耕平さんブログ

第182話(2017年8月)退屈

皆さん、こんにちは。夏も佳境です。いかがお過ごしですか。夏バテにならないように、くれぐれもご自愛ください。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしている今年のかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

さて、今年のお盆休みは何日間ぐらい取れますか。中にはお盆休みどころではないという方もいると思いますが、多くの皆さんにとってはまとまった休みが取れる貴重な機会。帰省して旧友と会ったり、家族と旅行に行ったり、年に一度の大切な時間ですね。

しかし、普段忙しくしている皆さんの中には、休みも後半になると、何だか退屈するという人もいるかもしれません。この「退屈」、実は仏教用語です。

「退屈」の「屈」は「屈する」、「退」は「退く」という意味。読んで字の如し。何かに「屈して」「退く」状態が「退屈」です。

仏教用語としての「退屈」は、仏道の修行に耐えられず、断念し、屈し、仏道の歩みから退くという意味を表しています。「退屈」は仏教の教えの中でも重要な言葉のひとつです。

何かに「退屈」するということは、自分が目指した目標を断念したり、目標を実現するための努力を怠ったり、目標実現の障害や妨げに屈し、目標に向けた歩みから撤退するという意味です。

「休みに退屈した」というのは、休みが長い証(あかし)ですから結構なことです。でも、休み中にやりたいことがあれば、時間はいくらあっても足りないかもしれませんね。

「仕事に退屈した」とか「人生に退屈した」となると、少々心配です。仕事にも人生にも障害はつきものです。それを乗り越えるところに仕事や人生の面白さがあります。どんな仕事、どんな人生にも無駄なことはひとつもありません。仕事を活かせるか否か、人生の中から何かを得るか否かは本人次第。退屈するようでは困ります。

8月中旬にもなると、子ども達の夏休みも後半戦。元気な子ども達には夏休みはいくらあっても足りませんが、スマホでゲームばかりしている子どもには、少々退屈な気持ちになる時期です。ゲームに飽きるのは、ゲームは人から与えられたものを単にこなしているだけで、自分で考え、目指し、作り、努力する、という行為ではないからです。

仏教は生きるための哲学です。自分の思いどおりにならないことを何とかしたいという「欲」とどう向き合うかを教えています。「退屈だぁ」と思う深層心理は「この退屈を何とかしてほしい」という身勝手な「欲」と関係しています。そういう心が「退屈」という状態を生み出します。

自分自身の心を見つめ、「退屈」しない気持ちで仕事や人生と向き合い、生き生きと過ごしていきたいものですね。合掌。


第181話(2017年7月)遊戯

皆さん、こんにちは。いよいよ夏本番。暑さも厳しくなります。くれぐれもご自愛ください。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしている今年のかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

さて、夏本番となれば、子どもたちにとって「待ち遠しいのは夏休み」。と聞いて名曲「ヴァケーション」の歌詞とメロディが頭に浮かんだ皆さん、弘田三枝子や中尾ミエがひらめいた人は中高年(笑)。最近ではPUFFYや観月ありさもカバーしていますが、オリジナルの歌手はコニー・フランシスです。

今年幼稚園に入った園児にとっては初めての夏休み。せっかく覚えたお遊戯も休み明けには忘れているかもしれません。と書いたお遊戯、実はこれも仏教用語です。日常用語としては「遊戯」は「ゆうぎ」と読みますが、仏教用語的には「ゆげ」です。

「遊戯」の「遊」は自由自在であること。「戯」の元の漢字は「礙(げ)」。この字は般若心経をはじめ、いろいろなお経に登場します。「妨げ」という意味です。

「遊戯」は「妨げ」から自由自在であること。人間は何か「妨げ」に遭遇すると、「あの人のせい」「これのせい」と自分以外の何かに原因を押しつけます。

しかし、かわら版でお伝えしてきたとおり、不満や不安は全て自分自身の欲、人間の煩悩から生じます。欲があるから人を裁き、出来事を裁き、「あれは良い」「これは悪い」と自分の価値観で善悪を決めつけます。そういう心があるから、何かに心が掻き乱され、「妨げ」「礙」「戯」となります。

「遊戯」は、そういう「妨げ」から自由自在であること、すなわち自分の欲や煩悩から解放されている状態を意味します。

なるほど、園児たちの無垢(むく=汚れのない)な心は、世間体や親の価値観から解放されて「遊戯(ゆげ)」であるが故に、「お遊戯(ゆうぎ)」は自由自在、伸び伸びと楽しいものです。 お寺が運営している幼稚園が多い日本。そんなことも「お遊戯」という言葉の誕生に影響しているかもしれませんね。

仏教は生きるための哲学です。自分の考えや欲に執着することなく、自分と他人を比較したり、分別することなく、まわりの出来事をありのまま受け入れること。そういう姿勢が「遊戯(ゆげ)」なのです。

ひとりでも多くの人が、自分自身の心を見つめ、「遊戯」な気持ちで日々を過ごし、平和で穏やかな人間関係や社会を実現していきたいものです。合掌。


第180話(2017年6月)無上

皆さん、こんにちは。紫陽花のきれいな季節になりました。でも、関節炎や神経痛が出やすいのが梅雨時。くれぐれもご自愛ください。

今年のかわら版は、日常会話の中に浸透している仏教用語についてお伝えしています。

日常の言葉の中に仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

五三八年に大陸から日本に伝わって以来、神仏習合、神仏混交の中で、生活や日常の中に深く根づいていった仏教。仏教用語が定着しているのも、もっともなことです。

多くの仏教用語を知ることを通じて、お釈迦様の教えを知り、心穏やかに過ごせることは無上の喜びです。と表現したこの「無上」も仏教用語です。

あまり深い意味のなさそうな漢字の組み合わせですが、「上」が「無」いのですから、最高ということでしょうか。実は、最高という意味は誤った使われ方です。

サンスクリット語の「アヌッタラ」の漢訳が「無上」。音写では「阿耨多羅(あのくらた)」。般若心経でもこのくだりは音写でしたね。

「ア」を除いた「ヌッタラ」は「より高い」「より上」という他者との比較を意味しますそれを「ア」という冠詞で否定しているのが「アヌッタラ」「阿耨多羅」「無上」です。

他者と比較することを否定しているのですから、「無上」は最高の喜びではなく、上とか下ではなく、比較できない真実に接した感動を「無上」の喜びと言います。

「お釈迦様の教えを知り、心穏やかに過ごせることは無上の喜びです」という表現は、仏教的には正しいと言えます。何しろ、お釈迦様の教えは真実の教えですから。

仏教は生きるための哲学です。自分の考えや欲に執着することなく、自分と他人を比較したり、分別することなく、まわりの出来事をありのまま受け入れること。そういう姿勢が「無上」であり、「真実」。その「真実」も仏教用語です。

「真実」とはお釈迦様の教えそのもの、覚った後の存在をひと言で表している「如来」と同じことを表す言葉です。

ひとりでも多くの人が自分自身を見つめ、真実を見つめ、「空」「無常」「無我」の仏教の教え、般若心経の真髄を知ることは素晴らしいことです。

ひとりでも多くの人が自らの内面にある仏心に触れ、平和で穏やかな人間関係や社会を実現していきたいものです。合掌。


第179話(2017年5月) 分別

皆さん、こんにちは。ゴールデンウィークも過ぎ、初夏の季節となりました。新緑も爽やかですが、体調を崩しやすい季節の変わり目。くれぐれもご自愛ください。

今年のかわら版は、日常会話の中に浸透している仏教用語についてお伝えしています。

「愚痴」「我慢」「迷惑」「意地」が仏教用語であることを知り、ずいぶん分別がついてきました。これで心穏やかに過ごせます。などと思って得心したわが身の分別。この「分別」も仏教用語です。

「分別」は文字通り「分けること」「別にすること」。何と何をでしょうか。ここで答が連想できた人は、だいぶお釈迦様の教えが身についているようです。

「分別」とは、自分と自分以外、あるいは自分の考えと自分以外の考えを分けることを意味します。自分は特別、ほかの人とは違う、自分の考えが正しいなどと思っているとしたら、ずいぶん自信過剰、傲慢なことです。

「あの人は迷惑だ」「あの人には我慢ならない」などと憤り、「意地でも許してやらない」「ああ嫌だ」と言って愚痴をこぼすことは、自分とあの人を分別していることです。何やら仏教用語のオンパレードですね(笑)。

「分別」は、自分の固定観念、先入観、潜在意識で形成されている自分の価値観。その価値観で自分と自分以外、自分の考えと自分以外の考えを分けること、別にすることが「分別」です。

その結果、人間関係が悪くなるとそれば、その原因は相手だけにあるのではありません。自分にも「分別」の原因があることに気づくことが大切です。

したがって「あの人は分別がある人だ」「私は分別がある」という表現は、仏教的に は後ろ向き。「あの人は傲慢です」「私は傲慢です」と言っているのと同じです。仏教的には「分別がないこと」「無分別」は良いことです。

人間、とかく日常生活で文句や愚痴が口から出ます。人間くさくて良いですね。でも、行き過ぎると、自らの文句や愚痴でだんだんストレスが溜まり、憂鬱になってきます。

社会や人間関係に不満や不足の思いがあると、文句や愚痴につながります。不満や不足の思いは、突き詰めると、自分の「思い通りにならない」「思い通りになっていない」ことが原因です。

分け隔てなく、人の意見に耳を傾け、何ごともありのままに受け入れる。それが仏教の精神です。分け隔てなく、分かり合うためには話し合うことが重要ですが、お釈迦様は「話し合 うことは聞き合うこと」と教えています。

争いごとが起きたときは、お互いに自己主張するのではなく、相手の言うことを聞き合うことこそ大切です。

それではまた来月まで。ごきげんよう。合掌。


第178話(2017年4月) 意地

皆さん、こんにちは。いよいよ春本番。とは言え、朝晩は冷え込む日もあります。くれぐれもご自愛ください。

今年のかわら版は、日常会話の中に浸透している仏教用語についてお伝えしています。

この「かわら版」もまもなく十七年目に入ります。よく続くものだと自分でも思いますが、それもこれも、配ってくださるボランティアの皆さん、受けとってくださる参拝者の皆さんのおかげです。

ここまできた以上は意地でも続けます。と言って気がつくわが身の愚かさ。実は「意地」という言葉も仏教用語なんです。

「意地」の「意」を見て何か思い出しませんか。般若心経の一節に出てくる「眼耳鼻舌身意」の「六感」の最後の字が「意」でしたね。

「眼耳鼻舌身」の五感に第六感の「意」を加えて「六感」でした。

前半の五感から得た情報を裁いて結論づけるのが「意」です。つまり、自分の固定観念、先入観、潜在意識から、五感で得た情報を「気持ちいい」とか「気持ち悪い」と判断します。

そして「意地」の「地」は、地面、地盤、大地の「地」。自分の固定観念、先入観、潜在意識の地盤ですから、ずいぶん偏った強固な岩盤ですね(笑)。

「意」はサンスクリット語の「マナス」の漢訳。心や判断という意味です。

自分が「意地」になれば、相手も「意地」になる。何かに「意地」になれば、柔軟性のない自らの対応が、思い通りにならない苦しい状況に自らを追い込みます。

「意地」にならずに、自然体で、気楽に、気楽に。

そう言えば「意地悪」などという言葉がありますね。これは仏教用語の語源どおりに使われている例と言えるでしょう。内面、内心の意識が悪いという意味ですから、まさしく「意地悪」。「底意地が悪い」と言えば、固定観念の地盤のさらに底から悪いということですから、相当に性格の悪い人ですね(笑)。

「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい」。夏目漱石の小説「草枕」の冒頭の一節です。

そうそう、「意地」を通せば窮屈になり、ただでさえ住みにくい人の世が、ますます嫌になります。自然体で、気楽に、楽しく、生きましょう。

「意地」になるのは、心に「意地」があるからです。般若心経の大切な教えは「無」「空」「行」でした。「行」を重ねて「無」「空」を覚れば「意地」も消えます。めでたし、めでたし。

それではまた来月まで。合掌。


第177話(2017年3月) 迷惑

皆さん、こんにちは。今日はご祥当。お大師様のご命日です。ご祥当が来るといよいよ春ですね。とは言え、まだまだ寒い日もあります。くれぐれもご自愛ください。

 今年のかわら版は、日常会話の中に浸透している仏教用語についてお伝えしています。

先々月、先月は「愚痴」と「我慢」が仏教用語であることをお伝えしました。「へ~、知らんかったわ」というお声をずいぶん頂戴しました。

「我慢」は「自我の慢心」が語源。したがって、仏教的には「我慢する」という気持ちがそもそも傲慢とお伝えしたものの、周りには迷惑な人がいるし、迷惑なこともあるので、「我慢する」という気持ちになるのも致し方なし。それが人情というものですねぇ。

しかし、その「迷惑」も実は仏教用語。迷い、惑うので迷惑。

「迷」はサンスクリット語の「ブラーンティ」を漢訳したもので、真実を見失い、誤った考えに執着して混乱すること。

「惑」は同じく「クレーシャ」の漢訳。苦悩、妨げ、内面的な汚を意味します。

つまり、自分の心、内面が原因で迷い、惑う姿を表す言葉が「迷惑」です。

「迷惑なことだ」と思う時には、そう思う対象への固定観念、先入観、潜在意識が影響し、それが「嫌なことだ」「ひどいことだ」と判断している、裁いているからこそ、「迷惑」であり、「我慢」しなくてはならないと思い、「愚痴」のひとつやふたつも出ようというものです。

「愚痴」にしろ、「我慢」にせよ、あるいは「迷惑」も、いずれも自分の思い通りにならないことが目の前にあり、それに対する反応として現れる行動や気持ちです。

自分の思い通りにならないことにどう向き合っていくのか、それをどう対処していくのか、その心構えと気持ちの整理の仕方を教えているのが仏教と言えます。

心構えと気持ちの整理の仕方、などと書いている私も愚かです。そういうハウツー、ノウハウではなく、まわりの出来事や人を自分の考えで「裁かない」という姿勢、生き方こそが、お釈迦様が教えていた「諸行無常」「諸法無我」「一切皆苦」の「三法印」。それが身につくと「涅槃寂静」の境地に到達。「三法印」に「涅槃寂静」を足して「四法印」です。

これはまた難しくなってきました。やめましょう。

「何だか面倒くさい話を読ませて迷惑だなぁ、このかわら版は」などと邪険にしないでください。迷惑だと思う気持ちこそ、ここに書いてあることに思い当たる節があるからかもしれません。

「愚痴」を言ったり、「我慢」をしたり、「迷惑」な気持ちになることも、いずれもエネルギーを費やすことです。そのエネルギーは別なことに振り向けましょう。

それではまた来月まで、ごきげんよう。合掌。


第176話(2017年2月) 愚痴

皆さん、こんにちは。節分も過ぎ、春が待ち遠しい季節になりましたが、まだまだ寒い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。

今年のかわら版は、日常会話の中に浸透している仏教用語についてお伝えしています。

いろいろ不満が出てくるのは、欲のなせる業(わざ)。何かと不安になるのも、欲のなせる業。「あれが欲しい」「これが欲しい」と思う心が「あれがない」「これがない」「あれを失うかもしれない」「これも失うかもしれない」という不満や不安の気持ちを生み出します。

何ごとも我慢、我慢。でも、我慢と傲慢は紙一重。先月のかわら版で我慢は「自我の慢心」を表す仏教用語、「我慢と傲慢は親戚です」とお伝えしたところ、なかなかの好評をいただきました。ということで、親戚シリーズ第二弾。

いろいろ不満があると、口から出てくるのは「愚痴(ぐち)」。実はこの「愚痴」も仏教用語です。

「まったくもう、どうしてこうなんだ」「うちの亭主は」「うちのカミさんは」「そもそも社会は」と際限なく出てくる「愚痴」。日頃からお付き合いの深い親友です(笑)。

自分の思い通りにならないこと、自分が我慢していることに対する不平不満として出てくるのが「愚痴」。仏教のサンスクリット語原典では「モーハ」と言い、「無知」を意味します。

思い通りにならないのは人のせい、我慢しているのも人のせい、でも「それは違いますよ」「不平不満が出てくるのは自分の無知のせいですよ」と教えてくれているのが仏教です。

そもそも漢字を見たら気がつきます。「愚痴」は「愚かな智恵(知恵)」と書きますので、愚かな考え、愚かな知恵が口から出て、それを他人に聞かせていると思うと、何と恥ずかしい。

結果が自分の思い通りにならないので、口から出てくる「愚痴」。子どもの駄々(ダダ)と似ています。

子どもに対して「何でも自分の思う通りにはならないのよ」と諭している大人の口から出てくる「愚痴」。

何かにこだわることなく、広く穏やかな心で人や出来事や社会を見つめ、思い通りにならない結果とも向き合い、ありのまま受け入れること。そういう心の持ちようになると「愚痴」も「無知」も縁遠くなります。

人間の執着や愚かさを戒め、少しでも平穏で争いごとの少ない社会にする。そのためには、一人ひとりが「愚痴」の本質に気づくことが肝要です。

難しいですねぇ。でも心に留めておきましょう。「愚痴」を言っても、何かが変わるわけではありません。「愚痴」を言う時間とエネルギーは別の方向に向けるべきでしょう。

「かわら版」、ではまた来月。ごきげんよう。合掌。


第175話(2017年1月) 我慢

皆さん、明けましておめでとうございます。平成二十九年、丁酉(ひのととり)の年が始まりました。今年もかわら版をご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。

一昨年、昨年と般若心経の意味を学んできたかわら版。今年は日常会話の中に浸透している仏教用語を知ることで、仏教の教えを深く考えてみたいと思います。

いろいろ不満が出てくるのは、欲のなせる業(わざ)。何かと不安になるのも、欲のなせる業。「あれが欲しい」「これが欲しい」と思う心が「あれがない」「これがない」「あれを失うかもしれない」「これも失うかもしれない」という不満や不安の気持ちを生み出します。

ご心経もそう諭してくれていました。

そうですねぇ。何ごとも我慢、我慢。欲を抑えて、自分の気持ちを律する。そのためには我慢が一番。実はこの「我慢」。それそのものが仏教用語です。

我慢の「我」は「自我」の「我」。我慢の「慢」は「慢心」の「慢」。つまり「自我の慢心」を略して「我慢」なのです。

我慢するというのは、自分の気持ちを律している自分自身の姿、我慢している自分自身が「善」であるというような潜在意識を伴っています。しかし、我慢そのものが「自我の慢心」から生まれているのですから、我慢の原因そのものも自分の欲から生み出されています。

嫌いな人、嫌なことに耐え、我慢している自分は可哀そう。そう考えがちですが、実は「嫌い」とか「嫌」という気持ちそのものが「自我の慢心」から生まれています。

そのことに気づくと「嫌い」「嫌」という気持ちそのものが和らぎ、そもそも我慢する必要がなくなります。何しろ「自我の慢心」がなくなるのですから。

「嫌い」なもの、「嫌」なものを無理矢理変えようとするのは「傲慢」。それを自分の気持ちを抑えて耐えるのが「我慢」。「傲慢」と「我慢」は親戚なのかもしれませんね。

何かにこだわることなく、広く穏やかな心で人や出来事や社会を見つめ、病気や苦労も含めた全ての現実と向き合い、ありのまま受け入れること。そういう心の持ちようになると「傲慢」も「我慢」も縁遠くなります。

「傲慢」は争いを招きます。「我慢」はストレスを溜め、それに耐えられなくなると、病んだり、争いごとに発展します。人間の執着や愚かさを戒め、少しでも平穏で争いごとの少ない社会にする。そのためには、一人ひとりが「傲慢」や「我慢」の本質に気づくことが肝要です。

難しいですねぇ。でも心に留めておきましょう。「自分だけ我慢している」などと考えること自体が「自我の慢心」。言わば「傲慢」というものです。

「かわら版」、今年もよろしくお願い致します。合掌。


第174話(2016年12月)

 皆さん、こんにちは。いよいよ今年もあとわずか。寒い日が増えました。くれぐれもご自愛ください。
昨年から般若心経の意味を学んできたかわら版。ご心経は、生き方や社会のあり方を考える際の道標(みちしるべ)です。
最近は仏教ブームとも言われています。それはそうです。僕のような者までこうして仏教にまつわる「かわら版」を書いているくらいですから。人々が何かを仏教に求めているのかもしれません。
仏教は学んで理解する対象ではありません。人の心に問いかけるもの、生き方を考える道標、自分の生き様を省みる心の声。昨年来ご紹介してきたご心経二百七十文字が説く教えから、何かを自分で感じ取るものであり、定番の解釈や全員に共通の受け止め方が決まっているわけではありません。一人ひとりが、それぞれ何かを感じ入るものでしょう。
五木寛之さんの「仏教のこころ」という本のタイトルに誘われ、何げなく読んでいたら、次のようなくだりが出てきました。
「仏教が趣味、という人がいてもちっともかまわないが、それだけでは惜しい。仏教は真っ暗な夜の道を照らしてくれる光であってほしい。それがあることで、かろうじて生きることを投げださずに、痛みや不安に耐えていける力であってほしい。仏教ブームとは、そういう必死の思いから発生する人びとの運動である。その点から見ると、いまの仏教ブームというのが、いささか色あせて感じられてくるのはいたしかたのないことだろう。」
「仏教が趣味」と公言している私としては、何やら五木さんに改めて念押しされたような気がします。出会うべくして出会った文豪の一文です。
仏教は、何かにこだわることなく、広く穏やかな心で人や事物や社会を見つめ、病気や苦労も含めた全ての現実と向き合い、それを無理矢理変えようとしても変わるものでもないので、それをそのまま受け入れる努力をすること、その大切さを説いています。
同時に、なかなかそれができないのが人間。人間の執着や愚かさを戒め、争いごとの絶えない人々(衆生)を諭しています。
以上のことを、繰り返し、繰り返し、表現の仕方や喩えを変えつつ、説き続けているのが仏教であり、仏教の経典(お経)です。その中でも、ご心経は最も短いお経として親しまれています。
衆生(人々)が救われ、世の中(社会)の争いごとを少なくするためには、一人ひとりの心の持ちよう、生き方、人間哲学が大切です。
「かわら版」、今年もお世話になりました。来年もご愛顧のほど、よろしくお願い致します。それでは、良い年をお迎えください。合掌。


第173話(2016年11月)

皆さん、こんにちは。もうすぐ師走、寒い日が増えてきました。朝晩は冷え込みます。くれぐれもご自愛ください。
昨年から般若心経の意味を学んできたかわら版。ご心経は、生き方や社会のあり方を考える際の道標(みちしるべ)です。
先月までにご心経二百七十文字全てについて学びました。お疲れ様でした。いろいろな解釈があるようですので、ご興味がある方は、高僧のお話をよく聞いたり、信頼できる仏教学者の著書などを読むことをお薦めします。
宗派によって解釈も異なるようです。真言宗、禅宗、天台宗、法相宗などではご心経を使う一方、浄土真宗、日蓮宗、法華宗などではご心経を読まないとも聞きました(間違っていたらゴメンナサイ)。
浄土真宗では「浄土三部経」、日蓮宗、法華宗では「法華経」を根本経典として使うそうです。
どんなお経であろうとも、ルーツは同じお釈迦さま。教えの根っこは同じであるはずですし、同じでなければ困ります。
しかし、今や、それをお釈迦さまから直接伺うわけにもいきません。さまざまなお経の解釈や修行を通して、それを感じ、体得し、悟ることが必要ですね。
ご心経は何を説いていたのでしょうか。振り返ってみると、私の受け止め方としては、三つのことに集約されると思います。
ひとつは「無」。何かに固執することを戒めています。もうひとつは「空」。空っぽではなく、無限を表す言葉です。三つめは「六波羅蜜行」または「菩薩行」。「無」や「空」の境地に達するために行動することの大切さを諭しています。
何かにこだわることなく、広く穏やかな心で人や事物や社会と向き合い、相手のことを理解しようと努力をすること、その大切さを説いています。
同時に、なかなかそれができない人間の本質的な執着、人間社会の愚かさを戒め、争いごとの絶えない人々(衆生)を諭しています。そのことは、どんなお経でも同じような気がします。
以上のことを、繰り返し繰り返し唱えているのがご心経です。他のお経も、表現や諭し方は異なっても、その根っこは同じであると思います。また、そうでなければ困ります。
多くの人々に親しまれるご心経。衆生(人々)が救われ、世の中(社会)の争いごとを少なくするためには、一人ひとりの心の持ちよう、生き方、人間哲学が大切です。それを説くのがご心経です。
それでは来月までごきげんよう。合掌。


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大塚耕平

  • 2002年から「弘法さんかわら版」を書き続けています。仏教に親しみ、仏教から学び、仏教を探訪しています。より良い社会を目指すうえで仏教の教えは大切です。「弘法さんかわら版」は覚王山日泰寺(名古屋市千種区)と弘法山遍照院(知立市)の弘法さんの縁日にお配りしています。縁日はお大師様の月命日に立ちます。覚王山は新暦の21日、知立は旧暦の21日です。
  • 著書に「お大師様の生涯と覚王山」(大法輪閣)、「仏教通史」(大法輪閣)など。全国先達会、東日本先達会、愛知県先達会、四国八十八ヶ所霊場開創1200年記念イベント(室戸市)、中日文化センターなどで講演をさせていただいています。毎年12月23日には覚王山で「弘法さんを語る会」を開催。ご要望があれば、全国どこでも喜んでお伺いします。
  • 1959年愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒、同大学院博士課程修了(学術博士、専門はマクロ経済学)。日本銀行を経て、2001年から参議院議員。元内閣府副大臣、元厚生労働副大臣。現在、早稲田大学総合研究機構客員教授(2006年~)、藤田保健衛生大学医学部客員教授(2016年~)を兼務しています。元中央大学大学院公共政策研究科客員教授(2005年~17年)。