那」に否定的な意味はありません。その瞬間に「念」を集中する刹那主義も、決して後ろ向きの意味ではありません。その時々に集中する、真剣に念じるということであり、むしろ肯定的な意味です。

「刹那的な生活」「刹那的な人生」と聞けば、計画性のない、快楽主義の生き方という捉え方が日常会話での使い方ですが、仏教用語的には、その時々の生活や人生に集中して取り組んでいる姿を表します。

仏教用語的な意味を正確に日常会話的に表現すれば、「刹那主義」は言わば「瞬間主義」「現在主義」。一瞬、一瞬を大切にする充実した生き方とも言えます。決して快楽主義ではありません。

ここで出てきた「快楽」も仏教用語です。仏教用語的には「かいらく」ではなく「けらく」と読みます。

「無量寿経」というお経には「快楽安穏(けらくあんのん)」という表現が出てきますが、これは人々が「安楽に暮らし、浄土に暮らす」ことを意味します。

「刹那」も「快楽」も仏教的には決して悪い意味ではないのに、日常会話では逆向きに使われています。以前からお伝えしているように、日常会話の中に定着している仏教用語は、往々にして本来の意味とは逆向きに使われています。不思議なことですね。

それではまた来月、ごきげんよう。

(2020年10月)


第219話 仏教用語 (ガタピシ)

皆さん、こんにちは。まだまだ暑い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。

日常会話の中に登場する仏教用語をお伝えしているかわら版。少しでも読者の皆さんのお役に立てれば幸いです。

秋本番は同時に台風シーズン。温暖化等の影響で台風が大型化しており、被害も甚大になるケースが頻発しています。どうぞお気をつけください。

最近の家屋の窓はサッシ等の金属製が多いので、台風が来るからと言って特に何かすることはありません。ステンレス等の雨戸を閉めて、準備万端。

しかし、今から二十年前、三十年前ぐらいまでは、雨風で戸や窓がガタピシ鳴って外れることもあるため、台風が来る前に板を打ち付けて補強する光景が見られました。団塊の世代以上の皆さんは、よくご記憶のことと思います。

最近の若者は「戸がガタピシ鳴る」などという表現はあまり使いませんが、この「ガタピシ」、実は仏教用語です。

漢字で書くと「我他彼此(がたぴし)」です。漢字を見ると、意味が何となくイメージできます。自分と他人、あれとこれと、物事が対立して決着しないこと、うまくいかないことを表し、「我他彼此の見」と言います。

音もなく静かに、スムーズに動く戸が理想ですが、戸の建てつけが悪いと、ガタピシと騒々しく、開けるのも閉めるのも、うまくいかないということです。

自分と他人、あれとこれ、というように、物事を対立してとらえることは、その前提として、「自分の考えが正しい」「こちらの方が良い」という判断や価値観があって起きることです。そうした状況から、さまざまな衝突や摩擦が生じ、争いごとに発展していきます。

仏教は「此あるが故に、彼あり」と言うように、相互関係を重視した教えです。因縁と言ってもよいでしょう。

自分も、他人も、あれも、これも、それぞれに思いや主張があります。そのうちのどれかひとつだけが「正しい」「正義」と、どうやって決めることができるのでしょうか。

争いごとは、双方が「正しい」ことや「正義」を主張し合って起きるものです。「正義」と「正義」を主張し合って争いになった場合、どちらの「正義」が「正義」でしょうか。

お互いに譲り合わないと、「ガタピシ」して物事がうまく進まず、結局争いごとに発展します。人間関係においても、国と国との間でも、同じですね。

「いやぁ、最近は歳をとって、体がガタピシだ」などという言い方もします。体のあちこち、体と心、それぞれが調和するように、ご自愛ください。

それでは皆さん、また来月お会いしましょう。

(2020年9月)


第218話 仏教用語 (大げさ、ハッピ)

皆さん、こんにちは。立秋も過ぎましたが、暑さは続きます。暑さとともに、再拡大のコロナにもくれぐれもご自愛ください。

かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。

「死にそうに暑い」「いやそんな大げさな」との会話も珍しくない近年の酷暑ですが、「大げさ」は漢字では「大袈裟」と書き、実は仏教用語です。「袈裟」はお坊さんの装束のことです。

今から二五〇〇年前、シャークヤ(釈迦)国の王子だったお釈迦様は修行の旅に出るためにお城を出奔。頭を剃って、身につけていた立派な衣服を漁師の粗末な服と交換しました。修行に立派な衣装は必要ないからです。

その逸話から、弟子や修行僧もお釈迦様の質素の精神、本当に必要なことだけを志向する精神を尊び、粗末な布をまといました。つまり、袈裟は質素なものだったのです。

日本に仏教が伝来したのは六世紀。時代とともにお釈迦様の質素の精神は薄らぎ、「袈裟」は修行の衣服から儀式の衣服に変化し、だんだんと華美なものになっていきました。

やがて、質素とはほど遠く、実態とかけ離れたという意味で「大袈裟」という言葉が誕生しました。

暑い夏には帽子をアミダにかぶって首筋を隠さないと日射病、熱射病になりますね。この「アミダにかぶる」の「アミダ」は阿弥陀様の「阿弥陀」です。

「アミダにかぶる」とは、斜めにかぶるのではなく、全方向に均等に丸いツバがある帽子を少し後ろ下がりにかぶること言います。ちょっと小意気な感じがします。

少し後ろにずらした帽子のツバが阿弥陀様の後光(光背) に見えたことから「アミダにかぶる」という表現が誕生しました。

余談ですが、「アミダくじ」の「アミダ」も「阿弥陀」です。昔の「アミダくじ」は放射状に書かれたため、やはり後光に喩えて「アミダくじ」と言われるようになりました。

暑い夏は洗いざらしの衣服が気持ちいいですが、この「洗いざらし」も仏教用語です。その昔、お産で亡くなった女性の霊を弔うために川辺に布をかけ、通りがかりの人々に水をかけてもらって布が色褪せると霊が浮かばれて成仏すると信じられていたそうです。その仏教儀式を「洗いざらし」と言い、そこから派生した表現のようです。

今年はコロナで夏祭りも中止の先が多いようですが、お祭りの「ハッピ」も仏教用語です。

「法被」と書いて「ハッピ」。高僧の座る席に豪華な金襴の布をフワっと被せる作法から派生し、衣服の上にフワっと着る羽織に似た裾の短い上着のことを指すようになりました。

夏はカバンを持って歩くより「ずだ袋」のように首からかけるカバンの方が両手も空いていいですね。この「ずだ袋」も「頭陀袋」と書く仏教用語。修行僧が首にかけて持ち歩いた粗末な布製の袋が「頭陀袋」。中にお経、数珠、お布施などを入れます。

今月も仏教用語だらけですね。それではまた来月、ごきげんよう。

(2020年8月)


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大塚耕平

  • 2002年から「弘法さんかわら版」を書き続けています。仏教に親しみ、仏教から学び、仏教を探訪しています。より良い社会を目指すうえで仏教の教えは大切です。「弘法さんかわら版」は覚王山日泰寺(名古屋市千種区)と弘法山遍照院(知立市)の弘法さんの縁日にお配りしています。縁日はお大師様の月命日に立ちます。覚王山は新暦の21日、知立は旧暦の21日です。
  • 著書に「お大師様の生涯と覚王山」(大法輪閣)、「仏教通史」(大法輪閣)など。全国先達会、東日本先達会、愛知県先達会、四国八十八ヶ所霊場開創1200年記念イベント(室戸市)、中日文化センターなどで講演をさせていただいています。毎年12月23日には覚王山で「弘法さんを語る会」を開催。ご要望があれば、全国どこでも喜んでお伺いします。
  • 1959年愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒、同大学院博士課程修了(学術博士、専門はマクロ経済学)。日本銀行を経て、2001年から参議院議員。元内閣府副大臣、元厚生労働副大臣。現在、早稲田大学総合研究機構客員教授(2006年~)、藤田医科大学医学部客員教授(2016年~)を兼務しています。元中央大学大学院公共政策研究科客員教授(2005年~17年)。