皆さん、あけましておめでとうございます。かわら版、今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。寒い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。

一昨年から日常会話の中の仏教用語をご紹介しているかわら版。今までに登場したのは、我慢、愚痴、迷惑、意地、分別、無上、遊戯、退屈、出世、彼岸、世界、人間、知恵、四苦八苦、悲願、ありがとう、縁起、挨拶、呂律、達者、学生、無学、真実、機嫌、大丈夫、貪欲、変化、道楽、金輪際、覚悟。

いやはや、たくさんあります。いちいち語源や意味を考えながら使っていると、頭が痛くなりそうです。仏教用語を自然に自由自在に使いこなせるといいですね。

この「自然」も「自由自在」も仏教用語。「自然」は「じねん」と読み、自(おの)ずからそうなっている様(さま)、神仏の計らいで生じている世界、人間の手が加わっていないこと、仏教の真理を指す言葉です。

最近は自然災害が大規模化しています。人間が自然を破壊している結果と言えますが、「自然」は神仏のはからいによって生じている世界。「自然」を破壊すれば、神仏がお怒りになるのはもっともなことです。

人間は「自然」に対して敬意を払い、謙虚に向き合うことが大切です。科学技術で「自然」をコントロールするなどという考えは、大それたことです。

「自由自在」の「自由」。あらゆる束縛から解き放たれた覚り(悟り)の境地を「自由」と言います。自分勝手に好きにしてよいという意味ではありません。

「自由」であれば、覚りを得て、仏教の真理に至っている「自然」な存在となれるので、そのことを「自在」と言います。

仏のことを時に「自在人」と呼ぶのはそのためです。観世音菩薩のことを観自在菩薩と言う場合の「自在」もそういう意味です。般若心経にも出てきます。

「自由」と「自在」がセットになった「自由自在」。日常会話では「あの人は自由自在だ」「自由自在に何でもやってみたい」「自由自在に操る」という表現で「好き勝手な性格だ」「好きなことをやりたい」「思いどおりにする」というようなことを表しがちですが、仏教における本来の意味とは異なります。

「私は自由人」と言う人が時々いますが、仏教的には「私は覚りを開いている人間だ」という意味となり、少々不遜な発言かもしれません。

「自由人」になるということは、あらゆることに感謝し、自分は生かされているということを理解し、自然を敬い、謙虚に生きていくことです。

そういう意味の「自由自在」な人が多くなれば、家庭も組織も社会も国も、「自然」な姿に近づけることと思います。

今年も仏教用語の探検をまだまだ続けます。どうぞお付き合いください。ではまた来月。

(2019年1月)