皆さん、こんにちは。いよいよ春本番です。でも、朝晩は寒い日もあります。くれぐれもご自愛ください。日常会話の中に登場する仏教用語をお伝えしているかわら版。少しでも読者の皆さんのお役に立てば幸いです。

年度末のこの時期、仕事や家庭や学校の節目の時期。経理処理、確定申告、転勤や入社、卒業や入学。何かと区切りをつけなくてはならないこと、億劫なことが多い季節です。引越しの準備や新居での荷捌き、億劫ですね。

この「億劫」も仏教用語です。今では「おっくう」と読みますが、仏教用語としての本来の読み方は「おくこう」。それが俗語化して「おっくう」になりました。

仏教的には「百千万億劫」のこと。つまり、「無限に長い時間」「永遠」という意味。それが変化して、現代では「気乗りがせず面倒」「気が進まずやりたくない」という気持ちを表現するために使われています。

「無限に長い時間」「永遠」という本来の意味にかけて言えば、同じようなことを繰り返しやらなくてはいけないこと、いつまでも終わらないようなことに直面した時に、「億劫だなぁ」とつぶやくのは、何となくわかります。

ただ単に「面倒くさい」「やりたくない」という気持ちを表すために「億劫だなぁ」と言うのは、少々意味を変え過ぎですね(笑)。

「仕事も溜まっているし、家事もやらなきゃいけないし、子どもの世話も、親の介護もあるし・・・」というように、たくさんの用事を前にして「億劫だなぁ」とつぶやく場面は、本来の意味に多少近づいているような気がします。

しかし、よくよく考えてみると、人間にできることは目の前のことだけです。同時にふたつのことはできません。先のことや、他のことを心配してみても、何も変わりません。できることは、目の前のこと、今まさしく直面していることに取り組むだけです。

「億劫」に感じるのは、目の前のことに集中していないからだとも言えます。同じような作業がずっと続く場合、同じような日常がずっと続く場合でも、「億劫」だと思って、先々の状況が自分の思い通りに変わるわけではありません。

できないことを「こうなればいいなぁ」「ああなればいいなぁ」と思い、目の前のことが「億劫」に感じるのは、「欲」や「執着」と言っていいでしょう。

仏教は「欲」や「執着」に囚われないことを薦めています。「欲」や「執着」に囚われず、それを制することができれば、「億劫」な気持ちは涌いてきません。

「億劫」な気持ちが涌いてくる理由は、その人自身が「億劫な思い」つまり「欲」や「執着」に囚われ、目の前のことに集中し、一生懸命努力していないからです。

仏教用語の「億劫」と日常用語化した「億劫」。その関係をじっくり考えると、人生のヒントが出てきそうです。

かわら版も「億劫」にならずに頑張ります。それでは皆さん、また来月お会いしましょう。

(2019年3月)