耕平さんブログ

第202話 仏教用語(世界、世間)

皆さん、こんにちは。ゴールデンウィークが待ち遠しい季節になりました。でも、朝 晩は冷え込む日もあります。平成最後の月。くれぐれもご自愛ください。日常会話の 中に登場する仏教用語をお伝えしているかわら版。少しでも読者の皆さんのお役に立 てば幸いです。

新年度になり、就職転勤、入学や転校で新たな生活を始めた人も多いと思います。新 しい同僚や新しい友人との出会い、新しい世界の始まりです。

この「世界」も仏教用語です。一昨年十月のかわら版でお伝えしました。

「世界」という言葉は英語の「ワールド」の日本語訳として用いられますので、これ が仏教用語だとはなかなか気づきません。

仏教では「ひとりの人間にはひとつの世界がある」と教えます。一人ひとりに世界が あるというのです。「自我」「自分」というものを中心(国王)として、見渡す限り を自分の世界(領土)と考え、何でも思い通りにしたい、好きにしたいと、「欲」や 「執着」に囚われます。

自分に関係の深いもの、自分が好むものを近くに置き、関係の浅いもの、自分が嫌い なものを遠くに置くという「自我の遠近法」で支配された「世界」です。

誰もが同様に一人ひとりの「世界」があること、その「世界」に囚われていることを 理解していれば、日頃の人間関係も変わってきそうですね。

「自分」の「世界」の「欲」や「執着」に囚われれば、別の「世界」を持つ他人が納 得するはずがありません。「世間(せけん)」は難しいですねぇ。

この「世間」も仏教用語です。「世間体が悪い」「世間に顔向けができない」「世間 の物笑いの種になる」などの使い方がされます。「世の中」「社会」という意味で使 われています。

「世界」の本来の意味から「世間」を考えると、一人ひとりが持っている「世界」と 「世界」の「間」ということです。

「世間体が悪い」とは、自分の価値観や判断基準で判断しているから「世間体が悪 い」のです。他の人の「世界」からの見られ方を自分の「世界」の価値観や判断基準 で勝手の想像しているわけですから、ずいぶん自分の「欲」や「執着」に囚われてい るとも言えますね。

「世間」という仏教用語に「出」をつけて「出世間(しゅっせけん)。これも仏教用 語です。自分の「欲」や「執着」に囚われる「世間」感から解放されて、「世間」を 越えた「世界」、すなわち仏や菩薩の覚った境地のような「世界」を「出世間」と表 現するようです。

一昨年の九月には「出世」という言葉もご紹介しました。世の中や「世間」を超越 し、覚りの境地に至ることが「出世間」「世に出る」「出世」と言います。そういう 人は、道理をわきまえ、「欲」や「執着」に囚われない、感謝と謙虚の気持ちに満ち た人でしょう。そういう人になりたいものです。

かわら版も「世間体」を気にすることなく頑張ります。それでは皆さん、また来月お 会いしましょう。

(2019年4月)


第201話 仏教用語 (億劫)

皆さん、こんにちは。いよいよ春本番です。でも、朝晩は寒い日もあります。くれぐれもご自愛ください。日常会話の中に登場する仏教用語をお伝えしているかわら版。少しでも読者の皆さんのお役に立てば幸いです。

年度末のこの時期、仕事や家庭や学校の節目の時期。経理処理、確定申告、転勤や入社、卒業や入学。何かと区切りをつけなくてはならないこと、億劫なことが多い季節です。引越しの準備や新居での荷捌き、億劫ですね。

この「億劫」も仏教用語です。今では「おっくう」と読みますが、仏教用語としての本来の読み方は「おくこう」。それが俗語化して「おっくう」になりました。

仏教的には「百千万億劫」のこと。つまり、「無限に長い時間」「永遠」という意味。それが変化して、現代では「気乗りがせず面倒」「気が進まずやりたくない」という気持ちを表現するために使われています。

「無限に長い時間」「永遠」という本来の意味にかけて言えば、同じようなことを繰り返しやらなくてはいけないこと、いつまでも終わらないようなことに直面した時に、「億劫だなぁ」とつぶやくのは、何となくわかります。

ただ単に「面倒くさい」「やりたくない」という気持ちを表すために「億劫だなぁ」と言うのは、少々意味を変え過ぎですね(笑)。

「仕事も溜まっているし、家事もやらなきゃいけないし、子どもの世話も、親の介護もあるし・・・」というように、たくさんの用事を前にして「億劫だなぁ」とつぶやく場面は、本来の意味に多少近づいているような気がします。

しかし、よくよく考えてみると、人間にできることは目の前のことだけです。同時にふたつのことはできません。先のことや、他のことを心配してみても、何も変わりません。できることは、目の前のこと、今まさしく直面していることに取り組むだけです。

「億劫」に感じるのは、目の前のことに集中していないからだとも言えます。同じような作業がずっと続く場合、同じような日常がずっと続く場合でも、「億劫」だと思って、先々の状況が自分の思い通りに変わるわけではありません。

できないことを「こうなればいいなぁ」「ああなればいいなぁ」と思い、目の前のことが「億劫」に感じるのは、「欲」や「執着」と言っていいでしょう。

仏教は「欲」や「執着」に囚われないことを薦めています。「欲」や「執着」に囚われず、それを制することができれば、「億劫」な気持ちは涌いてきません。

「億劫」な気持ちが涌いてくる理由は、その人自身が「億劫な思い」つまり「欲」や「執着」に囚われ、目の前のことに集中し、一生懸命努力していないからです。

仏教用語の「億劫」と日常用語化した「億劫」。その関係をじっくり考えると、人生のヒントが出てきそうです。

かわら版も「億劫」にならずに頑張ります。それでは皆さん、また来月お会いしましょう。

(2019年3月)


第200話 仏教用語 (精進)

皆さん、こんにちは。立春が過ぎたとは言え、寒い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。日常会話の中に登場する仏教用語をお伝えしているかわら版。少しでも読者の皆さんのお役に立つよう、今年も精進します。

寒い中を武道やスポーツの世界では寒稽古を行い、精進します。寒中水泳というのもありますね。想像しただけで寒くなります。皆さん、すごいですね。頭が下がります。ここまでで二度も登場した「精進」、これも仏教用語です。

「精進」という言葉は、お釈迦さまが初めて行った説法「八正道」(八つの正しい道)の教えの中に登場します。

具体的には「正見」「正思」「正語」「正業」「正命」「正精進」「正念」「正定」の八つ。それぞれ仏教的には深い意味がありますが、あまり難しく考えないでください。例えば「正見」は邪(よこしま)な考え方を持たないこと、「正語」は人の悪口を言わないこと等々、漢字の意味から直感的にイメージできます。

「精進」は「努力する」という意味で使われますので、「正精進」はつまり「正しい努力」。

しかし、この「正しい努力」とは具体的にどのような努力なのか。それが難題。自分で「正しい努力」だと思っていることが、他人や社会にとっても「正しい努力」とは限りません。

もちろん、他の「八正道」も、いったい「何が正しいのか」ということが難しい点です。

「八正道」という教えで説かれている「正」とは、結果や損得を優先してしまう人間の身勝手な判断基準による「正しさ」ではなく、「偏りのない正しさ」のことを指しています。

人間には「あれが欲しい」「これが欲しい」「ああなりたい」「こうなりたい」という「欲」「こだわり」の気持ちがあります。「正精進」は「欲」や「こだわり」を乗り越える努力とも言えます。

「精進料理」の「精進」もこの「精進」。仏教には「不殺生戒」(生き物を殺してはいけない)という戒律があります。それを実践する「正しい努力」のために、野菜だけで作るのが「精進料理」。でも、植物も生き物。「不殺生戒」の実践は不可能とも言えます。

仏教では「偏りのない正しさ」を求めます。「正精進」とは一生懸命努力するだけでなく、「偏りのない正しさ」を身に着ける努力、つまり「欲」や「こだわり」を乗り越え、結果に囚(とら)われない努力を指しているのかもしれません。

スポーツでも、勉強でも、仕事でも、みんな一生懸命努力します。努力は良いことです。結果や損得をあれこれ考えることなく、「欲」や「こだわり」に囚われずに「正精進」すると、結果はついてきます。皆さんの努力が実ることを祈念します。

今年のかわら版も「精進」「精進」。それでは皆さん、また来月お会いしましょう。

(2019年2月)


第199話 仏教用語 (自然、自由自在)

皆さん、あけましておめでとうございます。かわら版、今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。寒い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。

一昨年から日常会話の中の仏教用語をご紹介しているかわら版。今までに登場したのは、我慢、愚痴、迷惑、意地、分別、無上、遊戯、退屈、出世、彼岸、世界、人間、知恵、四苦八苦、悲願、ありがとう、縁起、挨拶、呂律、達者、学生、無学、真実、機嫌、大丈夫、貪欲、変化、道楽、金輪際、覚悟。

いやはや、たくさんあります。いちいち語源や意味を考えながら使っていると、頭が痛くなりそうです。仏教用語を自然に自由自在に使いこなせるといいですね。

この「自然」も「自由自在」も仏教用語。「自然」は「じねん」と読み、自(おの)ずからそうなっている様(さま)、神仏の計らいで生じている世界、人間の手が加わっていないこと、仏教の真理を指す言葉です。

最近は自然災害が大規模化しています。人間が自然を破壊している結果と言えますが、「自然」は神仏のはからいによって生じている世界。「自然」を破壊すれば、神仏がお怒りになるのはもっともなことです。

人間は「自然」に対して敬意を払い、謙虚に向き合うことが大切です。科学技術で「自然」をコントロールするなどという考えは、大それたことです。

「自由自在」の「自由」。あらゆる束縛から解き放たれた覚り(悟り)の境地を「自由」と言います。自分勝手に好きにしてよいという意味ではありません。

「自由」であれば、覚りを得て、仏教の真理に至っている「自然」な存在となれるので、そのことを「自在」と言います。

仏のことを時に「自在人」と呼ぶのはそのためです。観世音菩薩のことを観自在菩薩と言う場合の「自在」もそういう意味です。般若心経にも出てきます。

「自由」と「自在」がセットになった「自由自在」。日常会話では「あの人は自由自在だ」「自由自在に何でもやってみたい」「自由自在に操る」という表現で「好き勝手な性格だ」「好きなことをやりたい」「思いどおりにする」というようなことを表しがちですが、仏教における本来の意味とは異なります。

「私は自由人」と言う人が時々いますが、仏教的には「私は覚りを開いている人間だ」という意味となり、少々不遜な発言かもしれません。

「自由人」になるということは、あらゆることに感謝し、自分は生かされているということを理解し、自然を敬い、謙虚に生きていくことです。

そういう意味の「自由自在」な人が多くなれば、家庭も組織も社会も国も、「自然」な姿に近づけることと思います。

今年も仏教用語の探検をまだまだ続けます。どうぞお付き合いください。ではまた来月。

(2019年1月)


第198話 仏教用語 (金輪際、覚悟)

皆さん、こんにちは。今年もいよいよ師走。寒い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。

今までに登場したのは、我慢、愚痴、迷惑、意地、分別、無上、遊戯、退屈、出世、彼岸、世界、人間、知恵、四苦八苦、悲願、ありがとう、縁起、挨拶、呂律、達者、学生、無学、真実、機嫌、大丈夫、貪欲、変化、道楽、金輪際、覚悟。いやはや、たくさんあります。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしているかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

今年はどんな一年でしたでしょうか。年末には一年を振り返り、新年から気持ちも新たに何かに取り組もうという覚悟を決める人も多いことでしょう。

禁煙を決意する人は「こんりんざい、タバコは吸わない」、受験に向けて勉強に力を入れようと思う人は「こんりんざい、怠けない」等々、覚悟にもいろいろあります。

さて、時々使ってしまう「こんりんざい」という言葉は「金輪際」と書きます。「金輪際」も「覚悟」も仏教用語です。

まずは「金輪際」。インドの古い世界観では、世界の中心に「須弥山(しゅみせん)」と呼ばれる山が高くそびえていました。漢訳仏典では「妙高山」と表わされることもあります。

「須弥山」の周囲には「四大州」と呼ばれる大陸があり、それを支えている土台のことを「金輪(こんりん)」と呼びます。その「金輪」の最も深い部分が「金輪際」。世界の果てを表します。転じて、物事の極みや極限状態を指すようになりました。

次に「覚悟」。一般に「覚悟」と言えば、重大な決意や決心を意味します。一方、仏教の「覚悟」は、真理を覚(悟)る、真理に目覚めることを意味します。

「涅槃経」という仏経典には、「仏とは覚と名づく。自ら覚悟し、また能く他を覚す」と説いています。「覚悟」を得た人を「仏」と称し、その教えに随うのが仏教徒です。

時代劇などで、斬りかかる相手に「お覚悟」と叫ぶシーンがよくありますが、これは「もうこれまでと覚りなさい」という意味で使われています。「もうだめだ」ということを「覚りなさい」ということですね。

人間は独り善がりな存在です。自分だけが正しいと思い、自分だけで何かを成し遂げられると過信し、「私には覚悟がある」「必ずできる覚悟がある」などと「覚悟」を乱発します。

「覚悟」ができればそれは「仏」になるということ。人間はそんなに簡単に「覚悟」はできません。

「無量寿経」という仏経典に「独り来り、独り去りて、ひとりとして随う者なけん」と書かれています。人間は一人ひとりが独立していますが、この世は独りでは生きていけないものであり、何かに生かされているのが人間という存在。「覚悟」「覚悟」と力むよりも、他者や見えざるものに感謝して、「おかげさま」の気持ちで生きることが大切です。

和歌にも「おのが目の 力で見ると思うなよ 月の光で月を見るなり」とあります。自分の「覚悟」で何かができるのではなく、何かの「おかげさま」で自分が成り立っていることを「金輪際」忘れないこと。来年は心がけたいものです。

日常会話の中に浸透している仏教用語。まだまだたくさんあり、知らないことばかり。奥が深いですねぇ。それでは皆さん、良い年をお迎えください。

(2018年12月)


第197話(2018年11月)道楽

皆さん、こんにちは。今年も晩秋の十一月。寒い日も増えてきました。くれぐれもご自愛ください。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしているかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

寒くなると、鍋物が恋しくなります。「食欲の秋」は食道楽には楽しい季節。そのあとは忘年会シーズンにお正月。食道楽冥利に尽きます。

食道楽の「道楽」も仏教用語です。今では「道楽」というと、遊んでばかりいる人、怠け者といった意味で使われることが多く、「ドラ息子」の「ドラ」も「道楽息子」から転じているようです。

「阿育王経」という仏経典に「道楽を得る」という記述があります。仏教では「道楽」は「覚り」を意味することから、「道楽を得る」とは「覚りの境地に達する」ことです。

「法華経」にも「道を以て楽を受く」とあり、「道」を修めることによって得られる「楽」という「結果の悦び」を表します。

つまり、仏教的には本来は良い意味で、高尚な言葉。仏教用語としては「ドウギョウ」と読みます。

普通の人では到達できない素晴らしい境地、覚りの境地が「道楽」。それが今では良くないイメージで使われるようになったのはなぜでしょうか。

江戸時代には、趣味に励み、極めることは格好良く、伊達で洒脱と思われていました。その趣味が相当の水準に達した時には「道楽の境地」などと洒落た言い回しをしました。

それがいつしか、仕事や本業そっちのけで遊び呆けることを表す言葉に転じていきました。「道楽」は軽い趣味の域を越え、度を越した放蕩な趣味への没頭を表すのが現代的な意味ですね。

仏教では「楽」には「道楽」と「俗楽」の二種類あり、刹那的な「俗楽」におぼれることなく、迷いを脱して、仏道を願い求めて「道楽」に達することを説きます。

人間、なかなか仏教的な「道楽」の境地には達することはできません。目の前にある「欲」や「俗楽」の誘惑に負け、現代的な「道楽」人生に陥ってしまいます。

余談ですが、江戸時代の「三大道楽」は園芸道楽、釣り道楽、文芸道楽だったそうです。園芸道楽の人気は、初期はツバキとキク。やがてツツジ、アサガオ、ランが加わり、大名は競い合って庭園造りに熱中し、庭石や樹木を収集。「道楽」が悪い意味に転じていく片鱗が伺い知れます。

釣り道楽は、船を浮かべてのキス釣りが一番人気。泊まりがけの釣りは旦那衆の贅沢な趣味だったそうです。文芸道楽は、俳諧、和歌、紀行文等々、いろいろなジャンルがあったそうです。道楽は隠居してからが特に本格的になったそうです。

日常会話の中に浸透している仏教用語。まだまだたくさんあり、知らないことばかり。奥が深いですね。


第196話(2018年10月)貪欲

皆さん、こんにちは。十月、秋本番ですね。朝晩は寒いぐらいの日も増えてきました。くれぐれもご自愛ください。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしているかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

十月と言えば、「食欲の秋」。あるいは、「スポーツの秋」「読書の秋」とも言いますが、何かを貪欲に追求するには、天候や気温に恵まれた季節ということでしょう。

貪欲に追求する「貪欲(どんよく)」。これも仏教用語です。濁らずに「とんよく」と読みます。語感からはあまり良い印象は受けませんが、日常会話では「あの人は貪欲だよね」などと、時には良い意味も込めて使う場合もあります。しかし、仏教用語的にはやはりあまり良い意味ではありません。

「欲」は迷いの根源です。「律蔵」という仏教の戒律書には「すべては燃えている。貪欲(とんよく)の火によって、瞋恚(しんい)の火によって、愚痴(ぐち)の火によって燃えている」というお釈迦様の言葉が残されています。

「貪欲(貪り)」「瞋恚(怒り)」「愚痴(無知)」は仏教では「三毒」と呼ばれ、人間の持つ三つの根本煩悩とされています。

「貪欲」はサンスクリット語で「ラーガ」といい、自己の欲したものを、次から次へと求め続ける激しい欲望を意味しています。人間の「五欲」である「食欲」「財欲」「色欲」「名誉欲」「睡眠欲」、全てにおいて「貪欲」は戒められています。

初期の経典のひとつである「スッタニパータ」には「一切のものは虚妄であると知って貪りを離れる人は、迷いの世界から抜け出すことができる」と説かれています。

一方、「欲」は人間の努力の原動力でもあります。試合に勝ちたい、試験に合格したい、豊になりたい。こうした動機が、努力の源です。つまり、健全な「欲」ではなく、貪るほどの欲望である「貪欲」を戒めています。

「食欲の秋」と言っても、食べ過ぎ、飲み過ぎは禁物。今年の秋は生活や食生活も変化させて、「健康の秋」といきましょう。豊かになることは良いことですが、「金の亡者」と言われるような姿勢は変化させなくてはなりません。と言って使った「変化」も仏教用語です。

「変化」は「へんげ」と読みます。仏教の「変化」は、仏性、仏が人々を救うために仮の姿(化身、権現)となって現れることを指します。救いの求めがあると現れ、危機が収まれば消えます。

全ての人に仏性は宿っています。誰もが内面、内心に、仏性、仏心を宿しています。それに気づくか否か、仏性に準じた人間になれるか否か。つまり、「変化」できるか否かが、自らを律して自らを救えるか否かの分かれ道となります。「貪欲」から解放される大切な鍵と言えます。

日常会話の中に浸透している仏教用語。まだまだたくさんあり、知らないことばかり。奥が深いですね。


第195話(2018年9月)大丈夫

皆さん、こんにちは。早いもので九月。今年も終盤ですね。だんだんと朝晩は冷え込む日も増えてきます。くれぐれもご自愛ください。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしているかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

九月と言えば台風シーズン。最近は地球温暖化の影響で台風の規模も巨大化。被害の拡大が懸念されます。台風の備えは大丈夫でしょうか。

さて、この「大丈夫」も仏教用語です。「体調は大丈夫?」「仕事の準備は大丈夫、任せてください」などと、日常用語の中に頻繁に登場しますね。

仏教では「丈夫」は「菩薩(ぼさつ)」のことを意味します。菩薩とは人々を救うため、世の中を良くするために、自ら覚りを得ようとしている修行者のことを言います。

仏教典の原語であるサンスクリット語の「マハー・プルシャ」が大丈夫と訳されました。マハーは「偉大な」、プルシャは「人間」。つまり「偉大な人間」。それが転じて菩薩のことを指すようになりました。

現代語の「大丈夫」は「問題ない」「準備万端」「自信ある」というような意味。それもそのはず、「偉大な人間」ですから何事に対しても大丈夫なはずです。

広辞苑によると「とりわけ壮健なこと」「あぶなげのないこと」「間違いの無い様」などと書かれており、英語の「ノー・プロブレム」に近い言葉です。

しかし、本来の意味がわかってしまうと逆に「大丈夫、大丈夫」と簡単には言いにくくなりますね(笑)。そこが重要です。「何があっても大丈夫」という自信の気持ちとともに、自分が「偉大な人間」などと思わずに、謙虚に対応することが重要です。

仏教が漢語に翻訳された段階では、学識人徳の備わった優れた人を「丈夫」と褒め称え、「丈夫」に「大」がついた「大丈夫」は仏の異名となりました。つまり、「私は大丈夫」という表現は「私は仏。完璧な人間です」という意味になります。

やがて、室町時代ぐらいから「大丈夫なり」という表現が使われるようになり、現代語につながっていきました。

「君、今年の業績は大丈夫か」「社長、大丈夫です」、「こんな天気で出かけて大丈夫かな」「大丈夫だよ、きっと何とかなるよ」等々、社会活動や個人の日常会話の中で頻繁に登場する「大丈夫」。これほど「大丈夫」が多用される現代社会は、逆に間違いや自信過剰の多き世の中である証かもしれません。「想定外」とは「大丈夫」に根拠がなかった結果です。

「準備万端、大丈夫」と過信せずに努力を怠らないこと、「健康は大丈夫」と過信せずに暴飲暴食を慎むこと、「人間関係は大丈夫」と過信せずに周りの気持ちを慮ること。「大丈夫」という言葉を使うたびに、「過信せず、謙虚に」ということを思い起こすことが大切です。仏教はそれを教えています。

日常会話の中に浸透している仏教用語。まだまだたくさんあり、知らないことばかり。奥が深いですね。


第194話(2018年8月)機嫌

皆さん、こんにちは。酷暑です。くれぐれもご自愛ください。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしているかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

夏休み。久しぶりの帰省や旅行で親戚や旧友に会い、「ご機嫌いかがですか」と言い交すことも多い季節ですね。この「機嫌」も仏教用語です。本来は「譏嫌」と書き、文字通り「譏(そし)りを嫌う」という意味です。

今日では、「私は機嫌が悪い」と自分の気持ちを表現したり、「相手の機嫌を損ねない」と他者の気持ちを慮る両面で使われます。

世間のお布施で生活している僧や修行者が衣食住などで贅沢をすることは、世間の顰蹙(ひんしゅく)、すなわち「譏り(そしり)」を買うことでした。お布施で贅沢三昧することは許されません。

そこで戒律が課せられました。蓄財をしない、贅沢をしないという「遮戒」。仏弟子が仏道に励むことができるようにという配慮から生まれた戒律です。

仏弟子が人々から敬われず、「譏り」を受けるようになれば、僧伽(そうぎゃ=仏教教団)は立ち行かなくなります。たった一人の非行でも、世間から「譏り」を受ければ、僧伽の存続は危うくなります。

「譏り」を受けることを「嫌う」。戒律を定めて「譏り」を避ける。世間の「譏り」を受けないように「機(タイミング)」を覗う。それが「機嫌」の本来の意味です。やがて、そこから他者の心を覗う意味や、安否を気遣う意味に変化していきました。

世間の機を計り、自らを律し、慎ましく生きる本来の「機嫌」。しかし、現代の使われ方は、相手の顔色を覗い、良い評価を下してもらえるように阿る「ご機嫌」。自らが中心であるかの如く「私は機嫌が悪い」などと一人称で使う「機嫌」。どちらも本来の意味とはほど遠い使い方ですね。

「ご機嫌」取りはほどほどに、俺様意識丸出しの「自分の機嫌」を優先することなく、「機嫌」の本来の意味を旨とした慎み深い日々を過ごしたいものです。

嫌なことに遭遇し、自分の気持ちを指して、「私は機嫌が悪い」などと表現することは、「機嫌」の本来の意味とは異なります。

では「私は気分が悪い」と表現するとどうでしょうか。「気」を「分ける(シェアする)」ということは、自分の気分が悪ければ、相手も気分が悪いということかもしれません。だから気まずい雰囲気になります。自分が相手を嫌いな時は、相手も自分を嫌っています。「気分」も仏教用語のような気がしてきました。

日常会話の中に浸透している仏教用語。まだまだたくさんあり、知らないことばかり。奥が深いですね。

今日も「機嫌」良く過ごしましょう。自らを律して「譏り」を受けないように慎ましく過ごすこと。それが「機嫌」良く過ごすことの本来の意味です。ki


番外編(旧暦と新暦)

皆さん、こんにちは。八月も最終日ですが、暑い日が続きますね。くれぐれもご自愛ください。

さて、このかわら版。毎月のお大師様(弘法大師空海)の月命日(二十一日)に開かれる覚王山日泰寺(名古屋)と弘法山遍照院(知立)の「弘法さん」の縁日にお配りしています。

ところが、知立の「弘法さん」は今日が八月二回目。そうなってしまった理由は、知立の縁日が「旧暦」の二十一日に開かれているからです。

日泰寺と遍照院のかわら版の号数調整のために、今月は特別編。「新暦」と「旧暦」について少し整理しておきます。

「旧暦」とは、改暦があった場合、それ以前に使われていた暦法のことを指します。日本では、明治時代初期に「旧暦」から「新暦(現在の暦)」に変更されました。

日本の「旧暦」は正式には「天保暦」と言います。「天保暦」は、今なお占いや伝統行事などで需要があり、「旧暦」または「陰暦」の俗称で用いられています。但し、厳密に言うと、現在「旧暦」として使われている暦は改暦前の「天保暦」と微妙に異なり、正確には「修正天保暦」です。

さて、今年のNHK大河ドラマは「西郷どん」。幕末から明治維新の頃の話ですが、明治初期には、近代化と称して様々なことが東洋風(日本風)から西洋風に改められました。暦もそのひとつです。

「天保暦」は明治五年十二月二日(一八七二年十二月三十一日)まで使われていまし。その翌日の十二月三日をもって、明治六年(一八七三年)一月一日に改められ、「グレゴリオ暦(太陽暦)」に改暦されました。

改暦の実施は、前月の明治五年十一月九日(一八七二年十二月九日)に急遽布告されました。急な実施の背景には、明治維新後、明治政府の財政が厳しかったため、月給制度にした官吏の給与の支払い回数を一回減らすためであったとも言われています。

「旧暦」では明治六年に「閏六月」があったため、年十三回給与を支払う必要がありました。真偽のほどは定かではありませんが、ありそうな話ですね。

因みに、「新暦」ではひと月が「三十日」か「三十一日」、二月だけが「二十八日」または「二十九日(四年に一度の閏年)」です。

一方、「旧暦」ではひと月が「二十九日」の「小月」か、または「三十日」の「大月」。そして、調整のため、三年に一度の「閏月」が入ります。

「新暦」は太陽暦なので太陽の周りを地球が回る周期を基準にしている一方、「旧暦」は太陰暦で月の満ち欠けを基準にしていたからです。つまり、月の満ち欠けをひと月とし、年十二回の満ち欠けを一年としていました。

その結果、太陽暦の一年が「三六五・二四二二日」であるのに対し、太陰暦の一年は「三五四・三六七一日」。この差が約三年でひと月分になるため、三年に一度の「閏月」が入ります。

西洋では太陽暦であることは、南蛮貿易が行われていた中世から日本でも知られていたようですが、一年の日数の違いやその理論的背景を解明し、理解していた昔の人たちは凄いですね。安倍晴明の時代から、天文学博士がいたことから、そうした人々の系譜が西洋と東洋の暦の違いを解明していたようです。

もっとも、「新暦」への移行は社会全般に徹底されたわけではなかったようです。

明治六年版の「官暦(政府発行の暦)」では、改暦の混乱を避けるために「旧暦」が併記され、結局、翌年以後も「旧暦」併記が続けられました。伝統行事や生活慣習などへの影響を考慮したものでしたが、「旧暦」併記が「新暦」普及を阻害するとの批判もあり、賛否両論の論争が繰り返されました。

一九○八年(明治四十一年)、帝国議会で「陽暦励行に関する建議」が可決され、一九一○年(明治四十三年)の「官暦」から「旧暦」併記が行われなくなりました。一九一○年の「旧暦」併記廃止は、人々に「旧暦」廃止と認識され、「旧暦」に基づいた行事が「新暦」や月遅れに移行する転機になりました。今から百八年前のことです。

知立の「弘法さん」はかなり古くから行われていたために「旧暦」のまま続けられていますが、覚王山の「弘法さん」が始まったのはまさしく一九一○年頃。最初から「新暦」で始まったものと思われます。

覚王山日泰寺は、一八九八年に北インドで発見された仏舎利(お釈迦様の骨)をタイの国王から分骨され、それを奉安するために帝国仏教会公認、多宗派共同で開創されたお寺です。だから、日本とタイで「日泰寺」です。

「弘法さん」の縁日は、お大師様に縁のある全国各地で平安時代以降、広がっていました。ルーツはお大師様の京都での拠点、東寺の南大門の前で開かれた縁日です。

明治維新後の廃仏毀釈によって、お寺が破壊されたり、仏教行事が中止になることもあったそうですが、日本社会に長く定着していたために、明治時代中頃から徐々に復興。「弘法さん」の縁日も、全国各地で新たに始まるところもあったようです。

一九○四年に開創された日泰寺。仏舎利が奉安された舎利殿や本堂への参拝客が増え、さらに賑わいを増すための催しとして始まったのが「新暦」二十一日の日泰寺の弘法さんの縁日です。今風に言えば、イベントですね。

それに対して知立の「弘法さん」の縁日は歴史が違います。お大師様が東国巡錫をした足跡が三河や知多に残っていますので、京都東寺で弘法さんの縁日が始まって以降、全国の縁の地に広がっていく中で、三河や知多でも開かれるようになったものと推察します。

三河新四国八十八ヶ所霊場は寛永二年(一六二五年)に西加茂郷の浦野上人が開創したと伝わります。したがって、弘法さんの縁日も、それ以降に始まったものでしょう。なお、昭和四十年には霊場会が発足しました。弘法山遍照院は、三河新四国八十八ヶ所霊場の開創札所です。

因みに、知多四国八十八ヶ所霊場の開創はこのかわら版でお伝えしたとおり、文化六年(一八○九年)です。三河新四国八十八ヶ所霊場の方が約二百年も古いことになります。

それでは皆さん、また来月お会いしましょう。


検索でさがす

大塚耕平

  • 2002年から「弘法さんかわら版」を書き続けています。仏教に親しみ、仏教から学び、仏教を探訪しています。より良い社会を目指すうえで仏教の教えは大切です。「弘法さんかわら版」は覚王山日泰寺(名古屋市千種区)と弘法山遍照院(知立市)の弘法さんの縁日にお配りしています。縁日はお大師様の月命日に立ちます。覚王山は新暦の21日、知立は旧暦の21日です。
  • 著書に「お大師様の生涯と覚王山」(大法輪閣)、「仏教通史」(大法輪閣)など。全国先達会、東日本先達会、愛知県先達会、四国八十八ヶ所霊場開創1200年記念イベント(室戸市)、中日文化センターなどで講演をさせていただいています。毎年12月23日には覚王山で「弘法さんを語る会」を開催。ご要望があれば、全国どこでも喜んでお伺いします。
  • 1959年愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒、同大学院博士課程修了(学術博士、専門はマクロ経済学)。日本銀行を経て、2001年から参議院議員。元内閣府副大臣、元厚生労働副大臣。現在、早稲田大学総合研究機構客員教授(2006年~)、藤田医科大学医学部客員教授(2016年~)を兼務しています。元中央大学大学院公共政策研究科客員教授(2005年~17年)。