耕平さんブログ

第150話(2014年12月)

 皆さん、こんにちは。師走もあとわずか。あわただしい毎日が続くと思いますが、くれぐれもご自愛ください。
お釈迦様の教えを噛みしめながら、社会や人のあり方を考える「耕平さんかわら版」。先月は「諸悪莫作(しょあくまくさ)」「衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)」、自らの意思で「悪いことをしない」「善いことをする」という仏教の真髄を学びました。
仏教の真髄と聞くと「空」という漢字も思い浮かびます。「空」とは何も「無」いという意味ではありません。
「色即是空(しきそくぜくう)」という言葉もよく知られています。「色」は肉体や物質のこと。肉体は即ち「空」である。さて、どう受け止めるべきでしょうか。
「死ねば、無くなる」ということではありません。永遠に変わらないもの、変わらずに存在し続けるものはない。そのことをひと言で表すと「空」。
全てのかたちあるものは、いろいろな要素や原子の集まりやつながりから生まれ、何かの偶然で存在しているにすぎません。人間の場合、両親が何かのご縁で知り合い、あなたが生まれ、寿命が尽きると、元の要素や原子に還っていく。そのようなことが「空」です。
「諸行無常」「諸法無我」をひと言で表すと「空」ということかもしれません。「色即是空」は「肉体がなくなる」のではなく、「肉体に不滅なものはない」ということを諭しています。
「魂や精神は不滅」「生まれ変わる」という人が時々いますが、そんなことは誰も確認できません。魂や精神もやはり「空」。
「空」の原語はサンスクリット語の「シューニャ」。本来は医学用語で、症状として現れている現象のことです。つまり、何かの原因と条件によって一時的に現れている現象にすぎない。だから「空」。
何かの原因と条件と聞くと、「因縁」という仏教用語も思い出します。人間も含め、全てのものは何かの「因縁」「衆縁和合」で生じているにすぎず、「色即是空」です。
このことに得心すると、こだわりや欲からも解放されます。しかし、だからといって、努力や善行を怠っていいということではありません。ここが難しい。
こうしたことが理解できる人が増えれば、争いごとや悩みごとの少ない社会になりそうですね。仏教の教えは、日常生活においても、政治においても、多くの気づきを与えてくれます。
それでは皆さん、良い年をお迎えください。


第149話(2014年11月)

 皆さん、こんにちは。十一月になりました。早いものですねぇ。寒く日が多くなりましたので、くれぐれもご自愛ください。
お釈迦様の教えを噛みしめながら、社会や人のあり方を考える「耕平さんかわら版」。先月は「無分別」「裁かない」ことの大切さ、「正邪」「善悪」を決めることの難しさを学びました。
すると「何が善悪か一概に言えないということは、何でも好きなようにしていいってことですね」という人がいましたが、それは屁理屈というものです。
お釈迦様は次のような教えを残しています。曰く「諸悪莫作(しょあくまくさ=悪いことをしない)」「衆善奉行(しゅぜんぶぎょう=善いことをする)」。
どこの親でも子どもに言います。「悪いことをしてはいけない」「善いことをしなさい」。でもお釈迦様の「諸悪莫作」「衆善奉行」はひと味違います。
「悪いこと」を「してはいけない」のではなく「しない」、「善いこと」を「しなさい」ではなく「する」。そうです。言われて従うのではなく、自分の意思で「悪いことをしない」「善いことをする」のです。
唐の詩人・白居易が禅僧・道林に「仏教の真髄とは何か」と訊ねました。道林曰く「悪いことをしない。善いことをする」。「そんなことは三歳の子供でもわかる」と白居易が言うと「三歳の子供でもわかることを、八十歳の老人でもできていない」とたしなめられ、白居易が平伏したという逸話があります。
「わかる」ことと「できる」ことは違います。九月号の「覚る」と「解脱」の違いと同じです。何が「悪」かは、ふつうに考えればわかること。
仏教の五戒(不殺生戒、不偸盗会戒、不邪淫戒、不妄語戒、不飲酒戒)もそのひとつ。
お釈迦様曰く「生まれを問うことなかれ。行いを問え。生まれつきの善人も悪人もいない。行うように人は作られ、行うとおりに成る」。深いですねぇ。
呼吸のように、とくに意識することもなく「悪いことをしない」「善いことをする」。
「できる」ことが大切であり、「わかる」だけでは無意味です。それが仏教の真髄。
道にゴミやタバコを捨てる人、まわりに迷惑をかける人。いますねぇ。
ひとりでも多く「諸悪莫作」「衆善奉行」な人が増えれば、ずいぶん心地の良い社会になるでしょう。
仏教の教えは、日常生活においても、政治においても、多くの気づきを与えてくれます。ではまた来月。


第148話(2014年10月)

 皆さん、こんにちは。秋本番。朝晩は寒くなりました。くれぐれもご自愛ください。
お釈迦様の教えを噛みしめながら、社会や人のあり方を考える「耕平さんかわら版」。先月は「覚(さと)り」と「解脱(げだつ)」の違いを学びました。これで「分別(ふんべつ)」のある人間になれたような、なれないような。いやいや、そんな簡単にはなれませんねぇ。
ところで、私たちは日常会話の中で知らず知らずに仏教用語を使っています。「分別」もそのひとつ。
「あの人は無分別だねぇ」と聞けば「道理をわきまえない人だ」「物わかりの悪い人だ」という印象を受けますが、実は全く逆の意味。
「分別」には、何かを区別する、差別するという意味があり、仏教では「無分別」はむしろ良いことです。
「あの人は正しい人だ」「あの人は邪(よこしま)な人だ」と何を基準に言えるのでしょうか。「正邪」の基準は偏(かたよ)りがあるかないか。お釈迦様はそのように教えてくれています。
偏りのない生き方や考え方、つまり中道(ちゅうどう)であることが「正しい」状態であり、極端なことは「邪」と諭しています。
「善悪」も同じ。お釈迦様は「自分にも他人にもためになる」ことが「善」、「自分のためにはなるが、他人のためにはならない」ことは「悪」だと教えています。
自分のためだけになることには偏りがあります。偏ることは「邪」であり「悪」。自分のことだけを考える人、自己主張が強い人は「邪悪」と言うことでしょうか。「な~るほどぉ」という感じです。
「あなたは人を裁(さば)いていませんか」「ほらほらまた裁いた」と言って、面白おかしく心のあり様を説いてくださる高僧もいます。
自分の考えで人や物ごとを「分別」して「裁く」ことは、中道ではなく、何か偏った状態です。
自分の意見にも一理あるが、相手の意見にも一理ある。さて、バッサリと「分別」して「裁く」ことで丸く収まるでしょうか。
「分別」は「差別」にもつながり、争いごとは深層心理の中にある「差別」の心から生まれます。そう言えば、往々にして戦争や紛争は、国家や民族や宗教の優劣意識、つまり相手を「差別」することに端を発しています。
ひとりよがりでない、「無分別」で「中道」な人になりたいものです。
仏教の教えは、日常生活においても、政治においても、多くの気づきを与えてくれます。ではまた来月。


第147話(2014年9月)

 皆さん、こんにちは。早いもので九月。朝晩は冷え込む日もあります。くれぐれもご自愛ください。
お釈迦様の教えを噛みしめながら、社会や人のあり方を考える「耕平さんかわら版」。昨年の夏から、「三法印」「四法印」「四苦八苦」「四諦八正道」「三学」「三苦」「三業」「三毒」など、いろいろ勉強したのでもうすっかり悟ったと思いたいところですが、そうはいかないのが仏教の奥深さ。
「さとる」という言葉も、漢字を当てると「悟る」と「覚る」がありますが、さて、どちらが適切でしょうか。
漢訳仏典では「覚る」が用いられています。そう、覚王山の「覚」。「覚王」とは「覚った王」、つまりお釈迦様の別名です。
「苦」の本質、「欲」と「苦」の関係など、かわら版を読みながらいろいろと考えてくださった皆さんは、「覚り」は得られています。
何しろ、どのようなことが原因で「苦」が生じるか理解したのですから、既に「覚り」を得ています。「苦」から解放される考え方や行動のあり方を知った段階で、やはり「覚り」を得ています。
ところが、ご指導いただている高僧がかつて次のようにおっしゃいました。曰く「覚るのは難しくない。しかし、解脱とは別だ」。
そう、「覚り」と「解脱(げだつ)」は別物であり、仏教は「解脱」の心境を説いています。
例えば、仏教の「五戒」は「不殺生戒」「不偸盗戒」「不邪淫戒」「不妄語戒」「不飲酒戒」。生き物を殺してはいけない、嘘をついてはいけない、お酒を飲んではいけないなど、「戒め」の内容は理解していますが、実はなかなか守れません。
「知る」ことは「覚る」ことですが、知ったことを「実行できる」状態になることが「解脱」です。「解脱」することで煩悩や苦がなくなり、スッキリした安からな心境になれるのです。
そのような心境を仏教では「涅槃(ねはん)」と言うそうです。
人殺しはいけない。当たり前のことです。だから、戦争は避けなければなりません。しかし、国と国との間では、双方が正義のためと称して戦争を行います。
「覚る」ことはできても、「実行する」ことは難しく、「解脱」して「涅槃」の境地に至ることは容易ではありません。だから日々精進が必要となります。

仏教の教えは、日常生活においても、政治においても、多くの気づきを与えてくれます。ではまた来月。


第146話(2014年8月)

 皆さん、こんにちは。立秋も過ぎ、暑い夏も後半戦。くれぐれもご自愛ください。
お釈迦様の教えを噛みしめながら、社会や人のあり方を考える「耕平さんかわら版」。先月に引き続いて「苦」について考えます。
犬山寂光院で高名な宗教評論家、ひろさちやさんの講演を拝聴。さすがですねぇ。軽妙なトークの中に、仏教の真髄をちりばめてお話してくださいました。
曰く「わからないことはわからないということをわかるということがわかるということ」。何だか呪文のようですが、「な~るほど」と得心。
「苦」の本質は「思うようにならない」という苦しみ。それを「思うようにしたい」というのは「欲」のなせる業(わざ)。業は「ごう」とも読みます。人の業が欲を生み、欲が苦を生む悪循環。
「わからない」ことを「わかりたい」と思うのも「欲」。「思うようにならない」ことを「思うようにしたい」と行動するのも「欲」。
自分の価値観や深層心理の中で欲していることと異なることは、自分としては「わからない」こと。それを自分の納得のいくようにしようとすること、つまり「わかりたい」「思うようにしたい」という気持ちが「業(ごう)」につながります。
先月号では「三苦」を学びましたが、「業」にも「三業」があります。
身業(しんごう)は行動に表れる「欲」。口業(くごう)は言葉に表れる「欲」。妄語(もうご)・両舌(りょうぜつ=二枚舌)・悪口(あっく)・綺語(きご=飾った言葉)。
意業(いごう)は意識に表れる「欲」。貪欲(とんよく)・瞋恚(しんい)・邪見(じゃけん)ですが、「三毒」を連想しました。
「三毒」は仏教において克服すべきものとされる三つの煩悩「貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)」。つまり「貪り(むさぼり)」「怒り」「迷い(愚かさ)」。
いずれも「欲」に起因し、「わからない」ことを「わかりたい」、「思うようにならない」ことを「思うようにしたい」という「意業」が「口業」「身業」を招き、「三毒」につながります。
人と人、国と国の間でも、相手のことが「わからない」「思うようにならない」という「業」と「欲」が「苦」につながり、争いごとや不満、不安の「三毒」を生み出します。
仏教の教えは、日常生活においても、政治においても、多くの気づきを与えてくれます。ではまた来月。


第145話(2014年7月)

 皆さん、こんにちは。いよいよ夏本番。快食、快眠で乗り切りましょう。くれぐれもご自愛ください。
お釈迦様の教えを噛みしめながら、社会や人のあり方を考える「耕平さんかわら版」。今年の二月号に「お釈迦様は、人が生きることは『苦』と向き合うことと教えました」と書いたところ、熱心な読者のおひとりから「大塚さん、では『苦』とは何ですか」と聞かれました。「う~ん」と思わず唸ってしまいました。深くて、根源的なご質問です。
僕はお坊さんでも哲学者でもありませんが、お釈迦様の教えを学んでみます。
二月号で、「生・老・病・死」の「四苦」に「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五薀盛苦」の四つを加えて「四苦八苦」とお伝えしました(読み方や意味は二月号をご参照ください)。
「四苦八苦」は「仕事が大変で四苦八苦だよ」というように日常会話でも使いますが、仏教には「三苦」という表現もあります。
「痛い、何とかしてくれ」という肉体の痛み。頭痛、腹痛、腰痛、いろいろあります。肉体的な痛みの苦しみは「苦苦(くく)」。
建物でも美術品でも、形ある物は壊れます。健康な肉体もいつかは朽ち果てます。物質の破壊・消滅の苦しみは「壊苦(えく)」。
運動会や遠足の前日、子どもの頃は「照る照る坊主」を作って軒先に吊しました(最近の子どもはどうですかねぇ)。「明日は天気になってほしいなぁ」と、大人でもゲートボール大会やゴルフの前日には同じ心境になるでしょう。祈ったり、願かけしても、天候は思うようになりません。こうした自然の変化や変遷に対する苦しみを「行苦(ぎょうく)」と言います。
「苦苦」「壊苦」「行苦」の三つで「三苦」。これらに共通するのは「思うようにならない」ということです。「四苦八苦」の「苦」も「思うようにはならない」ことばかり。
どうやら「四苦八苦」は「苦」の種類、「三苦」は「苦」の本質を表しているようです。
「思うようにならないこと」を科学や政策で「何とかできる」と思うことは人間の傲慢というものでしょう。
「苦」の本質を意識して行動すれば、争いごとや不安の少ない社会になりそうです。「苦」の本質に対する理解。僕自身の仕事にも活かしていかなければなりません。来月以降ももう少し「苦」について学んでみます。ではまた来月。


第144話(2014年6月)

 皆さん、こんにちは。今年は少々早い梅雨入りでしたね。腰痛や神経痛が気になる季節です。くれぐれもご自愛ください。
お釈迦様の教えを噛みしめながら、社会や人のあり方を考える「耕平さんかわら版」。今月は「平常心」についてです。
さて、サッカーワールドカップが始まりました。日本チーム、頑張ってください。スポーツ選手が「平常心で頑張ります」と発言するのを聞くことがあります。もちろん、政治家である僕たちも時々その表現を使います。
この「平常心」。実は仏教用語で、禅宗の教えの中に登場する言葉です。
日常的には「へいじょうしん」と読みますが、仏教用語としては「びょうじょうしん」とも読むそうです。
一般的には「普段どおり、日頃の心」あるいは「リキんだり、緊張しない心」という意味で使っています。僕もそうです。
ところが、元々は中国の馬祖(ばそ、七○九~七八八年)という禅僧の語録に登場する言葉です。その部分の現代語訳をご紹介します。
「仏法の悟りを会得しようと思えば、平常心がこれ悟りである」
「では、平常心とは何か」
「意図して作られたものではなく、善悪の分別がなく、取捨選択することがなく、来世があるとかないとかの悩みがなく、凡夫とか聖人とかの偏見がない心である」
さて、いかがでしょうか。
「善悪の分別がなく」とは、ものごとの価値は人の好みの問題であり、自分の考えだけでものごとを善悪に区別してはいけないという意味です。悪いことをしてよいという意味ではありません(笑)。
そして、自分の好みや考えで取捨選択したり、人を評価して区別することもしない。死後のことで悩まない。これらの心構えは、意図してつくられるものではない。ということを教えています。「自然(じねん)心」とも言うそうです。
無門慧開(むもんえかい、一一八三~一二六〇年)という禅僧の問答にも登場します。曰く「平常心が是れ道なり」。
無門慧開は、お釈迦様の教えに従って身も心も律していけば(つまり「道」を追求すれば)、「平常心」は自ずと備わり、そして「平常心」を会得することが「道」でもあると説いています。まさしく禅問答(公案)。
多くの人が「平常心」を意識して行動すれば、争いごとや不安の少ない社会になりそうですね。「平常心」の教え、僕自身の仕事にも活かしていきたいと思います。では、また来月。


第143話(2014年5月)

皆さん、こんにちは。初夏のような陽気の日もあれば、肌寒く感じる朝晩もある今日この頃。寒暖の差にご留意されて、くれぐれもご自愛ください。
さて、今年に入ってからの「耕平さんかわら版」は、お釈迦様の教えを噛みしめながら、社会や人のあり方に思いをはせています。
「諸行無常」「諸法無我」「一切皆苦」「涅槃寂静」からなる「三法印」「四法印」、「苦諦」「集諦」「滅諦」「道諦」からなる「四諦」、そして「中道」。「生老病死」の「四苦」に「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五蘊盛苦」が加わって「四苦八苦」。さらには「正見」「正思惟」「正語」「正業」「正命」「正念」「正定」「正精進」からなる「八正道」。「戒定慧」の「三学」。
お釈迦様の教えのキーワードを勉強してきました。読み方はそれぞれ先月号までをご参照ください。お釈迦様の深~い教えですから、ちょっと勉強しただけで理解できるものではありませんが、それぞれ社会や人のあり方を考えるうえで、たいへん示唆に富んでいます。
先日、熱心に読んでくださっている方から「大塚さん、要するに欲はいかんということでしょ」と名古屋弁で訊(たず)ねられました。
そうですねぇ・・・、当たらずも遠からずとも言えますが、本当のところはちょっと違うかなぁという気もします。
仏教では、人間には、食欲、性欲、睡眠欲、金銭欲、名誉欲の「五欲」があると言います。最初の三つは本能的な欲で、これらが完全になくなってしまうと、人間は個としても、種としても命を維持し、繋(つな)ぐことができません。これらを完全に否定するわけにはいかないでしょう。
金銭欲と名誉欲は社会的な欲です。それが自立心や向上心に繋がる面もありますので、一概に悪いとは言えないでしょう。
「五欲」は、本来は悪いものではありません。しかし、何かに妄執するほどの欲を持つと、様々な悩みや煩(わずら)わしさに苦しみます。
「欲」に妄執する結果、本来は悪ではない「欲」が「悪欲」になります。食欲、性欲、睡眠欲も、妄執して度が過ぎると、飽食、愛欲、惰眠となります。
日頃からご指導いただいている高僧がかつておっしゃった言葉が今も記憶に残っています。曰く「五欲は善でも悪でもない。欲を律すれば善となり、欲に囚われれば悪となる。要は心の持ち方次第」。なるほどなぁ~と思いました。
それを体感し、実践できるようになるためのヒントがいっぱい詰まっているのがお釈迦様の教えのキーワード。
少しでも争いごとのない社会を目指して、そうした教えを僕自身の仕事にも活かしていきたいと思います。では、また来月。


第142話(2014年4月)

 皆さん、こんにちは。春本番です。ゴールデンウィークになると初夏の陽気。早いですねぇ。
お釈迦様の大切な教え、生きることと向き合うための四つの鍵、「苦諦(くたい)」「集諦(じったい)」「滅諦(めったい)」「道諦(どうたい)」の「四諦(したい)」。先月までの内容、ご記憶にあるでしょうか。
さて、欲や執着を制御(コントロール)することができるようになるための道、つまり修行や精神修養のことを指す「道諦」。その具体的な方法が「八正道(はっしょうどう)」です。
八正道は、正見(しょうけん)、正思惟(しょうしゆい)、正語(しょうご)、正業(しょうごう)、正命(しょうみょう)、正念(しょうねん)、正定(しょうじょう)、正精進(しょうしょうじん)の八つ。
難しく考えないでください。文字の意味を素直に受け止めるだけです。
①「正見」は正しい見解を理解すること。この場合の見解はお釈迦様の四諦の教え。お釈迦様の教えを正しく理解しようということです。
②「正思惟」は邪(よこしま)な考えをもたないこと。
③「正語」は嘘や悪口を言わないこと。悪態をつかないことを意味します。
④「正業」は殺生や盗み、悪いこと、邪なことはしないという当たり前のことを言っています。
⑤「正命」は節度ある規則正しい生活をして、健康と命を大切にすること。
⑥「正念」は正しい心を忘れないこと。
⑦「正定」は邪な心を取り払い、集中し安定した心の状態に保つこと。
⑧「正精進」は悟りに向かって、一生懸命努力すること。上記の七つの実践に向けて努力することと言ってもよいでしょう。
「なんだ、そんなことかぁ」という感想と「いやぁそれぞれもっともだけど、簡単じゃないよぉ」という感想。どちらも理解できますが、あなたはどちらでしたでしょうか。
この八つは「戒(かい)」「定(じょう)」「慧(え)」の三つに分けられます。①②が「慧」、③④⑤が「戒」、⑥⑦が「定」、⑧は他の七つの全体にかかり、「戒定慧」は「三学」と呼ばれることもあります。
要するに、ごくごく当たり前の人間としての心構え、言動を実践すること。そのことが欲や執着を制御することにつながると教えてくれています。
でも、実はそれが簡単ではありません。だから、みんな悩み、苦しむのです。「四諦八正道(したいはっしょうどう)」、ちょっと心に留めておいてください。
みんなが四諦八正道を実践できれば、争いごとや社会問題はかなり解決されると思います。逆に言えば、争いごとや社会問題が絶えないということは、四諦八正道を実践することが如何に難しいかということですねぇ。それでは皆さん、また来月。


第141話(2014年3月)

 皆さん、こんにちは。今日はご祥当(しょうとう)。お大師様の祥月命日です。ご祥当が過ぎるといよいよ春本春。待ち遠しいですねぇ。とは言え、朝晩はまだまだ冷え込みます。くれぐれもご自愛ください。
先月から、生きることと向き合うための四つの鍵、「苦諦(くたい)」「集諦(じったい)」「滅諦(めったい)」「道諦(どうたい)」の「四諦(したい)」について勉強しています。
人が生きることは「四苦八苦」と向き合うことであるという真理を表すのが「苦諦」でした。今月は「集諦」「滅諦」「道諦」を学んでみます。
お釈迦様は、生きていく中で「苦」に直面すること、つまり苦しむことには原因があると考えました。その原因は欲や執着です。
何かを欲し、何かに執着することが「苦」の原因。欲するから、執着するから、得られない時、失った時には苦しみます。その欲や執着こそが「煩悩」です。
煩悩が集まって苦しみを生み出すという真理を表現している言葉が「集諦」です。
さて、欲や執着を滅すれば、苦しみもなくなります。つまり、苦しみの原因である欲や執着を取り除くのです。
しかし、欲や執着を完全に滅することは不可能です。また、欲や執着は努力や向上につながる面もありますので、完全に否定することもできません。
そこでお釈迦様は、欲や執着を制御(コントロール)することの大切さを教えています。煩悩を制御し、過度な欲や執着を滅すれば苦も滅するという真理を表す言葉が「滅諦」です。
そして、欲や執着を制御(コントロール)することができるようになるための道、つまり修行や精神修養の方法が「道諦」です。
さて、そう言われると、その方法を知りたくなりますねぇ。それは「八正道(はっしょうどう)」と言いますが、来月号のお楽しみです。
それにしても、欲や執着を制御(コントロール)することは容易でないですねぇ。食べたい、飲みたい、遊びたい。あれも欲しい、これも欲しい、得をしたい。人間の心の奥底に潜む欲や執着には際限がありません。
その欲や執着が、人間同士の争いごと、国や民族間の争いごと、自然や環境の破壊など、様々な災禍を生み出しています。
人間とは、かくも罪深い生き物です。政治や経済の様々な問題の原因でもあります。お釈迦様に教えを乞わなければなりません。


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大塚耕平

  • 2002年から「弘法さんかわら版」を書き続けています。仏教に親しみ、仏教から学び、仏教を探訪しています。より良い社会を目指すうえで仏教の教えは大切です。「弘法さんかわら版」は覚王山日泰寺(名古屋市千種区)と弘法山遍照院(知立市)の弘法さんの縁日にお配りしています。縁日はお大師様の月命日に立ちます。覚王山は新暦の21日、知立は旧暦の21日です。
  • 著書に「お大師様の生涯と覚王山」(大法輪閣)、「仏教通史」(大法輪閣)など。全国先達会、東日本先達会、愛知県先達会、四国八十八ヶ所霊場開創1200年記念イベント(室戸市)、中日文化センターなどで講演をさせていただいています。毎年12月23日には覚王山で「弘法さんを語る会」を開催。ご要望があれば、全国どこでも喜んでお伺いします。
  • 1959年愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒、同大学院博士課程修了(学術博士、専門はマクロ経済学)。日本銀行を経て、2001年から参議院議員。元内閣府副大臣、元厚生労働副大臣。現在、早稲田大学総合研究機構客員教授(2006年~)、藤田医科大学医学部客員教授(2016年~)を兼務しています。元中央大学大学院公共政策研究科客員教授(2005年~17年)。