耕平さんブログ

第188話(2018年2月)ありがとう

皆さん、こんにちは。立春が過ぎましたが、まだまだ寒い日が続きます。くれぐれも ご自愛ください。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしているかわら版。仏教用語がたくさ ん定着しているのには驚きます。

いつもかわら版をお受け取りいただき、ありがとうございます。毎月、「へ〜、それ も仏教用語だったの。知らんかったわ」と多くの方からお声をかけていただきます。 ありがたいことです。と申し上げた「ありがとう」「ありがたい」という言葉も仏教 用語です。

普段から何気なく使っているお礼の言葉、当然のように毎日使っている親しみ深い言 葉である「ありがとう」。この言葉のルーツは「法句経(ほっくきょう)」というお 経の一文と言われています。「法句経」はパーリ語で「ダンマパダ」と呼ばれるお経 です。

この一節に次のくだりがあります。「人の生を受くるは難く、死すべきものの、生命 あるも有り難し」。人として生まれ、命を授かったことの驚きを伝える一節です。

命を授かることも、人から親切にされることも、当然のことではなく、極めて稀で幸 運なこと。そういう「有り難い」ことに対して感謝の気持ちを伝えるのが「ありがと う」です。

友人に出会うことも、一生の伴侶と出会うことも、子どもを授かって出会うことも、 皆、「有り難い」こと。出会いに感謝して「ありがとう」という気持ちになれれば、 人間関係に悩むことも少なくなることでしょう。

「袖(そで)触れ合うも他生の縁」という諺(ことわざ)があります。「多少の縁」 ではなく「他生(または多生)の縁」です。おそらく、多くの人が「多少の縁」と勘 違いしているのではないでしょうか。

「他生」「多生」とは、何度も生まれ変わるという意味の仏教用語です。つまり、た またま道ですれ違うだけの人も、前世からの何かの縁でもない限り、何十億人もいる 人間の中で、そして広い世界の中で、偶然とは言えない何かの因縁のある「有り難 い」出会いであることを諭しています。

いわんや、友人、伴侶、子どもであれば、それは極めて「有り難い」出会いです。も ちろん、職場や地域での知人、隣人も、もちろん「有り難い」出会いです。

命を授かったこと、生きていることの「有り難さ」、あの人にもこの人にも知り合え た「有り難さ」、この仕事、あの仕事に出会えた「有り難さ」、そういう感謝と驚き の気持ちを表す言葉が「ありがとう」です。

さらに言えば、嫌な人、辛いことに遭遇するのも「有り難い」こと。そのことが腹に 落ちると、日常生活の全ての出会い、全ての出来事に感謝する気持ちが湧いてきま す。そういう気持ちになると、身の回りの風景や人生の感じ方も変わってきます。

今日もかわら版を受け取っていただいてありがとうございます。今日、あなた様に出 会えたことも、偶然このかわら版をお受け取りいただいたことも、本当に「有り難 い」ことです。

それでまた来月まで、お元気でお過ごしください。合掌。


第187話(2018年1月)悲願

皆さん、明けましておめでとうございます。かわら版、今年もご愛顧のほど、よろし くお願い申し上げます。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしているかわら版。仏教用語がたくさ ん定着しているのには驚きます。

お正月に今年の目標などを書き初めしたお子さんたちも多いのではないでしょうか。 それとも、今や書き初めなどはしないのでしょうか。僕の小学生時代は、冬休みの宿 題でしたね。

高校球児であれば「今年は甲子園に出るのが悲願」とか、ピアノやバレーに取り組ん でいるお嬢さんであれば「今年はコンクールで優勝するのが悲願」とか、いろいろな 「悲願」がありますよね。

さて、この「悲願」。実はこれも仏教用語です。

「悲願」が達成されれば、本人は気持ちが良いですが、野球やコンクールであれば、 敗れる人もいますよね。「悲願」の陰では、必ず敗者がいることを忘れてはいけませ ん。

このように、私たちが日常使う「悲願」は、自分の願望、欲望を達成したいという 「願い」です。「悲壮な覚悟で達成したい願い」が「悲願」。言わば「欲」の塊(か たまり)と言ってもよいかもしれません。もちろん、練習や努力の成果ですから、悪 いことではありません。

昨年からのかわら版でお気づきの方も多いかもしれませんが、日常用語として浸透し ている仏教用語は、往々にして本来とは逆の意味で使われています。

「悲願」も同じです。本来の「悲願」は仏さまや菩薩が「衆生(人々)の苦しみを救 うために誓われた願い」のことです。では、人々の苦しみはなぜ生じるのでしょう か。

「あれが欲しい」「これが欲しい」「あれがしたい」「これがしたい」という「欲」 を抱くことは人間の本質。そして、その「欲」が達成されないので苦しみます。

仏さまや菩薩にとって、そういう人間の「欲」や「苦しみ」を全てわが身に引き受け て、「欲」が達成されないことで「悲しみ」「苦しむ」人間の気持ちに「同悲」「同 苦」するのが「悲願」なのです。「悲願」は「阿弥陀仏の本願」とも言います。

なるほど、人間の「悲願」は「欲」の塊、本来の「悲願」はその「欲」から解放され ることを願うこと。まったく正反対でした。

「欲」から解放されて、自己中心的な生き方を正すことを諭す言葉が「悲願」。そう いう意味で使うとなれば、「今年こそはこうなりたい」「こうしたい」などという 「悲願」は忘れなさいということが「悲願」です。そういう虚心坦懐な気持ちになる と、逆に人間の「悲願」は達成されるものです。

今年も毎月、日常用語の中に定着している仏教用語をお伝えしていきます。お付き合 いのほど、よろしくお願い致します。ではまた来月、お会いしましょう。合掌。


第186話(2017年12月)四苦八苦

皆さん、こんにちは。早いもので、もう師走。本格的な冬がやってきました。くれぐ れもご自愛ください。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしている今年のかわら版。仏教用語が たくさん定着しているのには驚きます。

今年はどんな年でしたでしょうか。「いや〜、良い一年だった」という人もいれば、 「今年は心配ごとが多く、四苦八苦したよ」という人もいることでしょう。

この「四苦八苦」も仏教用語です。ご存じの方も多いかもしれませんが、それは「四 苦」まで。「八苦」までご存じの方は仏教通です。

何の不自由もないシャークヤ国の王子に生まれたゴータマ・シッダールタ、つまりお 釈迦様。シャークヤ国の王子なので、音写してお釈迦様です。

人はなぜ年老いて、病に苦しみ、そして死ななければならないのだろう。そもそも、 生きていると、悩みも多く、心配ごとだらけです。お釈迦様はこの「生老病死」の苦 しみに向き合い、物思いにふけるようになりました。

この「生老病死」が「四苦」ですね。ここまでは、すんなり理解できると思います。

さて、「八苦」はこの「四苦」にもう四つ加えて「八苦」と言います。

「愛別離苦(あいべつりく)」は、愛する人ともいつかは別れ、離れなければならな い苦しみ。生きて離別することもあれば、死別することもあります。悲しいですね。

「怨憎会苦(おんぞうえく)」は、会いたくない、接点をもちたくないような嫌〜な 人とも知り合わなくてはならない苦しみ。それを受け入れざるをえないのが人生。難 しいですねぇ。

「求不得苦(ぐふとくく)」は、「あれがほしい」「これもほしい」と欲を出すのが 人間という生き物。そして、求めても自分の思いどおりに得られないから「残念」 「悔しい」「苦しい」という気持ちが湧き上がります。「欲」こそ「苦」の原因で す。

「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」はちょっと難しいですね。「五蘊」は「色」と「受 想行識」の五文字で「五蘊」。過去のかわら版(般若心経の解説編)でお伝えしまし たが、「色」は人間のからだ、「受想行識」は人間の心を指します。からだも心も 「あれがほしい」「これもほしい」と「盛」んになるものの、思うようにならないと いう人間の本質的な苦しみを表現しています。

因みに「受」は、人間は様々な情報を目・耳・鼻・口・体・心の「六感」から「受」 けることを意味しています。その情報に対し、自分の好き嫌いや価値観から個人的な 感情を抱くことを「想」「行」「識」という字が示しています。

「生老病死」に「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五蘊盛苦」を合わせて「四 苦八苦」です。そもそも「人間」が仏教用語であることは、先月お伝えしました。「四苦八苦」と向き合う「人間」。いやはや、仏教用語だらけです。

それでは皆さん、少々気が早いですが、良い年をお迎えください。合掌。


第185話(2017年11月)人間

皆さん、こんにちは。もう十一月、冬がそこまで来ています。くれぐれもご自愛くだ さい。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしている今年のかわら版。仏教用語が たくさん定着しているのには驚きます。

仏教は生きるための哲学。いろいろ悩みがある時には、仏教の教えが心に染み入るこ とがあります。

人間はなぜ悩むのか。それは「欲」があるからだと仏教は諭しています。たしかに 「あれがほしい」「これもほしい」「ああなりたい」「こうなりたい」という「欲」 があるからこそ、それが手に入らず、思うようにならないので悩みが生じます。

「欲」は頭の中、心の中を駆け巡ります。無心であれば、頭の中、心の中で「欲」は 生じません。無心でない時、何かを考え、「ああだ」「こうだ」と思いを巡らせてい ると、「あれがほしい」「これもほしい」「ああなりたい」「こうなりたい」という 「欲」が生じます。

つまり、何かを考えていると「欲」が生じます。人間とはなかなか厄介なものです。 そもそも、この「人間」が仏教用語です。

「人間」に当たる原語(サンスクリット語)の「マヌシュヤ」は「考えるもの」とい うことを意味します。「マヌシュヤ」という名詞は「マン」という動詞から派生。そ して、「マン」は「考える」という意味です。なるほど、「人間」は「考えるも の」。

さらに、「マン」と聞くと英語の「man」を思い出します。サンスクリット語の「マ ン(考える)」が欧州に伝わり、「man(人間)」という英語に進化したように思え ます。

「人間」は「考えるもの」と聞くと、十七世紀のフランスの哲学者、自然科学者で あったパスカルの名言が思い起こされます。曰く「人間は考える葦(あし)であ る」。

もっと遡ると、古代ギリシャ(紀元前五世紀)のソフィスト(弁論家)であるプロタ ゴラスも曰く「人間は万物の尺度である」。

「人間」は自分の頭で何かを「考える」ことによって、その「人間」にとっての尺度 =判断基準や「欲」を生み出します。そして、その尺度や「欲」によって、物事の善 悪や好き嫌いを決めてしまうことから、悩みや争いが生じます。人間の数だけ異なる 尺度があります。

自分の尺度や「欲」で物事を裁かず、「欲」に囚われない心穏やかで争いごとのない 状態を目指すべきと諭したのが仏教です。

「人間」が仏教用語であることを知り、「考える」から「人間」であり、「考える」 から「欲」が生じ、「欲」があるから悩みが生じるという因果を知れば、人間関係の 摩擦や争いごとは減ることでしょう。

人間だけではありません。国内外において、皆がそういう気持ちで相手と向き合え ば、争いごとが少ない世界になるでしょう。合掌。


第184話(2017年10月)彼岸

皆さん、こんにちは。十月、秋本番ですね。朝晩は肌寒い日が増えました。くれぐれもご自愛ください。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしている今年のかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

先月はお彼岸(ひがん)。お墓参りに行かれた方も多いことと思います。「彼岸」が仏教用語であることは、何となくわかります。

お彼岸は秋分・春分の日を挟んで前後三日間の期間。合計七日間のちょうど真ん中をお中日(ちゅうにち)と言います。お彼岸は中国やインドにはない日本独特の風習。日本古来の習慣が、伝来した仏教信仰と結びついて生まれたようです。

「彼岸」は「向こう岸」という意味です。対(つい)になる言葉は「此岸(しがん)」。「こちらの岸」を意味します。

つまり、人間の世界の「此岸」に対して、仏の世界の「彼岸」。悩ましい人間世界に対して、心穏やかに過ごせる平和な世界。

実は「世界」も仏教用語です。「世界」は、仏教の原典が著されたサンスクリット語で「ローカ・ダーツ」と言います。「ローカ(世)」は「広がりのある空間」、「ダーツ(界)」は「さまざまな存在」。つまり「世界」とは、さまざまな存在で構成される広がりをもった空間という意味です。

さまざまな人間がいるために争いごとが絶えません。争いごとが絶えないのは、それぞれが「自分はこうしたい」「相手は間違っている」と自分の判断基準で物事を考え、「あれがほしい」「これもほしい」「思い通りにしたい」等の欲が絶えないからです。

その悩ましい世界が「此岸」、自分の判断基準で物事を裁かず、欲に囚われない心穏やかで争いごとのない世界が「彼岸」です。

お彼岸には、人間の愚かさ、人間の欲のなせる業に思いを致し、「彼岸」の境地と向き合うことが、仏教信仰と結びついた習慣として定着しました。

何が正しいかは定かでない。自分の考えが正しいとは言えない。いろいろな意見の真ん中に争いごとを避ける知恵と工夫がある。昼夜の長さが同じで、七日間の真ん中に当たるお中日を「お彼岸」としたことに、古代日本人の心の奥深さが感じられます。

半年に一回巡ってくるお彼岸の度に、過去半年間の自分の言動を顧み、争いごとの原因を熟考する機会にできればいいですね。人間だけではありません。世界の国々もそういう姿勢で外交に臨めば、争いごとが少なくなるでしょう。

「世界」のみならず、文中に出てきた「人間」も「知恵」も仏教用語。いやはや、日本語は仏教用語のオンパレード。来月は「人間」についてお伝えします。合掌。


第183話(2017年9月)出世

皆さん、こんにちは。九月に入りました。季節の変わり目は体調を崩しがちです。くれぐれもご自愛ください。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしている今年のかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

お盆休みは子供や孫が帰省したり、同級生で集まったり、お正月と並んで楽しいひとときですね。冷やかし半分で「おまえも出世したなぁ」などという台詞が飛び交い、賑やかに過ごされたことと思います。

さて「出世」も仏教用語です。仏教では「出世」にはふたつの意味があります。

ひとつは「世に出る」という「出世」。悩み多き衆生(大衆)を救い導くために、仏がこの世に出現するという意味での「出世」です。

もうひとつの「出世」は「世を出る」という意味。「に」が「を」に変わっただけですが、大きな違いがあります。

世の中は難しいものです。欲があるから悩み、争いごとを起こします。人の欲、世間の価値観に心が動揺し、煩悩の中で人間は生きています。そんな世の中、世間を出る、つまり「出世間」という意味での「出世」です。

厭世的になって世間から逃避するのではありません。そうした世の中や世間を超越し、覚りの境地に至ることが「世を出る」「出世間」「出世」という意味です。そういう人は、物事の道理をわきまえ、何事にも囚われず、感謝と謙虚の気持ちに満ちた人です。

つまり「出世」した人というのは、世間的、社会的に地位の高い人のことではなく、覚った人、広々とした心、落ち着いた心を持った人のことです。

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という格言的な俳句がありますが、「出世」した人はそういう人です。世間的、社会的な地位故に傲慢に振る舞うような人は「出世」した人ではありません。

「出世」には「出世の本懐」という言葉があります。「出世」のはじめの意味において、仏の願いは衆生を救い導くこと。そのために「出世」する、すなわち「出世の本懐」です。

ふたつめの意味での「出世の本懐」は、人は偶然と因縁の賜物として生かされていることを覚り、人の欲、世間の価値観に囚われ、惑わされることなく、広く静かな心をもつこと。まさしく「実るほど頭を垂れる稲穂」となることが「出世の本懐」です。

仏教用語としての「出世」の意味を知ると、世の中の風景が今までと変わって見えませんか。

ひとりでも多くの人が「出世」の意味を理解し、「出世」するほど頭を垂れて謙虚になり、「出世」した人ほど、世間的な価値観に囚われることなく、人々のために役立とうと努める社会。

そんな社会になれば、争いごとの少ない、平和で穏やかな人間関係の世の中になりそうですね。合掌。


第182話(2017年8月)退屈

皆さん、こんにちは。夏も佳境です。いかがお過ごしですか。夏バテにならないように、くれぐれもご自愛ください。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしている今年のかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

さて、今年のお盆休みは何日間ぐらい取れますか。中にはお盆休みどころではないという方もいると思いますが、多くの皆さんにとってはまとまった休みが取れる貴重な機会。帰省して旧友と会ったり、家族と旅行に行ったり、年に一度の大切な時間ですね。

しかし、普段忙しくしている皆さんの中には、休みも後半になると、何だか退屈するという人もいるかもしれません。この「退屈」、実は仏教用語です。

「退屈」の「屈」は「屈する」、「退」は「退く」という意味。読んで字の如し。何かに「屈して」「退く」状態が「退屈」です。

仏教用語としての「退屈」は、仏道の修行に耐えられず、断念し、屈し、仏道の歩みから退くという意味を表しています。「退屈」は仏教の教えの中でも重要な言葉のひとつです。

何かに「退屈」するということは、自分が目指した目標を断念したり、目標を実現するための努力を怠ったり、目標実現の障害や妨げに屈し、目標に向けた歩みから撤退するという意味です。

「休みに退屈した」というのは、休みが長い証(あかし)ですから結構なことです。でも、休み中にやりたいことがあれば、時間はいくらあっても足りないかもしれませんね。

「仕事に退屈した」とか「人生に退屈した」となると、少々心配です。仕事にも人生にも障害はつきものです。それを乗り越えるところに仕事や人生の面白さがあります。どんな仕事、どんな人生にも無駄なことはひとつもありません。仕事を活かせるか否か、人生の中から何かを得るか否かは本人次第。退屈するようでは困ります。

8月中旬にもなると、子ども達の夏休みも後半戦。元気な子ども達には夏休みはいくらあっても足りませんが、スマホでゲームばかりしている子どもには、少々退屈な気持ちになる時期です。ゲームに飽きるのは、ゲームは人から与えられたものを単にこなしているだけで、自分で考え、目指し、作り、努力する、という行為ではないからです。

仏教は生きるための哲学です。自分の思いどおりにならないことを何とかしたいという「欲」とどう向き合うかを教えています。「退屈だぁ」と思う深層心理は「この退屈を何とかしてほしい」という身勝手な「欲」と関係しています。そういう心が「退屈」という状態を生み出します。

自分自身の心を見つめ、「退屈」しない気持ちで仕事や人生と向き合い、生き生きと過ごしていきたいものですね。合掌。


第181話(2017年7月)遊戯

皆さん、こんにちは。いよいよ夏本番。暑さも厳しくなります。くれぐれもご自愛ください。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしている今年のかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

さて、夏本番となれば、子どもたちにとって「待ち遠しいのは夏休み」。と聞いて名曲「ヴァケーション」の歌詞とメロディが頭に浮かんだ皆さん、弘田三枝子や中尾ミエがひらめいた人は中高年(笑)。最近ではPUFFYや観月ありさもカバーしていますが、オリジナルの歌手はコニー・フランシスです。

今年幼稚園に入った園児にとっては初めての夏休み。せっかく覚えたお遊戯も休み明けには忘れているかもしれません。と書いたお遊戯、実はこれも仏教用語です。日常用語としては「遊戯」は「ゆうぎ」と読みますが、仏教用語的には「ゆげ」です。

「遊戯」の「遊」は自由自在であること。「戯」の元の漢字は「礙(げ)」。この字は般若心経をはじめ、いろいろなお経に登場します。「妨げ」という意味です。

「遊戯」は「妨げ」から自由自在であること。人間は何か「妨げ」に遭遇すると、「あの人のせい」「これのせい」と自分以外の何かに原因を押しつけます。

しかし、かわら版でお伝えしてきたとおり、不満や不安は全て自分自身の欲、人間の煩悩から生じます。欲があるから人を裁き、出来事を裁き、「あれは良い」「これは悪い」と自分の価値観で善悪を決めつけます。そういう心があるから、何かに心が掻き乱され、「妨げ」「礙」「戯」となります。

「遊戯」は、そういう「妨げ」から自由自在であること、すなわち自分の欲や煩悩から解放されている状態を意味します。

なるほど、園児たちの無垢(むく=汚れのない)な心は、世間体や親の価値観から解放されて「遊戯(ゆげ)」であるが故に、「お遊戯(ゆうぎ)」は自由自在、伸び伸びと楽しいものです。 お寺が運営している幼稚園が多い日本。そんなことも「お遊戯」という言葉の誕生に影響しているかもしれませんね。

仏教は生きるための哲学です。自分の考えや欲に執着することなく、自分と他人を比較したり、分別することなく、まわりの出来事をありのまま受け入れること。そういう姿勢が「遊戯(ゆげ)」なのです。

ひとりでも多くの人が、自分自身の心を見つめ、「遊戯」な気持ちで日々を過ごし、平和で穏やかな人間関係や社会を実現していきたいものです。合掌。


第180話(2017年6月)無上

皆さん、こんにちは。紫陽花のきれいな季節になりました。でも、関節炎や神経痛が出やすいのが梅雨時。くれぐれもご自愛ください。

今年のかわら版は、日常会話の中に浸透している仏教用語についてお伝えしています。

日常の言葉の中に仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

五三八年に大陸から日本に伝わって以来、神仏習合、神仏混交の中で、生活や日常の中に深く根づいていった仏教。仏教用語が定着しているのも、もっともなことです。

多くの仏教用語を知ることを通じて、お釈迦様の教えを知り、心穏やかに過ごせることは無上の喜びです。と表現したこの「無上」も仏教用語です。

あまり深い意味のなさそうな漢字の組み合わせですが、「上」が「無」いのですから、最高ということでしょうか。実は、最高という意味は誤った使われ方です。

サンスクリット語の「アヌッタラ」の漢訳が「無上」。音写では「阿耨多羅(あのくらた)」。般若心経でもこのくだりは音写でしたね。

「ア」を除いた「ヌッタラ」は「より高い」「より上」という他者との比較を意味しますそれを「ア」という冠詞で否定しているのが「アヌッタラ」「阿耨多羅」「無上」です。

他者と比較することを否定しているのですから、「無上」は最高の喜びではなく、上とか下ではなく、比較できない真実に接した感動を「無上」の喜びと言います。

「お釈迦様の教えを知り、心穏やかに過ごせることは無上の喜びです」という表現は、仏教的には正しいと言えます。何しろ、お釈迦様の教えは真実の教えですから。

仏教は生きるための哲学です。自分の考えや欲に執着することなく、自分と他人を比較したり、分別することなく、まわりの出来事をありのまま受け入れること。そういう姿勢が「無上」であり、「真実」。その「真実」も仏教用語です。

「真実」とはお釈迦様の教えそのもの、覚った後の存在をひと言で表している「如来」と同じことを表す言葉です。

ひとりでも多くの人が自分自身を見つめ、真実を見つめ、「空」「無常」「無我」の仏教の教え、般若心経の真髄を知ることは素晴らしいことです。

ひとりでも多くの人が自らの内面にある仏心に触れ、平和で穏やかな人間関係や社会を実現していきたいものです。合掌。


第179話(2017年5月) 分別

皆さん、こんにちは。ゴールデンウィークも過ぎ、初夏の季節となりました。新緑も爽やかですが、体調を崩しやすい季節の変わり目。くれぐれもご自愛ください。

今年のかわら版は、日常会話の中に浸透している仏教用語についてお伝えしています。

「愚痴」「我慢」「迷惑」「意地」が仏教用語であることを知り、ずいぶん分別がついてきました。これで心穏やかに過ごせます。などと思って得心したわが身の分別。この「分別」も仏教用語です。

「分別」は文字通り「分けること」「別にすること」。何と何をでしょうか。ここで答が連想できた人は、だいぶお釈迦様の教えが身についているようです。

「分別」とは、自分と自分以外、あるいは自分の考えと自分以外の考えを分けることを意味します。自分は特別、ほかの人とは違う、自分の考えが正しいなどと思っているとしたら、ずいぶん自信過剰、傲慢なことです。

「あの人は迷惑だ」「あの人には我慢ならない」などと憤り、「意地でも許してやらない」「ああ嫌だ」と言って愚痴をこぼすことは、自分とあの人を分別していることです。何やら仏教用語のオンパレードですね(笑)。

「分別」は、自分の固定観念、先入観、潜在意識で形成されている自分の価値観。その価値観で自分と自分以外、自分の考えと自分以外の考えを分けること、別にすることが「分別」です。

その結果、人間関係が悪くなるとそれば、その原因は相手だけにあるのではありません。自分にも「分別」の原因があることに気づくことが大切です。

したがって「あの人は分別がある人だ」「私は分別がある」という表現は、仏教的に は後ろ向き。「あの人は傲慢です」「私は傲慢です」と言っているのと同じです。仏教的には「分別がないこと」「無分別」は良いことです。

人間、とかく日常生活で文句や愚痴が口から出ます。人間くさくて良いですね。でも、行き過ぎると、自らの文句や愚痴でだんだんストレスが溜まり、憂鬱になってきます。

社会や人間関係に不満や不足の思いがあると、文句や愚痴につながります。不満や不足の思いは、突き詰めると、自分の「思い通りにならない」「思い通りになっていない」ことが原因です。

分け隔てなく、人の意見に耳を傾け、何ごともありのままに受け入れる。それが仏教の精神です。分け隔てなく、分かり合うためには話し合うことが重要ですが、お釈迦様は「話し合 うことは聞き合うこと」と教えています。

争いごとが起きたときは、お互いに自己主張するのではなく、相手の言うことを聞き合うことこそ大切です。

それではまた来月まで。ごきげんよう。合掌。


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大塚耕平

  • 2002年から「弘法さんかわら版」を書き続けています。仏教に親しみ、仏教から学び、仏教を探訪しています。より良い社会を目指すうえで仏教の教えは大切です。「弘法さんかわら版」は覚王山日泰寺(名古屋市千種区)と弘法山遍照院(知立市)の弘法さんの縁日にお配りしています。縁日はお大師様の月命日に立ちます。覚王山は新暦の21日、知立は旧暦の21日です。
  • 著書に「お大師様の生涯と覚王山」(大法輪閣)、「仏教通史」(大法輪閣)など。全国先達会、東日本先達会、愛知県先達会、四国八十八ヶ所霊場開創1200年記念イベント(室戸市)、中日文化センターなどで講演をさせていただいています。毎年12月23日には覚王山で「弘法さんを語る会」を開催。ご要望があれば、全国どこでも喜んでお伺いします。
  • 1959年愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒、同大学院博士課程修了(学術博士、専門はマクロ経済学)。日本銀行を経て、2001年から参議院議員。元内閣府副大臣、元厚生労働副大臣。現在、早稲田大学総合研究機構客員教授(2006年~)、藤田保健衛生大学医学部客員教授(2016年~)を兼務しています。元中央大学大学院公共政策研究科客員教授(2005年~17年)。