耕平さんブログ

第218話 仏教用語 (大げさ、ハッピ)

皆さん、こんにちは。立秋も過ぎましたが、暑さは続きます。暑さとともに、再拡大のコロナにもくれぐれもご自愛ください。

かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。

「死にそうに暑い」「いやそんな大げさな」との会話も珍しくない近年の酷暑ですが、「大げさ」は漢字では「大袈裟」と書き、実は仏教用語です。「袈裟」はお坊さんの装束のことです。

今から二五〇〇年前、シャークヤ(釈迦)国の王子だったお釈迦様は修行の旅に出るためにお城を出奔。頭を剃って、身につけていた立派な衣服を漁師の粗末な服と交換しました。修行に立派な衣装は必要ないからです。

その逸話から、弟子や修行僧もお釈迦様の質素の精神、本当に必要なことだけを志向する精神を尊び、粗末な布をまといました。つまり、袈裟は質素なものだったのです。

日本に仏教が伝来したのは六世紀。時代とともにお釈迦様の質素の精神は薄らぎ、「袈裟」は修行の衣服から儀式の衣服に変化し、だんだんと華美なものになっていきました。

やがて、質素とはほど遠く、実態とかけ離れたという意味で「大袈裟」という言葉が誕生しました。

暑い夏には帽子をアミダにかぶって首筋を隠さないと日射病、熱射病になりますね。この「アミダにかぶる」の「アミダ」は阿弥陀様の「阿弥陀」です。

「アミダにかぶる」とは、斜めにかぶるのではなく、全方向に均等に丸いツバがある帽子を少し後ろ下がりにかぶること言います。ちょっと小意気な感じがします。

少し後ろにずらした帽子のツバが阿弥陀様の後光(光背) に見えたことから「アミダにかぶる」という表現が誕生しました。

余談ですが、「アミダくじ」の「アミダ」も「阿弥陀」です。昔の「アミダくじ」は放射状に書かれたため、やはり後光に喩えて「アミダくじ」と言われるようになりました。

暑い夏は洗いざらしの衣服が気持ちいいですが、この「洗いざらし」も仏教用語です。その昔、お産で亡くなった女性の霊を弔うために川辺に布をかけ、通りがかりの人々に水をかけてもらって布が色褪せると霊が浮かばれて成仏すると信じられていたそうです。その仏教儀式を「洗いざらし」と言い、そこから派生した表現のようです。

今年はコロナで夏祭りも中止の先が多いようですが、お祭りの「ハッピ」も仏教用語です。

「法被」と書いて「ハッピ」。高僧の座る席に豪華な金襴の布をフワっと被せる作法から派生し、衣服の上にフワっと着る羽織に似た裾の短い上着のことを指すようになりました。

夏はカバンを持って歩くより「ずだ袋」のように首からかけるカバンの方が両手も空いていいですね。この「ずだ袋」も「頭陀袋」と書く仏教用語。修行僧が首にかけて持ち歩いた粗末な布製の袋が「頭陀袋」。中にお経、数珠、お布施などを入れます。

今月も仏教用語だらけですね。それではまた来月、ごきげんよう。

(2020年8月)


第217話 仏教用語 (堪忍、有頂天)

皆さん、こんにちは。いよいよ夏本番。熱射病、熱中症とともにコロナにも気をつけて、くれぐれもご自愛ください。

かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。

やっと開幕したプロ野球。開幕直後のドラゴンズの調子は今いち。なかなか勝てないドラゴンズにファンも堪忍袋の尾が切れそうです。

この「堪忍」も仏教用語です。三月に「娑婆」という言葉をご紹介しましたが、「堪忍」は「娑婆」から派生した仏教用語です。

「娑婆」の語源はサンスクリット語の「サハ―」。本来の意味は「忍土(にんど)」。忍ぶ土、つまり耐え忍ぶことで土地。さらに言えば、社会や世間のことを指すことは三月にご紹介したとおりです。

「涅槃経」というお経に「娑婆の名、翻じて堪忍と為す」「身心の苦悩、一切能く忍ぶ。この故に名づけて堪忍地と為す」と説かれています。

「娑婆」の本来の意味である「堪え忍ぶ」を端的に表現したのが「堪忍」。したがって、「娑婆」つまり、この世の中のことは「堪忍土」とも呼ばれます。

「四苦八苦」も仏教用語であることは二〇一七年にご紹介しましたが、「四苦八苦」の尽きない世界である「娑婆」「堪忍土」のことを「苦海」とも表現します。

「娑婆」「堪忍土」での「苦」を「こらえる」「耐える」という意味合いで「堪忍」という言葉が使われています。

この世が「苦」ばかりなのは、自分の「思うようにならない」ため。これも三月号でお伝えしましたが「苦」はパーリ語の「ドゥッカ」の漢訳。「ドゥッカ」の本来の意味は「思うようにならない」です。この世が「堪忍土」なのは「思うようにならない」からです。

自分の「思うようになる」ためには、人と競い合い、人に優って自分の思いを成し遂げます。しかし、それでは本当の「勝利」は得られないことも四月号でお伝えしました。「勝利」も仏教用語で、本来は仏様の「勝(すぐ)れた利益(りやく)」を得て、勝ち負けを競い合うような心から脱して、覚(悟)りを開くことを意味します。

ずっと自分の「思うようになる」ことなどあり得ません。むしろ「思うようにならない」のが人生。沢庵(たくあん)和尚の名で知られる宗彭(そうほう)は「堪忍の二字、常に思ふべし。百戦百勝は忍に如かず」と説いています。「娑婆」を生きるためには、自分だけ勝ち続けようとするのではなく、堪忍が肝要と教えてくれています。

自分の思いが叶(かな)って有頂天になっても、ずっとその状態を続けることは無理ですねぇ。ちなみに「有頂天」も仏教用語。天上界の最高峰を指しますが、「得意の絶頂で我を忘れてしまう」という含意もあります。

我を忘れて「欲」が度を過ぎると、叶わぬ思いにまた「苦」が募ります。「娑婆」は「堪忍」こそが大切であり、「有頂天」になれば「四苦八苦」に苛(さいな)まれる。何だか仏教用語だらけです。それではまた来月。ごきげんよう。合掌。

(2020年7月)


第216話 仏教用語 (未曾有、勿体ない)

皆さん、こんにちは。梅雨の季節になりました。腰痛が気になる季節です。くれぐれもご自愛ください。

かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。

今年も台風シーズンを迎えました。最近は毎年台風が大型化し、全国で未曾有の被害が出ています。今年も備えを万全にしてください。

さて、この「未曾有(みぞう)」も仏教用語です。もともとはサンスクリット語の「アドゥブタ」という言葉で、「あり得ない」「奇跡」「驚くべき」という意味です。漢訳を訓読みすると「未(いま)だ曾(かつ)て有(あ)らず」となり、つまり「これまでになかったほど素晴らしい」というニュアンスで使われています。

日常会話的には「未曾有の災害」など、否定的な表現として使われることが多いですね。不思議なことに、仏教用語では肯定的な意味の言葉が、日常会話では否定的な意味で使われることが多いようです。逆もあります。

せっかくの仏教用語が本来の意味で使われないのは、もったいないことですね。と言ったこの「もったいない」も仏教用語です。

漢字では「勿体ない」と書き、仏教用語の「物のあるべき姿」の意の漢訳語「物体(もったい)」から生まれました。それに「ない」がついて「物のあるべき姿を外れて不都合である」「もってのほか」というのが本来の意味。転じて「自分にとって身に過ぎる」「価値が十分に生かされていなくて残念」という意味になっていきました。

つまり、仏教的には否定的な言葉が、日常会話的には肯定的な言葉になっています。「未曾有」とは逆ですね。

室町時代からよく使われるようになり、「勿体ない」は姿や態度が「本来の姿」を外れて物々しいという意味に転じ、「勿体をつける」「勿体ぶる」のような表現が定着しました。

「もったいない」と言えば、ケニアの環境保護活動家でノーベル平和賞を受賞したワンガリ・マータイさんのことを思い出す人も多いと思います。

「もったいない」という日本語を知ったマータイさんは「これは英語のwasteful(無駄がいっぱい)に近い言葉だが、自然や物に対する敬意や愛の気持ちが込められており、日本語以外には同様の言葉がない」「三R、つまり消費減(リデュース)、再使用(リユース)、再利用(リサイクル)では表現しきれない価値観を含んでいる」と絶賛したそうです。

「未曾有」と「勿体ない」を本来の意味で使うと次のようになります。新型コロナウイルスなど新しい病原体の出現は地球温暖化の影響とも言われています。人間の強欲主義が温暖化を招いているとすれば「勿体ない」ことです。でも国民の皆さんの「未曾有」の協力で何とか第一波は乗り越えました。ありがとうございました。

しっくりきませんね(笑)。仏教用語が本来とは逆の意味で定着していることは、人間の「欲」の為せる業(わざ)。「欲」から逃れられない人間が自分に都合よく解釈していった証(あかし)です。それではまた来月、ごきげんよう。

(2020年6月)


第215話 仏教用語 (邪魔、平常心)

皆さん、こんにちは。緊急事態宣言は解除されましたが、まだまだ油断できません。ご不自由なことと思いますが、引き続きくれぐれもご自愛ください。

かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。

新型コロナウィルス感染症の影響で外出自粛が続く中、なかなか友人、知人の家を訪問するのも遠慮がちの今日この頃です。訪問先で「お邪魔します」という挨拶をすることがあると思いますが、この「邪魔」も仏教用語です。

漢字から何となく仏教用語的な印象がありますね。本来「邪魔」という仏教用語は、文字どおりお釈迦さまの修行を妨げる「邪(よこしま)な悪魔」を意味します。

「魔」はサンスクリット語の「マーラ」という魔神のこと。お釈迦様が覚(悟)りに至るべく瞑想をしていると、マーラが妨害します。女の人を送り込んで誘惑したり、天から岩を降らせて驚かせたり、怪物に襲わせて恐れさせたり、あの手この手で瞑想を妨げます。しかし、お釈迦さまはマーラに打ち勝って、めでたく覚(悟)りに至ります。

お釈迦様が戦ったマーラ、つまり「邪(よこしま)な悪魔」は、自分自身の中に沸き起こる煩悩や恐怖心です。

日常生活で私たちが「邪魔だなぁ」と感じること、それは自分の外側から生じていることではなく、自分の内側、つまり自分の心の中で生じている思いの結果です。

では、その煩悩や恐怖心は何から生じるのか。それは「あれがしたい」「これがしたい」「あれがほしい」「これがほしい」と思う「欲」の為せる業(わざ)。マーラが岩や怪物を登場させたのも、「生きたい」「死にたくない」という「欲」から恐怖心を生み出すためです。

東京オリンピックは延期になりましたが、アスリートの皆さんには来年に向けて頑張ってもらいたいですね。そのアスリートの皆さん、テレビなどでインタニューのマイクを向けられ「無欲で臨みます」「平常心で戦います」と答える姿を時々見ます。

この「平常心」も仏教用語です。仏教用語的には「びょうじょうしん」と読みます。

日常会話では「普段どおり」「力まない」「緊張しない」というような意味で使いますが、仏教用語の「平常心」は「善悪を区別しない」「こだわりのない」心を指します。「勝つことが善い」「勝ちが全て」と思い込まない心、「勝利にこだわらない」「勝利に囚われない」心が「平常心」です。「欲」に囚われない心が「平常心」であり、まさしく「無欲」です。

世界が自分ひとりであれば、比較するものがないわけですから、欲も、欲が生み出す対立や争いもありません。しかし、他者が存在することは、欲、対立、争いの始まりです。そういう意味で、欲の塊である他の人間がやってきて、「お邪魔します」と相手に告げる挨拶はなかなか奥深いですねぇ。

物や人に対して「邪魔だなぁ」と思うのは、自分の心が「邪(よこしま)な悪魔」つまり「煩悩」や「欲」に支配されている証(あかし)です。そのことを理解すると、気持ちや言葉づかいも穏やかになりますね。

ではまた来月、ごきげんよう。

(2020年5月)


第214話 仏教用語 (勝利)

皆さん、こんにちは。いよいよ春本番ですが、新型コロナウィルス感染症の影響で大変なことと思います。油断せず、くれぐれもご自愛ください。

このかわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいます。

毎年春の風物詩、甲子園の選抜大会も新型コロナウィルス感染症の影響で中止。高校生球児の皆さんも残念だったと思います。夏の甲子園に向けて、頑張ってください。

勝利を目指してひたむきに努力する高校生の姿は、いつも初心を思い出させてくれます。この「勝利」も仏教用語です。日常用語としては「勝ち」を表す言葉ですが、仏教用語的には「仏様からの勝(すぐ)れた利益(りやく)」という意味です。

「勝利」すれば、その一方では必ず「敗北」があります。誰かが勝つことは、誰かが負けること。

一昨年のかわら版では「悲願」という仏教用語もご紹介しました。「悲願の優勝」という言い方をしますが、嬉しいはずの優勝が「悲しい願い」というのは何だか変ですよね。

誰かの「勝利」や「悲願」の一方で、必ず誰かの「敗北」があります。他人の悲しみを感じられる心、負ける人がいてこそ自分の勝ちもあることを理解する心、自分をとりまく全てのことに感謝できる心。その大切さを説いているのが仏教です。

仏教用語としての本来の「勝利」は「勝(優)れた」「利益(りやく)」つまり「仏様からの慈悲や加護をいただくこと」です。仏様からの慈悲や加護をいただくと、「ああ、目には見えない何かに救われている、守られている」という感謝の気持ちが湧いてきます。それが「覚(悟)り」の境地です。

「勝利」とは「覚り」のこと。仏教では「覚り」を得ることが「勝利」なのです。自分が得をしたとか、勝負ごとに勝ったことが「勝利」ではありません。

ちなみに「悲願」は「阿弥陀仏の本願」。つまり、人間が「覚り」を得て救われることを阿弥陀仏は願っていますが、人間が人間である限り「欲」や「業」から解放されて「覚り」を得ることは難しく、かなわぬ願いだから「悲しい願い」なのです。

自分の夢や目標が達成される時、つまり試験に合格したり、試合に勝ったりする時には、誰かが不合格になったり、負けたりしているのです。

人の痛みに思いが至るようになるとともに、自分が合格したり、何かの目標を達成できることは、多くの人に支えられ、目には見えない何かに守られてそれが達成されていることを理解すること、それを「覚る」ことが、仏教における「勝利」なのです。

日常用語化した「勝利」や「悲願」についても、このように深く考えると仏教用語的な深い意味が垣間見えます。感謝と謙虚の気持ちで身の回りの全ての出来事を受け止めること。それが本当の意味での「勝利」です。

それではまた来月、ごきげんよう。

(2020年4月)


第213話 仏教用語 (娑婆)

皆さん、こんにちは。日中は暖かい日も増えてきましたが、朝晩はまだまだ冷え込みます。くれぐれもご自愛ください。日常会話の中に含まれている仏教用語。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということですね。

刑務所から出てくる刑期を終えた男。ふっと空を眺めながら「娑婆(しゃば)の空気は美味い(うまい)なぁ」と独り言。高倉健さんや菅原文太さんの映画を彷彿とさせる一シーンですが、この「娑婆」も仏教用語です。

「娑」「婆」という漢字の組み合わせはとくに意味はありません。サンスクリット語の「サハー」という言葉の音訳。「サハー」という発音に合う漢字を当てただけです。

「サハー」の本来の意味は「忍土(にんど)」。忍ぶ土、つまり耐え忍ぶ土地。さらに言えば、人間社会のことを指します。

私たちが生きるこの世界は、耐え忍ぶことの多い「サハー」それが「娑婆」。耐え忍ぶこと、つまり「苦」が多い人間社会。「娑婆の空気が美味しい」というのは、仏教用語の本来の意味からすると、逆向きの受け止め方のような気がします。

以前にもご紹介しましたが、「苦」はパーリ語の「ドゥッカ」の漢訳。そして「ドゥッカ」の本来の意味は「思うようにならない」こと。

人間社会がなぜ「苦」かと言えば「思うようにならない」からです。仏典を漢訳した僧は「思うようにならない」ことを「苦」と表したのです。

耐え忍ぶことが多く、思うようにならない人間社会は「サハー」。「娑婆」は難しい場所なのです。

刑務所のように自由が束縛されている環境から考えると、「娑婆」は自由で素晴らしい世界。ところが、自由は「あれもしたい」「これもしたい」「あれがほしい」「これがほしい」という「欲」を生み、それが「思うようにならない」から「苦」になります。

刑務所の中では「欲」を実現しようがなく、「欲」も湧いてきません。「娑婆」の空気は美味しいからこそ、誘惑に満ち、「欲」が湧いてきます。

「娑婆」は自由な世界。「自由」も「世界」も仏教用語。去年のかわら版でご紹介しました。仏教用語だらけです(笑)。

「自由」とは「自(みすか)らに由(よ)る」のですから、思うようになれば「楽」ですが、思うようにならなければ「苦」です。

自分の「欲」が叶わない「娑婆」は「苦」に満ちているのです。それを耐えられないと罪を犯し、刑務所に逆戻り。「娑婆」では自分の「欲」を律することが求められます。

仏教用語的には、刑務所から出てきた健さんが「また誘惑に満ちた娑婆に出てきてしまった。娑婆の空気は危ないなぁ」とつぶやくのが正解です。

「娑婆」は日々是修行の場です。それではまた来月、ごきげんよう。

(2020年3月)


第212話 仏教用語 (不思議)

皆さん、こんにちは。冬真っ盛りですが、春が待ち遠しい季節になりました。風邪など召されるよう、くれぐれもご自愛ください。

日常用語の中に含まれている仏教用語をご紹介し始めて四年目。日常用語に含まれている仏教用語はほんとうにたくさんあります。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。不思議ですねぇ。

この「不思議」も仏教用語です。仏教用語的、漢語的には「不可思議」とも言いますが、「可」が省かれて「不思議」。普段の会話の中でもよく使う言葉ですね。

もともとは、思い測ることができず、言語でも表現できないことを指します。仏の教えや智慧は、思い測ったり、言語で表現するのは難しいということから生まれた言葉です。

自分ではマイナスだと思っていることが、仏さまの視点からは決してマイナスではなく、あとで思いもしなかった新たな展開に結びつくこともあります。そういう仏さまの計らい(はからい)は、本当に「不思議」なことです。

身の回りの出来事を、自分の損得、好き嫌いで良い、悪いを判断することなく、全ては仏さまの「不思議」な計らいとして受け止める心、それが仏心(ぶっしん)です。

ところで、数字の桁(けた)を表す単位をどこまで言えるでしょうか。つまり、一、十、百、千、万、までいくと、十万、百万、千万、そして、その次は「億」。その次は「兆」。

ここまではたぶん多くの人が共有していますが、「兆」の次は「京(けい)」。

どうでもいいような話ですが、「京」に続くのは「垓(がい)穣(じょう)溝(こう)澗(かん)正(せい)載(さい)極(ごく)恒河沙(ごうがしゃ)阿僧祇(あそうぎ)那由多(なゆた)」ときて、その次が何と「不可思議(ふかしぎ)」。

つまり、「不思議」は数字の桁の単位でもあり、具体的には十の六十四乗を表します。何とも想像できない無限のような大きな桁ですが、まさに「不思議」「不可思議」、つまり表現できない大きさです。

因みに、数字の桁として使われる場合は「不思議」とは略さず「不可思議」という言葉で使われます。

仏教用語として登場した「不可思議」が数学用語として使われる契機になったのは、十三世紀から十四世紀の元の数学者、朱世傑(しゅせいけつ)が自著「算学啓蒙」の中で用いた時からです。朱世傑は四次元連立方程式の解法なども論じ、数学教育に生涯をかけました。

その内容は、日本にも江戸時代になって伝わりました。十七世紀の数学者、吉田光由が寛永四年(一六二七年)に著した「塵劫記」の中に「不可思議」の単位が登場します。

言語では表せないことから転じて、日常用語的には「怪しいこと」「異様なこと」を表す言葉に転じましたが、それも不思議なことです。

日常用語の中の仏教用語。不思議なことに、本当にたくさんあります。不思議も仏教用語であることも、これまた不思議。

それではまた来月、お楽しみに。

(2020年2月)


第211話 仏教用語 (微妙)

あけましておめでとうございます。かわら版、今年もよろしくお願いいたします。

日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介し始めて丸三年、そろそろ違う内容に変えようかと思っていましたが、多くの読者の皆さんから「もっと続けて」とのご要望をいただきましたので、今年も日常会話に含まれる仏教用語についてお伝えしていきます。

嬉しい悲鳴とも言えますが、日常会話に含まれている仏教用語はほんとうにたくさんあるので、この調子だといつ終わるかわかりません。嬉しいですが、何だか微妙な気分です。 ここで使った「微妙」。これも仏教用語です。

仏教用語的には「ミミョウ」と発音します。仏教徒には馴染みの深い「三帰依文(さんきえもん)」という宣言文。これは、仏・法・僧の「三宝(さんぽう)」に帰依することを誓う決まり文句のようなものですが、その中に「無上で甚深(じんじん)にして微妙(みみょう)なる法」との出会いが大切です、と説かれています。

お経にも「微妙」はけっこう登場します。「無量寿経」というお経には「微妙の法を説きたもう」、玄奘三蔵が訳した「説無垢称経(せつむくしょうきょう)」には「微妙なるはこれ菩提なり」などと説かれており、ほかにも随所に使われています。

仏の慈悲の心は「深遠微妙(じんのんみみょう)」であり、その説法は「微妙法音(みみょうほうおん)」とも言います。

つまり、「微妙(みみょう)」とは、言葉では言い尽くせない奥深いこと、人間の理解を超えた不思議さを表す言葉として使われています。

したがって、仏教的には本来、素晴らしいこと、人智を超えた感覚、あるいは絶賛を表す意味で使われていますが、現代の使われ方は「微妙(ビミョー)」ですよね。

「調子どう?」「う〜ん、ビミョー」、「これ美味しい?」「ビミョー」という感じの若者の会話が思い浮かびますが、中高年の皆さんも最近は「これ、ちょっとビミョーだね」などとごく普通に使ってますね。

道理のわかった人、深い知恵をもつ人は、小さなことにこだわらず、広い心で、全体を眺めながら、穏やかに、いろいろなことを考えています。そういう心が「微妙(みみょう)」な心。小さなことにこだわって、自分の意に合う合わない、趣向に合う合わないで、「これは微妙(ビミョー)」などとは言いません。

現代の微妙(ビミョー)は英語ではデリケート(delicate)。何とも判断がつかず、少し否定的な意味を込めているのが現代の微妙(ビミョー)です。

仏の広い心は、生身の人間には理解しきれない(理解したら、仏になります<笑>)、身につけられないので、微妙(みみょう)な覚りは人間には微妙(ビミョー)なのかもしれません。

微妙(ビミョー)な人間関係や社会の姿を、広く深い心で受け止めれば、微妙(みみょう)な気持ちで心穏やかに過ごせます。

それでは、また来月お会いしましょう。

(2020年1月)


第210話 仏教用語 (堪能、無尽蔵、シャカリキ)

皆さん、こんにちは。今年もあとわずか。早かったですね。寒い日が続きます。風邪など召されぬよう、くれぐれもご自愛ください。日常会話の中に登場する仏教用語をお伝えしているかわら版。少しでも読者の皆さんのお役に立てば幸いです。

さて、一昨年からお届けしてきたこのシリーズ。堪能していただけましたでしょうか。と述べた「堪能」も仏教用語です。

仏教用語としては正しくは「カンノウ」と読みます。読んで字の如く「堪える能力」を意味します。

天台大師と尊称される隋の高僧、智?(ちぎ)の著書「摩訶止観(まかしかん)」の中に、「勝れたる堪能を得る。名づけて力となす」というくだりがあります。すなわち、「困難に堪える能力」を「力」と呼びます。

やがて「語学に堪能な人」「音楽に堪能な人」のように、学芸に習熟し、優れていることを表す言葉となる一方、「食事を堪能した」のように、何かを満喫したという意味にも転じました。

何かに秀でるのも、何かを満喫するのも、そこに至るには「堪える能力」が必要です。簡便な取り組みでは、秀でることも、満喫することもできません。

日常会話の中に登場する仏教用語。まだまだあります。探せば、無尽蔵です。と言った「無尽蔵」も仏教用語。

仏教、つまりお釈迦さまの教えは「尽きることのない無限の功徳」であるため、そのことを「尽きることのない財宝の蔵」に比喩して誕生した言葉が「無尽蔵」です。

日本仏教の礎を築いたひとり、奈良時代の行基は、衆生(人々)に功徳を及ぼすために、子どもたちや病んだ人を救済するために孤児院や病院などを創って運営しました。

こうした「尽きることのない無限の功徳」すなわち「無尽蔵」は仏教福祉、あるいは現代の社会福祉の源流とも言えます。

日常会話の中の仏教用語をシャカリキになってお伝えしてきまし。と言って使った「シャカリキ」も仏教用語。漢字で書くと「釈迦力」すなわち「お釈迦さまの力」。

お釈迦さまは全身全霊、全力を尽くして、衆生(人々)を救おうとしました。そのような無垢で真摯で必死な取り組みのことを「シャカリキ」と表現します。

中高年以上の世代の日常会話的には「そんなにシャカリキになるなよ」などという表現が登場しますが、この場合は「りきむ」というような意味合いが込められています。本来は「一生懸命に取り組む」というように、肯定的な意味合いで使うのが正しいようです。

日常会話の中の仏教用語、まだまだ尽きません。まさしく無尽蔵ですが、本年はここまでとさせていただきます。それでは皆さん、よい年をお迎えください。来年もよろしくお願い申し上げます。

(2019年12月)


第209話 仏教用語 (ゴタゴタ、言語道断)

皆さん、こんにちは。もうすぐ冬、晩秋ですね。朝晩は冷え込みます。くれぐれもご自愛ください。日常会話の中に登場する仏教用語をお伝えしているかわら版。少しでも読者の皆さんのお役に立てれば幸いです。

米国と中国、英国とEU(欧州連合)、何やらもめてますねぇ。日本の国内もいろいろ起きています。とかくゴタゴタが絶えません。

この「ゴタゴタ」も実は仏教に由来する言葉です。

先々月、先月と「ガタピシ」「ウロウロ」という言葉をご紹介しましたが、「ゴタゴタ」は仏教用語というよりも仏教の逸話の中から生まれた言葉です。

鎌倉時代、宋から日本に渡ってきた「兀庵普寧(ごったんふねい)」というお坊さんがいました。この兀庵和尚は理屈っぽい性格でした。

ある時、鎌倉の建長寺で開かれた法要で一悶着を起こします。

ご本尊の地蔵菩薩の前に進み出た兀庵。ご本尊を礼拝することもなく、何やら言い始めました。

何と、建長寺のご本尊の地蔵菩薩は自分より仏界での位が低いので、地蔵菩薩が降りて来て兀庵に挨拶するのが筋だと言うのです。何だかよくわかりませんが、気難しいお坊さんです。

以来、兀庵は事あるごとに何かと口煩(うるさ)く、理屈を述べ立て、皆を困らせました。

そのため、仲間の僧たちは口々に「また兀庵が何か言っているよ」「兀庵(ごったん)、兀庵(ごったん)と、まったく溜息が出るねぇ」と言うようになり、いつの間にやら「揉めごとや争いごとが絶えないこと」を「ゴタゴタする」と言うようになったそうです。

時代が下ると、さらに意味が転じて、未整理なことや混迷していることを表現する時にも「ゴタゴタしている」などと言うようになりました。

まったく困ったお坊さんです。仏界では地蔵菩薩より自分が上だと主張することなど、言語道断。不謹慎ですねぇ。

と言って使った「言語道断」も仏教用語です。

「許し難い行為」「とんでもない」などという意味で使われますが、仏教用語的には覚りの境地を表す良い言葉です。

言語で表現する道を断つことによって、覚りに至るということです。言語や言葉は迷いのもと。人間はとかく言語や言葉のイメージを勝手に膨らませ、自分の価値判断で物事を判断してしまいます。

そういう心は仏法が戒めるところ。だからこそ、何事も言語道断の姿勢で臨むことが必要です。

「男らしくない」「女らしくない」と簡単に言いますが、「男らしい」「女らしい」の受け止め方は人によって異なります。

仏教は、自分の価値観で善悪、正邪を決めたり、物事も「捌く」「裁く」ことを戒めます。

「言語道断」で沈思黙考し、自分自身を見つめ、自省・内省することが大切。それが仏教の教えです。

それでは皆さん、また来月お会いしましょう。

(2019年11月)


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大塚耕平

  • 2002年から「弘法さんかわら版」を書き続けています。仏教に親しみ、仏教から学び、仏教を探訪しています。より良い社会を目指すうえで仏教の教えは大切です。「弘法さんかわら版」は覚王山日泰寺(名古屋市千種区)と弘法山遍照院(知立市)の弘法さんの縁日にお配りしています。縁日はお大師様の月命日に立ちます。覚王山は新暦の21日、知立は旧暦の21日です。
  • 著書に「お大師様の生涯と覚王山」(大法輪閣)、「仏教通史」(大法輪閣)など。全国先達会、東日本先達会、愛知県先達会、四国八十八ヶ所霊場開創1200年記念イベント(室戸市)、中日文化センターなどで講演をさせていただいています。毎年12月23日には覚王山で「弘法さんを語る会」を開催。ご要望があれば、全国どこでも喜んでお伺いします。
  • 1959年愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒、同大学院博士課程修了(学術博士、専門はマクロ経済学)。日本銀行を経て、2001年から参議院議員。元内閣府副大臣、元厚生労働副大臣。現在、早稲田大学総合研究機構客員教授(2006年~)、藤田医科大学医学部客員教授(2016年~)を兼務しています。元中央大学大学院公共政策研究科客員教授(2005年~17年)。