耕平さんブログ

第193話(2018年7月)真実

皆さん、こんにちは。いよいよ夏ですね。暑い日が増えます。くれぐれもご自愛ください。日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしているかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

先月は「学生(がくしょう)」についてお伝えしました。「学生」は、この世の中の「真実」を追求するために学びます。

この世の中の「真実」とは何でしょうか。それが問題です。「真実」も仏教用語です。

本当に信じられるもの、信じられることに出会いたい。それは、人間の本質的な欲求と言ってもよいでしょう。

「真実」とは、言葉の響きとして「正しい」こと、という語感が伴っています。つまり、「真実」とは「正しい」こと。

しかし、人間は「正しい」ことを巡って争います。人によって「正しい」と思うことが異なるからこそ争いが起きます。家族の中でも、近所づきあいの中でも、それぞれが「正しい」と思うことが異なるので、争いが起きます。民族や国による争いも同じです。

浄土真宗の開祖、親鸞聖人の言葉として、次の一節があります。「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まこと(真実)あることなきに、ただ念仏のみぞ、まこと(真実)にておわします」。

お釈迦様は今から二千五百年前の人です。そのお釈迦様と同じ時代に生きた人が、哲学の元祖ソクラテス。

ソクラテスは「正しい」ことや「正義」は定義できないとしました。以来、今日まで続く哲学の二千五百年の歴史の末に、現代哲学も未だに「正しい」ことや「正義」は定義できないとしています。

仏教は本来、どのように生きるかを考える哲学です。西洋のソクラテス、東洋のお釈迦様、ふたりは東西の哲学のルーツ。そして、いずれも「正しい」ことは一概には言えない、万人に通用する「真実」は存在しないことを教えています。

仏教の場合、そこで、仏の教え、仏の覚りのみが「真実」であるとしています。仏の教え、仏の覚りとは、感謝、謙虚、素直な気持ちで全ての事象を受け入れること。我欲と固執から解放されれば、争いごとは起きないことを諭しています。

そういう姿勢で生きることが大切であるということ自体が「真実」であり、何が「真実」かを巡って争うことは、不毛であり、結論のないことであると言うことでしょう。

因みに、現代の哲学者の最高峰はアマルティア・センというインドの学者。アジア人で唯一のノーベル経済学賞受賞者でもあります。

齢八十半ばのセンの最新著書は「正義のアイデア」。その中でも、何が「正義」か、何が「正しい」か、何が「真実」かは定義できない。時間の許す限り熟議を尽くすことが、少しでも良い結論に到達する唯一の道と教えてくれています。

日常会話の中に浸透している仏教用語。まだまだたくさんあり、知らないことばかり。奥が深いですね。


第192話(2018年6月)学生・無学

皆さん、こんにちは。今年も梅雨の季節がやってきました。神経痛が気になる季節です。くれぐれもご自愛ください。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしているかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

六月になりました。四月には新入生だった学生も、学校生活に慣れてくる頃です。勉強に、クラブに、学生の皆さんには学校生活を有意義に過ごしてもらいたいですね。

この「学生」も実は仏教用語です。仏教では、「学生」は「ガクショウ」と読みます。「学匠」とも書きます。

日本仏教の二大巨人、伝教大師最澄と弘法大師空海。ふたりは、同じ遣唐使船団に参加して唐に留学しました。

その時点で、最澄は既に朝廷に認められたエリート僧なので、「還学生(げんがくしょう)」という国費留学生。一方、無名の空海は「留学生(るがくしょう)」という私費留学生。というように、古くから「学生」が仏教用語として定着していました。

元々はお寺に寄宿して学問を学ぶ者のことを指したそうですが、やがて仏教を学ぶ者を「学生」と呼ぶようになりました。

比叡山延暦寺を開いた最澄は、山内で学ぶ「学生」たちの学則、「山家学生式(さんげがくしょうしき)」という書物を著しています。

近世に入り、仏教用語から派生して一般に学問をする者を「学生(がくせい)」と呼ぶようになり、明治時代に「student」の訳語として定着しました。

今も大学の教壇に立っていますが、学生諸君にいつも言っています。「自由に好きなことを学べる唯一の期間なのだから、何にでも興味をもって、学生生活を有意義に過ごすように」。しっかり学べば、「無学」ではなくなります。

この「無学」も仏教用語。本来の意味は正反対です。「学ぶものが無い」のが「無学」ですから、相当学識のある高僧のことを「無学」と言っていました。したがって、「有学(うがく)」はまだ勉強不足の状態です。学識が有るという意味ではありません。

「無学」と「有学」。一般的に使われる意味とは正反対です。

毎年、最初の講義で、学生諸君に「高校までの授業と大学の授業では何が違うか」と聞くと、いろいろな答えが返ってきます。「答え」があるのが高校までの授業、「答え」はなく、自分で考えるのが大学の授業。自分自身で「考える」ことが大切です。

仏教本来の意味では、「生きる」とは何か、「真実」とは何かを「考える」のが「学生」です。単に「答え」を求めているのではありません。

因みに「真実」も仏教用語。来月は「真実」についてお伝えします。日常会話の中に浸透している仏教用語。まだまだたくさんあり、知らないことばかり。奥が深いですね。


第191話(2018年5月)呂律・達者

皆さん、こんにちは。新緑の季節ですね。でも、朝晩は冷え込む日もあります。くれぐれもご自愛ください。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしているかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

四月、五月は、学校や会社の新人歓迎会等で一杯飲む機会が多い季節です。最近の若い人はあまりお酒を飲まなくなりましたが、今の四十歳代より上の世代は、新人歓迎会等で無理に飲まされて二日酔いになったり、自ら深酒して呂律(ろれつ)の回らなくなった先輩に閉口した経験があるのではないでしょうか。

飲みすぎて、舌が回らず、言葉がはっきりしないことを「呂律が回らない」などと言いますが、この「呂律」も実は仏教用語です。

仏教ではお経に節や旋律をつけて歌のように唱えることがあります。声明(しょうみょう)とか梵唄(ぼんばい)といいます。現代風に言えば仏教音楽でしょうか。ご詠歌(えいか)も仏教音楽には欠かせないですね。

この声明の旋律には、「呂(りょ)」「律(りつ)」「中曲」の三種類の音階があります。そのことに端を発して、「呂律」は声明の調子、音の調子という意味になりました。

因みに、京都・大原三千院には、上述のような声明の構造を踏まえて、「呂川」「律川」と名づけられた川が流れています。

仏教音楽はその後の日本の音楽に大きな影響を与えています。平家琵琶、謡曲、浄瑠璃、浪花節、各地の音頭、民謡、盆踊りの歌、演歌など、日本人の音楽の底辺には仏教音楽があります。

「呂律」の読みが「りょりつ」から「ろれつ」に変化し、言葉の調子という意味になったようです。

コンパや宴会の2次会にカラオケはつきもの。「呂律」が回らないぐらい酔っていても、カラオケでマイクを握ったら、見事に歌う「達者」な人がいますよね。

「達者」な人は何かに長けた人のことを指します。また、お年寄りに対して「お達者ですね」と言う時は、「お元気ですね」「健康ですね」という意味ですね。「フーテンの寅さん」などの映画の台詞では、しばしの別れの際の送る言葉として「達者でな」と言いますが、これは「元気でな」という意味です。よく使うこの「達者」も仏教用語です。

仏教では、真理に到達した修行者、覚りに至った者を「達者」と表現します。学ぶべきことを学び終わり、真理に到達した者、という意味ですが、転じて現代では、年齢を重ねて長じた高齢者に対する敬意の言葉、何かに秀でた人を褒める言葉として定着しました。

いやはや、これほど日常会話の中に仏教用語が多いと知ると、何だか気になって「呂律」が回らなくなりそうです。仏教用語に「達者」にならないといけないですね。

日常会話の中に浸透している仏教用語。まだまだたくさんあり、知らないことばかり。奥が深いですね。


第190話(2018年4月)挨拶

皆さん、こんにちは。いよいよ春本番。でも、朝晩は冷え込む日もあります。くれぐれもご自愛ください。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしているかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

四月と言えば入学、新学期のシーズン。小学校の新一年生は元気に挨拶できているでしょうか。一年生以外も、新しいクラス、新しい友達、新しい先生に少々緊張する季節。会社でも同じです。新しい部署、新しい同僚や上司、お互いに挨拶し合うことが、親しくなる大切なきっかけですね。

この「挨拶」も実は仏教用語。ちょっとビックリです。

「挨拶」とは、もともと禅寺で行われていた問答に由来します。「禅問答(公案)」はよく知られていますが、それよりもう少し軽い感じの問答です。

「挨拶」の「挨(あい)」は「軽く触れる」「軽く押す」という意味、「挨拶」の「拶(さつ)」は「迫る」「切り込む」という意味。

禅寺で師と弟子がすれ違いざまに、「中庭はきれいか」と問いかけると、弟子は何を問われているのかを察します。例えば、「中庭」を「心の中」と置き換えて、「静かに掃き清めています」などと返す。これが「挨拶」だそうです。

「禅問答」は、対坐して「汝に問う」と言って師が質問し、弟子が切り返して答える。これを日常からさりげなく行うのが「挨拶」です。

本来の「挨拶」から生活の一部となった「挨拶」。しかし、日常生活における「挨拶」も本来の「挨拶」の意味から省みると、共通する点があります。

「おはようございます」と声をかけられて、気持ちよく「はい、おはようございます」「今日も元気に頑張りましょう」とにこやかに切り返すのと、仏頂面でモゴモゴと小声で返したり、黙って無視するのでは、お互いの印象がずいぶん違います。

「挨拶」は瞬時に相手と心を通わせる瞬間芸のようなもの。禅寺の瞬間修行としての「挨拶」。日常生活でも人間関係や自分の気持ちに大きく影響する瞬間社交。何気なく「挨拶」するのではなく、「挨拶」の重要さを皆で共有できると良いですね。

「挨(あい)」された時には、相手の気持ちを推し量り、自分の気持ちを高め、人間関係を良くするためにも、気持ちよく、明るく「拶(さつ)」を返す。「挨拶」の意味と習慣が徹底されると、社会や学校、会社、家庭の中も、ずいぶん雰囲気が変わります。

元々の「挨拶」は目上の者から声をかけるもの。会社や学校で部下や後輩に対して「あいつは挨拶がない」と不機嫌な態度を示す上司や先輩。本来の意味からすれば逆です。

自分が強い立場だから「挨拶」を待つのではなく、むしろ部下や後輩を慮り、目上の者から「今日も元気か」「おはよう」「何か心配ごとでもあるか」と気さくに声をかけることが「挨拶」の本来の姿。「挨拶」された方は、しっかりお返ししなくてはなりません。「挨拶」ひとつで人間関係や社会はずいぶん変わります。

日常会話の中に浸透している仏教用語。まだまだ知らないことばかり。奥が深いですね。


第189話(2018年3月)縁起

皆さん、こんにちは。春が待ち遠しい季節になりましたが、まだまだ寒い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしているかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

三月と言えば、受験シーズンもいよいよ終盤。受験生の皆さん、頑張ってください。縁起を担いでお寺や神社にお参りにいったり、験(ゲン)担ぎで何か縁起の良さそうなことをしたり、受験生だった頃を思い出します。

この「縁起」も仏教用語です。何となくそんな語感が伝わってきますが、サンスクリット語の「プラティートヤ・サムウトパーダ」という言葉が漢訳されて「縁起」となりました。

「プラティートヤ」は「何々に縁(よ)って」「何々に依存して」という意味。一方、「サムウトパーダ」は「共に生起(しょうき)する」「共に発生する」という意味です。

つまり、「縁起」とはいろいろなことが「縁」として関係し合って「起」きているということ。

「縁起」が良いのは、たまたま運が良くて好事が起きているのではなく、そうなるべくして起きたこと。「縁起」が悪いのも、たまたま運が悪くて悪事が起きているのではなく、そうなるべくして起きたことです。

自分の身の回りに起きる「縁起」が良いことも、「縁起」が悪いことも、すべてそこまでの自分の行いや様々な自分の身の回りの出来事の積み重ねとの関係で起きていることを諭しています。

英語に「ラスト(last)ストロー(straw)」という言い方があります。「ラスト」は「最後」、ストロー」は「藁(わら)」。「ラストストロー」は「最後の一本の藁」です。

馬や駱駝(らくだ)や牛は重い荷物を運びますが、さすがに限界があります。限界ギリギリに達している時には、「最後の一本の藁」を背中に載せると、力尽きて立っていられなくなります。

「ラストストロー」は力が尽きるきっかけに過ぎず、それまでの重い積み荷が力が尽きる原因です。つまり、何かが起きる時には、そうなる原因が積み重ねって起きるのであり、急に、あるいは偶然に起きるのではないことを諭す英語の慣用句です。

「縁起」が良いのも悪いのも、それまでの積み重ねの結果。「縁起」が良いことをすれば好事が起きるのでも、「縁起」が悪いことに遭遇したので悪事が起きるわけでもありません。

コツコツとした努力、日頃からの行いの結果として、「縁起」が良いことも悪いことも起きるのです。

そのことが腹に落ちると、毎日毎日の積み重ねが疎かにできません。そのことを諭す言葉が「日日是好日(にちにちこれこうじつ)」。毎日が良い日となるように、日々最善を尽くしなさいということです。

「縁起」が良くなるように「日日是好日」、頑張ります。それでまた来月まで、お元気でお過ごしください。合掌。


第188話(2018年2月)ありがとう

皆さん、こんにちは。立春が過ぎましたが、まだまだ寒い日が続きます。くれぐれも ご自愛ください。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしているかわら版。仏教用語がたくさ ん定着しているのには驚きます。

いつもかわら版をお受け取りいただき、ありがとうございます。毎月、「へ〜、それ も仏教用語だったの。知らんかったわ」と多くの方からお声をかけていただきます。 ありがたいことです。と申し上げた「ありがとう」「ありがたい」という言葉も仏教 用語です。

普段から何気なく使っているお礼の言葉、当然のように毎日使っている親しみ深い言 葉である「ありがとう」。この言葉のルーツは「法句経(ほっくきょう)」というお 経の一文と言われています。「法句経」はパーリ語で「ダンマパダ」と呼ばれるお経 です。

この一節に次のくだりがあります。「人の生を受くるは難く、死すべきものの、生命 あるも有り難し」。人として生まれ、命を授かったことの驚きを伝える一節です。

命を授かることも、人から親切にされることも、当然のことではなく、極めて稀で幸 運なこと。そういう「有り難い」ことに対して感謝の気持ちを伝えるのが「ありがと う」です。

友人に出会うことも、一生の伴侶と出会うことも、子どもを授かって出会うことも、 皆、「有り難い」こと。出会いに感謝して「ありがとう」という気持ちになれれば、 人間関係に悩むことも少なくなることでしょう。

「袖(そで)触れ合うも他生の縁」という諺(ことわざ)があります。「多少の縁」 ではなく「他生(または多生)の縁」です。おそらく、多くの人が「多少の縁」と勘 違いしているのではないでしょうか。

「他生」「多生」とは、何度も生まれ変わるという意味の仏教用語です。つまり、た またま道ですれ違うだけの人も、前世からの何かの縁でもない限り、何十億人もいる 人間の中で、そして広い世界の中で、偶然とは言えない何かの因縁のある「有り難 い」出会いであることを諭しています。

いわんや、友人、伴侶、子どもであれば、それは極めて「有り難い」出会いです。も ちろん、職場や地域での知人、隣人も、もちろん「有り難い」出会いです。

命を授かったこと、生きていることの「有り難さ」、あの人にもこの人にも知り合え た「有り難さ」、この仕事、あの仕事に出会えた「有り難さ」、そういう感謝と驚き の気持ちを表す言葉が「ありがとう」です。

さらに言えば、嫌な人、辛いことに遭遇するのも「有り難い」こと。そのことが腹に 落ちると、日常生活の全ての出会い、全ての出来事に感謝する気持ちが湧いてきま す。そういう気持ちになると、身の回りの風景や人生の感じ方も変わってきます。

今日もかわら版を受け取っていただいてありがとうございます。今日、あなた様に出 会えたことも、偶然このかわら版をお受け取りいただいたことも、本当に「有り難 い」ことです。

それでまた来月まで、お元気でお過ごしください。合掌。


第187話(2018年1月)悲願

皆さん、明けましておめでとうございます。かわら版、今年もご愛顧のほど、よろし くお願い申し上げます。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしているかわら版。仏教用語がたくさ ん定着しているのには驚きます。

お正月に今年の目標などを書き初めしたお子さんたちも多いのではないでしょうか。 それとも、今や書き初めなどはしないのでしょうか。僕の小学生時代は、冬休みの宿 題でしたね。

高校球児であれば「今年は甲子園に出るのが悲願」とか、ピアノやバレーに取り組ん でいるお嬢さんであれば「今年はコンクールで優勝するのが悲願」とか、いろいろな 「悲願」がありますよね。

さて、この「悲願」。実はこれも仏教用語です。

「悲願」が達成されれば、本人は気持ちが良いですが、野球やコンクールであれば、 敗れる人もいますよね。「悲願」の陰では、必ず敗者がいることを忘れてはいけませ ん。

このように、私たちが日常使う「悲願」は、自分の願望、欲望を達成したいという 「願い」です。「悲壮な覚悟で達成したい願い」が「悲願」。言わば「欲」の塊(か たまり)と言ってもよいかもしれません。もちろん、練習や努力の成果ですから、悪 いことではありません。

昨年からのかわら版でお気づきの方も多いかもしれませんが、日常用語として浸透し ている仏教用語は、往々にして本来とは逆の意味で使われています。

「悲願」も同じです。本来の「悲願」は仏さまや菩薩が「衆生(人々)の苦しみを救 うために誓われた願い」のことです。では、人々の苦しみはなぜ生じるのでしょう か。

「あれが欲しい」「これが欲しい」「あれがしたい」「これがしたい」という「欲」 を抱くことは人間の本質。そして、その「欲」が達成されないので苦しみます。

仏さまや菩薩にとって、そういう人間の「欲」や「苦しみ」を全てわが身に引き受け て、「欲」が達成されないことで「悲しみ」「苦しむ」人間の気持ちに「同悲」「同 苦」するのが「悲願」なのです。「悲願」は「阿弥陀仏の本願」とも言います。

なるほど、人間の「悲願」は「欲」の塊、本来の「悲願」はその「欲」から解放され ることを願うこと。まったく正反対でした。

「欲」から解放されて、自己中心的な生き方を正すことを諭す言葉が「悲願」。そう いう意味で使うとなれば、「今年こそはこうなりたい」「こうしたい」などという 「悲願」は忘れなさいということが「悲願」です。そういう虚心坦懐な気持ちになる と、逆に人間の「悲願」は達成されるものです。

今年も毎月、日常用語の中に定着している仏教用語をお伝えしていきます。お付き合 いのほど、よろしくお願い致します。ではまた来月、お会いしましょう。合掌。


第186話(2017年12月)四苦八苦

皆さん、こんにちは。早いもので、もう師走。本格的な冬がやってきました。くれぐ れもご自愛ください。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしている今年のかわら版。仏教用語が たくさん定着しているのには驚きます。

今年はどんな年でしたでしょうか。「いや〜、良い一年だった」という人もいれば、 「今年は心配ごとが多く、四苦八苦したよ」という人もいることでしょう。

この「四苦八苦」も仏教用語です。ご存じの方も多いかもしれませんが、それは「四 苦」まで。「八苦」までご存じの方は仏教通です。

何の不自由もないシャークヤ国の王子に生まれたゴータマ・シッダールタ、つまりお 釈迦様。シャークヤ国の王子なので、音写してお釈迦様です。

人はなぜ年老いて、病に苦しみ、そして死ななければならないのだろう。そもそも、 生きていると、悩みも多く、心配ごとだらけです。お釈迦様はこの「生老病死」の苦 しみに向き合い、物思いにふけるようになりました。

この「生老病死」が「四苦」ですね。ここまでは、すんなり理解できると思います。

さて、「八苦」はこの「四苦」にもう四つ加えて「八苦」と言います。

「愛別離苦(あいべつりく)」は、愛する人ともいつかは別れ、離れなければならな い苦しみ。生きて離別することもあれば、死別することもあります。悲しいですね。

「怨憎会苦(おんぞうえく)」は、会いたくない、接点をもちたくないような嫌〜な 人とも知り合わなくてはならない苦しみ。それを受け入れざるをえないのが人生。難 しいですねぇ。

「求不得苦(ぐふとくく)」は、「あれがほしい」「これもほしい」と欲を出すのが 人間という生き物。そして、求めても自分の思いどおりに得られないから「残念」 「悔しい」「苦しい」という気持ちが湧き上がります。「欲」こそ「苦」の原因で す。

「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」はちょっと難しいですね。「五蘊」は「色」と「受 想行識」の五文字で「五蘊」。過去のかわら版(般若心経の解説編)でお伝えしまし たが、「色」は人間のからだ、「受想行識」は人間の心を指します。からだも心も 「あれがほしい」「これもほしい」と「盛」んになるものの、思うようにならないと いう人間の本質的な苦しみを表現しています。

因みに「受」は、人間は様々な情報を目・耳・鼻・口・体・心の「六感」から「受」 けることを意味しています。その情報に対し、自分の好き嫌いや価値観から個人的な 感情を抱くことを「想」「行」「識」という字が示しています。

「生老病死」に「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五蘊盛苦」を合わせて「四 苦八苦」です。そもそも「人間」が仏教用語であることは、先月お伝えしました。「四苦八苦」と向き合う「人間」。いやはや、仏教用語だらけです。

それでは皆さん、少々気が早いですが、良い年をお迎えください。合掌。


第185話(2017年11月)人間

皆さん、こんにちは。もう十一月、冬がそこまで来ています。くれぐれもご自愛くだ さい。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしている今年のかわら版。仏教用語が たくさん定着しているのには驚きます。

仏教は生きるための哲学。いろいろ悩みがある時には、仏教の教えが心に染み入るこ とがあります。

人間はなぜ悩むのか。それは「欲」があるからだと仏教は諭しています。たしかに 「あれがほしい」「これもほしい」「ああなりたい」「こうなりたい」という「欲」 があるからこそ、それが手に入らず、思うようにならないので悩みが生じます。

「欲」は頭の中、心の中を駆け巡ります。無心であれば、頭の中、心の中で「欲」は 生じません。無心でない時、何かを考え、「ああだ」「こうだ」と思いを巡らせてい ると、「あれがほしい」「これもほしい」「ああなりたい」「こうなりたい」という 「欲」が生じます。

つまり、何かを考えていると「欲」が生じます。人間とはなかなか厄介なものです。 そもそも、この「人間」が仏教用語です。

「人間」に当たる原語(サンスクリット語)の「マヌシュヤ」は「考えるもの」とい うことを意味します。「マヌシュヤ」という名詞は「マン」という動詞から派生。そ して、「マン」は「考える」という意味です。なるほど、「人間」は「考えるも の」。

さらに、「マン」と聞くと英語の「man」を思い出します。サンスクリット語の「マ ン(考える)」が欧州に伝わり、「man(人間)」という英語に進化したように思え ます。

「人間」は「考えるもの」と聞くと、十七世紀のフランスの哲学者、自然科学者で あったパスカルの名言が思い起こされます。曰く「人間は考える葦(あし)であ る」。

もっと遡ると、古代ギリシャ(紀元前五世紀)のソフィスト(弁論家)であるプロタ ゴラスも曰く「人間は万物の尺度である」。

「人間」は自分の頭で何かを「考える」ことによって、その「人間」にとっての尺度 =判断基準や「欲」を生み出します。そして、その尺度や「欲」によって、物事の善 悪や好き嫌いを決めてしまうことから、悩みや争いが生じます。人間の数だけ異なる 尺度があります。

自分の尺度や「欲」で物事を裁かず、「欲」に囚われない心穏やかで争いごとのない 状態を目指すべきと諭したのが仏教です。

「人間」が仏教用語であることを知り、「考える」から「人間」であり、「考える」 から「欲」が生じ、「欲」があるから悩みが生じるという因果を知れば、人間関係の 摩擦や争いごとは減ることでしょう。

人間だけではありません。国内外において、皆がそういう気持ちで相手と向き合え ば、争いごとが少ない世界になるでしょう。合掌。


第184話(2017年10月)彼岸

皆さん、こんにちは。十月、秋本番ですね。朝晩は肌寒い日が増えました。くれぐれもご自愛ください。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしている今年のかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

先月はお彼岸(ひがん)。お墓参りに行かれた方も多いことと思います。「彼岸」が仏教用語であることは、何となくわかります。

お彼岸は秋分・春分の日を挟んで前後三日間の期間。合計七日間のちょうど真ん中をお中日(ちゅうにち)と言います。お彼岸は中国やインドにはない日本独特の風習。日本古来の習慣が、伝来した仏教信仰と結びついて生まれたようです。

「彼岸」は「向こう岸」という意味です。対(つい)になる言葉は「此岸(しがん)」。「こちらの岸」を意味します。

つまり、人間の世界の「此岸」に対して、仏の世界の「彼岸」。悩ましい人間世界に対して、心穏やかに過ごせる平和な世界。

実は「世界」も仏教用語です。「世界」は、仏教の原典が著されたサンスクリット語で「ローカ・ダーツ」と言います。「ローカ(世)」は「広がりのある空間」、「ダーツ(界)」は「さまざまな存在」。つまり「世界」とは、さまざまな存在で構成される広がりをもった空間という意味です。

さまざまな人間がいるために争いごとが絶えません。争いごとが絶えないのは、それぞれが「自分はこうしたい」「相手は間違っている」と自分の判断基準で物事を考え、「あれがほしい」「これもほしい」「思い通りにしたい」等の欲が絶えないからです。

その悩ましい世界が「此岸」、自分の判断基準で物事を裁かず、欲に囚われない心穏やかで争いごとのない世界が「彼岸」です。

お彼岸には、人間の愚かさ、人間の欲のなせる業に思いを致し、「彼岸」の境地と向き合うことが、仏教信仰と結びついた習慣として定着しました。

何が正しいかは定かでない。自分の考えが正しいとは言えない。いろいろな意見の真ん中に争いごとを避ける知恵と工夫がある。昼夜の長さが同じで、七日間の真ん中に当たるお中日を「お彼岸」としたことに、古代日本人の心の奥深さが感じられます。

半年に一回巡ってくるお彼岸の度に、過去半年間の自分の言動を顧み、争いごとの原因を熟考する機会にできればいいですね。人間だけではありません。世界の国々もそういう姿勢で外交に臨めば、争いごとが少なくなるでしょう。

「世界」のみならず、文中に出てきた「人間」も「知恵」も仏教用語。いやはや、日本語は仏教用語のオンパレード。来月は「人間」についてお伝えします。合掌。


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大塚耕平

  • 2002年から「弘法さんかわら版」を書き続けています。仏教に親しみ、仏教から学び、仏教を探訪しています。より良い社会を目指すうえで仏教の教えは大切です。「弘法さんかわら版」は覚王山日泰寺(名古屋市千種区)と弘法山遍照院(知立市)の弘法さんの縁日にお配りしています。縁日はお大師様の月命日に立ちます。覚王山は新暦の21日、知立は旧暦の21日です。
  • 著書に「お大師様の生涯と覚王山」(大法輪閣)、「仏教通史」(大法輪閣)など。全国先達会、東日本先達会、愛知県先達会、四国八十八ヶ所霊場開創1200年記念イベント(室戸市)、中日文化センターなどで講演をさせていただいています。毎年12月23日には覚王山で「弘法さんを語る会」を開催。ご要望があれば、全国どこでも喜んでお伺いします。
  • 1959年愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒、同大学院博士課程修了(学術博士、専門はマクロ経済学)。日本銀行を経て、2001年から参議院議員。元内閣府副大臣、元厚生労働副大臣。現在、早稲田大学総合研究機構客員教授(2006年~)、藤田医科大学医学部客員教授(2016年~)を兼務しています。元中央大学大学院公共政策研究科客員教授(2005年~17年)。