耕平さんブログ

第194話(2018年8月)機嫌

皆さん、こんにちは。酷暑です。くれぐれもご自愛ください。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしているかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

夏休み。久しぶりの帰省や旅行で親戚や旧友に会い、「ご機嫌いかがですか」と言い交すことも多い季節ですね。この「機嫌」も仏教用語です。本来は「譏嫌」と書き、文字通り「譏(そし)りを嫌う」という意味です。

今日では、「私は機嫌が悪い」と自分の気持ちを表現したり、「相手の機嫌を損ねない」と他者の気持ちを慮る両面で使われます。

世間のお布施で生活している僧や修行者が衣食住などで贅沢をすることは、世間の顰蹙(ひんしゅく)、すなわち「譏り(そしり)」を買うことでした。お布施で贅沢三昧することは許されません。

そこで戒律が課せられました。蓄財をしない、贅沢をしないという「遮戒」。仏弟子が仏道に励むことができるようにという配慮から生まれた戒律です。

仏弟子が人々から敬われず、「譏り」を受けるようになれば、僧伽(そうぎゃ=仏教教団)は立ち行かなくなります。たった一人の非行でも、世間から「譏り」を受ければ、僧伽の存続は危うくなります。

「譏り」を受けることを「嫌う」。戒律を定めて「譏り」を避ける。世間の「譏り」を受けないように「機(タイミング)」を覗う。それが「機嫌」の本来の意味です。やがて、そこから他者の心を覗う意味や、安否を気遣う意味に変化していきました。

世間の機を計り、自らを律し、慎ましく生きる本来の「機嫌」。しかし、現代の使われ方は、相手の顔色を覗い、良い評価を下してもらえるように阿る「ご機嫌」。自らが中心であるかの如く「私は機嫌が悪い」などと一人称で使う「機嫌」。どちらも本来の意味とはほど遠い使い方ですね。

「ご機嫌」取りはほどほどに、俺様意識丸出しの「自分の機嫌」を優先することなく、「機嫌」の本来の意味を旨とした慎み深い日々を過ごしたいものです。

嫌なことに遭遇し、自分の気持ちを指して、「私は機嫌が悪い」などと表現することは、「機嫌」の本来の意味とは異なります。

では「私は気分が悪い」と表現するとどうでしょうか。「気」を「分ける(シェアする)」ということは、自分の気分が悪ければ、相手も気分が悪いということかもしれません。だから気まずい雰囲気になります。自分が相手を嫌いな時は、相手も自分を嫌っています。「気分」も仏教用語のような気がしてきました。

日常会話の中に浸透している仏教用語。まだまだたくさんあり、知らないことばかり。奥が深いですね。

今日も「機嫌」良く過ごしましょう。自らを律して「譏り」を受けないように慎ましく過ごすこと。それが「機嫌」良く過ごすことの本来の意味です。ki


番外編(旧暦と新暦)

皆さん、こんにちは。八月も最終日ですが、暑い日が続きますね。くれぐれもご自愛ください。

さて、このかわら版。毎月のお大師様(弘法大師空海)の月命日(二十一日)に開かれる覚王山日泰寺(名古屋)と弘法山遍照院(知立)の「弘法さん」の縁日にお配りしています。

ところが、知立の「弘法さん」は今日が八月二回目。そうなってしまった理由は、知立の縁日が「旧暦」の二十一日に開かれているからです。

日泰寺と遍照院のかわら版の号数調整のために、今月は特別編。「新暦」と「旧暦」について少し整理しておきます。

「旧暦」とは、改暦があった場合、それ以前に使われていた暦法のことを指します。日本では、明治時代初期に「旧暦」から「新暦(現在の暦)」に変更されました。

日本の「旧暦」は正式には「天保暦」と言います。「天保暦」は、今なお占いや伝統行事などで需要があり、「旧暦」または「陰暦」の俗称で用いられています。但し、厳密に言うと、現在「旧暦」として使われている暦は改暦前の「天保暦」と微妙に異なり、正確には「修正天保暦」です。

さて、今年のNHK大河ドラマは「西郷どん」。幕末から明治維新の頃の話ですが、明治初期には、近代化と称して様々なことが東洋風(日本風)から西洋風に改められました。暦もそのひとつです。

「天保暦」は明治五年十二月二日(一八七二年十二月三十一日)まで使われていまし。その翌日の十二月三日をもって、明治六年(一八七三年)一月一日に改められ、「グレゴリオ暦(太陽暦)」に改暦されました。

改暦の実施は、前月の明治五年十一月九日(一八七二年十二月九日)に急遽布告されました。急な実施の背景には、明治維新後、明治政府の財政が厳しかったため、月給制度にした官吏の給与の支払い回数を一回減らすためであったとも言われています。

「旧暦」では明治六年に「閏六月」があったため、年十三回給与を支払う必要がありました。真偽のほどは定かではありませんが、ありそうな話ですね。

因みに、「新暦」ではひと月が「三十日」か「三十一日」、二月だけが「二十八日」または「二十九日(四年に一度の閏年)」です。

一方、「旧暦」ではひと月が「二十九日」の「小月」か、または「三十日」の「大月」。そして、調整のため、三年に一度の「閏月」が入ります。

「新暦」は太陽暦なので太陽の周りを地球が回る周期を基準にしている一方、「旧暦」は太陰暦で月の満ち欠けを基準にしていたからです。つまり、月の満ち欠けをひと月とし、年十二回の満ち欠けを一年としていました。

その結果、太陽暦の一年が「三六五・二四二二日」であるのに対し、太陰暦の一年は「三五四・三六七一日」。この差が約三年でひと月分になるため、三年に一度の「閏月」が入ります。

西洋では太陽暦であることは、南蛮貿易が行われていた中世から日本でも知られていたようですが、一年の日数の違いやその理論的背景を解明し、理解していた昔の人たちは凄いですね。安倍晴明の時代から、天文学博士がいたことから、そうした人々の系譜が西洋と東洋の暦の違いを解明していたようです。

もっとも、「新暦」への移行は社会全般に徹底されたわけではなかったようです。

明治六年版の「官暦(政府発行の暦)」では、改暦の混乱を避けるために「旧暦」が併記され、結局、翌年以後も「旧暦」併記が続けられました。伝統行事や生活慣習などへの影響を考慮したものでしたが、「旧暦」併記が「新暦」普及を阻害するとの批判もあり、賛否両論の論争が繰り返されました。

一九○八年(明治四十一年)、帝国議会で「陽暦励行に関する建議」が可決され、一九一○年(明治四十三年)の「官暦」から「旧暦」併記が行われなくなりました。一九一○年の「旧暦」併記廃止は、人々に「旧暦」廃止と認識され、「旧暦」に基づいた行事が「新暦」や月遅れに移行する転機になりました。今から百八年前のことです。

知立の「弘法さん」はかなり古くから行われていたために「旧暦」のまま続けられていますが、覚王山の「弘法さん」が始まったのはまさしく一九一○年頃。最初から「新暦」で始まったものと思われます。

覚王山日泰寺は、一八九八年に北インドで発見された仏舎利(お釈迦様の骨)をタイの国王から分骨され、それを奉安するために帝国仏教会公認、多宗派共同で開創されたお寺です。だから、日本とタイで「日泰寺」です。

「弘法さん」の縁日は、お大師様に縁のある全国各地で平安時代以降、広がっていました。ルーツはお大師様の京都での拠点、東寺の南大門の前で開かれた縁日です。

明治維新後の廃仏毀釈によって、お寺が破壊されたり、仏教行事が中止になることもあったそうですが、日本社会に長く定着していたために、明治時代中頃から徐々に復興。「弘法さん」の縁日も、全国各地で新たに始まるところもあったようです。

一九○四年に開創された日泰寺。仏舎利が奉安された舎利殿や本堂への参拝客が増え、さらに賑わいを増すための催しとして始まったのが「新暦」二十一日の日泰寺の弘法さんの縁日です。今風に言えば、イベントですね。

それに対して知立の「弘法さん」の縁日は歴史が違います。お大師様が東国巡錫をした足跡が三河や知多に残っていますので、京都東寺で弘法さんの縁日が始まって以降、全国の縁の地に広がっていく中で、三河や知多でも開かれるようになったものと推察します。

三河新四国八十八ヶ所霊場は寛永二年(一六二五年)に西加茂郷の浦野上人が開創したと伝わります。したがって、弘法さんの縁日も、それ以降に始まったものでしょう。なお、昭和四十年には霊場会が発足しました。弘法山遍照院は、三河新四国八十八ヶ所霊場の開創札所です。

因みに、知多四国八十八ヶ所霊場の開創はこのかわら版でお伝えしたとおり、文化六年(一八○九年)です。三河新四国八十八ヶ所霊場の方が約二百年も古いことになります。

それでは皆さん、また来月お会いしましょう。


第193話(2018年7月)真実

皆さん、こんにちは。いよいよ夏ですね。暑い日が増えます。くれぐれもご自愛ください。日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしているかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

先月は「学生(がくしょう)」についてお伝えしました。「学生」は、この世の中の「真実」を追求するために学びます。

この世の中の「真実」とは何でしょうか。それが問題です。「真実」も仏教用語です。

本当に信じられるもの、信じられることに出会いたい。それは、人間の本質的な欲求と言ってもよいでしょう。

「真実」とは、言葉の響きとして「正しい」こと、という語感が伴っています。つまり、「真実」とは「正しい」こと。

しかし、人間は「正しい」ことを巡って争います。人によって「正しい」と思うことが異なるからこそ争いが起きます。家族の中でも、近所づきあいの中でも、それぞれが「正しい」と思うことが異なるので、争いが起きます。民族や国による争いも同じです。

浄土真宗の開祖、親鸞聖人の言葉として、次の一節があります。「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まこと(真実)あることなきに、ただ念仏のみぞ、まこと(真実)にておわします」。

お釈迦様は今から二千五百年前の人です。そのお釈迦様と同じ時代に生きた人が、哲学の元祖ソクラテス。

ソクラテスは「正しい」ことや「正義」は定義できないとしました。以来、今日まで続く哲学の二千五百年の歴史の末に、現代哲学も未だに「正しい」ことや「正義」は定義できないとしています。

仏教は本来、どのように生きるかを考える哲学です。西洋のソクラテス、東洋のお釈迦様、ふたりは東西の哲学のルーツ。そして、いずれも「正しい」ことは一概には言えない、万人に通用する「真実」は存在しないことを教えています。

仏教の場合、そこで、仏の教え、仏の覚りのみが「真実」であるとしています。仏の教え、仏の覚りとは、感謝、謙虚、素直な気持ちで全ての事象を受け入れること。我欲と固執から解放されれば、争いごとは起きないことを諭しています。

そういう姿勢で生きることが大切であるということ自体が「真実」であり、何が「真実」かを巡って争うことは、不毛であり、結論のないことであると言うことでしょう。

因みに、現代の哲学者の最高峰はアマルティア・センというインドの学者。アジア人で唯一のノーベル経済学賞受賞者でもあります。

齢八十半ばのセンの最新著書は「正義のアイデア」。その中でも、何が「正義」か、何が「正しい」か、何が「真実」かは定義できない。時間の許す限り熟議を尽くすことが、少しでも良い結論に到達する唯一の道と教えてくれています。

日常会話の中に浸透している仏教用語。まだまだたくさんあり、知らないことばかり。奥が深いですね。


第192話(2018年6月)学生・無学

皆さん、こんにちは。今年も梅雨の季節がやってきました。神経痛が気になる季節です。くれぐれもご自愛ください。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしているかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

六月になりました。四月には新入生だった学生も、学校生活に慣れてくる頃です。勉強に、クラブに、学生の皆さんには学校生活を有意義に過ごしてもらいたいですね。

この「学生」も実は仏教用語です。仏教では、「学生」は「ガクショウ」と読みます。「学匠」とも書きます。

日本仏教の二大巨人、伝教大師最澄と弘法大師空海。ふたりは、同じ遣唐使船団に参加して唐に留学しました。

その時点で、最澄は既に朝廷に認められたエリート僧なので、「還学生(げんがくしょう)」という国費留学生。一方、無名の空海は「留学生(るがくしょう)」という私費留学生。というように、古くから「学生」が仏教用語として定着していました。

元々はお寺に寄宿して学問を学ぶ者のことを指したそうですが、やがて仏教を学ぶ者を「学生」と呼ぶようになりました。

比叡山延暦寺を開いた最澄は、山内で学ぶ「学生」たちの学則、「山家学生式(さんげがくしょうしき)」という書物を著しています。

近世に入り、仏教用語から派生して一般に学問をする者を「学生(がくせい)」と呼ぶようになり、明治時代に「student」の訳語として定着しました。

今も大学の教壇に立っていますが、学生諸君にいつも言っています。「自由に好きなことを学べる唯一の期間なのだから、何にでも興味をもって、学生生活を有意義に過ごすように」。しっかり学べば、「無学」ではなくなります。

この「無学」も仏教用語。本来の意味は正反対です。「学ぶものが無い」のが「無学」ですから、相当学識のある高僧のことを「無学」と言っていました。したがって、「有学(うがく)」はまだ勉強不足の状態です。学識が有るという意味ではありません。

「無学」と「有学」。一般的に使われる意味とは正反対です。

毎年、最初の講義で、学生諸君に「高校までの授業と大学の授業では何が違うか」と聞くと、いろいろな答えが返ってきます。「答え」があるのが高校までの授業、「答え」はなく、自分で考えるのが大学の授業。自分自身で「考える」ことが大切です。

仏教本来の意味では、「生きる」とは何か、「真実」とは何かを「考える」のが「学生」です。単に「答え」を求めているのではありません。

因みに「真実」も仏教用語。来月は「真実」についてお伝えします。日常会話の中に浸透している仏教用語。まだまだたくさんあり、知らないことばかり。奥が深いですね。


第191話(2018年5月)呂律・達者

皆さん、こんにちは。新緑の季節ですね。でも、朝晩は冷え込む日もあります。くれぐれもご自愛ください。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしているかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

四月、五月は、学校や会社の新人歓迎会等で一杯飲む機会が多い季節です。最近の若い人はあまりお酒を飲まなくなりましたが、今の四十歳代より上の世代は、新人歓迎会等で無理に飲まされて二日酔いになったり、自ら深酒して呂律(ろれつ)の回らなくなった先輩に閉口した経験があるのではないでしょうか。

飲みすぎて、舌が回らず、言葉がはっきりしないことを「呂律が回らない」などと言いますが、この「呂律」も実は仏教用語です。

仏教ではお経に節や旋律をつけて歌のように唱えることがあります。声明(しょうみょう)とか梵唄(ぼんばい)といいます。現代風に言えば仏教音楽でしょうか。ご詠歌(えいか)も仏教音楽には欠かせないですね。

この声明の旋律には、「呂(りょ)」「律(りつ)」「中曲」の三種類の音階があります。そのことに端を発して、「呂律」は声明の調子、音の調子という意味になりました。

因みに、京都・大原三千院には、上述のような声明の構造を踏まえて、「呂川」「律川」と名づけられた川が流れています。

仏教音楽はその後の日本の音楽に大きな影響を与えています。平家琵琶、謡曲、浄瑠璃、浪花節、各地の音頭、民謡、盆踊りの歌、演歌など、日本人の音楽の底辺には仏教音楽があります。

「呂律」の読みが「りょりつ」から「ろれつ」に変化し、言葉の調子という意味になったようです。

コンパや宴会の2次会にカラオケはつきもの。「呂律」が回らないぐらい酔っていても、カラオケでマイクを握ったら、見事に歌う「達者」な人がいますよね。

「達者」な人は何かに長けた人のことを指します。また、お年寄りに対して「お達者ですね」と言う時は、「お元気ですね」「健康ですね」という意味ですね。「フーテンの寅さん」などの映画の台詞では、しばしの別れの際の送る言葉として「達者でな」と言いますが、これは「元気でな」という意味です。よく使うこの「達者」も仏教用語です。

仏教では、真理に到達した修行者、覚りに至った者を「達者」と表現します。学ぶべきことを学び終わり、真理に到達した者、という意味ですが、転じて現代では、年齢を重ねて長じた高齢者に対する敬意の言葉、何かに秀でた人を褒める言葉として定着しました。

いやはや、これほど日常会話の中に仏教用語が多いと知ると、何だか気になって「呂律」が回らなくなりそうです。仏教用語に「達者」にならないといけないですね。

日常会話の中に浸透している仏教用語。まだまだたくさんあり、知らないことばかり。奥が深いですね。


第190話(2018年4月)挨拶

皆さん、こんにちは。いよいよ春本番。でも、朝晩は冷え込む日もあります。くれぐれもご自愛ください。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしているかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

四月と言えば入学、新学期のシーズン。小学校の新一年生は元気に挨拶できているでしょうか。一年生以外も、新しいクラス、新しい友達、新しい先生に少々緊張する季節。会社でも同じです。新しい部署、新しい同僚や上司、お互いに挨拶し合うことが、親しくなる大切なきっかけですね。

この「挨拶」も実は仏教用語。ちょっとビックリです。

「挨拶」とは、もともと禅寺で行われていた問答に由来します。「禅問答(公案)」はよく知られていますが、それよりもう少し軽い感じの問答です。

「挨拶」の「挨(あい)」は「軽く触れる」「軽く押す」という意味、「挨拶」の「拶(さつ)」は「迫る」「切り込む」という意味。

禅寺で師と弟子がすれ違いざまに、「中庭はきれいか」と問いかけると、弟子は何を問われているのかを察します。例えば、「中庭」を「心の中」と置き換えて、「静かに掃き清めています」などと返す。これが「挨拶」だそうです。

「禅問答」は、対坐して「汝に問う」と言って師が質問し、弟子が切り返して答える。これを日常からさりげなく行うのが「挨拶」です。

本来の「挨拶」から生活の一部となった「挨拶」。しかし、日常生活における「挨拶」も本来の「挨拶」の意味から省みると、共通する点があります。

「おはようございます」と声をかけられて、気持ちよく「はい、おはようございます」「今日も元気に頑張りましょう」とにこやかに切り返すのと、仏頂面でモゴモゴと小声で返したり、黙って無視するのでは、お互いの印象がずいぶん違います。

「挨拶」は瞬時に相手と心を通わせる瞬間芸のようなもの。禅寺の瞬間修行としての「挨拶」。日常生活でも人間関係や自分の気持ちに大きく影響する瞬間社交。何気なく「挨拶」するのではなく、「挨拶」の重要さを皆で共有できると良いですね。

「挨(あい)」された時には、相手の気持ちを推し量り、自分の気持ちを高め、人間関係を良くするためにも、気持ちよく、明るく「拶(さつ)」を返す。「挨拶」の意味と習慣が徹底されると、社会や学校、会社、家庭の中も、ずいぶん雰囲気が変わります。

元々の「挨拶」は目上の者から声をかけるもの。会社や学校で部下や後輩に対して「あいつは挨拶がない」と不機嫌な態度を示す上司や先輩。本来の意味からすれば逆です。

自分が強い立場だから「挨拶」を待つのではなく、むしろ部下や後輩を慮り、目上の者から「今日も元気か」「おはよう」「何か心配ごとでもあるか」と気さくに声をかけることが「挨拶」の本来の姿。「挨拶」された方は、しっかりお返ししなくてはなりません。「挨拶」ひとつで人間関係や社会はずいぶん変わります。

日常会話の中に浸透している仏教用語。まだまだ知らないことばかり。奥が深いですね。


第189話(2018年3月)縁起

皆さん、こんにちは。春が待ち遠しい季節になりましたが、まだまだ寒い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしているかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

三月と言えば、受験シーズンもいよいよ終盤。受験生の皆さん、頑張ってください。縁起を担いでお寺や神社にお参りにいったり、験(ゲン)担ぎで何か縁起の良さそうなことをしたり、受験生だった頃を思い出します。

この「縁起」も仏教用語です。何となくそんな語感が伝わってきますが、サンスクリット語の「プラティートヤ・サムウトパーダ」という言葉が漢訳されて「縁起」となりました。

「プラティートヤ」は「何々に縁(よ)って」「何々に依存して」という意味。一方、「サムウトパーダ」は「共に生起(しょうき)する」「共に発生する」という意味です。

つまり、「縁起」とはいろいろなことが「縁」として関係し合って「起」きているということ。

「縁起」が良いのは、たまたま運が良くて好事が起きているのではなく、そうなるべくして起きたこと。「縁起」が悪いのも、たまたま運が悪くて悪事が起きているのではなく、そうなるべくして起きたことです。

自分の身の回りに起きる「縁起」が良いことも、「縁起」が悪いことも、すべてそこまでの自分の行いや様々な自分の身の回りの出来事の積み重ねとの関係で起きていることを諭しています。

英語に「ラスト(last)ストロー(straw)」という言い方があります。「ラスト」は「最後」、ストロー」は「藁(わら)」。「ラストストロー」は「最後の一本の藁」です。

馬や駱駝(らくだ)や牛は重い荷物を運びますが、さすがに限界があります。限界ギリギリに達している時には、「最後の一本の藁」を背中に載せると、力尽きて立っていられなくなります。

「ラストストロー」は力が尽きるきっかけに過ぎず、それまでの重い積み荷が力が尽きる原因です。つまり、何かが起きる時には、そうなる原因が積み重ねって起きるのであり、急に、あるいは偶然に起きるのではないことを諭す英語の慣用句です。

「縁起」が良いのも悪いのも、それまでの積み重ねの結果。「縁起」が良いことをすれば好事が起きるのでも、「縁起」が悪いことに遭遇したので悪事が起きるわけでもありません。

コツコツとした努力、日頃からの行いの結果として、「縁起」が良いことも悪いことも起きるのです。

そのことが腹に落ちると、毎日毎日の積み重ねが疎かにできません。そのことを諭す言葉が「日日是好日(にちにちこれこうじつ)」。毎日が良い日となるように、日々最善を尽くしなさいということです。

「縁起」が良くなるように「日日是好日」、頑張ります。それでまた来月まで、お元気でお過ごしください。合掌。


第188話(2018年2月)ありがとう

皆さん、こんにちは。立春が過ぎましたが、まだまだ寒い日が続きます。くれぐれも ご自愛ください。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしているかわら版。仏教用語がたくさ ん定着しているのには驚きます。

いつもかわら版をお受け取りいただき、ありがとうございます。毎月、「へ〜、それ も仏教用語だったの。知らんかったわ」と多くの方からお声をかけていただきます。 ありがたいことです。と申し上げた「ありがとう」「ありがたい」という言葉も仏教 用語です。

普段から何気なく使っているお礼の言葉、当然のように毎日使っている親しみ深い言 葉である「ありがとう」。この言葉のルーツは「法句経(ほっくきょう)」というお 経の一文と言われています。「法句経」はパーリ語で「ダンマパダ」と呼ばれるお経 です。

この一節に次のくだりがあります。「人の生を受くるは難く、死すべきものの、生命 あるも有り難し」。人として生まれ、命を授かったことの驚きを伝える一節です。

命を授かることも、人から親切にされることも、当然のことではなく、極めて稀で幸 運なこと。そういう「有り難い」ことに対して感謝の気持ちを伝えるのが「ありがと う」です。

友人に出会うことも、一生の伴侶と出会うことも、子どもを授かって出会うことも、 皆、「有り難い」こと。出会いに感謝して「ありがとう」という気持ちになれれば、 人間関係に悩むことも少なくなることでしょう。

「袖(そで)触れ合うも他生の縁」という諺(ことわざ)があります。「多少の縁」 ではなく「他生(または多生)の縁」です。おそらく、多くの人が「多少の縁」と勘 違いしているのではないでしょうか。

「他生」「多生」とは、何度も生まれ変わるという意味の仏教用語です。つまり、た またま道ですれ違うだけの人も、前世からの何かの縁でもない限り、何十億人もいる 人間の中で、そして広い世界の中で、偶然とは言えない何かの因縁のある「有り難 い」出会いであることを諭しています。

いわんや、友人、伴侶、子どもであれば、それは極めて「有り難い」出会いです。も ちろん、職場や地域での知人、隣人も、もちろん「有り難い」出会いです。

命を授かったこと、生きていることの「有り難さ」、あの人にもこの人にも知り合え た「有り難さ」、この仕事、あの仕事に出会えた「有り難さ」、そういう感謝と驚き の気持ちを表す言葉が「ありがとう」です。

さらに言えば、嫌な人、辛いことに遭遇するのも「有り難い」こと。そのことが腹に 落ちると、日常生活の全ての出会い、全ての出来事に感謝する気持ちが湧いてきま す。そういう気持ちになると、身の回りの風景や人生の感じ方も変わってきます。

今日もかわら版を受け取っていただいてありがとうございます。今日、あなた様に出 会えたことも、偶然このかわら版をお受け取りいただいたことも、本当に「有り難 い」ことです。

それでまた来月まで、お元気でお過ごしください。合掌。


第187話(2018年1月)悲願

皆さん、明けましておめでとうございます。かわら版、今年もご愛顧のほど、よろし くお願い申し上げます。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしているかわら版。仏教用語がたくさ ん定着しているのには驚きます。

お正月に今年の目標などを書き初めしたお子さんたちも多いのではないでしょうか。 それとも、今や書き初めなどはしないのでしょうか。僕の小学生時代は、冬休みの宿 題でしたね。

高校球児であれば「今年は甲子園に出るのが悲願」とか、ピアノやバレーに取り組ん でいるお嬢さんであれば「今年はコンクールで優勝するのが悲願」とか、いろいろな 「悲願」がありますよね。

さて、この「悲願」。実はこれも仏教用語です。

「悲願」が達成されれば、本人は気持ちが良いですが、野球やコンクールであれば、 敗れる人もいますよね。「悲願」の陰では、必ず敗者がいることを忘れてはいけませ ん。

このように、私たちが日常使う「悲願」は、自分の願望、欲望を達成したいという 「願い」です。「悲壮な覚悟で達成したい願い」が「悲願」。言わば「欲」の塊(か たまり)と言ってもよいかもしれません。もちろん、練習や努力の成果ですから、悪 いことではありません。

昨年からのかわら版でお気づきの方も多いかもしれませんが、日常用語として浸透し ている仏教用語は、往々にして本来とは逆の意味で使われています。

「悲願」も同じです。本来の「悲願」は仏さまや菩薩が「衆生(人々)の苦しみを救 うために誓われた願い」のことです。では、人々の苦しみはなぜ生じるのでしょう か。

「あれが欲しい」「これが欲しい」「あれがしたい」「これがしたい」という「欲」 を抱くことは人間の本質。そして、その「欲」が達成されないので苦しみます。

仏さまや菩薩にとって、そういう人間の「欲」や「苦しみ」を全てわが身に引き受け て、「欲」が達成されないことで「悲しみ」「苦しむ」人間の気持ちに「同悲」「同 苦」するのが「悲願」なのです。「悲願」は「阿弥陀仏の本願」とも言います。

なるほど、人間の「悲願」は「欲」の塊、本来の「悲願」はその「欲」から解放され ることを願うこと。まったく正反対でした。

「欲」から解放されて、自己中心的な生き方を正すことを諭す言葉が「悲願」。そう いう意味で使うとなれば、「今年こそはこうなりたい」「こうしたい」などという 「悲願」は忘れなさいということが「悲願」です。そういう虚心坦懐な気持ちになる と、逆に人間の「悲願」は達成されるものです。

今年も毎月、日常用語の中に定着している仏教用語をお伝えしていきます。お付き合 いのほど、よろしくお願い致します。ではまた来月、お会いしましょう。合掌。


第186話(2017年12月)四苦八苦

皆さん、こんにちは。早いもので、もう師走。本格的な冬がやってきました。くれぐ れもご自愛ください。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしている今年のかわら版。仏教用語が たくさん定着しているのには驚きます。

今年はどんな年でしたでしょうか。「いや〜、良い一年だった」という人もいれば、 「今年は心配ごとが多く、四苦八苦したよ」という人もいることでしょう。

この「四苦八苦」も仏教用語です。ご存じの方も多いかもしれませんが、それは「四 苦」まで。「八苦」までご存じの方は仏教通です。

何の不自由もないシャークヤ国の王子に生まれたゴータマ・シッダールタ、つまりお 釈迦様。シャークヤ国の王子なので、音写してお釈迦様です。

人はなぜ年老いて、病に苦しみ、そして死ななければならないのだろう。そもそも、 生きていると、悩みも多く、心配ごとだらけです。お釈迦様はこの「生老病死」の苦 しみに向き合い、物思いにふけるようになりました。

この「生老病死」が「四苦」ですね。ここまでは、すんなり理解できると思います。

さて、「八苦」はこの「四苦」にもう四つ加えて「八苦」と言います。

「愛別離苦(あいべつりく)」は、愛する人ともいつかは別れ、離れなければならな い苦しみ。生きて離別することもあれば、死別することもあります。悲しいですね。

「怨憎会苦(おんぞうえく)」は、会いたくない、接点をもちたくないような嫌〜な 人とも知り合わなくてはならない苦しみ。それを受け入れざるをえないのが人生。難 しいですねぇ。

「求不得苦(ぐふとくく)」は、「あれがほしい」「これもほしい」と欲を出すのが 人間という生き物。そして、求めても自分の思いどおりに得られないから「残念」 「悔しい」「苦しい」という気持ちが湧き上がります。「欲」こそ「苦」の原因で す。

「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」はちょっと難しいですね。「五蘊」は「色」と「受 想行識」の五文字で「五蘊」。過去のかわら版(般若心経の解説編)でお伝えしまし たが、「色」は人間のからだ、「受想行識」は人間の心を指します。からだも心も 「あれがほしい」「これもほしい」と「盛」んになるものの、思うようにならないと いう人間の本質的な苦しみを表現しています。

因みに「受」は、人間は様々な情報を目・耳・鼻・口・体・心の「六感」から「受」 けることを意味しています。その情報に対し、自分の好き嫌いや価値観から個人的な 感情を抱くことを「想」「行」「識」という字が示しています。

「生老病死」に「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五蘊盛苦」を合わせて「四 苦八苦」です。そもそも「人間」が仏教用語であることは、先月お伝えしました。「四苦八苦」と向き合う「人間」。いやはや、仏教用語だらけです。

それでは皆さん、少々気が早いですが、良い年をお迎えください。合掌。


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大塚耕平

  • 2002年から「弘法さんかわら版」を書き続けています。仏教に親しみ、仏教から学び、仏教を探訪しています。より良い社会を目指すうえで仏教の教えは大切です。「弘法さんかわら版」は覚王山日泰寺(名古屋市千種区)と弘法山遍照院(知立市)の弘法さんの縁日にお配りしています。縁日はお大師様の月命日に立ちます。覚王山は新暦の21日、知立は旧暦の21日です。
  • 著書に「お大師様の生涯と覚王山」(大法輪閣)、「仏教通史」(大法輪閣)など。全国先達会、東日本先達会、愛知県先達会、四国八十八ヶ所霊場開創1200年記念イベント(室戸市)、中日文化センターなどで講演をさせていただいています。毎年12月23日には覚王山で「弘法さんを語る会」を開催。ご要望があれば、全国どこでも喜んでお伺いします。
  • 1959年愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒、同大学院博士課程修了(学術博士、専門はマクロ経済学)。日本銀行を経て、2001年から参議院議員。元内閣府副大臣、元厚生労働副大臣。現在、早稲田大学総合研究機構客員教授(2006年~)、藤田保健衛生大学医学部客員教授(2016年~)を兼務しています。元中央大学大学院公共政策研究科客員教授(2005年~17年)。